主人公の目についてほんんんんんんの少しだけ進展する回
分かる人には分かるだろうか。夢を見ている最中で、これは夢だと気付く感覚。
俺はその感覚の中にいた。今、俺は夢を見ている。
『お母さん…、お父さん…』
何故なら今、俺の目の前で見た事のない五才くらいの女の子が泣いているからだ。それに俺がいる場所も全く見覚えがない。
恐らくこの子の家なのだろうが、俺の実家は二階建ての一軒家だった。今、両親はイギリスにいて、その家は土地と共に売ってしまったためだった、と過去形になってしまうが。
今、俺がいる場所はどこかのアパート、或いはマンションの一室だと思われる。この部屋の形状、置かれている家具、窓から見える外の景色、いずれも全く覚えがない。
『お腹すいたな…』
壁に背中をつけて座り込むこの子は、果たして何者か。
そう考えた瞬間、何故だろう。ふと、この声に聞き覚えがある事に気付いた。
いや、聞き覚えどころではない。俺はこの声を聞いている。この声が発した嘆きを、俺は知っている。
『お母さん、お父さん、どうして私を捨てたの?』
脳裏に甦る子供の嘆き。そう、覚えている。あの時、明月さんと一緒に汐山さんの部屋に忍び込んだ時、頭の中に入り込んだ大量の嘆きの内の一つ。その声と同じだ。
しかしここで疑問が生まれる。何故俺は会った事もない子供の、見た事のない記憶を見ているのか。
「…記憶?これが、記憶だってのか?」
記憶、俺は今、そう思ったのか?何故?ただ、出鱈目な夢を見ている可能性だってあるのに。
それなのに、何故俺は、この光景がこの子の
『…誰か、いるの?』
不意に、少女が俺を見上げた。痩せこけた頬、焦点の合わない目。何日も何も食べていないのだろう。このままではこの子は助からない。
『誰かいるなら、お願い…。お母さんとお父さんを、探して…』
俺の姿は見えていない。当然だ。この子の記憶の中に、俺がいる筈がないのだから。
それでも少女は助けを求める。俺がいる方に手を伸ばして。
『お母さんとお父さんを…、見つけて…。もしかしたら…どこかで…けが、してるかも…』
自身ではなく、己を捨てた両親を助けて、と。捨てられたのだと気付かず、ひたすらに、己が愛する親を思って、助けを求める。
『わたしは…、さがしにいけないから…。だれかが…どあが…こわれ…ちゃったの…』
その言葉を聞いて、扉の方へ振り向く。ハッキリとは見えないが、モザイクフィルム付きの窓の奥に何かが置かれているのが分かる。
それがこの扉を開けないようにするバリケードなのだという事、そしてバリケードを置いたのが誰なのかを予想するのは簡単だった。
しかしこの小さな女の子には分からない。ドアが開かないのは壊れてしまったからだと、その奥にあるバリケードに気付かない。
『だから…わたしの…かわ、りに…』
「…」
『おかあ、さんと…おとうさん、を…さが…し…』
景色が揺れる。まるで、これでこの子の記憶は終わりだと告げるように。
場面が転換する。
次に視界に広がったのは薄暗い、これまたどこかのアパートの一室と思われる。そこで繰り広げられていたのは、常人には目を覆いたくなるような光景だった。
一人の男性が床に倒れる女性に対して、何度も何度も足を振り下ろす。その先が顔面でないだけまだ救いがあるか、しかし男性の蹴りを背中に何度も受けている女性は言葉を発せず、抵抗も出来ず、咳き込むだけだった。
『ざけんなよ、ごらぁっ!たったこんだけしか稼いで来ねぇでよくもまあ帰ってこられたなぁ!?』
『ぐっ…、はっ…!ごぼっ!』
男性は怒鳴りながら女性を踏みつけるのを止めない。時に踵を女性の背中に押し付け、そしてすぐに踵を掲げ、振り下ろす。
『ごめ、んなさ…い…』
『…謝るだけで許されるんならよぉ』
涙を目に浮かべながら男性を見上げて謝罪する女性。
その姿のどこが癇に障ったのか、俺にはさっぱり分からない。しかし何かが琴線に触れたらしい男の顔が更に歪み、やがてその足の向く先が背中ではなく、女性の顔へと移る。
「ばっ…!」
バカが、と声を出しそうになった時にはすでに、その足は振り下ろされていた。振り下ろされた踵が女性の顔に当たり─────
『どうして、私ばかりがこんな目に』
そんな声が聞こえてきたと同時に、再び視界が揺らぐ。
以降は只の繰り返しだった。同じ光景を見ていた訳ではない。
見知らぬ誰かの、苦々しい記憶を見せられ続けた。
虐待、事故、殺人、自殺、病気。様々な人の死を見せられ続けた。
目を背ける事は許されず、助けに行く事も許されず、そうしている内にある事に気付く。
