五時にセットしておいた目覚まし時計の音で目を覚まし、ベッドから降りる。顔を洗ってから簡単な朝食と紅茶を用意し、食べ終えてから食器を片付けて身支度を済ませる。
鞄にノートPCと講義で使う資料を詰め、最後に鏡を見て寝癖が残ってたりしていないかの確認。問題ない事を確かめてから、俺は家を出た。
ほとんど人がいない歩道を歩き、店へと向かう。こんな閑散とした景色を見ると、あの獣に襲われた場面がフラッシュバックするが、時折朝の散歩をする老夫婦やゴミを捨てに外に出て来る主婦の姿を見て、その度に安堵する。
我ながら情けないが、あの出来事は軽いトラウマとして俺の胸に刻まれてしまったらしい。バイトに復帰して三日目、出勤も三度目なのだが、こうした人通りが少ない時間外は未だに慣れない。つい神経を尖らせてしまう。
特に知り合いと会わないまま店の前に着く。もう、涼音さんと高嶺は来ているだろうか。明月さんとミカドはフロアの掃除を始めているだろうか。
皆、俺の出戻りをあっさりと受け入れてくれた。というより、涼音さんなんかはキッチンスタッフが二人だと混雑時の対応がキツいからとっとと戻ってこいと言い出す始末。
俺の懸念は何とも呆気なく霧散した。四季さんが言った通り、皆は俺が戻ってくる事を歓迎してくれた。
ただ、それはそれで少し複雑で。勿論、嬉しくはあったのだが、それでも少し文句を言われた方が楽だったというのが本音だ。あんな風に歓迎されると、自分の汚さを突きつけられるというか、上手く言えないが、胸にくる。
だから、皆へのこの恩は仕事を頑張る事でしか返せない。こんな風に自分に気合いを入れるのは何度目だろうか、裏口から建物に入り休憩室へ。そこで着替え、手を洗ってから厨房へ入る。
「おはようございます」
「ん。おはよう」
「おはよう、柳」
すでに来ていた涼音さんと高嶺と挨拶を交わす。
「珍しいな。高嶺がもう来てるなんて」
「どういう意味だ」
「私よりも先に来てたのよね。私も驚いちゃった」
「涼音さんまで」
大抵この三人の中で最後に来る高嶺なのだが、今日は珍しく一番最初に来ていたという。
いや本当に珍しい。バイトを休み始める前から高嶺はほとんど一番最後に、それも一番最初には来た事がなかった。
「雪でも降るのかね」
「おたまじゃくしが降るかもしれませんよ」
「二人とも酷い」
さて、雑談もそこそこに朝の仕込みを始める。涼音さんが定めた数のケーキを作っていく。といっても、俺も高嶺も材料を切ったり混ぜたりという簡単な作業しか未だに出来ないのだが。そんな簡単な作業でさえ、涼音さんに出来上がりの確認をとらなければならない。
こうして改めてバイトを再開すると、料理とお菓子作りは全くの別物だと思い知る。アレンジを加える事で美味しさを増す事が出来る料理と、ほんの少しでも割合を間違えればバランスを崩し、美味しくなくなるお菓子。
料理とお菓子作りは別だと両親からも聞いていたし、知っているつもりではいたが、お菓子作りに触れれば触れる程、その違いを思い知っていく。
「…うん、オッケー。じゃあ後は私がやるから、千尋はあっちの食器の片付けをお願い」
「はい」
レシピ通りに作った生地が涼音さんのチェックを通り、次の指示が俺に渡る。その指示通り、洗い場に溜まった食器やらボールやらを洗い始める。
キッチン内に無駄な会話はなく、水が流れる音とかちゃかちゃと器具や食器がぶつかる音しかしない。
それぞれがそれぞれの作業に集中し、没頭する。そんな仕事をする側として理想的な空気の中、厨房で作業をする俺たち三人以外の声が聞こえてきた。
「柳君」
その声は俺の名前を呼ぶ。俺だけじゃなく、涼音さんと高嶺も声がした方へと視線を向ける。
「四季さん」
厨房を覗きながら俺を呼んだのは四季さんだった。四季さんは俺の方を見ながら続ける。
「そろそろ出ないと、一限に間に合わないわよ?」
