基本原作の流れそのままですが、最後にフラグを建ててます
週が明けて月曜日。前日に祝日と日曜日が重なったのもあって、今日は振り替え休日。俺達学生組が三日連続で全員集合である。
今日はユイナちゃんに頼まれたケーキを受け取りに来る日だ。まあ、それは以前までの予定で、今は少し趣向を変えているのだが。
「今日ですよね。ユイナちゃんが来るのは」
「あぁ。そして、店を閉めてからはここで誕生日会を開くのだったな」
明月さんとミカドが確認し合う。その台詞通り、これからユイナちゃんがこの店に来る。そして、店を閉めてから、ユイナちゃんのお父さんの誕生日会を開く予定である。
まだ開店前だが、俺達はフロアでユイナちゃんが来るのを待っている。どうしてそうなったのか、理由は少し前。ショッピング施設でユイナちゃん達と偶然会った時に遡る。
『お父さんの誕生日ケーキ作りに、ユイナちゃんを参加させてみませんか?』
そんな台詞が出たのは、このままでは不味いと直感したからだ。ユイナちゃんの頼み通りに涼音さんがケーキを作り、ユイナちゃん達がそれを受け取り持って帰り、そしてお父さんにケーキをプレゼントする。
勿論、ユイナちゃんが用意したケーキを喜んで素直に食べてくれる事だって考えられる。ただ、あの人の悩みぶりから考えて、食べて貰えない可能性だって当然考えられる。
だから、その提案をしてみた。自分のために娘がケーキ作りを手伝ったと聞けば、父親として間違いなく嬉しいに違いない。娘の手が加わったケーキを食べないという選択をとりづらくなるに違いない。
そんなちょっと汚い打算込みの、善意とは言い難い理由から、俺はその提案を持ち掛けたのだ。
結果、ユイナちゃんは喜んでやりたいと口にし、お母さんも了承してくれて今日に至る。
「ユイナちゃんは開店前には来るのよね?」
「はい。だからそろそろこ来る筈ですが─────」
時計を見上げながら涼音さんの問い掛けに答える途中、開店前にも関わらず来客を知らせる鈴の音が鳴った。全員が音の鳴った方へ振り向く。
「おはようございます!」
そこには元気よく挨拶をしながら店の中へ入ってくるユイナちゃんの姿があった。ユイナちゃんはぺこりとお辞儀してから、俺達が集まっている方へと駆け寄ってくる。
「今日は、よろしくおねがいします」
「こちらこそ、手伝いよろしくね」
今度は涼音さんの方へお辞儀をする。涼音さんはユイナちゃんの挨拶に笑顔で返事を返し、そしてユイナちゃんを連れて早速厨房へと入っていった。
「さて…。これから涼音さんはケーキ作りに掛かりきりになるし、頑張るか」
「といっても一日中じゃないしな。それを考えれば、土日よりは楽かもしれん」
「あー、確かに…」
これから涼音さんはユイナちゃんと一緒にケーキ作りに集中する。前日までと違い、その間は俺達の手伝いをする事も出来ないだろう。
しかしさっき言った通り、閉店時間までケーキを作り続ける訳ではなく、多分昼までには作り終えるだろう。そうなれば、涼音さんはまたいつも通りに仕事が出来る。
その事を考えると昨日までの、ケーキ作りの練習のためにほとんどの時間を費やしていた時の方がきついかもしれない。あの時はほぼ俺と高嶺の二人で仕事を熟していたようなものだったからな。
それに休みの日とはいえ、混み始めるのは昼食時辺りだ。つまり、混み始める時には涼音さんの手が加わっている。あ、本当に楽そうだ。いや三人体制でも混雑時はかなり忙しいのだが。ほぼ二人体制で乗りきった昨日、一昨日を考えると楽そうだと思えてしまう。
その予想通り、涼音さん達がケーキを作り終えるまで特に問題もなく、俺と高嶺の二人で…どころか、これならどちらか一人でも問題なかったのでは、とすら思えるほどにすんなりと涼音さんがいない時間を乗り切った。
