「はぁ……」
アスがこぼしたため息は、すぐに白く凍り付いて目の前を曇らせた。
高山の冬の厳しさは、試す相手を選ばない。雪に覆われた山道は、身体能力に優れた戦士の足でさえ簡単には進めない。寺院に向かう道のりは多少整備されていたとはいえ、大崩落以来手が入っていない状態では獣道と大差なかった。
地図を確認しながら先頭を歩くユウムナが、やわらかな新雪に足をとられる。
「うわっ!?」
「気を付けろ」
短く言ったチカオトルも、次の一歩を踏み出した瞬間に巨体を傾ける。
「おっと、勘弁してくれよ。あんたが落っこちたらさすがに置いていくぞ」
辛うじてチカオトルを支えたメクティコが毒づいた。切り立った断崖を巻く山道を一歩踏み外せば、谷底へ真っ逆さまだ。登って追い付いてくるのを悠長に待っていれば、夜になって死の風が強まってしまう。
この気候では、瘴気によって体力が尽きるのを待つまでもなく、凍り付いてしまいそうだけど。戦士の氷漬けなんて、ユバ様が見たら情けないと嘆くだろうか。
アスはすぐに気が散りそうになるのをこらえて、必死に前を行く仲間たちの背中を追いかける。
分かってはいたことだが、戦いを挟まずに他の戦士と足並みをそろえて進むのはなかなかに辛い。しかも、タクナからよく分からない道具まで預かっているのだから余計に気が散る。無意識のうちに耳を覆う機械に触れると、向こう側からがさがさした声が聞こえた。
『急ぐから足が滑るのよ。雪道では歩幅を小さくして、少しずつ進んだ方が結果的に早くなるわ』
ひび割れた声の主は、誰なのか判別しづらい。だが、雪山に慣れた雰囲気から考えれば、きっと高山の祈り人なのだろう。
アスの耳の機械が発する物音に気が付いたのか、ヤアヤが素早く振り返った。
「どうした? 都から何か連絡があったのかい?」
「えーっと、歩幅を小さくして、少しずつ進めって。その方が転びにくいらしいよ」
ヤアヤの顔に浮かんだのは、期待外れ、と言った表情だった。だが、気を取り直したように肩をすくめ、
「先を行く奴らに伝えてくるよ。ついでにユウムナに、あたしらがどこまで来てるのかを聞いてくる。ナタリ、アスを頼んだよ」
分厚いベーゼの毛皮をまといながらも、ヤアヤは身軽に雪道を駆け上っていった。
「ヤアヤ姐、『歩幅を小さく』とか全然聞く気ないだろ。あれで転ばないんだから羨ましいもんだよな」
「本当だよね」
ナタリのぼやきにため息交じりの相槌を打ち、アスは首の周りの毛皮をもう一度強く巻きつけた。
*
「ああ、戦士様ったら! そんな走り方じゃ危ないよ!」
シャマーラのじれったそうな声が、広間に響いた。
「ねえ、タクナ。あたし、もう一回喋っていい? いいよね?」
「駄目だ。ひっきりなしに話しかけてたらあいつらの邪魔になるだろう。それに、機械を動かしてる動力にも限りがあるんだ。なるべく温存して使いたい」
タクナが首を横に振ると、シャマーラは不満そうにしながらも引き下がった。
「おい、タクナ……」
怪訝そうな顔で声をかけてくる露呼に、タクナは目だけで黙っていろと伝える。機械に疎い同胞たちはともかく、やはり侵略者はごまかせなかったか。
本当のことを言えば、話しかけようが黙って見守ろうが通信機が使う動力はたいして変わらない。そもそもが急ごしらえで作った装置なのだから、考えてもいない故障で通信が途切れることもあるだろう。タクナが心配するべきなのはそこなのだが、不意の故障なんて心配したところでどうしようもない。備えるのは自分たちの心だけで手いっぱいだし、それで十分なのだ。
頻繁に話しかけていたら、唐突に通信が途切れた時に心が乱れるだろう。最初からやり取りができなかった時よりも、中途半端に声を奪われた時の不安はなお大きくなる。だからこそ、予備の手段も用意してはいるのだが。
「じれったいなぁ……あたしが一緒に行ければ、もっと楽に歩けるように先導してあげるのに。こうして機械を通じて見聞きするだけっていうのは、やっぱり辛いよ」
広間の壁には、タクナの手元の機械によって小さな映像が映し出されている。戦士に持たせたのは音をやりとりする機械だけでなく、映像を送る光学機器も持たせていた。こちらに映し出されている画像は不鮮明だし揺れていて見づらいが、少しは一緒に居られる気になる。
