アスの目の前を、一匹の蝶が横切った。金色に漆黒の網目模様を重ねた翅が、不規則な動きで宙を泳ぐ。
伸ばした指先は寸前でひらりとかわされ、光の軌跡だけを辿った。
「戦士様、どうかしましたか?」
アスの動きに気づいたのだろうか。前を歩いていたナーダが振り返って、首を傾げた。その腕の中には、白い花がいっぱいに抱えられている。
柔らかな匂いを嗅いだ瞬間、アスはなんだか泣き出したいような気持になった。
「ううん……ちょうちょがいたんだ。捕まえようと思ったけど、逃げられちゃった」
「ふふ、ずいぶん運がいい蝶ですね」
華奢な肩を揺らして、ナーダが笑う。腕の中の花束もふわふわと揺れて、甘い香りがさらに強くなった。
アスはわざと唇を尖らせると、ナーダの腰に抱きついた。
「なんだよ、その言い方。ちょっと近くでよく見ようとしただけで、乱暴に掴もうとはしてないのに」
「知ってますよ。私が言いたいのはそういうことではなく……」
「じゃあ何?」
ふざけて抱きつく力をぎゅっと強める。お互いの肌の間に薄い布を隔てているのがもどかしくて、けれど衣擦れの感覚が心地よい。
「……戦士様は乱暴者ではありませんが、甘えん坊ですから。一度捕まえたら放してあげないでしょう?」
「それは……確かに、そうかも」
背中に頬をくっつけると、ナーダの笑い声が肌でも感じられる。くすぐるように鼻先をこすりつけると、ナーダはおかしそうに身をよじった。その動きにつられて、抱えた花がはらりと落ちる。
「あ、そうだ。ナーダ、その花もらっていい?」
「はい?」
返事を待たず、アスは花を拾い上げた。そのまま、いつか見た手順を思い出しながら茎を折り、複雑な形を作っていく。自慢じゃないが、手先は器用な方なのだ。
余った茎を折り込むようにして編み上げれば、一輪挿しの髪飾りの出来上がりだ。新たな花を摘むためにしゃがみこんでるナーダの背後に立ち、アスは白い飾りを挿す。
そうっと、気づかれないように。でも、本当は気づいてほしい。
「……あ」
手を放そうとした瞬間、またあの蝶が飛ぶのが見えた。黄金の鱗粉が降り注いで、目がくらんでしまう。
待って。まだ、もう少し側にいてほしいのに。
*
「……ッ!」
アスを幸福なまどろみから引きずり出したのは、全身の激しい痛みだった。
どこもかしこも同時に殴りつけられてるみたいで、一か所に意識を向けるのが難しい。
あまりに大きな衝撃に麻痺していた感覚が、一度に戻ってきたようだ。
アスたちが巨大な蛇の尾に打ちのめされたのは間違いなく現実だった。この痛みのおかげで、それだけは疑いようもない。
「僕、寝てたのか……? いつから……いや、どのくらい……?」
アスは腕をついてどうにか身を起こす。そこで初めて、辺りがぼんやりと明るいことに気が付いた。
太陽や星が放つような強い光ではない。だが、慣れれば十分に周囲を見渡せる程度には明るい。光の源は、アスが這いつくばる地面から生える草だった。
その草の背丈は、ちょうど子供の膝くらいだ。長い茎が岩からまっすぐ伸びているだけで、葉やつぼみのような物は見当たらない。今までに見たどんな植物とも似ておらず、強いて言えば先細りの蚯蚓が立ち上がったような見た目をしている。草の先端に指で触れると、ほんのりと温かかった。
「揺れてる……風もないのに……」
冷たく固い岩盤の上に、白く柔らかな草原が広がっている。まだ夢の中にいるような光景で、頭が上手く回らない。
「なんで……? 洞窟の中に、別の世界がある……?」
「違うよ。これはただの草だ」
痛みに顔をしかめながら、声がした方向に首を向ける。岩壁に背を預けて白い光をぼんやりと見下ろしていたのは、ヤアヤだった。
その足元には、ナタリとチカオトルがぐったりと座り込んでいる。
思わず二人に駆け寄ろうとしたところで、先回りして釘を刺された。
「気ぃ失ってるだけだよ、さっきまでのあんたと同じだ。だからあんたも大人しくしてな」
「じゃあ、他の三人は? まさか、あの蛇に……」
「勝手に殺すんじゃねえよ、縁起でもねえ」
メクティコのうめき声は、やはり地面の低いところから聞こえた。
光る白い草に埋もれるようにして、メクティコは横たわっている。喋ることさえ億劫だと言いたげな雰囲気だった。
「あたしとアスとケト……後に飛ばされた方が、まだ尻尾の威力が落ちてたらしい。ついでに、飛ばされた方向も良かったんだな。運よくこの草が生えたところにぶつかって、大きな怪我はしないで済んだ」
ということは、四人はもっと重傷だったのか? ヤアヤはゆっくりと瞬きをしながら、アスの疑問に答える。
「メクティコは足をやっちまった。どうにかあるもんで添え木はしたが、走るのは無理だろう。ナタリとチカオトルは見ての通りだ。息は止まってないが、目を覚まさない。ユウムナは……」
「……終わったぞ」
言葉の続きを引き受けるように、ケトが暗がりから現れた。だらりと下がった手が持つ剣からは、真っ赤な血が滴っている。
「ケト……何、怪我したの……?」
違うと分かっていながらも、問いかけずにはいられない。しかしケトは肯定も否定もせずに目を逸らした。その視線の先から、小柄な人影が現れる。
「いやー、まいっちゃうよ。これじゃあ戦士なんて名乗れないねー」
ユウムナは、場違いなくらいに明るく笑っていた。まるで、うっかり転んでしまったところを見られただけみたいに。腕の付け根からぽたぽたと滴る血なんて、まったく知らないみたいに。
「おっとっと……」
アスの考えが伝わったように、ユウムナが何もないところでよろけた。しかしそれは、当たり前のことだろう。体の一部を失えば、重心も変わる。
ユウムナは体勢を立て直せないまま、体をぐらりと傾がせる。
だが、ケトが素早く腕を伸ばしてユウムナの肩を支えた。
「大丈夫か?」
言った後で、ケトは失言に気づいてうつむいた。
「あはは、ごめんごめん。手で支えようとしたのに、なくなっちゃったの忘れてたよー」
その笑顔には少しの曇りもない。だからこそ、片腕を失ったその立ち姿が、酷く痛々しかった。