その後はユイナちゃんにオムライスをご馳走し、交代して休憩をとりながらユイナちゃんにはバックルームで待ってて貰い、やがて外が暗くなり始める。そして最後のお客さんを見送ってから店を閉め、その人が来るのを待つ。
「…急患とか入らなければ良いな」
「フラグを立てないでください…」
予定ではそろそろ来ても良い頃なのだが、少し遅れている。ふともしや、と頭に浮かんだ考えを呟くと、その呟きを聞いていた明月さんに苦笑しながらツッコまれた。
そんなつもりではなかったのだが、むしろ心の底からそうならないでほしいと思ったからこそ漏れた呟きだったのだが、確かにフラグになりかねない行動だった。反省。
実際のところ、連れてくるのに手こずっているか、はたまた仕事が少し遅れてしまったかのどちらかだろう。俺の考え通り急患が入っていたならば、連絡が来ている筈だ。勿論、いつ患者が来るか分からない以上、これから来る可能性だって否めないが。
それは言葉に出さずに心に留めておこう。本当にフラグになってしまう。いや、もう遅いかもしれないが。もし来れなくなったりしたらユイナちゃんに謝ろう。何で謝るのか分からず首を傾げられるだろうが。
そうして待つこと数分、俺だけじゃなく他の人達も大丈夫かと心配の気持ちが湧き始めたその時、店の扉が開き、来店を知らせる鈴の音が鳴り響いた。この音は厨房にいるユイナちゃん達にも届いているだろう。
入ってきたのは一組の男女。彼らが夫婦である事を俺達は知っている。
女性の方が一歩前に出て、俺の方を見る。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。今日はここで待ち合わせの約束をしているのですが」
「はい。もう少々お待ちください」
女性、ユイナちゃんのお母さんと言葉を交わしてから、恐らく二人が来た事はもう知っているだろうが念のために厨房へ向かう。
「あの、来ましたよ」
「うん、分かってる。はい、ユイナちゃん。転ばないように気を付けてね?」
「ありがとう、誘拐犯のおねえちゃん!」
俺が厨房を覗いたのは、丁度ユイナちゃんがお父さんへ送るケーキを四季さんから受け取っていた時だった。
ユイナちゃんは笑顔で四季さんを犯罪者呼ばわりしつつお礼を言い、ゆっくり気を付けて歩いて厨房を去っていく。
「…誘拐犯じゃない」
「諦めも肝心だぞ」
きっと、四季さんの心からの訴えは届いていない。何故なら、フロアへと出ていったユイナちゃんは今、お父さんにバースデーソングを歌っているのだから。
それに、四季さん=誘拐犯のおねえちゃん、と呼び方がユイナちゃんの中で固まってしまっている以上、今すぐ呼び方を直させるのは不可能だろう。少なくとも、本当の意味で誘拐犯とは何なのかを理解するまでは。恐らく、数年は掛かるに違いない。ユイナちゃんとの交流がどこまで続くかは分からないが、もし続いた場合はずっとその間、四季さんは誘拐犯呼ばわりをされ続ける事となる。
「御愁傷様」
「他人事だと思って…」
「事実他人事だしな」
四季さんの視線には触れず、俺も厨房から出てフロアへ。そこで、後から続いて出てきた四季さんと皆と一緒に成り行きを見守る。
「パパ、おたんじょうびおめでとう!」
「ユイナ…?これは一体…」
突然、ケーキを持った娘がバースデーソングを歌いながら出てきたこの状況を呑み込めず、お父さんは目を白黒させている。
無理もない。何の事情も知らされず、ここへ連れてこられただろうから。
しかしそんなお父さんの心情を知ってか知らずか、ユイナちゃんは輝くような笑顔を浮かべて続けた。
「これ、パパのだいすきなケーキ!ユイナもおてつだいしたの!すごいでしょ!」
「ユイナが…。このケーキを?」
お父さんの目がユイナちゃんが握る皿の上に乗ったチーズケーキを見る。
