~Another View~
気付いた時、私の足はステラに向いていた。大学の講義が終わり、今日は定休日なのだから家に帰れば良いにも関わらず、無意識にステラへと歩いていた。
店の前で立ち止まる。この時間帯、いつもならば昼食時というのもあって平日でもそれなりにお客さんの出入りは活発なのだが、今日は人気がまるでない。定休日なのだから当然なんだけど。
どうして私はここに足を向けたのだろう。自分でも分からない。それでも、私の足は自然と店の中へと歩いていた。裏口から鍵を開けて中へ、そのまま休憩室の方へと行こうとして─────
「今日は定休日だぞ」
低い男の声が足下の方から聞こえてきた。声が聞こえてきた方を見下ろすと、赤いマントを纏い、頭に王冠を被った灰色の毛並みをした猫、閣下が二本足で立って私を見上げていた。
「ナツメさん?」
閣下だけじゃない。裏口の玄関前にある階段から降りてきた明月さんが顔を見せる。
明月さんは私の顔を見て目を丸くすると、早足で階段を降りて私の方に歩み寄ってくる。
「どうかしたんですか?お店に何か用事でもありましたか?」
「ううん、そういう訳じゃないんだけど…。ただ、ちょっと寄りたくなっちゃって」
私の前で立ち止まった明月さんが休みの日にも関わらず店に来た理由を聞いてくるが、私自身がどうしてここに来たのかよく分かっていないのだ。さっき言った通り、ただちょっと寄りたくなった、としか答えられなかった。
「ナツメさん…」
「…うん、ごめんね?今日はお休みなのに、変だね私」
明月さんの目が気遣わしげに私の顔色を窺っている。明月さんに心配を掛けてしまった。精一杯の笑顔を浮かべて…浮かべたつもりで、だけど私の笑顔は明月さんの心配をもっと濃くしてしまったらしい。
明月さんだけじゃない。閣下も目を細めて私を見上げている。
そんなに今の私は心配になるくらいおかしいんだろうか。…おかしいんだろう。柳君がお店に来なくなってから過ぎた一週間、私は何度も皆に心配された。
涼音さんにも、高嶺君にも。墨染さんや火打谷さんに、勿論明月さんにも。その度に大丈夫と答えて、そして必ず最後にはいつでも相談に乗ると言ってくれるのだ。
深くは聞いてこない。私の様子がおかしく感じ始めた時と同じくして、柳君が来なくなって。特に涼音さんは私以外で最初にバイトを辞めたいと話した相手。私と柳くんの間に何かがあったと勘づかない筈がない。他の皆も、これだけ条件が揃えば涼音さんよりは遅くとも気付いている筈だ。
それでも、私を気遣っているのか、深くは聞いてこなかった。
「ナツメさん。折角来たんです。お茶でも飲みながら、お話しませんか?」
不意に、明月さんが私を誘う。
「ふむ。それでは、我輩が茶を淹れるとしよう。それとも、コーヒーの方がいいか?」
「閣下?ナツメさんはコーヒーが苦手なんですよ?」
「分かっている。冗談だ」
明月さんだけでなく、閣下まで乗り気である。二人が、私に気を遣っている。
でも、二人には悪いが今はそんな気分ではない。気を遣ってくれて本当に申し訳ないが、断らせて貰う。
「…うん。それじゃあ、お願いしようかな」
その、つもりだったのに。断ろうとした直前、心の奥で、一人になりたくないという強い感情が奔った。その衝動に従って、私の口は私の意思とは関係なく、二人の言葉に甘える台詞を吐いてしまう。
いけない。自分が思っていたよりも私の心は弱っているらしい。
それでも、私の返事を聞いて笑顔を浮かべる二人を見ると、安心してしまう。まだここにいたいと思ってしまう。私って、こんなに寂しがりだったんだ。今この瞬間、初めて私は自分のそんな一面を知る。
