スポンジを片手に、洗剤を泡立てながら水に濡らした食器を丁寧に洗っていく。
今日はシフトがなかった。だから、夕食は俺が作る事になった。というより、勝手に作ってナツメが来るのを待っていたという方が正しいか。
染井さんとの話が終わってからすぐに帰った俺は、そのまま夕飯の準備を始めた。
ナツメと付き合い始めてから明らかに物が増えた冷蔵庫の中を眺めながら、時間もたくさんあるし揚げ物にチャレンジしてみようと思い立ち、視界に入った鶏肉が晩御飯は唐揚げにするという結論に至らせた。
スマホでクッ○パッドを見ながら唐揚げを完成させた頃には外はすっかり暗くなっていた。
それでもナツメが帰ってくるだろう時間はまだ先だったが。
唐揚げを皿に盛り付けてラップを掛けてテーブルの上に。料理に使った器具を洗い、片付けてから適当に時間を潰し、仕事が終わる時間を見計らってナツメを迎えに行った。
迎えに来た俺を初めは驚いたように目を見開いたナツメだったが、すぐにその表情は嬉しそうに綻んで、一緒に俺の部屋へと帰る。
部屋に帰ってから、すぐに夕食の準備にとりかかる。といっても、冷えた唐揚げとか味噌汁を温めたりするくらいなのだが。
予め温めておいたご飯を茶碗に盛り、温めた唐揚げと味噌汁、それと手抜きのキャベツの千切りも添えて今日の夕食を頂く。
これまた初め驚いた様子のナツメだったが、これまたすぐに嬉しそうに微笑んでくれた。
唐揚げも美味しいと言って食べてくれたし、やっぱりナツメに任せきりじゃなく俺もたまには好きな人に料理を振る舞いたいと思わされた。
時は戻り現在。夕食を食べ終えて食器洗いも終わり、手を洗いタオルで拭いてから、台所にいる俺の背中をずっと見つめていたナツメの隣に腰を下ろす。
「お疲れ様」
椅子に座って一息吐く俺に、ナツメがそう声をかけてきた。
「いや…。これを毎日やってくれてるナツメに言われると少し困るぞ」
今回は手間がかかる揚げ物を作ったからというのもあるが、まあ少し疲れたとは感じている。
しかしこれをほぼ毎日、それも仕事が終わってからでも手料理を振る舞ってくれているナツメの前では口が裂けても疲れたなんて言えないだろう。
「いつもありがとう、ナツメ」
「ううん。私は楽しんでやってるから」
「それを言うなら俺もだよ。ナツメの事を考えながら料理をするのは楽しかったし、出来上がった料理を美味しいって言ってくれて嬉しかった」
手間がかかる類いの料理をするのは初めてだったが─────楽しいと感じた部分もあった。
勿論、初めての挑戦という事もあり、緊張もした。失敗してしまったら、とも考えてしまった。
しかしそれ以上に、ナツメに美味しいと言って貰えたらと考えると、楽しく感じた。
「…本当に美味しかった」
「そうか。それは良かった」
ナツメが頬を俺の肩に寄せながら呟く。
「千尋に美味しいって言って貰うのも嬉しいけど…、美味しいって言うのも悪くなかった」
「前も言った気がするけど、これからは毎週この日は俺が作るよ」
「…うん。お願いしていいかな?」
「お願いされなくても作るつもりだから安心しろ」
ナツメの肩に腕を回して抱き寄せる。
抱き寄せた腕に少し力を込めて、ナツメの体温を感じる。
俺はこれからナツメに話さなくてはいけない事がある。その話に対してナツメがどんな反応をするのかは分からない。
だが、話さなくてはならない。
好きな人の温もりに少しの勇気を貰いながら、俺は口を開いた。
「…ナツメ。染井志津華さんって覚えてるか?」
「─────」
その名前を耳にしたナツメは僅かに体を震わすと、見開いた目でこちらを見上げてきた。
「どうして…」
信じられない、といった様子で震えた声を漏らすナツメ。
「クリスマスに忘れ物を届けに病院に行った事あっただろ。その時に会った。それでまあ…、話したい事があって今日会ってきた」