これは、死者の記憶ではなく、死んでいったこの人達を見てきた誰かの記憶なんじゃないか。
毎回、俺は第三者として死の光景を見てきた。死者の記憶を見せられていたのなら、俺は死者の視点を見ていなければ辻褄が合わないんじゃないのか。
なら、誰だ。こんなにも多くの死を見続け、しかも助けようともせず、ただ死を見るだけだった、そいつは一体何者だ。
終わりはないとすら思えるほど長く、果てしない景色の連続も、終わりは訪れる。
何人目か、途中から数えるのを止めてしまった。最後はあまりに呆気なく、女性が車に轢かれた光景。その光景が流れた直後、俺の頭の中に声が流れる。
─────やっと、ここまで来た
瞬間、視界一杯に光が広がる。周囲の景色を光が塗り潰し、やがて何も見えなくなる。
結局、この夢は何だったのか。先程聞こえてきた声は何だったのか。
考える暇もなく、俺という存在は夢の中から消失した。
「っ!」
目が覚めた、と自覚したのは、目を開いて十数秒経ってからだった。視界の中に見えるのは木製の天井。背中に感じる柔らかい感触から、ベッドに寝かされていると推測。
その推測は当たっており、視線を横にずらすと自分の体の下に床が見えた。
体は動く。しかし、今、俺がいる場所がどこなのか分からない。その状況が先程の夢と重なり、もしや未だ目は覚めていないのでは、という疑いが湧いてくる。
「体は、動くか」
上半身を起こす。体に掛けられた布団がずり落ちる。
この時点で、俺はこの景色は夢のものではないと確信する。何しろ、夢の中での俺は体を動かす事が出来ないでいたのだから。
目が覚めたのだという実感を得た俺は右手を持ち上げ目の所まで持っていき、軽く擦ろうとしたところで手にこつりと固い感触が当たる。
それが眼鏡だと気付いたのは直後。誰か…というより、明月さんだろう。眼鏡を掛けてくれたらしい。ここまで運んでくれたのも明月さんだろうか?男の体を運ぶのは女の身には厳しいものがあると思っていたが…、死神とはやはり、人の想像も及ばぬ贅力を持っていたりするのだろうか。
布団から足を出し、ベッドから降りる。ベッドの下に置かれた靴を履いて、何となく周りの雰囲気から屋根裏部屋と思われる場所から出る。
窓から見える外はすでに暗くなっており、俺がどれだけ眠っていたか窺い知れる。明日が休日で良かった。土日の間に、恐らく崩れるであろう生活リズムを整えなければ。
かなり長い時間眠ってしまったのだ。多分、今日は夜そんなに眠れない。
階段を降りて下の階に降りてみるも、やはり見覚えはない。しかし、どこからか話し声が聞こえてくる。それも、覚えのある声が。
その声が聞こえてくる方へ足を向ける。
廊下を進んでいくとステンレス製の扉があり、それを開けると、扉の向こうの部屋が視界に広がる。
「…ここ、店か?」
その部屋は、喫茶ステラのバックルームだった。部屋の中央に四つのパイプ椅子と横長のテーブル。俺から見て左側にはロッカールームに繋がる扉。
そして、正面の扉。フロアへと繋がる扉を開け、俺はフロアに入る。
「─────」
話し声が止む。フロアにいたのは明月さん、ミカド、四季さんの三人。今まで何を話していたのか、それは分からないがフロアに入ってくる俺の姿を見た途端、三人はピタリと話を止め、同時に俺へ視線を向けてきた。
「…」
「…」
「…おはよう」
呆然と俺を眺める三人は何も言わず、沈黙に耐えきれなかった俺は起床の挨拶を口にする。
それが合図だったかの様に、直後座っていた明月さんが立ち上がった。
「柳さん!起きて大丈夫なんですか!?」
「え、あ、うん。ちょっと怠いけど、それくらい」
余りの勢いに思わずどもってしまう。
明月さんだけではない。何も言わないが、四季さんも心配げにこちらの顔色を窺っていた。
「柳千尋。体調は本当に大丈夫なんだな?」
「さっきも言ったけど、ちょっと怠いだけだ。普通に歩けるし、普通に喋れる」
「…それならば、もう安心だな。貴様が倒れたと聞いた時は肝を冷やしたぞ」
ミカドが肝を冷やすとか、俺はどんだけ危ない状態だったんだ。
そんな俺の気持ちを読み取ったか、ミカドが一度溜め息を吐いてから口を開いた。
「蝶の思念に飲まれかけていた。下手をすればそのまま魂が持っていかれるところだった」
「…蝶の思念、か」
やはりあれは蝶の思念だったのだろうか。ミカドが言うのなら、とも思えるがやはり違和感は拭えない。
何故なら俺は、あの記憶を体験したのではなく、見ていたのだ。もし本当に蝶の思念に飲まれそうになっていたのなら、俺はあの記憶を体験する側でなければ可笑しくはないだろうか?