三人でフロアに行き、私と明月さんは二人がけの席に座り、閣下はカウンターで紅茶を淹れる。閣下が猫の姿でお茶を淹れてる所を初めて見たけど、肉球で本当に器用に物を掴んでいる。お店が営業している時、閣下が人間の姿で見えている時も、実際はこうやってお茶やコーヒーを淹れているんだろうか。
ちょっとだけ、笑みが溢れてしまう。
「何がおかしい」
「え?」
「吾輩がこの姿で茶を淹れる所は、そんなにおかしいか」
「あ、えっと、あの…」
いけない。笑った所を閣下に見られてしまった。閣下は細い目で私を軽く睨んでいる。
責めるようなその視線に言葉を返せずにいると、すぐ傍から助け船が入る。
「仕方ありませんよ、閣下。猫がお茶を淹れてる所を見たら、誰でもそうなります。多分、柳さんが見たら大笑いしていますよ?閣下が愛くるしい故、仕方のない事なんです」
「…一度の無礼は許そう。次はないと思え」
明月さんの誉め言葉に毒気を抜かれたのか、閣下は一度息を吐いてから矛を納めて作業に再び集中する。
でも、普段は貴族の威厳が、なんて言ってる人に愛くるしいなんて言葉を使ったら逆効果な気がするけど…、もしかして閣下って、実はチョロかったりするんだろうか。
ステラをオープンする直前、閣下を撮影した画像をインストにアップしようと決まった際、渋った閣下は明月さんに煽られてあっさり意見を翻して了承したし。
でも次はないと言われちゃったし、以降は注意しよう。
「出来たぞ」
閣下が紅茶が入ったカップ二つを両肉球に乗せて、カウンターからテーブルに、テーブルからまた別のテーブルに飛び移りながら私達がいる席まで来る。
かなり激しい動きだったにも関わらず、閣下が持った二つのカップから紅茶が溢れた様子は見られなかった。一体どういう技術で以て今の動きを実現させたのだろう。
「…ふぅ」
先程までの思考を一旦放棄して、閣下が目の前に置いたカップを持ち、縁に口付けて紅茶を一口。紅茶の風味を味わいながら喉に通し、一息吐く。
…美味しい。そこは本心からそう思っている。それなのに─────
「物足りない、という顔だな」
「え?」
物足りない、と思ってしまった瞬間、閣下に声を掛けられた。それも、私が丁度抱いた感想を言い当てられる形で。
「やはり、柳千尋が淹れる味には届かんか」
「閣下だけじゃなく、皆がそうなんですけどね」
肉球を口許に当てながら言う閣下に、苦笑いしながら明月さんが続く。
二人の言う通り、この店で働く誰もが、柳君に匹敵する紅茶を未だ淹れられない。
オープン前から柳君に教わりながら何度も紅茶を淹れてきたが、どうしてもあの紅茶の味を再現できない。
火打谷さんは何度トライしても柳君に追い付く事が出来ずいつも悔しがっていた。そんな火打谷さんを見ながら、柳君は『そう簡単に追い付けると思うなよ。年季が違う』なんて笑ってて─────
「ナツメさん」
「…明月さん」
やっぱり、来なければ良かった。いつもは慌ただしく動き回っていたから大丈夫だったけれど、こうして落ち着いてフロアを見てしまうと、どうしても思い出してしまう。
ここで起こった笑顔の数々を。そして、笑顔を浮かべる人達の中に必ずいた一人が、今はもういないのだという事を。
「ナツメさん。今、貴女は何を考えていますか?」
「え…?」
「まだ、いつ死んでも良いって。満足だって、思えてますか?」
「─────」
言葉に詰まる。明月さんの問い掛けが心に染み渡る。
一週間前。柳君と話した時の私なら、多分迷う事なく頷いていただろう。
でも、今は違う。今のまま死にたくない。たとえ先が短い運命を変えられなくとも、このままじゃ死ねない。
