集落の外れにある小さな石造りの小屋の中は、埃一つないくらいに綺麗に掃除されていた。
ちょっとした調度品さえ真っすぐに置かれた部屋からは、清潔を通り越して神経質な印象を受ける。
ナーダが摘んできた花を花瓶に飾ると、冷たいばかりだった室内の空気が少しだけ和らいだ。
「ナーダは相変わらず綺麗好きだねぇ。僕は眠れればいいだけなんだから、そんなに気を使わなくてもいいのに」
「私がしたくてやってるんです。ここは戦士様が帰ってくる場所ですから、いつだって万全に整えておきたいのです」
といっても、この小屋はアス個人の住居ではない。都の中に点在している、戦士の逗留所の一つだ。
たいていの戦士は、決まった住処を持つことはない。狩りの合間に体を休める時は、この手の小屋を勝手に使うか、懇意にしている祈り人の家を渡り歩くかしている。
アスも以前はその例に漏れず、寝床はその日の気分次第で変えていた。だが、最近ではこの小屋になんとなく腰を落ち着け、ナーダが世話を焼いてくれることに甘えている。
しわ一つなく整えられた寝台に座ったアスは、立ったままのナーダを手招きする。遠慮がちにナーダがアスの隣に腰かけると、布団の中の干し草が二人の体重の分だけ沈んだ。
「ね、ぎゅっとしてもいい?」
「ええ」
返事を待つ前に、アスはナーダの肩に手を回す。華奢な体を確かめるように背筋をなぞり、そのまま前に手を滑らせて薄い腹に触れる。
と、ナーダはわずかに抵抗するように身をよじった。
「駄目ですよ、戦士様……」
「え、なんで? ここだと嫌? 契りの神殿まで行こうか?」
おかしいな、さっきまではいい雰囲気だと思ったんだけど。
今だって強く拒絶されているわけじゃないけど、ナーダの様子はどうにも乗り気には見えない。
「いえ、違います。……その、私ではお役目が果たせないので」
「うー、その話かぁ……」
アスは思わずうめき声をあげ、ナーダの肩口に顔をうずめる。
アスも忘れていたわけではない。むしろ、この都における最も重大な問題だからこそ、目をそらしていたかったのだ。
契りの儀式は、都での生活に不可欠なものだ。特に、祈り人と戦士の間のそれは、愛情の確認や欲の発散以上の、特別な意味をもつ。
老若男女、さらに望むと望まざるとにかかわらず、戦士と交わった祈り人は必ず新たな戦士を孕む。その契りの儀式こそが、生贄と並んで都の柱となる機構であった。
そのはずなのに、あの大崩落以来、祈り人と契りをかわしても新たな戦士が生まれなくなってしまった。男であろうが女であろうが、精霊ですら、契りによって命を孕むことはない。
だからこそ、今日の戦士会議でも贄を決めることができなかったのだ。限りなく湧いてくる泉が突然枯れてしまったようなものだ。原因も対処法も分からない状況で水瓶を割るほど、無謀なことはできない。
「でもさあ、ナーダだけじゃないんだよ? 他の祈り人にお願いしても、誰と試してみても駄目だったもん」
「……やはりそうなのですね。私もシーダやネラに聞いてみましたが、結果は同じでした」
ナーダは視線を部屋の隅へと移しながら、そっと肩からアスの手を外す。
「そっかぁ、祈り人にも伝わってるんだね。そりゃそうか、僕ら戦士の顔ぶれが変わってないのは見ればわかるもんね」
「残念ながら、その通りです」
なるほど、だから今日は出会った時からナーダの表情が晴れなかったのか。アスはひそかに納得する。
ただでさえ大きな戦果がないのに加え、侵略者が攻めてこないせいで祈り人の救出も滞っている。その上戦士も生まれず、都にまったく新しい風が吹かないのでは、士気が上がるはずもないだろう。
能天気さには自信があるアスでさえ、討伐と身のない会議を毎日繰り返していると、同じ道をぐるぐると歩き続けているような気分になる。
何かこの状況を打破するような出来事があればいいとは思うが、アス個人ではたいしたことはできない。
明日も続くだろう変わり映えのしない日々を考えて、アスは無意識に大きくため息をついてしまう。
ナーダを元気づけるつもりだったのに、自分が落ち込んでたら逆効果じゃないか。
口には出さなくても、アスの沈んだ気持ちは伝わってしまったのだろう。慰めようとするように、ナーダはそっとアスの頭を撫でた。
「ううー、気を使わなくていいよー……ナーダだって元気ないのに……」
「いいえ、戦士様」
しかし意外なことに、返ってくるナーダの声は穏やかだった。
「私は、今の状況は一種のお告げではないかと思うのです。新たな戦士様を授かれないのは困りますが、今は七人の戦士様を中心として都の秩序が回復しつつあります。もしも今まで通りに契りと生贄を繰り返していたら、頼るべき軸を失ったこの都は大いに迷っていたでしょう。そう考えれば、悪いことばかりではないと思いませんか?」
「そうかなぁ。……うん、そう言われればそうかもね。ナーダらしいや」
確かに、ナーダの意見はなかなか筋が通っているのかもしれない。
大崩落が一族に与えた傷は、今でも埋めきれないほど大きい。指導者たるユバを失っただけでなく、祈り人の中にも行方知れずになったものが何人もいる。
その中には強大な祈りの力を持つものや、大地を守護するべき精霊たちさえ巻き込まれていた。残されたものたちだって、全くの無傷ではない。部族のまとめ役を失った民や、単純に人手不足で食料の採集もままならない集落もある。
今は都全体が、変わってしまった状況に対応するすべを手探りしているのだ。そんなときに新しい命を授かっていたら、収拾がつかないほどの混乱状態に陥っていたかもしれない。だから、ここは雌伏の時として力を蓄えることに専念するのだ。
そう考えなければやりきれないというのもある。だが、小さな光から希望を導きだして見せるやり方はナーダが星見の力で行う占いにも似ていて、少し気持ちを軽くしてくれた。
進退のない現状をなんとか飲み込めたのはいいものの、そこで会話が途切れてしまった。ひんやりとした沈黙に耐え切れなくなったアスは、勢いに任せてナーダの肩を軽く押し、一緒に寝台に倒れこむ。
「えい」
「きゃっ……。もう、駄目ですよ。私じゃ、授かることは……」
「ううん、今日は何もしないよ。でも、一緒に寝るくらいはいいでしょ?」
警戒もなく押し倒されてしまう無防備な体を腕の中に閉じ込めて、上から毛布で覆ってしまう。抵抗のつもりなのか、もぞもぞと動いているうちにナーダの体からこわばりが解けていった。
そのまましばらく抱きしめていると、二人の体温が近づいて一つの生き物のようになっていく。
考えないといけないことはたくさんあるけど、今はこのまま眠ってしまおう。
アスは目を閉じて、頭の中にある言葉にできない不安を追い出してしまおうと努力する。
明日はきっといい日になると、誰かが保証してくれればいいのに。