前回の続きです
俺の目について。確かにそう言った。
この世あらざる存在を捉える目。ずっと、恐らく生まれた時から、俺はこの目と付き合わざるを得なかった。この人がくれた眼鏡のお陰でマシにはなったものの、危険な目に何度もあった。以前の蝶絡みの事で気を失ったのもそうだ。この目がなければ俺は今頃、ごく普通の生活を送っていたのだろう。
蝶の事なんか知らず、見たくもないものを見る事もなく、普通に。
この喫茶店で働く皆とも、出会う事はないまま。
思えばそうだ。この目がなければ、四季さんや高嶺達と出会う事はなかったのか。最初に高嶺と話したのだって、この目が蝶を捉えた事が切っ掛けだった訳だし。
それを考えれば、嫌なものしか見せてくれなかったこの目は、ようやく俺が見たいと思える景色を映してくれる様になったのかもしれない。
「ちなみに千尋は、その目についてどれくらい知ってる?」
「どれくらいと聞かれても…」
朔夜さんは不意にそんな事を聞いてきた。
しかし、どれくらいと言われても、俺はこの目が映すものが何なのか、それくらいしか答えられない。
たまに見る青い蝶に、明らかに生きた人間とはかけ離れた、どう見ても生者に害を及ぼすであろう悪霊。それらが見える、とだけ朔夜さんに対して答える。
すると、朔夜さんは手を口許にあてて、考える素振りを見せながら何かを呟き始める。
「ふむ…。まだその段階か。なら、その眼鏡は一応の仕事を果たした訳か…。まあ、今回はそれが枷になってしまったんだが」
「?」
俺の眼鏡がどうこう言っているが、言ってる意味はさっぱり分からない。当然だが、四季さんと高嶺も俺と同じく首を傾げて疑問符を浮かべている。
ただ一人、いや一匹。例外はいるが。
「なるほど。柳千尋の眼鏡は、目の力を抑えるだけではなく、目の成長を阻害していたという訳ですか」
「まあ、あの時はさすがに千尋が幼すぎたからね。あのまま目の力が増していたら、千尋の精神が崩壊してただろうから」
何か凄く物騒な事を言ってる。精神が崩壊って何?いや、確かに俺自身もこの眼鏡がなかったら精神が可笑しくなってたかもとは常々思ってたけれども。崩壊って何?
それともう一つ。
「なぁ、ミカド」
「む、何だ」
「何かさっきの言い方だと、まるでお前は俺の目が何なのかを知ってるように聞こえるんだが。まだ調査の途中じゃなかったのか?」
「─────」
ミカドの言葉に詰まる。少しの間そうして固まったまま、やがて体の力を抜くと、頷いて肯定した。
「その通りだ。吾輩は貴様の目について以前から分かっていた。…いや、推測ができていた、だな。確証がなかった故、貴様には伝えていなかったが。…それに」
「それに?」
「…至った推測があまりにも信じられないものだった」
常に冷静でほぼ表情を変えないミカドが苦々しい表情となった。いや、それだけでじゃない。俺に向けられるミカドの視線は、どこか俺を気遣っているように思える。
傍若無人で、店の仕事に関してならば俺だけじゃなく、他の従業員の事を気に掛ける事はあったものの、ミカドがこうして誰かを心配するところを俺は今、初めて見た。
しかし、信じられない、か。俺の目とは一体何なのか。その答えが、ようやく明らかになるのか。
「本当は眼鏡の力で千尋の目の成長を抑えて、後はミカドに協力を仰いでゆっくりその目の使い方を教えていくつもりだったんだけど…。急に千尋の目の力が増大した」
突如明かされる柳千尋育成計画。目の使い方って何。もしかして、もっと他に何か見えるようになるって事なのか?それに、目の力が強くなったって、そんな自覚は一切ないんだが。
「ん、ほら。千尋、そっちを見てごらん」
「?」
すると、朔夜さんが店内の窓の方、正確には窓の外を指差す。俺はその指先が向けられた方へと視線を向け、そして目にする。
青い鱗粉を散らしながら飛ぶ、蝶の姿を。
俺は今、眼鏡を掛けているというのに。
「っ」
「うん、やっぱり見えているみたいだね」
見えない筈だ。この眼鏡を掛けている間は、普通の人間には見えないものを視認できない筈だ。
なのに今、俺は確かに蝶が見えている。
「そういう事だよ千尋。その眼鏡じゃ抑えきれないくらいに、君の目の力は強くなっている。最近、何か外部から刺激を受けたりしただろう」
「刺激…って、そんなの何も─────」
心当たりは、あった。というより、たった今思い出した。
あれを刺激といっていいのかは分からないが、最近にあった強烈な経験。
「蝶の記憶を、見ました。たくさんの、人の死を」
「なるほど。切っ掛けはそれか」