今の私は、そう思える様になっていた。
「…嫌だ」
そんな言葉が、自然と口から溢れるようになっていた。
「まだ、生きたい。死にたくない」
今の私には、そう思える事が出来た。
「…やれやれ。その言葉を聞くためにどれだけ苦労したか」
「しかも、その言葉を言わせたのが私達じゃないっていうのが何とも複雑ですね」
「全くだ」
「…えっと、ごめんなさい」
明月さんと閣下が微笑む。口から出る言葉はちょっぴり皮肉が混じっているものの、その表情から心の底から安堵しているのが伝わってくる。
初めて会ったその日から、二人はずっと私の傍で、私に気を遣い続けてくれた。
「そして、ありがとう。今まで私を見捨てないでいてくれて」
「…お礼を頂けるのは素直に嬉しいんですが」
「ナツメの心を変えた切っ掛けが、見捨てられた事を考えると、もっと複雑だな」
「本当にごめんなさい…」
二人は色々と頑張ってくれたのに、その努力に応える事は出来なかった。今の私の気持ちの変化だって、もし柳君と仲違いをしなければどうなっていたか。
…そう考えると、本当に皮肉な話に思える。頑なな私の傍に根気よくいてくれた二人ではなく、つい最近出会って、そして仲違いした柳君の方が切っ掛けになるなんて。
「まあでも、それも仕方ないです。我々では、愛の力には勝てる筈もありませんから」
「あ、愛の力って…そんなのじゃ…!」
「ふむ。確かに、その通りかもしれんな」
「閣下まで!」
愛なんて、そんなのじゃない。私を責めてくる二人に言い返すが、特に明月さんがニヤニヤと笑いながら頬杖を突いてこちらの顔を覗き込んでくる。
「そんな事言って~。ナツメさんの顔、真っ赤になってますよ?」
「そんな風に言われたら誰でも恥ずかしくなる!」
「え~?そういう気持ちがあるから、恥ずかしくなるんじゃありません?」
「だから、そんなんじゃない…!」
必死に否定するけど、その反面で私の心の中でどうしても解けない疑問が出来た。
明月さんの言う通り、そういう気持ちがないのなら恥ずかしがる必要なんてない筈だ。むしろ本当にそういう気持ちがないのなら、からかわれた事に不快感を覚える筈だ。
でも今、私は羞恥こそ抱いているものの、不快感は持っていない。それは、つまり…本当に、そういう事なのだろうか。
私が…、柳君を…?
「っ!」
「─────」
そこまで考えた時だった。弾かれるように、明月さんと閣下が同時に同じ方へと勢い良く振り向く。
そのあまりの勢いに、私はついさっきまで感じていた羞恥と暖かさを忘れ、二人を見る。
「閣下…。これは…」
「あぁ…。栞那、吾輩が出る。ナツメを頼むぞ」
「…分かりました」
突然空気に奔る緊張。閣下は固い表情のままテーブルを降り、四本足で床を駆ける。
駆けていく閣下はまるで空気に溶けていく様に姿を消す。扉が開いた様子は見えないが、もしかして外に出ていったのだろうか。
しかし、何故?先程の様子を見ると、私の知らない所で尋常じゃない何かがあったとしか思えない。
明月さんと閣下を緊張させる程の何か。私では想像し得ない何か。
さっきまでの柔和な空気は完全に霧散してしまった。
「大丈夫です」
「明月さん…」
「絶対に、皆帰ってきますから」
この時、明月さんの台詞の違和感に私は気付かなかった。
皆。明月さんは確かにそう言った。閣下ではなく、皆と。
その意味を私が知るのは、今よりもう少し後になってからだった。
神々の対峙。神話でしか語られない光景が今、この現代で、目の前にて繰り広げられている。
