少し残酷な描写があります。
気を付けてください。
寒い。今にも体が震え出しそうな程に寒くて仕方がない。
だというのに、それに矛盾して流れる汗が止まらない。
額から流れ出る汗が頬を伝う。背中に滲む汗が着ている服を濡らす。
拳を握り、全身に力を込めて体が震えるのを必死に堪えて虚勢を張る。
今この場で、この女神をどうにか出来るのは俺しかいないのだから。
「君らしくないな千尋。彼の前に私がいる理由なんて、一つしかないだろう?」
「…高嶺の魂の排斥」
「星からの命令だからね。君だって邪魔をすればどうなるか分からないよ?」
そう、彼女がここに、高嶺の前にいる理由は一つしか考えられない。そんな事、彼女の言う通り分かり切っている事だ。
それでも、聞きたかった。聞くしかなかった。何か言葉を口に出していないと、俺の意志に反して両足が勝手に後ろを向いてしまいそうだったから。
─────比べ物にならない…!
朔夜さんと向かい合いながら、前に獣と対峙した時と今を無意識に比べてしまう。
目の前の神から伝わってくる存在感は、獣と対峙した時に感じたそれとはハッキリ言って比べ物にならない程に大きく、強く、おぞましさすら感じる程。
本能が今すぐ逃げろと、彼女の邪魔をするなと叫ぶ。それでも、両足で踏ん張り、その場に居続ける。
欠けがえのない
「…千尋。私もね、君にはそれなりに思い入れがある。出来れば君に手を出したくはないんだよ」
「っ─────」
「私に君を殺させないでくれ」
願望とも脅しともとれる言葉を口にした朔夜さんが俺から視線を切り、高嶺と明月さんに向かい合う。
─────分かっている。俺が何をしても無駄に終わる可能性の方が高い事くらい。二人を見捨てて逃げた方が自分のためだという事くらい。
それでも、と心が叫ぶ。逃げるな、と本能と正反対の言葉を自身に言い聞かせる。
「お─────」
勇気と決意と共に震える足を一歩踏み出す。そこからは先程までの硬直は何だったのかと思える程に簡単に、流れるように次の一歩を踏み出せた。
「おおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
駆け出した足はもう止まらない。見た目は華奢なのに、外に溢れる存在感が途徹もなく大きく見せる背中に向かって疾駆する。
拳を握って振りかぶる。こちらに向けられた後頭部に狙いを定める。
その行動に思考は存在しない。ただがむしゃらに、彼女がしようとしているものを止めさせようと、それだけのために。
「っ…!」
突き出した拳が柔らかくも冷たい、そんな感触に包まれる。
俺の拳を包み込むのは掌。こちらを見ないまま朔夜さんが俺の拳を掴んだ掌だった。
静寂の中、朔夜さんの溜め息を吐く声だけが辺りに響き渡る。そして、彼女はゆっくりと再び俺の方へと振り返った。
「君は、それで後悔しないんだね?」
その一言は、俺への最後の通告。それに対して何も答えないまま、ただ拳に力を込めたまま向けられる瞳を見返す。
「…そうか」
吐息混じりのその一言の直後、女神から発せられる圧が急激に増す。それと同時に掴まれた拳が引っ張られると、抵抗を許さぬまま俺の体が後方に投げ出される。
「─────がはっ!?」
何が起きたか分からないまま、背中がコンクリートに叩きつけられた。その衝撃と痛みでようやく今、自分は投げ飛ばされたのだと自覚する。
成人男性の体重を片手で、それも拳を掴んで持ち上げ投げ飛ばすという化け物染みた怪力を見せつけた女神は無言でこちらを睨んだまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。
