「もう……やめてください……」
「……ナーダ?」
アスのつぶやく声は、遠く離れたところに座るナーダには届かない。ナーダは誰とも視線を合わせずにうつむいたまま、長い銀髪をかすかに震わせていた。
「どうして……こんな目に会わなくちゃならないんですか……? 私たち、ずっとずっと頑張ってきたのに……お互いに非難して、怯えて、争いあって……こんなのが私たちの望んだ未来だったんですか? 平和で安らかな暮らしは、もう戻ってこないんですか? 私たちも世界もユバ様に見捨てられてるのに、こんなに頑張って生きていく意味なんてあるんですか?」
辛そうにゆがめられた大きな瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれている。しんと静まり返った広間には、その雫が落ちる音さえ響きそうだった。
「……」
ラルクは隣で泣きじゃくるナーダを一瞥するが、けれど何も声をかけず、静かに目を背けた。
息が詰まるような沈黙の後、ナーダは何かを決心したようにすっと顔を上げた。
「私、もう耐えられません……暗い未来も、病に倒れる人も、誰かの諍いも、もう何も見たくありません……! どうか私を、生贄にしてください……!」
「ナーダ、それは……!」
肩に置かれたラルクの手を、ナーダは駄々をこねる子供のように振り払う。
「どうして止めるんですか! 私が死ねば、全てが良い方向に進むんですよ! 祈り人を生贄にすれば、ウルだってきっと循環します。占いの力が使えない私なんて生きている意味がないし、ラルクやビシャールみたいにもっと優れた人がいくらでもいます……! 私たち、ずっと前からそうしてきたじゃないですか! 大崩落の前のやり方に戻るだけでしょう!」
「駄目だ!」
考えるよりも先に、アスは動いていた。驚くケトの横をすり抜けて思い切り床を蹴り、円卓めがけて飛び降りる。足の裏に冷たい石を感じながら、さらに目指すところへ向かって駆ける。
アスはナーダの目の前で足を止めると、彼女の胸元を掴んでまっすぐに視線を合わせた。
「戦士、様……」
呆然とつぶやくナーダに、鼻先がぶつかるくらいに顔を近づける。
「今までと同じことを同じやり方でやってるだけじゃ、僕たちに未来なんかないんだよ! いくらウルを循環させても、器自体に穴が空いてればいつかは尽きる! マルキアが言うように生贄を繰り返しても、その場しのぎにしかならない!」
声で殴りかかるように、アスはただ吼える。苛立ち、焦燥感、義憤、悲しみ。胸の中にある感情を言い表すには、どんな言葉でも足りなかった。
簡単に諦めるな。どうしてそんなことを言うんだよ。まだ何か可能性はあるはず。ナーダの代わりなんかどこにもいない。どうして、どうして分かってくれないんだ!