凍り付いたかの如く冷たい空気が震える。気のせいだろうか、この場に響き渡る、何が罅割れていく様なこの音は。
対峙する二柱は動かず、今はただ睨み合うのみ。しかし、すぐにでもこの場を飛び出し、互いを殺さんとする殺気が部屋を満たす。
「悪いけど、尻尾巻いて帰ってくれないかな。そんなにこの星のために働くのが嫌なら、どこかでひっそり隠居でもしてればいい。事実、そういう奴等もいるだろう?」
「何故私ガソンナ弱者ノ真似事ヲシナケレバナラナイ」
「相変わらずプライドは高いね、君。そんなんだから惚れた娘にフラれるんじゃないのかい?」
「…貴様ガソレヲ言ウカ」
これまで朔夜さんの挑発染みた台詞に対して、ただ淡々と返事を返していた男神の様子が変わる。
まるで、今朔夜さんが発した台詞が、この神にとって触れてはいけない何かだったかのよう…いや、事実地雷だったのだろう。そして、笑みを浮かべている朔夜さんはそれを分かって、わざと踏み抜いた。
「ハツヲ殺シタ貴様ガ、ソレヲ言ウカ!」
「おいおい、まるで私が殺したから添い遂げられなかったみたいな言い方だな。順序が逆だろう?私があの女を殺したのは、君がフラれてからだ」
「─────」
男神の足下が弾ける。小さく何かが砕けた音がした直後、いや、ほぼ同時、男神は朔夜さんの目の前まで接近していた。巨大なその体躯のどこにそんな俊敏さがあるというのか。一瞬にして朔夜さんの眼前に迫ると、その拳を朔夜さん目掛けて振り下ろす。
「ナッ─────」
男神が声を漏らしたのはその直後だった。男神の動きが止まる。
それだけではない。男神が声を漏らす直前、男神の足下で、男神を囲む光が円柱形に伸びる。
「転移魔法…!」
「さすがにここでやり合う気はないよ。このアパートが…というより、ここら一帯が焦土になる」
「チィッ!」
忌々しげに舌を打った直後、光と共に男神の姿が消える。
本当に何が起こったのか受け止めきれない。分かるのは、あの男神が俺の目を狙っているという事。そしてもう一つ、これから朔夜さんはあの神との戦いに臨むという事。
「やれやれ。物体に直接干渉する魔法は面倒だってのに…」
愚痴る様に言いながら、朔夜さんは男神が自身と対峙していた時に立っていた場所に足を向ける。
そこには、男神が駆け出す際に付いた足形の傷。ただ走るだけで、木製の床にこんな風に傷がつく。その事実だけで、神という存在が如何に強大か、その一端を実感できるというもの。
そして─────
「…よし、修復完了。それじゃあ、千尋はここで待ってるんだ。私が渡したお守りを離さず持っていなさい」
明らかに業者に頼まなければならない傷をあっという間に直し、そして当たり前のようにあの男神との戦いに赴こうとするこの女もまた、あの男と同じ超常者なのだと改めて実感する。
「…大丈夫なんですか。あいつ、凄くヤバそうでしたけど」
「私の心配なんて、千年は早いよ」
空気に呑まれ、今まで出せなかった声がようやく出せるようになる。それでもいつもと同じ声とはいかず、明らかに口から出てきた声は震えていた。
そんな俺を嗤う事なく、朔夜さんはただ俺を安心させるように微笑み、そう言い残して溶けるように姿を消していった。
朔夜さんがどこへ行ったかなんて考えるまでもない。俺一人が残った部屋は沈黙に包まれ、先程まで部屋を満たした緊張と殺気は最初からなかったかのように消えていた。
まるで、さっきの出来事は夢とすら思える変わりよう。
だが、俺はこのすぐ後、あの出来事は現実なのだと嫌でも実感させられる事になる。
悪意の足音がすぐそこまで迫っている等、この時の俺は知る由もなかったのだ。
次回、原作では皆無といっていい戦闘回です。