いや、事実化け物なのだ。本来、俺達人間とは交わる事のない領域に居する神々の一柱。全ての生物の頂に立つ内の一人。こうして向かい合い、対峙するだけでも傲慢に当たる、強大な存在。
それでも、と心に鞭を打ち、両足に力を込めて駆け出す。
「っ─────」
俺と朔夜の間に開いた距離はおよそ十メートル程。その距離を一瞬にして詰める。
人間離れした脚力は、星詠みの瞳によって接続した源から引き出した力によるもの。これもまた、化け物染みた力と言えるのだろう。
しかし、ほんの僅かな慢心も、正確にこちらの動きを捉える女神の瞳が許さない。
「ぐっ!?」
攻撃を仕掛ける前に、朔夜がこちらの顔面目掛けて拳を突き出してくる。
すぐさま足を止めて両腕を顔面の前で交差して防御体勢をとる。と同時に、星詠みの瞳によって膨大に広がった視野が、拳を突きだしながら更なる動きを見せる朔夜の姿を捉えた。
強烈な正拳の衝撃と痛みに顔を歪ませながら、右足を後ろに引いて半身になる。直後、先程まで立っていた場所を黒い影が疾った。
それに視線を向ける事なくすぐに後方に跳んで朔夜から距離をとる。
「その瞳がある限り、死角からの攻撃でも不意を突く事は出来ない、か。…敵に回すと厄介な力だね」
冗談も良いところだ。こちらはあのたった数秒の攻防で二度も死に瀕して肝を冷やしたというのに。
一度目はこちらの顔面を狙った正拳。辛うじて防御が間に合ったから良かったものの、ほんの少し遅れが生じていたら鼻っ柱を打ち抜かれていた。
二度目は正拳から間髪置かずに迫った蹴撃。こちらもあと少し反応が遅れていたら腹部に蹴りを受けていただろう。
たった数秒だが、俺に勝ち目はないと思い知らせるには充分な時間だった。
「っ!」
自分の心にそれでも、と言い聞かせるのは何度目だろうか。足を前に踏み出し、勝ち目のない戦いに身を投じる俺の姿はきっと、目の前の女神には愚者としか思われていないのだろう。
それでも俺は、友達を見捨てたくない。たとえ俺以外の全員に貶されようとも、俺はこの選択を違えない。
何故なら俺のこの瞳は、力は、誰かを救うために俺に備わったのだから。
千尋は一つ勘違いをしていた。それは、朔夜にあの攻防の中で何も思うモノはない、という所だ。
─────困ったな。加減しすぎたらこっちがやられるな、これは。
逆だ。あの数秒の攻防で、朔夜は千尋の力に舌を巻いていた。
無論、全力を出せば朔夜は千尋を何の苦労もなく殺す事が出来る。しかし、今の朔夜にはそれが出来ない事情があった。
まずはここが人が密集している地帯だという事。結界で外界からの接触を防いではいるが、朔夜が全力を出せば結界を貫通し、外界にまで破壊の影響が及ぶだろう。
それならば、ここじゃないどこか、人の足が及ばない場所に千尋を連れていけばいい。現に、朔夜には転移魔法という手段がある。以前に他の神の一柱と戦闘をした際にした様に、千尋に転移魔法を掛ければいい。
だがそれも、今の朔夜には出来ない。
─────命令さえあれば、すぐにでも千尋を殺せるけど…っ。
再び動き出した千尋を視線で追いながら、意識の片隅を千尋とは他の対象に集中する。
その対象とは、朔夜に唯一絶対服従の命令を降せる存在。星そのものだ。
そしてそれこそが、朔夜が全力を振るえない最大の理由でもある。
他の生物とは一線を介する強大な力を持つ神々だが、本来はその全力を振るう事は許されていない。その力を振るう度に、多くの破壊と犠牲の爪痕を残す事になるからだ。
そのために、彼らの産みの親であり逆らう事の出来ない上司ともいえる星は、彼らの全力を行使する行為を禁じた。
とある例外を除いて。
その例外の一つが、星からの認可を受ける事だ。例えば、
そういった例外が適応される場合は、神々は備わる全ての力を行使する事が出来るのだが─────
─────流石に決め兼ねてるか…!
