「おーい、千尋ー」
「…」
頭上から俺を呼ぶ声がする。が、無視。返事をする気力がない。俺は机に突っ伏したまま動かないでいた。
「千尋君ー?」
「…」
大学の昼休み明けの三講目。講義が始まる十分前に大学にやって来た俺は今日の最初の講義であり、同時に最後の講義である外国語を受けるべくここにいる。
いるのだが──────
「千尋ちゃーん?」
「ちゃん付けで呼ぶんじゃねぇ」
「うおっ、生きてた」
「そんで勝手に殺すんじゃねぇ」
首だけ動かして、ずっと俺に呼び掛け続けていた相手、昭久を見上げる。
「どうしたよ。座るや否や、怠そうに突っ伏して。体調でも悪いのか?」
「いや…。体調は平気だ」
「なら何だよ」
「…」
言えない、言える訳がない。あの大学のアイドル的存在、四季ナツメに昨日、暴言を吐きまくったなんて。
そう。一日過ぎても未だ、俺の心の傷は癒えていなかった。
いや、俺の傷なんてそう大したものでもないか。もしかしたら、四季さんの方がもっと心を痛めているかもしれない。いや、もしかしたらじゃなく──────
「お?」
そこまで考えたその時、突如講堂内がざわつき始めた。それだけじゃなく、昭久もどこか…というより、出入り口の方を見て目を丸くしている。
「…っ」
俺も昭久の視線を追って出入り口の方を見る。
そこに立つ人物を目にして、俺は息を呑んだ。
「四季さんだ」
「あぁ、四季さんだ」
「この講義受けてなかったよな?」
「受けてないっていうか、学部違うから一緒には受けないだろ」
「なら、誰かに用とか?」
周囲の話し声が耳に入ってくる。その中の台詞である通り、四季さんがいる学部はこの時間には外国語の講義はない。だから、四季さんがこの場にいる必要はまるでないのだが。
──────なら、誰かに用とか?
「…」
「…あ」
もしや、とある可能性が過った瞬間、視線が合った。まずい、と視線を外すも時既に遅し。背後から足音が近付いてくる。
その足音の主が誰なのか、言うまでもないだろう。
「あの、柳君」
「…」
四季さんが俺の傍で立ち止まり、声を掛けてくる。やはり、ここに来た目的は俺にあるらしい。そしてその目的はまず間違いなく、昨日の会話に関係しているに違いない。
というか、痛い。視線が痛い。反対側からの視線はともかく、明久の方からの視線も痛い。昭久シールドが役に立たないっていうか昭久からの視線も痛い。
おい、お前は俺を守れよ。盾になれ。
なんて心の声が昭久に届く筈もなく、昭久だけでなく講堂にいる学生達の視線を受けながら、四季さんが口を開いた。
「今日の講義は何講までなの?」
「これで終わりだけど」
四季さんの表情が僅かに固くなる。これは緊張、或いは不安か、詳しい所までは知らないが、次に四季さんの口から出る言葉は、彼女にとって重要であろう事は予想がついた。
「…柳君に、話したい事があるの。講義が終わったら、お店に来てほしい」
話したい事。もしや、告白!?なんていう期待は一切湧かない。
俺なんかに告白する物好きなんてそういる訳ないし、大体四季さんの顔を見ればそんな浮わついた話ではないのは火を見るより明らかだ。
「分かった。…ただ、少し遅くなるかもしれないけど、許してくれ」
「…?何か、用事があるのなら明日でも…」
「そういう訳じゃないから安心していい。とにかく、俺の事は気にしないでいいから。店には必ず行くから」
「…それなら良かった。待ってるから」
そう言って、四季さんは小さく手を上げる。俺も手を上げ返し、それを挨拶として四季さんは講堂から去っていった。
四季さんの姿が見えなくなるまで見送ってから、俺は机に頬杖を突く。
さて、と──────
「ちーひーろくーん?」
「…なーあーにー」
「お前、いつの間に四季さんと仲良くなってんだよ。隅に置けねぇなー、このー?」
「別に、そんなんじゃない。断じてない。だからお前ら前を向け。俺の方を向くな。話せる事は何にもない」
この女に飢えた(一人を除いて)男共を撃退しなければなるまい。
講義が終わった瞬間、急いで資料を片付けて講堂を出た。昭久に止められる事なく脱出に成功、すぐにキャンパスを出てお店に向かう。
…明日が怖いな。きっと問い詰められるんだろうな。別に疚しい事なんて何もないのにな。昭久はまあ、彼女いるし面白がられるだけで済むけど他の奴は…、本気の殺意向けられそう。嫌だなー…。
そんな事を考えながら歩いている内に住宅街に入る。ここまで来れば店までもう少しだ。多分。その筈。
一度しか来ていないため、道が合っているか今一自信がない。一応、周りの風景に見覚えがある気がしないでもないのだが。
「…あぁ、こっちだ」
交差点を左に曲がる。この道を真っ直ぐ進んで左手の所に店があった。はず。
そうして歩いていくと、それらしき建物が見えてきた。文字までは見えないが、看板がついているのは見える。恐らく間違いない。ちゃんと道を間違えずに来れたらしい。
店の看板を見上げながら入り口の前に立つ。
『CAFE STELLA』
この店名を考えたのは四季さんだろうか。それとも、以前にこの店を使っていた人が考えたのか。この店名を考えた人は、どんな思いを込めて名前をつけたのだろう。
「…まあ、俺には関係ないか」
バイトの件は断ると決めたのだから。いや、この店がオープンした際には通い詰めると決意してはいるが。
関係ない思考を止めて、扉の取っ手に手を掛ける。手を引けば、ガチャリと音を立てて扉が開く。
「…」
そして、扉の奥の光景を見て、俺は呆気にとられた。
「あ…。早かったね。遅くなるかもって言ってたから、もう少し時間掛かるかと思ってた」
扉が開く音に振り向いたメイド服姿の四季さんが、驚いたように目を丸くしてこちらを見ていた。
メイド服姿の四季さんが、こちらを見ていた。
メイド服姿の四季さんが、だ。
「…メイドだ」
「あー…。あんまりじろじろ見ないでほしいかな…。恥ずかしい…」
「…ごめんなさい」
僅かに頬を染める四季さんにすぐに謝罪する。確かに目を奪われる姿ではあるが不躾に見すぎた。
いや、しかし…。この姿は一体?