納得したように頷く朔夜さん。俺の心当たりは、朔夜さんにとって辻褄が合うものだったらしい。
蝶の記憶。人の死。
以前、涼音さんの部屋で大量の蝶を見た時の事だ。俺のものではない感情と記憶が中に入り込んできて、耐えきれず気を失ってしまった。
あれが今、俺の目の力が強くなっている原因らしい。
俺にはそんな自覚はないのだが、この眼鏡を掛けているにも関わらず、蝶を視認できてしまったのが何よりの証拠。
だが、分からないのは何故それで神である朔夜さんが出張ってきたのか。ミカド曰く、神という存在は直接人間の世界に介入する事はまずないという話だ。
何となく予想できてしまう。俺の目の力が強くなる事が、俺の目が、神を動かしてしまう程に厄介なのだと。
「この際、ハッキリ言おうか。千尋のその目は、
あれだけ正体が分からず苦労させられてきた目について、あっさりと神の口から詳細が語られる。
俺の今までの苦労はなんだったのだろうかという複雑な気持ちは抑えて、朔夜さんの説明に耳を傾ける。
「星の記憶を覗く瞳。その気になれば過去、現在、未来でさえも見通す事が出来る」
「未来?」
「あぁ、今の千尋には出来ないよ。まあ、私がサポートすれば不可能ではないけれど…、多分パンクする」
「パンク?」
「分かりやすく言えば、千尋の体が破裂する。パァンって」
「─────」
思わず言葉を失う。未来を覗けるという甘美な言葉に興味が惹かれてしまうが、続く朔夜さんの台詞に血の気が引く。破裂って。パァンって。普通に怖い。体が破裂する所を想像してつい身震いしてしまう。
「待ってください。星の記憶…って、何ですか?それを覗くって、どういう事なんです?」
そう朔夜さんに問い掛けたのは高嶺だった。甘美な単語に釣られてしまったちょろい俺とは違い、高嶺は朔夜さんの言葉について真剣に考えていたらしい。
見れば、四季さんも高嶺と同じ表情をしている。どうやら、高嶺と同じ疑問を持っている様子。
おかしいな、当事者である俺が一番真面目に聞いてないってヤバイな。これからはちょっと真面目に耳を傾ける事にする。普通に俺の体に関する事なんだし。下手したら体が破裂するくらいの危ない代物らしいし。
「んー、そうか。そこから説明しなきゃいけないか…。でも正直、千尋はともかくとして、君達に教える必要はこれっぽちもないんだが…」
再び悩む素振りを見せる朔夜さん。しかしすぐに結論を出したらしく、小さく笑みを浮かべた。
「うん。教えてあげてもいいよ。千尋にも周りに事情を知っている人間がいた方が気が楽だろうし」
「…いいのですか?」
「いいよ。別に話を聞いたからってどうという事はない。仮にそれで何か企む様なら別の話にはなってくるけど。彼等はそういう人間なのかい?」
「いいえ。そうではないと、私が保証します」
朔夜さんとミカドの会話。自身の問い掛けに対して即答したミカドを見て満足げに頷いた朔夜さんは口を開く。
「それじゃあ、まず話す前に…。君達は今私達が立っているこの星についてどれくらい知っている?」
「…はい?」
「星の名前は地球。太陽との奇跡的な距離のバランスと地球の周りを覆う層のお陰で成り立つ生命の楽園。我等が母なる星。そのくらいかな?」
自分から聞いておいて勝手に俺達の答えを代弁した朔夜さんは、何も口に出さない俺達を見て一度頷いた。
「その母なる星はね、ずっと見続けているんだ。自分が生まれたその瞬間から、自分の中で何が起きてきたかを。自分の中での生命の誕生を。誕生した生命の営みを。全て、見て、記憶している」
それは、あまりに突拍子がない話。今まで聞いた事がないのは勿論、考えようとすらしてこなかった話。
だが、驚きは隠せない。なぜなら、それではまるで─────
「それじゃあまるで…、星に意思があるみたいじゃ…」
「その通りさ。この星に意思はある。第一、私がここに来れたのも、星の許可が降りたからだからね」
四季さんの台詞をあっさりと補完する朔夜さん。
この星に、地球に意思がある。そんな事、誰が想像していただろう。
「ちなみに高嶺君。君の排斥についての判断も、全ては星によるものだ」
「っ」
「私が君を監視し、君の変化を星に報告し、そして星が君の処遇をどうするのか決める。さっき、私情で君を排斥できないって言ったのは、そういう理由でだね。もし星の判断を待たずに君を排斥したりしたら、多分私が排斥される」
けらけらと笑いながらそう言った朔夜さんは笑顔のまま、しかしその目で高嶺を見据えながら更に続けた。
「君が排斥候補となった理由は、星が一番嫌う類いの奇蹟を起こしてしまった事だ。世界を塗り替えるなんて、摂理に逆らう最も起こしてはいけない矛盾だからね」