「この子ったら、あなたのために色んなケーキ屋さんを探し回ったのよ。でも、見つける事が出来なくて。それを、このお店の方が特別に引き受けてくださったの」
「…そう、だったのか」
少しずつ状況を理解し始めた様子。少なくとも、自身の誕生日を祝うために行われているという事だけは理解できただろう。
「パパ、さいきん元気がなかったから…。このケーキを食べて、元気をだして!」
「ユイナ…」
娘を見つめる父親の目が僅かに潤む。口許が小さく緩む。ユイナちゃんが目の前に置いたケーキを見つめ、やがて皿の縁に載ったフォークを手に取り、ケーキに近付ける。
「─────」
しかし、もう少しでフォークがケーキにつく、という所で手が止まった。その顔はまた、以前この店に来た時と同じ、思い詰めた表情を浮かべていた。
「パパ?」
「…ごめん。ごめんな、ユイナ…」
悲観、悔恨、情けなさ。様々な感情が入り交じった表情で、父は娘に謝罪する。
出来ない、と。心を込めて作ってくれたであろうこのケーキを、食べる事が出来ない、と。
「情けないパパで…、ごめんな、ユイナ…」
辛うじて涙が流れるのだけは堪えているらしい。必死に笑顔を作ろうとしているその顔はぐちゃぐちゃになっている。
「パパ…」
「…」
ユイナちゃんとお母さんが、つられて悲しい表情になる。先程まで希望に満ちた明るい雰囲気だった店内が打って変わって、暗い雰囲気になっていく。
ダメなのか、と。ユイナちゃんの努力は、無駄になってしまうのか、と。
─────違う。こんな顔をさせるために、俺は今回の催しを提案した訳じゃない。こんな悲しい結末を産むために、ユイナちゃんはケーキを作った訳じゃない。
「─────」
一つ小さく息を吐く。呼吸と共に決意を固め、俺は足を悲しい顔をする家族の方へと向け、踏み出そうとする。
「?」
しかしそれは、手首が掴まれた感触に遮られた。後ろから伸びる腕。視線で追って背後に振り返ると、こちらを見つめる四季さんの姿があった。
「…」
四季さんは何も言わない。動きもしない。ただ、真っ直ぐに俺の目を見つめ、何かを伝えようとしていた。
「…」
踏み出そうとした足から力を抜く。前のめりになった体の位置を戻す。そんな俺の様子を見た四季さんは、俺の手首から手を離した。
どうやら俺の行動は四季さんにとって正解だったらしい。これが本当に四季さんの伝えたかった事なのかは分からないが、
「たべないの?もしかして病気?」
「そう、かもしれない…。折角作ってくれたのに、ごめんな」
「ううん、ケーキはまたつくればいいから。あとね、パパのことはユイナが治してあげるからね!」
その台詞は、子供故に出てきたものなのかもしれない。しかしある意味、病気というのは的を射ていた。父は娘の言葉を否定せず、ただ自身の情けなさを謝り続ける。
それに対してユイナちゃんは言った。このケーキを食べなくても構わないと。だが、父が掛かってしまった病気を治してみせる、と。
「ユイナはおいしゃさんになるの!だから、パパのことはユイナが治してあげる!」
「ユイナが…、医者に…?どうして?」
小さな娘が口にした大きな目標を聞いたのは初めてだったのか。本来なら喜ばしい台詞だが、それよりも先に驚きが勝ってしまったらしい。
呆然と聞き返す父に、娘が高らかに、自慢気に言う。
「ユイナはね、パパみたいなおいしゃさんになるの!みんなにありがとうって言われる、すごいおいしゃさんになるの!」
「ユイナ…」
「そうだ!プレゼントはまだあるの!」
ユイナちゃんが上着のポケットから包装された何かを取り出す。それは、以前にショッピングモールで会った時に見せて貰ったもの。
「はい!」
「これは…、開けても良いかい?」
「うん!」
包装紙を丁寧に、破かないように開けていく。やがて中身が見え、その中身を取り出す。
「ネクタイ…」
「これをつけて、これからもお仕事がんばってください!」
