あるものは、銀の竜が空に昇るのを見たと言う。
またあるものは、山が裂けて真っ白な血が噴き出したのだと言う。
その瞬間を見ていなくとも、終わりが訪れたことはすぐに知れた。空を分厚く覆っていた雲が、己の重さに耐え切れなくなったように砕けて落ちてきたからだ。その白い欠片は、触れれば指の上でふわりと溶けた。溶けるのに、冷たくない。冷たくないから、積もらない。空で生まれてから大地に受け止められる間だけ、儚く存在していた。
傷だらけの戦士たちが帰ってきた日から、不思議な雪は三日三晩降り続いた。
*
「おはようございます、戦士様」
声をかけられる前から、アスの目は覚めていた。板張りの天井の隅には、人の顔みたいな木の節がある。床には雨漏りの跡が黒く染みているのを知っている。柔らかな藁布団の上には、華やかな刺繍が施された黄の掛布。きょろきょろ見回すまでもなく、いつも寝泊まりに使っていた小屋だと分かる。
木戸の隙間から差し込む光はもう白く、夜明けからだいぶ経っていることを告げていた。こんな風に、太陽の光で眠りが途切れるのはいつぶりだろう。
「……」
意を決して体を起こす。寝台の横で花瓶の花を取り換えていたナーダが、衣擦れの音にはっと振り向いた。細い陶器の瓶が、高い音を立てて倒れる。
「戦士様……! よかった、目を覚まされたのですね!」
そっと肩に触れてくる指は温かかった。掛布にくるまって眠っていたはずなのに、自分の身体が冷え切っていたのを実感する。
「僕、何日寝てた?」
「……お身体が冷たいです。まだ安静にしていた方がよろしいですね」
目を合わせようとした瞬間、ナーダが素早く立ち上がった。さっきまで触れていた細い指は、倒れた花瓶をもとに戻すために動く。
「起きるよ。他の皆に会いに行かなきゃ」
「ええ。でもその前に、ファルマを呼んできましょう。本当に動いても平気なのか見ていただかなくては。病み上がりから無理をして倒れたらことですから、今日はゆっくり休まれた方がいいです」
「ナーダ、僕は大丈夫だから」
「そうですか。では、スルカに薬湯を作ってもらいましょう。それとも、何か召し上がりますか? スーラが滋養がつくという茸を分けてくれたんです。私も調理方法を教わりましたから……」
「ナーダ」
ほんの少しだけ声に力を込め、だるい身体を寝台から引き剝がす。重くてしんどくてたまらないけど、動ける。痛い思いも辛い思いもしたけど、アスは何も失っていない。
「僕、行かなくちゃ」
裸足で踏んだ床は冷たい。冷たく感じるということは、自分の身体に熱が戻り始めているということだ。何も着ていない胸に触れる空気が気持ちいい。
「戦士様……」
とりあえず、手近にあった適当な布を巻きつけた。その裾が、声と同じくらいのか弱さで引き留められる。
けれど、アスは振り返らない。
「ただいま。行ってきます」
「おかえりなさい……行ってらっしゃい」
ナーダの声は震えていたけれど、それでも細い指が背中を押してくれた。簡素な木の扉を押し開けて、アスは光の下へと歩き出す。久しぶりの太陽がまぶしくて、思わず目を細めてしまった。
*
街道を歩いて集落の中心地に近づくうちに、都の変化にはすぐに気が付いた。
「持ってきたぞ、十人分! これで今日の水汲みはお終いだ!」「何言ってんだい、これじゃ足りないよ! 料理に水浴びだけじゃない、畑にだって水をやらなきゃいけないんだ! もうひと往復しておくれ!」「僕が行くよ、そろそろ体を動かしたいんだ……っと」「お兄ちゃん、危ないよ! 仕方ないわね、あたしがついていってあげる!」
家の外で働く人々の顔はいくらか青白く、やせ衰えた手足は子供のように細い。けれど、その顔には眠りの病が支配していたころにはなかったある色がある。
未来への期待、すなわち希望だ。
「ファルマ、スルカ、スーラ……」
ナーダの口から出た名前を思い出す。その中には、眠り病に犯されていた者がいたはずだ。アスがあの洞窟から戻ってきてからの数日間で、都はゆっくりと、だが着実に病から回復しつつあるのだろう。
だとしたら。
「……行かなくちゃ」
止まりかけた足を前に進めるため、自分にもう一度言い聞かせる。
戦った者として、勝った者として、そして守り切れなかった者として、アスには果たすべき責任がある。
広場を避けるように迂回して、アスは歩き続ける。その爪先は南へ――高山の民が集う集落へと向かっていた。