「─────」
高嶺の喉が震える。それと同時に、息を呑んだ音が聞こえてきた。その緊張はこちらにも伝わってくる。
そんな緊張を吹き飛ばすように、朔夜さんは微笑んだ。
「でも大丈夫。今の調子で頑張っていれば、排斥候補から外されるさ」
微笑んだ朔夜さんは席から立ち上がり、高嶺に歩み寄ってその肩をぽんぽんと叩きながらそう言った。
「もう一度奇蹟を起こしたりしたら、その限りではないけどね」
「は、はい」
それはまるで脅しだった。折角高嶺の表情が少し和らいだと思ったのにまた引きつってしまった。
というより、実はこの神楽しんでいるのではなかろうか。高嶺の表情の変化を見て楽しそうに笑っている。
…あぁ、絶対に楽しんでる。高嶺を虐めて楽しんでやがるこの人でなし。いや、人間とは違う、それも明らかな上位の存在である神だからこそ、人でなしなのは当たり前なのかもしれないが。
「さて、と。星について簡単に説明してあげたけど、理解できたかい?」
「…何となく」
「それで充分だよ。とにかく、千尋の目は星が見てきた記憶を覗けるものなんだけど…」
本当に何となくだが、この星に意思がある事は分かった。そして、星が生まれたその時から続く四十六億年という時の中、この星で起きた全ての出来事を見て、記憶してきた事。俺の目はその星の記憶を覗く力を持ったものなのだと。
多分、まだまだ理解しきれていない事もあるのだろうが、これだけ理解できていれば充分だろう。次に続く朔夜さんの言葉に意識を向ける。
「まあ、ここまで聞いてたら分かると思うんだけど、千尋の目って大分規格外なものなんだよね。だから、その目を欲しがる輩も出てくる訳で─────」
その後に続いた台詞は、俺にとって寝耳に水過ぎた。
一先ず話が終わって解散となり、俺は月明かりと街灯に照らされた道を歩く。隣には言うまでもなく四季さん。
しかし、店から出てからここまで、会話は一言もなかった。
当然だ。突然現れた衝撃の人物、というより神物。その口から語られた内容も衝撃的だった。直接的には関係のない四季さんでも、あの話を受け止めきるには時間が必要だろう。
「そのお守り」
「ん?」
「本当に効果あるのかな」
「さあ?あって貰わなきゃ困るけど」
四季さんが口にしたお守りとは、朔夜さんから貰った物である。
あの後、朔夜さんはこう言った。
『星詠みの瞳を我が物にして、星の力を手に入れてやるーとかいう愚か者がね。千尋の存在に気付いて狙ってるんだよね』
あははー、と気楽な笑みを携えながらそう言った。このお守りはそうした輩に俺が朔夜さんの庇護下にあると思い知らせると同時に、悪しき存在を遠ざける力を持っていると朔夜さんは語った。
これからしばらくこのお守りを肌身離さず持ち歩く事、と言われて手渡されたお守りを四季さんと一緒に眺める。
「…普通のお守りだな」
「普通のお守りね」
「…何か不思議パワーが籠ってるようには見えないな」
「見えないわね」
見た目は本当にごく普通のお守りである。中に何が入っているかは分からないが、紺色の袋には金色の刺繍で
あの人、不器用そうだもんな。
「…」
とりあえず、このお守りや朔夜さんの事は一旦置いておく。さっきから俺が気になっているのは、あの話を聞いてからずっと俺を心配げに見てくる四季さんの事だ。
「そんな目で見るなよ」
「…そんな目ってどんな目?」
「これから死にゆく人を見てるような目」
四季さんの方に視線を向ければ、四季さんは気まずそうに視線を逸らす。そんな四季さんの様子に溜め息を吐いてから、俺は一つ、ある事を決心して口を開いた。
「四季さんは俺なんかより、自分の心配をした方がいい」
「─────」
俺が言った直後、四季さんは立ち止まってしまう。俺も四季さんの一歩先で立ち止まり、振り返って目を見開いてこちらを見る四季さんと向き合う。
「それ…どういう意味?」
「聞く必要あるか?四季さんが一番分かってるだろ」
信じられなそうに見開いた目がゆっくりと元に戻っていき、やがて四季さんは何かを諦めたように切なげな笑みを浮かべた。
「そっか。やっぱり、気付かれてたか」
「…ちなみに、聞いてもいいか。四季さんの魂が弱ってる理由」
確信はなかったろうが、俺に自分の
俺がその事に気付いたのは、まだステラのオープンどころか、二人と知り合う前だ。
俺と四季さんは学部は違うが、一コマだけ一緒の空間で受ける講義があった。その時、四季さんの魂を目にしたのは本当に偶然だった。目が痒くなったから眼鏡を外して手で擦っていた時。