娘からの笑顔と応援を受け取り、果たして父は何を思うのか。
力を貰うのか、それとも小さな娘に気を遣わせてしまった事への後悔を浮かべるか。
「ありがとう…。本当にありがとう、ユイナ…。そうか、ユイナは医者になりたいのか」
「なるよ!」
「そうだな。…頑張らないとな。ユイナの目標になれる、立派な医者になれるよう、頑張らないと」
「パパはもうユイナの目標だよ!」
その答えは前者だった。父は娘の笑顔から、前へと踏み出す力を貰った。
これからも頑張れる、勇気を娘から受け取ったのだ。
「そうだ。ケーキを食べないとな」
「え…。病気はもういいの?」
「あぁ。ユイナのお陰で治った。ありがとう、ユイナ」
「うん!」
フォークを握った手は、ケーキの方へと向かい、やがてフォークが柔らかなケーキに沈み込んでいく。
ケーキを掬い、口へと運ぶその動作は、先程までの躊躇を全く感じさせない。
「…おいしい。とってもおいしいよ」
「ほんとう?」
「あぁ、本当さ。…ユイナはパティシエの才能もあるかもな」
「えー?でも、ユイナはおいしゃさんになりたいなぁ~」
「ははっ、そうかそうか」
完全に娘の笑顔にデレデレ親バカの顔だった。フォークを握っていない左手でユイナちゃんの頭を撫でてから、自分の隣の席を引いて、ポンポンとそこを掌で叩く。
「ほら、ユイナも一緒に食べよう。…お母さんと一緒に、皆で食べよう」
「うん!ママ、ユイナたちもいっしょに食べよう!」
「えぇ…。そうね、食べましょう」
娘と父とのやり取りに何を思っていたか、それはその目に浮かぶ涙が物語っている。
きっと、家族を包んだこの悩みはとても大きかったのだろう。だからこそ、今がとても輝いて、眩しく見える。
ケーキを家族で囲み、笑顔で父の誕生日を祝う家族の姿は、ただ見ているだけの俺達すらも笑顔にさせるほど、綺麗に見えた。
「みなさん、ありがとうございました!」
誕生日パーティーはお開きとなり、俺達はユイナちゃん達を見送るために外に出ていた。
両親がミカドと涼音さんの四人で大人の会話をする中、ユイナちゃんは少し離れた所で俺達学生組に向かってお辞儀をする。
「よかったね。パパが元気をだして」
「はい!」
ユイナちゃんの前でしゃがみ、目線を合わせながらそう言ったのは火打谷さん。
ユイナちゃんはそれはとても嬉しそうに笑いながら大きく頷く。
「おにいちゃんと誘拐犯のおねえちゃんのおかげです!」
「ん?」
「え?」
すると、ユイナちゃんは俺と四季さんの方を向いてそんな事を口にした。どういう意味か理解しきれずつい疑問符を浮かべていると、ユイナちゃんは更に続けた。
「お店のまえにいたユイナをみつけてくれて、ありがとう!」
「「…」」
何の意味もない。ただ、そんな純粋無垢な台詞に反応に困ってしまい、つい隣の四季さんの方を向いてしまった。
そして、四季さんの方も俺と同じだったらしく、同じタイミングでこちらに向いた目と俺の目が合う。
「「─────」」
微笑が零れた。俺達は火打谷さんと入れ替わる形でユイナちゃんの前でしゃがんで視線を合わせる。
「またな、ユイナちゃん。次に来た時は俺がオムライスを作ってやる」
「今日食べたオムライスと同じくらいおいしいから、期待していいからね?」
「はい!また来たときは、おにいちゃんのオムライスをたべます!」
まずは四季さんが、そして次に俺が、交代でユイナちゃんの前で頭を撫でてから、折っていた両膝を伸ばして立ち上がる。
「ユイナー。帰るわよー」
「はーい」
お母さんからユイナちゃんに声が掛かったのはその時だった。ユイナちゃんは返事をしながらお母さんとお父さんの方へと駆けていき、二人の間で立ち止まった。
「皆さん、本当にありがとうございました。また来ます。機会があれば、妻とユイナも連れて」