「…もしかして、制服?」
俺の質問に四季さんが頷く。
丈が長いメイド服に白いエプロン、頭にはカチューシャ。萌え萌えーなミニスカメイドではない。その清楚な印象は四季さんにマッチしていた。
俺がメイド好きだったなら、今頃どうなっていた事か。吐血してたかもしれん。
「で…。何で制服?」
そう。四季さんの格好の衝撃が強すぎたせいで思考がズレまくったが、問題はそこである。
話があると俺を呼び出したのは良いが、何故に制服なのか。
「…その方が、私の覚悟が伝わると思ったから」
「─────」
言葉が詰まる。
何だ、つまりあれか。もしやこの女、昨日の言葉に触発されちゃったりしたのか。
「へぇ」
あ、まずい。悪い癖が出てる。今絶対悪い笑みが出てる。でも、仕方ないじゃん。愉しいんだから。
人が変わる所を目の当たりにするのは、何度経験しても慣れない。それが成長だったとしても、堕落だったとしても。
さて、四季さんは何を聞かせてくれるだろう。見せてくれるだろう。成長か、それとも堕落か。
…めっちゃ上から目線になってんじゃん。抑えろ俺。
「柳君に言われて、気付いたの。私は色んなものが足りてなかった。その中で一番足りてなかったのが、この店を経営していく覚悟なんだって」
昨日の四季さんの様子を思い出す。この店の改善点を指摘しても自信なさげにして、本当にこの店を開こうと、良くしていこうという気があるのか分からないあの態度を。
「昨日、思った。私はこの店を開くべきじゃないのか。もしかして、大屋さんは柳君と同じ事を思って、今まで許可を出さなかったんじゃないのか」
さて、その大屋さんがどういう真意を持って今まで開店の許可を出してこなかったかは知らない。案外、四季さんの出すドリンクや明月さんの料理が気に入らなかっただけかもしれない。
ただ、ぶっちゃけ味なんて最低限で良いのだ。勿論拘るに越した事はない。だが、最重要という訳でもない。一番はこの場所で、客が落ち着いて、或いは楽しく過ごす事が出来るか。
それを知っている人ならば、俺と同じ事を感じているかもしれない。意味のない仮定だが。
「…それでも、諦めたくない」
「…」
「私は、このお店を絶対にオープンさせる。それが私の夢だから」
「夢、ね…。可愛らしい表現をするじゃないか」
「…馬鹿にしてる?」
「逆。むしろ尊敬するよ。この年になって、夢を叶えようと本気で努力しようとする人間なんて、ほんの一握りだろ」
これは心の底からの本心だ。二十歳を越えて成人した大人が夢を抱き、それを実現させようとするなんて、そんな事はそう出来る事じゃない。大多数がその夢を不可能と諦め、捨ててしまうだろう。
かくいう俺も、その大多数側の人間だ。四季さんを馬鹿にする資格なんてない。
「…つまりあれか。四季さんの夢は、その服を着てウェイトレスをする事なのか」
「っ…!こ、これはっ」
四季さんは言った。この店を開く事が夢なのだ、と。メイド服姿で。つまりそれは、そういう事なのだろう。
四季さんの真っ赤な顔が、言葉なくとも物語っている。
「わ、笑わないで!」
「いや、馬鹿にしてる訳じゃ断じてない。ただ微笑ましいだけ」
「そっちも止めて!」
四季さんに真っ赤な顔で睨まれる。
何だろう、この感覚。俺ってノーマルの筈なんだけどな。
「ぐぬぬぬぬ…っ」
唸る四季さん見てるとこう、くすぐったいというか…、もっと唸らせてやりたいと思ってしまう。
まさか…、これが、恋…!?