通常ならばすぐにでも命令が出されていた筈だ。邪魔をする輩を殺せという命令が。
しかし今回、その邪魔をする輩というのが
ここで柳千尋を殺してしまえば、
「随分一生懸命だね、千尋!そんなに高嶺昂晴が大事かい!?」
「何を分かりきった事を!」
振るわれる拳を受け流しながら語りかけると、千尋からすぐさま返事が返ってくる。
振り返って再び迫る千尋に対し、逆に朔夜から仕掛ける。
「っ!?」
「美しい友情だね!では、その友情のために君は愛情を切り捨てようというのかい!?」
友のために勝ち目のない戦いに身を投じる。あぁ、物語の世界ならばなんと美しい友情としてどう描かれていた事だろう。読者を魅了するどんな表現が成される事だろう。
だがこれは現実だ。勝ち目のない戦いの先に待つのはただの死であり、その死の先に待つのは千尋を愛する少女の孤独である。
「君が死ねばあの少女は絶望するだろう!生きる気力を失くし、再び魂が零れ落ちるかもしれないな!」
「─────」
千尋の動きが一瞬緩んだ所に加減をしながら追撃を与える。
「彼を見捨てれば二人の命が助かる。君と、四季ナツメの二人の命だ」
堪らず逃げるように後退した千尋を追う事はせずに、その場に居続けながら言葉を投げ掛ける。
「だが、このままだと君は君だけじゃなく、愛しい彼女も殺す事になるよ」
千尋が朔夜に打ち勝つ事はあり得ない。それこそ、奇跡の確率で星が千尋に肩入れする事を選択しない限りは。
だからこそ、朔夜は千尋に脅しを掛ける。今はまだ星からの命令がない故に、彼を殺さないよう加減をしているがもし、次の瞬間にでも殺せという命を受けたら。
朔夜の言葉は現実となる。千尋の命は失われ、その事実を知った四季ナツメは絶望し、魂を溢す可能性だってある。
千尋が高嶺昂晴を見捨てれば、二人は助かる。それがどれだけ千尋にとって辛い選択なのか、朔夜の想像を絶するものなのだろうと想像に察するが、どちらの選択をすべきかは分かりきっている筈だ。
「…」
「…本当に、たまに人間という存在が恐ろしく感じるよ」
千尋にも分かっている筈なのだ。自分がどれだけ無駄な事をしているか。このまま突き進んだ先にどうなるか、その末路は分かっている筈だ。
それなのに、千尋は未だに朔夜と対峙し続ける。
「分からないな。この男に命を懸ける理由がさっぱり分からない」
先程、明月栞那の魂の残滓が高嶺昂晴を守ろうとした、それはまだ呑み込む事が出来た。
あの蝶には思考がない。あるのは高嶺昂晴を愛していた、明月栞那の感情のみ。強い愛情に動かされ、愛する人を守ろうとしたのだと、朔夜にも理解できた。
だが、千尋はどうだ。確かに高嶺昂晴に強い友情を覚えていたのかもしれない。しかし愛情ではない。千尋には高嶺昂晴よりも優先度が高い存在がいる筈なのだ。
四季ナツメ。彼女を一人残していく恐れがあるというのに、それでもまだ立ちはだかろうとする。
「考え直せ、柳千尋。その男にそこまでの価値があるのか?四季ナツメと共に過ごす未来を捨てる程の価値があるのか?」
ない。第三者でしかないが、朔夜にはどれだけ考えてもないという結論にしか至らなかった。大体、四季ナツメの事を考慮しなくても自分が死ぬかもしれないのに、ただの友達のために命を張るその意味すらも分かり兼ねる。
「高嶺を見捨てて、胸張ってナツメの隣にいれる訳がないだろ」
そして、ようやく千尋が発したその返答の意味も、朔夜には理解し難いものだった。
「…結局は下らない意地じゃないか」
「何とでも言え。俺は絶対に高嶺を死なせない」
冷めていく。実に下らない答えだった。
確かに言う通り、友人を見捨ててのうのうと自分だけ愛する人と幸せに、なんて考えられないのかもしれない。
だがそれは今だけだ。四季ナツメは千尋の行為を容認するだろうし、その罪悪感は時間が解決していくだろう。
恐らく、千尋はそれが情けなくて嫌なのだろうが。曰く、男の意地という奴だ。
下らない。本当に下らない。そんなモノのために命を捨てる、そんな男のために自分は奔走していたというのか。
「…」
星からの命令は未だに伝わってこない。だがそれならそれで、最悪
四肢のどれかが欠けようが、それこそ生首一つになろうが生命を維持する事は出来るし、他の神々に協力を仰げば身体を再生させられる。
本当はあまり傷をつけず意識を奪って何とかするつもりだったのだが─────そこまで自身が苦心する価値を朔夜は見失ってしまった。
命を粗末にする人間のためにそこまで苦労する意味を朔夜は見出だせない。
だからここからは千尋を傷つける事も厭わない。何故なら、どれだけ傷つけようとも、殺しさえしなければ良いのだから。
もう朔夜に千尋に対して掛ける情はなかった。
「─────」
風を切る音とほぼ同時に、肉感を伴った切断音が響き渡った。
直後、辺りに赤い雫が飛び散った。そしてその数秒後、千尋の後方からべちゃりと液体の音に混じって何かが落下した音がする。
「─────は?」
千尋の口から呆けた声が漏れる。千尋の両目が見開かれ、その目に映し出される光景を信じられないといった様子で見つめている。
そんな彼の姿を、朔夜は無感動に眺めていた。これは千尋の自業自得だ。こうなる前に逃げてさえいれば、高嶺昂晴を見捨てていれば、五体満足で明日を過ごしていれたというのに。
朔夜の視線の先、千尋の視線の先。そこにある筈の千尋の左肩から先は失われていた。