シャマーラもなんだかんだと言いながらこの映像が見られる広間から離れようとはしないのは、やはりタクナと同じ気持ちなのだろう。他にも看護や採集の手が空いたものは、皆タクナの周りに集まって小さな機械のぼやけた映像にくぎ付けになっている。
祈り人の中で所在なさげに座り込んでいる露呼が、誰にともなく呟いた。
「遠くから見てるだけなのは、いつもの祈りだって同じじゃねえのか。声も届かねえ遠くから見守って、文字通りに祈るだけしかできねえんだから」
「同じじゃないよ。あんたには分からないかもしれないけどね、戦士様は、遠くから見ててもあたしの祈りに気づいてくれるもん」
シャマーラは膝を抱えて唇を尖らせる。普段纏っている毛皮を戦士に譲り渡したせいか、華奢な肩を晒した姿は寒々しく見えた。
「朝の分の食事が終わりました。戦士様たちはどうですか?」
一仕事を終えて広間にやってきた島の民たちを迎えて、タクナは簡単に今までの様子を説明する。
戦士たちは夜明けと同時に都を出て高山を登り始めたのに、一度目の交代の時点ですでに中腹を過ぎている。この分なら、昼前には目的地の寺院にたどり着くだろう。
懸念していた通信機は、どちらも順調に動いている。この上なく好調な道行なのに、タクナはなぜか胸騒ぎを感じていた。
こんな時に限って、幼いころに集落の年寄りに言われた言葉を思い出す。自分の影には、嘘をつけないよ。そいつはじっとお前を見ていて、お前が逃げていることを必ず連れてくるんだから。
「ねえ見て、あれ……なんか変じゃない? ねえタクナ、これ、本当に大丈夫なの?」
シャマーラの声を、タクナは背中で聞いていた。振り返れば、機械が壁に映す映像が嫌でも目に入ってしまう。だが、見なければそれは現実にはならないんじゃないか。
決してそんなことはあり得ないと分かっているのに、しばらくそのまま動けなかった。
*
アスが立ち止まると、先を行っていたナタリが振り返った。
「どうした、アス」
「今、鳥の声が聞こえなかった?」
「? この吹雪の中で鳥が飛んでるわけ……」
言葉の途中でナタリも気づいたらしい。いつの間にか、吹き付ける雪風は止んでいた。相変わらずの曇り空だが、風がないだけで寒さはずいぶんましになる。
「……でも、この山に鳥はいないって。その機械からの音を聞き間違えたんじゃねえの」
「……そうかな」
お互いに釈然としないものを感じながら、ナタリとアスは足を進める。吹雪が止んでいるうちに、地図を持ったユウムナたちとの距離を縮めておいた方がいいだろう。
それは向こうも同じ考えだったようで、岩場を一つ越えるとすぐに他の戦士の後ろ姿が見えた。
「ごめん、もしかして待っててくれたの?」
「いや、そうじゃねえ」
しかめ面のまま応じるメクティコの肩を、ナタリがおどけて叩いた。
「何だよ、また迷ったのか? 仕方ねえなあ、ちょっと俺にも見せてみろって」
立ち尽くす戦士の脇をすり抜けて、ナタリはユウムナの手から地図を取り上げる。その動きを止めるものは誰もいなかった。
「……なんだ、もうすぐ目的地じゃん。なんでこんな分かりやすいところでぼうっとしてるんだよ」
「目的地が……寺院が見えたから、だよ」
ユウムナはナタリから地図を奪い返すと、その手で行く先を指し示した。今立っている岩場をもう少し登ったところに高山の寺院はある。
本来ならば祭司たちが灯す火が目印になるのだが、大崩落以降訪れる者を失った今は、ルッタとマイヤが描いてくれた地図だけが頼りだった。
しかし、こうして近づいてみれば、寺院の在処は灯火を確認するまでもなく明らかだった。
厳かな石造りの建物に続く雪に閉ざされた道に、途中から緑色の絨毯が敷かれている。寺院に近づけば近づくほど芽吹いた草花は増え、まるでそこにだけ春が来たように伸び伸びと繫茂している。
「なんだよ、あれ……!」
アスは思わず、分厚い手袋を外して自分の眼をこする。だが、吹雪も霧もない尾根から見上げる景色は、夢でもなければ見間違えようもない。さらに駄目押しをするように小鳥の群れが羽ばたいていくのが見えた。鮮やかな色の鳥は寒さに弱いから、高山にいるはずがないのに。
「やっぱりあれ、私にだけ見えてる幻とかじゃないよねー……」
髪飾りの横に付けた
アスがつけた耳の装置からも、祈り人たちの混乱する声が聞こえていた。どうにかその声を聞き取ろうと、アスは目をつぶって耳を澄ます。装置を抑える自分の手が震えているのは、手袋を外したせいだと思い込むことにした。