「あ、もうそんな時間?」
時計を見上げる。時刻は十時を回り、長い針はもうすぐ2を差そうとしていた。
「うわ、やっば」
「私は先に出てるから、柳君も急いで着替えた方がいいわよ」
「あぁ。涼音さん、途中で悪いんですけど…」
「分かってる。早く行きな」
涼音さんの許可を貰ってから四季さんと一緒に休憩室へ。元々私服姿だった四季さんは先に外へと出て、俺は扉が閉まるのを確認してから作業服から私服に着替える。そしてロッカーから鞄を取り出してから休憩室を出て、裏口から外へと出る。
「─────」
出ようと、した。扉を開けた体勢のまま、目の前に立っている人物を見て固まってしまった。
「どうしたの?」
「いや…。先に行ったと思ってたから」
そこに立っていたのは先に大学へ行った筈の四季さんだった。固まった俺を目を丸くして見つめる四季さんは、俺の台詞に答える。
「わざわざ別々で行く程気まずい仲じゃないでしょ」
「…まあ、そうだけど」
四季さんはあっさりした様子でそう答えた。いや確かにその通りなのかもしれないが、俺の感覚がおかしいだけなのだろうか?
異性同士が一緒に大学に行くって、割と注目集めそうな気がするのだが。それとも四季さんはそういうのを気にしない方なのだろうか。
…気にしないんだろうな。というより、気にしなくなったんだろうな。普段から注目されまくってるから。
俺は四季さんとは違い、周囲の視線が気になる質ではあるが、ここで断って別々に行くというのもおかしい気がするし、素直に四季さんと大学に向かう事にする。
「そういえば、こうして四季さんと一緒に大学に行くのは初めてだな」
歩きながらふと思う。大学から店に行く途中で一緒になった事はある。店から一緒に帰った事もある。ただ、店から大学に一緒に行った事は今までなかった。
まあ学部は違うし、当然講義の時間も毎日同じ訳ではないため、別におかしくはないのだが。
「そうね。でもそれって、柳君がさっさと大学行っちゃうからじゃない?」
「はい?」
「柳君はいつも時間になったらすぐに大学に行っちゃうじゃない。今日は珍しく時間に気付かなかったみたいだけど」
「…」
四季さんに言われて思い返せば、確かにその通りだった。そういえば俺、時間になったらすぐに着替えて一人で大学に行ってたわ。
「高嶺君とは一緒に大学に行ってるのにね」
「まあ、あいつとは時間になったら一緒に着替えるしな。一緒に行く流れになる」
高嶺とは男同士だしな。まさか四季さんと一緒に休憩室に入る訳にはいかない。
いや、でも四季さんは今日みたいに大学が朝からある日は制服ではなく私服で仕事をしているから、着替える必要はない。それなら別に問題はないのか?四季さんが外に出てから着替えれば別に疚しい事は何も起きない訳だし。
「…」
歩みを進める毎に、恐らく目的地が一緒だと思われる若者の数が増えていく。そして若者の数が増えていく度に、こちらに向けられる視線が増えていく。
隣を歩く四季さんを横目で見る。別段、気にしている様子は見られない。いつも通りに、普通の歩調で、普通の表情で歩いている。やっぱり、これだけ美人だと注目され慣れてるんだろうな。
「ん?どうしたの?」
俺がじっと見ている事に気が付いた四季さんがこちらを見上げて聞いてくる。
「いや、美人だなって」
その問い掛けに、俺は即座に答えた。特に何も考えもせず、さっきまで思っていた事の
「…え」
「あ」
しまった、と思っても遅い。四季さんの顔が戸惑いと羞恥の色に染まっていく。
「違う、まだ続きがある。四季さんほど美人だと、注目されるなんて日常茶飯事なんだろうなって思ったんだよ、うん」
「え?…あぁ、そういう事」
慌てて台詞の続きを口にする俺から周りを見て、四季さんは俺が言った事の意味を察したらしい。
僅かに顔に羞恥の色を残したまま溜め息を吐いて、口を開く。