二人の視線が交わったまま、永遠みたいな沈黙が落ちる。ナーダの眼からは、絶え間なく涙がこぼれ続けていた。
「じゃあ私たち、どうすればいいんですか……?」
弱々しい声を聞いたその瞬間、アスの中で何かがすとんと腑に落ちた。
ナーダはずっと、見えない未来に怯えていた。霧の中で道を見失った子供に何を言っても、先に進もうなんて思えるはずがない。だったら、僕が歩んで道を作るしかない。
小さく息を吸って、止める。心臓が胸で跳ねているのを感じる。体中の筋肉が収縮して、細胞が叫びだす。答えは最初から、この体の中にあった。
「……僕は戦士だ。冷静に考えることなんてできない。何もせずに滅びを受け入れるのも、もちろんごめんだ。僕は、この命が尽きる最後の瞬間まで戦いたい」
目に棘が生えたみたいで、痛いのに閉じられない。何もかもがまぶしくってたまらない。額の内側が熱い。じっとしていたら、頭の先から指先から腹の中から火が出て、全身が燃えてしまいそうだと思った。
ひるんだように黙り込むナーダに替わって冷たい視線を向けたのは、異形の祈祷師だった。
「……勇ましいのは結構ですが。いったい何と戦うとおっしゃるんですか、戦士様」
「病の……いいや、この世界の滅びの元凶だ。僕は高山へ行く。行けば何かが見つかるはずだ」
「水場を目指すトカゲよりも安直な考えですね。しかも、あなた一人で? そんなの、命を捨てるのと同じです。戦士の死がどれほど取り返しがつかないことなのか、あなたはちっとも分かってない」
「取り返しなんか考えてないよ。第一、世界はどうあがいたって滅ぶって言ったのは君じゃないか。だったら僕が何をしようと君には関係ない」
ラルクは意表を突かれたように、少しだけ目を見開く。そしてすぐにすっと細めた。
「……私にとっては、そうですね。でも、ナーダがどう思うかは考えないの? どうせ滅ぶ世界なんだから、少しでも側にいてあげればいいじゃない! ……少なくとも、無謀な戦いに挑むよりはよっぽど彼女を幸せにしてあげられるのに」
「……知らないよ」
アスは奥歯を強く噛む。
前に進むと決めたから。その道が自分の足を傷つけると分かっていても、僕は歩みを止めない。その道が、誰かの心を傷つけると分かっていても。
「そんなところで目をつぶって泣いてるだけの弱虫なんて、僕は知らない」
ナーダの細い喉がひゅっと息を吸い込むのが聞こえた。けれど、聞こえないふりをした。
手にしていた杖を思い切り円卓に打ち付けて、アスは自分の迷いを断ち切る。
「僕は誇り高きユバの戦士だ! この身に流れる血潮は、戦いを求めてたぎっている! 狩るべき獲物がそこにいるのに、立ち止まっている理由なんてない!」
「大口叩くじゃねえか、ちびで鈍足のアスのくせに」
背後から低い声が聞こえた。振り返った先にいた爪の者、メクティコは両手の武器をがしゃんと打ち合わせ、皮肉っぽく笑う。
「メクティコ……」
「お前一人で何ができるんだ。山に登る途中で穴にでも落ちて、ネズミにかじられるのが関の山だ。誇り高きユバの戦士の行きつく先が獣の糞だなんて、笑えねえぜ」
メクティコの言葉尻に重ねるように、別の音が鳴る。槍の石突を床にたたきつけたのは、槍の者ヤアヤだった。
「心配だから自分もついていくって、あんた素直に言えないのかい? 少なくともあたしは乗るよ。どうせそれしか能がないんだ」
どん、と広間全体が揺れるほどの音が響く。大槌を振り下ろしたチカオトルは、それきり腕を組んで言葉を発さなかった。チカオトルを代弁するように、ナタリが自分の武器で床を叩く。
「チカオトルの旦那は賛成だって、多分。で、俺もそんな感じで。ケトもそれでいいよな?」
「あ、ああ……」
賛同の意を示す戦士たちに目で感謝を伝え、アスは最後にユウムナを見る。白髪の戦士は小さく頷いて、弓の弦を弾いた。
それを見守っていた祈り人たちの間にも、ざわめきが広がっていく。
「戦い……」「戦うのか?」「戦うんだ」「戦おう!」「戦え」「戦え!」「戦え!」「戦え!」
戦士たちに呼応するように、あるものは自らの武器を、あるものは足を、あるものは拳を打ち鳴らす。
口には出せなくとも、その空気に反対する者はきっといた。だが、そんな小さな反抗は、激しい雨のような喚声がかき消してしまう。
アスは、自分の言葉に間違いがなかったとは思っていない。けれど、この終わりかけの世界で生きていくためには必要なことだ。例えその足で何を踏みにじっているとしても、僕は前に進まなければならない。
「戦士様……!」
だから、ナーダの叫びのような声にも、振り向くことはできなかった。