「何か、引っ掛かる事でもあるの?」
「え?…何で?」
「そんな顔してるから」
今度は四季さんが俺の表情を見て問い掛けてくる。
何だ、この店は読心術を会得した人間が集まる魔境だとでもいうのか。普通に怖いんだが。
「何でもいい。言ってみろ」
「正直、今回の件は私達にとっても分からない事だらけなんです。先程の閣下の所見も少ない状況証拠に基づいた推測に過ぎません。当事者である柳さんの意見は、何よりのヒントになります」
「…もしかしたら完全な的外れかもしれないぞ?」
四季さんに続いてミカドと明月さんにも後押しされ、俺は夢を見た事、その夢の内容、そして夢を見ている時に感じた違和感について語る。
初めは真顔で聞いていた三人の表情が次第に、三様に変わっていく。
四季さんは悲しげで泣きそうな表情に。明月さんもまた悲しげではあったが、その上でどこか割り切っている様な表情に。ミカドは目を見開き、驚きが顔に出始めていた。
「人の、死…」
「あぁ」
「見ている、だけだったの…?」
「体が動かせなかったからな。…それに、あれは夢だ」
そう、あれは夢だ。例え体が動かせたとしても、俺の姿が死者の目に見えていたとしても、何も出来ない。何にもならない。
「…柳さん。本当に大丈夫ですか?」
「?体調ならさっきも言ったけど…」
「いえ、そうではなくて。柳さんは多くの人の死を見たんですよね?それも、蝶になって零れ落ちてしまう程の無念が籠った死を」
「っ…」
四季さんがハッ、とこちらを見る。明月さんと四季さんの視線を受けながら、俺はゆっくりと正直な気持ちを語る。
「正直、堪えたよ。いや、すっげぇんだ。テレビのニュースとかでさ、事故で人が死んだとか、誰かが殺されたとかやってるけどさ。結局は俺にとっては他人事だった」
だが、あの夢で見た記憶はそうでなかった。第三者でありながら、間近で、ほぼ当事者に近い距離で死を目の当たりにした。
あれは夢だ、と割り切るには余りに近すぎた。今も、気を抜いてしまえば夢で見た光景が脳裏を過る。
悲しい死が、怒りに満ちた死が、残虐な死が、空虚な死が。
「柳君…」
「柳さん…」
「…まあ、立ち直りは早い方だから気にすんな。明日には元通りにするさ」
気遣う二人の視線。不躾に見続けられる事が嫌いな俺だが、その視線は不快ではなかった。
本気でこの身を案じているのだと実感できるから。その気持ちはどこまでも真摯で、真っ直ぐなものだと分かったから。
この時、俺には余裕がなかった。あの夢を見て目が覚めた直後で、そして四季さんと明月さんの心配する気持ちが素直に嬉しくて。
俺は、ミカドの呟きを聞き逃していた。
「人の死を多く見てきた、当事者ではない第三者の視点…」
呆然と視線をぶつけてくるミカドに、俺は気付かない。
「柳千尋…。その目は、まさか…、いや、そんな筈は…」
あの後、結局俺の目の詳細はすぐには分からないという結論となり、その場は解散となった。
あの店に間借りしている明月さんとミカドは勿論店に残り、俺と四季さんは店を出て今、帰路についている。
当然と言ってはあれだが、並んでだ。家の方向は同じだし、一緒に帰っても空気が気まずくなる程に仲が険悪な訳でもない。こうなるのは極自然な流れといえよう。
しかし、バイト先の美少女と一緒に帰るとか、一週間前の俺に言っても絶対に信じないだろうな。俺と一緒に帰る物好きとかいる訳ないだろう、とか言って。
「ねえ、柳君。本当に大丈夫?」