「まあ、そうね。でも、知らない人達の視線を浴びるって、結構疲れるのよね…」
「そうなのか?慣れてるように見えたけど」
「周りを気にしても疲れるだけだから、気にしないようにしてるの。気にしなければ、注目浴びてるって気付かないしね」
「ふーん」
美人も大変だ、と辟易した様子で語る四季さんを見て思う。というか、あれか。俺がこの話題を出さなければ、四季さんは向けられる視線に気付く事なく、普段通りでいられたという事か。俺のせいで、無駄に疲労してしまうという事か。
「何か、ごめん。言わなきゃ良かったな」
「うぅん。私の方こそ、ごめんね?私のせいで注目浴びて、柳君も疲れるでしょ?」
「…まあ、注目浴びるのは苦手だけど、四季さんのせいじゃないからな。謝らなくていい」
「…ありがと」
信号が赤になり、並んで立ち止まる。一旦そこで会話が途切れると、背後で誰かが立ち止まる足音がした。
すると、僅かに聴こえてくる話し声。
「なぁ。あれ、四季さんだよな?」
「あぁ。…男と一緒に歩いてるな」
「誰だ?」
「分からん」
間違いなく四季さんの耳にも届いているだろう。しかし四季さんは反応しない。こういった自分に関する話が聴こえてくるのにも慣れているのだろうか。
…本当に、美人が過ぎるのも大変なんだな。
しかし、こんな風に自分と関わりのない人に名前を知られ、挙げ句友人と歩くだけでああやって変な注目を受け、怖くはないだろうか。俺だったら普通に怖くて外に出られなくなりそうだ。
いや、それは流石に盛ったが。
「すげぇな、四季さんて」
「え?急になに?」
「いや、こっちの話」
信号が青になる。可愛らしく首を傾げる四季さんを置いて歩き出すと、四季さんが慌てて俺の隣まで追い付いてくる。
「ねぇ、そんな風に言い淀まれると気になるんだけど?」
「ただ四季さんは凄いなって思っただけだって」
「…意味分からない」
「分からなくて良い」
四季さんが拗ねた風にこちらを見上げる。その視線を意識的に無視して、前を見続ける。
「柳君」
「やだ」
「まだ何も言ってない」
「やだ」
「…そんなに私に言いづらい事を考えてたの?」
「四季さんに嫌な事を考えた訳じゃない。でも言わない」
だって、言える筈がないじゃないか。
四季さんに直接、それもまた、
「何故教室に入って早々俺は連行されてるんだ?」
横長の机の真ん中の席に座らされ、周りを囲む男共の中心にて、俺はごく自然に湧いた疑問を口にした。
キャンパス内に着いてから、四季さんとは別れて別の棟に向かった俺は、一限目が行われる講堂に来た。
そして、講堂に入った途端、即座に昭久含めた友人達に、加えて数度言葉を交わした程度の相手にまでも周りを囲まれ、あれよあれよという間に今、俺が座っている席にまで連行されてしまった。
俺を囲む男共の殆どがギラギラと殺気立っており、昭久に関してはそれはそれは面白そうにニヤニヤしながら俺の姿を眺めていた。
男達によって描かれた円形の外側からも、チラチラと視線が注がれる。いや待て。本当に何があった。心当たりがまるでない。いや、一つだけあるにはあるのだが、それが広まるにはあまりに時間が少なすぎる。だから、当然俺はそれ以外の心当たりを記憶の中から探るのだが。
「これを見ろ、柳」
その一つだけ思い当たった心当たりが、見事に的中した。
一人の男が俺に向けてきたスマホの画面に写っていたのは一枚の画像。一組の男女が並んでどこかの、というよりすぐそこの街を歩く後ろ姿だった。
「何で」
「ライムで出回ってるぞ」
「訴えたら勝てるんじゃね、これ。ちょっと四季さんに相談してくるわ」
「まてまてまてまてまてまて」
流石に訴えられるのはまずいと思ったらしい。席を立ち上がった俺の肩を数人が掴み、慌てて席に押し戻す。
「盗撮だろ、これ」
「俺が撮った訳じゃねぇし」