そう言って、家族は俺達に背を向けて家へと帰っていく。三人は手を繋ぎ、時折、父と母が娘を持ち上げるという微笑ましい姿を見せながら。
家族の姿が見えなくなってから、ミカドを先頭に皆が店の中へと戻っていく。俺と四季さんもそれに続いて店の中へと戻る─────前に、先に店に戻ろうとする四季さんに声を掛けた。
「なぁ。あの時、何で止めた?」
要領を得ない聞き方だったかもしれないが、四季さんにはそれで分かったらしい。
四季さんは振り返り、俺の目を見て、優しい声色でこう答えた。
「何となく、柳君ならこうしそうだなって思って」
「こうしそうって、何」
「自分から悪者になりに行きそうだなって。私の時もそうだったから」
「…」
完全に見透かされていたらしい。まあ、四季さんに対しての言動を考えたら見透かされるのも無理はないが。
「ほら、私達も戻ろう?風邪ひいちゃう」
「…あぁ」
十一月も下旬。夜になれば辺りは冬の寒さが顔を出し、今の俺と四季さんのような作業服姿やユニフォーム姿では寒すぎる。
特に四季さんの格好は生足が出ているから俺以上に寒さを感じているだろう。
四季さんが扉を開けて先に建物の中へ、そして扉を開けたまま俺の事を待っていてくれる。
俺も、四季さんが開けたままにしてくれた扉から建物の中へと入り、皆の元へと戻るのだった。
~Another View~
眠くなってしまった娘を背中に乗せて、父は家路を妻と共に歩く。
今日は、父にとって人生で最良の日といって良かった。ずっと胸を蝕んでいた悩みを妻と娘が解消してくれ、心からこの女性と一緒になって良かったと。ユイナが産まれてくれて良かったと、そう思えた日だった。
「なぁ」
「ん?どうしたの?」
「…今まで苦労を掛けて、すまなかった。それと…、ありがとう」
「…どういたしまして」
妻は微笑み、言葉少なく返事を返した。自分の気持ちは全て伝わったと、そう思いたい。
「…」
そう、とても良い日だ。今日のお陰で、また自分は頑張れる。そう思う。
しかし─────引っ掛かる事もあった。断じて自分の気を害したとか、そういう事ではない。
ただ、あのお店にいた従業員の中で見覚えのある顔があったのだ。
もう、十年くらいも前の事。まだ自分が医者になりたてだった頃。それこそ、妻とまだ結婚していなかった頃だ。
それだけの時が経っても未だ色褪せない、苦い思い出がある。といっても、その思い出は自分が何か辛い目に遭ったという訳ではなく、自分は第三者の視点で見ていただけだったのだが。
『アンタが、母さんを殺したのよ!!!』
涙を流しながら怒り心頭といった表情で、尻餅をついた少年を見下ろす女性。その少年の傍らには両親と思われる男女が寄り添い、怒る女性はその夫と思われる男性に押し止められていた。
印象的だったのは、少年の目だった。叩かれて赤くした頬を押さえもせず、呆然と虚空を見つめる少年の目。子供がしてはいけない目をしていたその姿が、十年程経った今でも、忘れられない。
「あなた?どうしたの?」
「っ…いや、何でもない」
ぼーっとしていた自分を心配そうに妻が見ていた。慌てて笑顔を浮かべて大丈夫な事を伝える。
家族に隠し事をするようで少し嫌だが、他人のプライベートを、それ以前に本当にあの男性があの少年だったのかも分からないのに、話す訳にはいかない。
(確か…何といったかな)
その少年の名前を思い出そうとする。あの時亡くなったのは少年の祖母で、いつも優しい笑顔を浮かべて、自分達医者や看護師達にも分け隔てなく接して。そして、当時入院していた子供達にとても人気だった。
(─────あぁ、そうだ)
やがて、思い出す。フルネームまでは思い出せそうにないが、どうにか苗字は記憶に呼び起こす事が出来た。
(柳。確か、柳っていったな)
今度お店に行った時、彼の名前を聞いてみよう。さすがにそんな偶然がある訳がないとは思うが…、念のために。