すると、四季さんがこちらを見上げながら口を開く。振り向くと、その目は店にいた時と変わらず、心配げなままだった。
「何度も言うけど、本当に大丈夫だ。明日も普通に店に行くし、そろそろ安心しろよ」
「…うん、柳君がそう言うなら大丈夫なんだろうけど。あんな話を聞いたらね…」
まあ、それもそうか、という気持ちにもなる。
人の死を見た、なんて聞いたらその人の精神状態が気になるに決まっている。それも夢の中でとはいえ、比喩等ではなく本当に、それも大勢。
それに俺が語ったものが全てではないという事を四季さんは察している。
俺だって、もし俺と四季さんが逆の立場になったら、多分しつこいくらいに四季さんに聞いてただろうな。大丈夫かって。
もう、他人事の一言で済ませられる域を越える仲になったのだから。
「─────」
待て、俺は今、何て思った。四季さんを、他人ではないと思ったのか。今?俺が?高々会ってから一週間も経ってない奴を?
つい、自分で自分に驚いてしまう。自分は、こんなにも簡単に他人に心を許す様な奴だったか、と。
「柳君?どうかした?」
「…いや、別に」
こちらの様子を変と思ったか、四季さんがきょとんとこちらを見上げてくる。
どうやら俺の内心には気付かれていないらしい。先程店で披露した読心術は発揮されなかった様だ。
「…ねぇ柳君、本当に大丈夫?」
それは、先の台詞と全く同じものだった。
一体四季さんは、何に対してこんなにも心配になっているのか。
起きてすぐに感じていた怠さはもうとれた。別に顔色も悪くなっていない筈。それなのに、何故こうも四季さんは、どこに心配しているのか。
「四季さん。俺ってそんなに体調悪そうに見える?」
「…ううん。そうじゃない」
もしや、俺がそう思っているだけで、四季さんからはそうは見えていないのかもしれない。そう思って聞いてみるが、四季さんは頭を振った。
「柳君、あの時言ったから」
「?何が?」
「…元通りになる、じゃなくて、『元通りにする』、て言ったから」
「─────」
言葉に詰まる。そういえば、と思い出す。無意識に本音が漏れてしまったあの時を。
そうか、何でそこまで頑ななのかと思っていたが、それに引っ掛かっていたのか。しかし、普通なら気付かないぞ、そんな小さな違和感。
「柳君。辛かったら、本当に無理しなくていいから。ちゃんと誰かに連絡してくれれば、明日のバイトを休んでいい」
今、誰かが休む事がどういった状況を招くか。しかも俺は今、他人を教える立場にいる。それを分かった上で、四季さんは無理をするなと、休んでもいいと言い切る。
「…本当に大丈夫なんだが」
「柳君」
「うん、でも分かった。本当に辛かったら、休むよ」
「…」
四季さんがじと目でこちらを覗く。思い切り疑われている。なお、その疑いは正しい。先程のは、この場をやり過ごすための適当な台詞に過ぎない。
「…私が無理そうだって思ったら、強制的に帰らせるから」
「へーい。店長命令には従いますよ」
「言っておくけど、本気だからね?」
「分かってる分かってる」
四季さんが何度も念押しするのを聞き流す。その態度を見た四季さんがまた念押ししてくる。
そんなやり取りをしながら歩く内に、帰路が分かれる交差点まで来てしまう。
最後にもう一度、四季さんの念押しを聞いてから俺は彼女とは別の方向に足を向ける。
「…さっむ」
まだ秋とはいえ、夜になればもうすぐ冬なのだと無理矢理実感させる冷たい風が吹く。
その風に身を小さくさせながら、俺は自分の部屋へと足を急がせるのだった。