たまたま目にした、明らかに普通の人間と比べて小さな魂の光の持ち主が四季さんだった。
それから何度か、四季さんが視界に入る度に眼鏡を外して四季さんの魂を見た。その光は少しずつ、弱くなっていた。
何かあるのか、四季さんに話を聞くべきかとも考えた。しかし、その時は全く面識のない赤の他人。いきなりそんな風に声を掛けられても警戒されるだけだし、何よりそんなお節介をする程俺はお人好しではない。
何で赤の他人を助けるために俺が悩まなければならない。そう考えていたのに。
四季さんは突然俺の目の前に現れて、それだけなら放っておけたのに、一緒の職場で仕事して、こうして一緒に帰って、二人でバーに飲みに行ったりもして。
そんな相手を見捨てられる程、俺は人でなしではない。
「…高嶺君が一度死んだ時ね。私も死んだの」
「…は?」
四季さんが思ったよりも素直に話し出した事への驚き、そして全く予想の出来なかった答えの内容に対する驚きから漏れた声だった。
四季さんは語る。自分は、一度死んだと。高嶺と同じ事故に巻き込まれ、死んだ。高嶺が起こした奇蹟のお陰で生き返ったはいいものの、一度死んだ時に魂の一部が蝶となって零れ落ちたのだと。
それを聞いてなるほど、と得心がいく。四季さんの魂は弱っていたのではない。欠けて小さくなっていたのだ。だからこそ、他の人よりも魂の輝きが弱く見えた。
「だから、結構危ういんだって」
「…」
危うい、とはつまり、いつ何が起きてもおかしくない、という事だろうか。
目の前の普通に健康そうで、店では元気な姿を見せていた四季さんが、いつ死んでもおかしくない状態にいると。
「でもね。私、自分の人生に満足してるの」
「…なに?」
「小さい頃からの夢を叶えられた。お店がオープンできて、たくさんのお客さんの笑顔が見られて。それに、柳君達と過ごした時間は、とても楽しかった」
「─────」
「前に言ったでしょ?小さい頃は体が弱かったって。そのせいで私、仲が良い友達とかいなかったから。だから、皆と過ごした時間はとても幸せだった」
「…だから、満足だと?」
そう語る四季さんの表情は、本当に満ち足りている
四季さんは本気で思っているのだ。満足していると。もういつ死んでもいいと。本気で。
「─────はは」
「…柳君?」
笑える。本当に笑えてくる。たまに、人はあらゆる感情の限界が訪れると笑うと聞くがどうやら本当らしい。
心は怒りに満ちているというのに、顔の形は笑顔になる。その矛盾にすら面白味を感じながら、俺は笑みを収めないまま四季さんを見る。
「ふざけるなよ。たくさんの人を自分の夢のために巻き込んでおいて、勝手にリタイアする気か」
「…」
「高嶺も、明月さんも、ミカドも、墨染さんも、火打谷さんも、涼音さんも、俺もそうだ。四季さんの、店に来てくれたお客さんの笑顔が見たいっていう我が儘を叶えるために働いた。なのに、その我が儘を吐いた張本人がもう満足?ふざけるな、これからだろうが」
四季さんは黙って俺の耳に傾ける。切なげな笑みは変わらぬまま。
その態度が、更に俺の神経を逆撫でる。
「これから客の数も増えてくる。四季さんの見たがってる笑顔も増えてくる。四季さんが言った仲が良い友達との時間も、これからもっと増えていく」
そう、これからだ。四季さんの夢がもっと華やいでいくのはこれからなのに。なのに、四季さんはもういいと、もう満足だと言う。
何故だろう。その事実にどうしても腹が立って仕方ない。
「…考えは変わらないのか」
「…」
四季さんが俯く。流れる沈黙。やがて、表情が見えない四季さんから聞こえてきたのは─────
「ごめんなさい」
という、一言だった。
「…そうか」
俺の中で、何かが切れた音がした。その音が何なのかは分からない。
ただ、俺の心はもう何も感じていなかった。ただ無感情に、事実だけを受け入れる。
四季さんにとって俺は、その程度の存在なんだと。これから先も、一緒に付き合っていきたいと思えるような存在ではなかったのだと。
「なら、いい」
「え─────」
「前に言ったよな。最善を尽くさない責任者の下で働きたくはないって。店の未来を見ようとしない責任者なんて御免だ」
「ま、待って…」
「悪いけど、俺は抜けさせて貰う」
四季さんの震えた声を無視して、振り返って歩き出す。
後ろから、四季さんの声は聞こえてこなかった。
冷たい風が全身に吹き付ける。しかし、この寒さは気温だけが理由じゃない気がした。
心は、完全に冷えきっていた。
千尋の目についての説明と思わせておいて、本題は後半という罠