多分それはないだろうとは思っていたが、染井さんの名前は忘れず覚えていた様子。まず第一段階はクリア。
「病院に飾ってあった絵の事を話してきた」
「っ…」
息を呑むナツメに視線を向けながら続ける。
「驚いたよ。病院に行ったら見覚えのある光景が描かれた絵が飾られてるんだから」
そう、最初はそれに驚いた。しかし─────
「でもさ、その絵に見覚えがあるって感じた自分にはもっと驚いた」
「え…?」
「ナツメの隣の眼鏡の奴。俺が帰る時にはいなかった筈だぞ」
ぽかんと呆けた表情でこちらを覗くナツメ。その表情は次第に驚きを露にしていき、そして振り絞るように震える声を発した。
「やなぎ…くん…」
「あぁ」
「やなぎ…ちひろ…」
「あの時は下の名前まで名乗ってなかったんだっけか。覚えてないけど」
ナツメ自身、昔に俺と会っていた事自体は覚えていても俺の顔なんてすっかり忘れていたのだろう。ナツメ自身がそうなのだから、染井さんが俺の事を覚えていたのはかなり驚くべき事なのだが、恐らく病院に飾られていたあの絵を見て思い出した、といった所だろうか。
その辺に関しては本人しか知らない事なのだが。
「あの時の男の子…?」
「本当に今更だけど…、久し振りって言ったら良いのか?これ」
ナツメに何と言葉を掛けたら良いのか分からない。
こうなるのは分かってはいたが、この事をナツメにどうしても伝えたかった。自分達は高嶺を通して出会ったあの時が初対面ではないと。もっと昔に出会っていたのだと。
「…」
「…え、なに?」
さて、伝えたかった事を伝えたのは良いのだが、何故かナツメはご機嫌斜めな様子。
俺の肩から離れたかと思えば、軽く頬を膨らませながら上目遣いで睨んできた。
「また来るって言ったのに」
「はい?」
「またお見舞いに来るって約束したのに、来なかったっ」
「…」
戸惑いながらどうしたのか問い掛けると、ナツメから返ってきたのは思わぬ答えだった。
それは恐らくだが、ナツメと最初に出会ったその時に交わした約束。俺が破ってしまったナツメとの約束。
ナツメが覚えているのだから、確かに俺はその約束を交わしたのだろう。
しかし、だ。本当に、本当にナツメには申し訳ないのだが──────覚えていない。そんな約束したっけ…?
「…覚えてないって顔してる」
「え」
「まあ、十年も前の事だし仕方ないけど。…あの絵の事も、病院に行って目にするまで忘れてたみたいだし」
「大変申し訳ありませんでした」
じと目になるナツメに頭を下げて謝罪する。
なんか今日は俺、頭を下げてばかりだな。染井さんにも頭を下げさせられたし。
「…あのさ、ナツメ」
「ん、なに?」
少しの間頭を下げたままその姿勢を保ってから、頭を上げてナツメの顔を見る。
その表情を見て、ナツメに話し掛けた。
ほんの少しの不機嫌さが混じったナツメの返答の後、俺は問い掛ける。
「俺はさ。あの時の事は全然覚えてなかったけど、染井さんに話を聞いて、ナツメと昔会ってたって知って、嬉しいって思った」
「…」
「なんというか…、運命っていうのかな。そういうのを感じた。だってそうだろ?今、こうして付き合ってる人と子供の頃会った事があるなんて。まるで物語みたいだって思った」
ナツメは黙って俺の話に耳を傾けている。
「何を調子の良い事を、なんて思われるかもしれないけど。ナツメをもっと大切にしないとって、大切にしたいって思った」
「……」
「まあ、だから許してくれなんて言わない。ただ、染井さんから話を聞いて、ナツメの事がもっと好きになった。それを伝えたかった」
我ながら単純すぎて呆れてしまうが、今の言葉に嘘も誤魔化しもない。俺の本心をそのまま語った。