「俺はお前に事の次第を聞いたら消そうと思ってたし」
「誰も友人が盗撮されてる事態を心配する優しさを持っていない現実が悲しいよ」
そっぽを向く阿呆共。
「って、そうじゃねぇんだよ。何なんだよ、この画像は」
「…見ての通りだが」
「じゃあ、噂は本当なのか!?お前と四季さんが付き合ってるって!」
「はぁ?」
思わず大きな声が漏れた。何だその噂は。というかさっき四季さんと歩いていたあの時間からよくもまあ、ここまでこんな下らない噂が出回ったものだ。怒りを通り越して、呆れをも通り越して感心するぞ。
「付き合ってない」
「それは本当か?」
「本当だ」
「思えばよ、前から怪しかったんだよ。ほら、あっただろ?四季さんがお前に話があるって呼びに来た事。あれは告白とかじゃないのか?」
「…あー、あったなそんな事」
そういえば、四季さん達にバイトに誘われて断った翌日、四季さんがこいつらの前で俺に話をしに来た事があった。
なるほど。ただの噂だと、出鱈目だと聞き流せなかったのはその件があったからか。結局あれから、四季さんと何を話したのかこいつらには伝えてなかったし。これは俺にも責任がある…か?いや、ないだろ。マジで盗撮犯許すまじ。
「俺と四季さんは同じ職場でバイトしてんだよ」
「…バイト?」
「お前らが言う呼び出しも、バイトについての話をしようって事だったんだ」
「…本当か?」
「今のお前らに嘘を吐く方が俺は怖いよ」
男共の視線に晒される。あー嫌だ。気持ち悪い。
そういえば、俺の方はこうやって尋問を受けてるけど、四季さんの方はどうなってるんだろうか。多分、だいぶ広い範囲であの画像が出回ってるだろうし、こんな風に質問責めにあってなきゃ良いけど。
「…そうか。バイト仲間か」
「でも、朝から一緒に大学行く程の仲なんだろ?」
「まあ二人で歩く事に抵抗はないな。でも、今日一緒に来たのだって、職場からだぞ?」
「は?そんな朝から働いてんの?」
「お前のバイト先ってコンビニだろ?二人揃って夜中にシフト入れてんのか?」
「…」
あー、思い出した。前に四季さんに話があるって呼ばれた次の日に受けた尋問を誤魔化す際、適当にコンビニでバイトしてるって言ったんだった。
これはもうどうしようもないな。素直に言うしかないだろ。
「すまん。コンビニでバイトしてるっての嘘」
「は?」
「本当はカフェでバイトしてる。朝から働いてんのは、仕込みの手伝い」
「はぁ?」
「カフェでバイト?お前が?」
滅茶苦茶意外な目で見られる。俺がカフェで働くのはそこまで意外なんだろうか。
…意外だろうな。俺もそう思う。
「てか、何でそんな嘘吐いたんだよ」
「だってお前ら、俺が働いてる店に冷やかしに来るだろ」
「…」
「ほら黙る。それが嫌だったんだよ。俺も、店主も。ていうか、さ」
昭久の方を見る。
「昭久には言ったんだけど、聞いてなかったのか?」
「…草野?」
「いやぁ~。あまり周りに言い触らすのは千尋が嫌がりそうだったからさ」
「…まあ、あんま文句は言えねぇけどよ。事実、冷やかしに行くかってノリになってただろうし」
「納得してくれたようで何よりだ」
隠し事はバレてしまったが、あまり騒ぎにはならないまま尋問をやり過ごせたという事でよしとしておこう。
「それで、何て店で働いてんだ?」
「やっぱ、女性客が多いのか?男同士で来る客っている?」
「…お前ら、冷やかしはやめろって言ったよな」
「いや、お前さっき朝は仕込みって言ってただろ?つまりお前、厨房で働いてるんだよな?」
「一友人として、お前が作る味に興味がある。てか食ってみたい。何かおすすめある?」
尋問は終わったが、質問責めは終わらなかった。それから教授が来るまで俺はひたすら店の事で質問を受け続けた。
やっぱり、こいつらに店の事を教えたのは早計だったかもしれない、と少し後悔した。
ふと気になったのでアンケート