な訳ないか。馬鹿なこと考えるのは止めよう。今は真面目な話の途中だ。真面目な空気が消えたの完全に俺のせいだけど。
「えへん…。それで?俺にその話を聞かせる理由は?覚悟が決まったなら勝手にすれば良い。ていうか、時間ないんだし、俺と話してる暇はないだろ」
無理矢理に話題を戻すと、四季さんも軽く咳払いをしてから気持ちを落ち着かせ、こちらを向いた。
まだ僅かに頬に赤みが残ってるのが微笑ま…いけない、また悪い癖が。
「…まず、私の覚悟が足りない事を教えてくれた貴方にお礼が言いたかったの。…ありがとう」
俺の内心には気付かず、四季さんは微笑みながら俺にお礼を言う。
「…え、え?どう…いたしまして?」
「…どうして驚いてるの」
「いや…。だって、なぁ…」
まさか感謝されるとは微塵も思ってなかった。むしろ─────
「文句やら罵声やら浴びせられるとばかり…」
「私はそんな人間に思われてたんだ?ショックだなぁ~…」
「いや、会ったばかりの人にあんな事を言われて、それでお礼を言う四季さんがおかしい」
人が好すぎる。何だこの人。いや、あの時言葉に込めた気持ちが届き、役に立った事は嬉しいが。
「むしろ俺、四季さんに謝ろうと思ってたし」
「どうして?」
「いやだから…、言いすぎたって思ったし」
「まあ確かに、言われてすぐはショックで動けなかったかな」
「ぐっ…」
胸に言葉の矢がクリーンヒット。あぁ心が痛い。
それを知ってか知らずか、四季さんは笑顔のまま続けた。
「でも、私の覚悟が固まったのは、柳君のおかげ。だから…、ありがとう」
「─────」
それは、今まで見てきた笑顔の中で一番綺麗な笑顔だった。
あぁ、今まで四季さんにまつわる噂は全部大袈裟だと聞き流していた。でも、この笑顔を見て思う。
そりゃモテますわ。何度も告白されますわ。あの美貌で性格も良いとか、やっぱ神って不公平ですわ。特定の人に与えすぎですわ。
「それで…、柳君に頼みたい事があるんだけど…」
「は?…頼み事?」
「えっと、頼み事というか…。もう柳君に頼まれてる事を繰り返すというか…えっと…」
「?」
急に四季さんの言葉が要領を得なくなった。当然、俺には四季さんが何を言いたいのかさっぱり分からない。
四季さんが落ち着いて話してくれる事を待つしかない。
「すぅー、はぁー」
四季さんが深呼吸する。そこまで言いづらい事なのか、はたまた大事な事なのか。
俺の方にも四季さんの緊張が伝わり始めた時、四季さんが俺を見据えた。
「柳君。…このお店で、働いてくれませんか」
「…」
そして四季さんは、昨日、ミカドが俺に言った台詞と同じ言葉を口にした。
「はい?」
「…」
「…」
「…な、何か言ってよ」
「いや…」
お礼を言われた時もそうだが、何なんだこの人は。さっきから予想外の台詞ばかり言って。ていうか、昨日あんな事を言われた人に一緒に働いてなんて言うか?
「…もしかして、四季さんってマゾ?」
「…はぁ!?どうしてそうなるのよ!」
「だって、なぁ?昨日あれだけ言われたい放題された相手に一緒に働いてって頼むとか…、マゾとしか…」
「…」
「あ、目が怖い。分かった、四季さんはマゾじゃない。だからその目止めて」
四季さんの瞳が殺意の波動に濁り始めた所を見て、俺はこの件について言及するのを止める。
危なかった。もう少しで殺される所だった…。
「で、でも、何で俺?さっきも言ったけど、だいぶ酷い台詞を四季さんに浴びせたぞ?」
「それは私の覚悟が足りない事に気付かせようとしたからでしょ?」
「…」
どうやら結果的に四季さんが気付いたという訳でなく、言葉の意図まで悟られていたらしい。
何なんだこの人。人が好くて察しも良い。外見は言わずもがな。しつこいかもしれないが、神は本当に何て不公平なんだ。
「柳君には、これからも私に至らない所があったら、遠慮なく指摘してほしいの」
「…えむ」
「鈍器、持ってくる?」
「さーせん」
鈍器を持ってこられる前に頭を下げる。四季さんはため息を吐いてこちらを見る。
「勿論、柳君が嫌なら無理強いはしない。そんな権利は、私にはないから」
「…いや、そこはしろよ」
「え?」
「そういうとこだぞ。勿論、面識ない人に同じ事をしろって言ってる訳じゃない。そんなのは人として問題だからな。でも、四季さんの目の前にいるのはそうじゃないだろ?」
「…」
四季さんの目が見開かれる。驚愕に染まった表情はゆっくりと和らぎ、微笑みに変わっていく。
「…それなら、言い方を変える。柳君、このお店で働いてほしい。柳君が働くって言うまで引き下がらないから」
「…それは困った。仕方ないから、この店で働く事にするよ」
四季さんの微笑みに、俺も笑い返す。
こうして俺は、喫茶ステラで働く事となった。