好きな女の子と初対面だと思っていた時よりも昔に会った事があり、しかもその時に微笑ましい約束を交わしていた。
その約束を俺は忘れてしまっていたのだが─────しかし、たったそれだけの事が嬉しかった。
好きな女の子との縁は、自分達が考えていたよりも昔から繋がっていたのだと思うとどうしようもなく嬉しくなってしまうのだ。
「…バーカ」
「いてっ…、ナツメ?」
さて、これからどうやってナツメの機嫌を直そうかなんて考えていると、いきなりの罵倒と共にナツメの額が俺の腕に飛び込んできた。
突然の頭突きに多少の痛みを覚えながら、どうしたのかとナツメに問い掛ける。
ナツメは少しの間沈黙を保ってから、俺の方へ更に体重を掛けながら言う。
「許すも何も、別に怒ってない。当時は…確かに悲しかったし、ちょっとムカッとしたけど」
「…本当にごめん」
「だから謝る必要はないんだってば。まだ続きあるから、最後まで聞いて」
当時のナツメの本音に堪らず謝罪の言葉を挟んでしまう。
それに対してナツメはそう言うと、埋めていた俺の腕から顔を離して、真っ直ぐに視線を向けながら続けた。
「千尋は約束を忘れてた。でも、約束は守ってくれた。だからいいの」
「…すまん、言ってる意味が良く分からない」
ナツメには悪いが、言葉の意味が良く分からなかった。
俺はナツメとの約束を忘れていた。それなのに約束を守っていた。そんな事を言われても、理解しきれない。
何しろ約束を忘れているのに約束を守るなんて出来る筈がないだろう。矛盾しているとしか思えない。
しかし、続くナツメの言葉はストン、と俺の胸の中に落ちる。
「だって、千尋はまた会いに来てくれた。大遅刻だけど」
「─────」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。しかし、すぐにナツメの言いたい事を悟る。
確かに、
ナツメの言う通り、相当な大遅刻─────
「…いや、遅刻なんてレベルじゃなくないか。大体
「細かい事はいいの。私が気にしてないって言ってるんだから。それとも、何か不満でも?」
「いえ、不満なんて滅相もない。ナツメがそう言うのなら、俺も気にしない事にする」
少しスッキリしないが、ナツメが気にしないと言っているのだ。それならこれ以上俺が何か言う必要もないし、言うべきでもない。
俺が気にしないと言った後、ナツメはふっと微笑むともう一度俺の肩に体を預けてきた。
ナツメと二人でいる時は必ずなる体勢。時間に差はあれど、この後はいつも俺の我慢が利かなくなってナツメを抱き締めてしまう。
正直、今もギリギリだ。ナツメを抱き締めたくて堪らない。しかし、まだダメだ。何故なら、俺にはナツメに話さなくちゃいけない事がもう一つあるのだから。
「ナツメ」
「ん?」
「もう一つ、ナツメに伝えなきゃいけない事があるんだ」
「…どうしたの?」
ナツメの声がどこか抜けている気がする。ナツメから漂う空気が艷めいている気がする。何だろう、何か勘違いされている気がする。
すまんナツメ、違うんだ。ナツメが何を考えているのかは分からないけど、多分ナツメが思っている事と俺が言おうとしている事は絶対違う。
「…これは俺じゃなくて、染井さんが言い出した事なんだけどさ」
「…うん?」
致命的に何かが食い違っていると感じながらも、俺は伝えなくてはならない。
勇気を振り絞って切り出すと、ナツメはこちらを見上げ、ぱちくりと目蓋を開閉させた。
きょとんとした目を向けられながら、続けた。
「当時入院してた人達で集まって同窓会したいって。それの手伝いを…する事になった」
「─────」
見ていられず、ナツメの視線から目を逸らしながら、俺はもう一つの伝えなくてはいけない事を口にした。
気まずい。何が気まずいって、今俺が口にした言葉はまず間違いなくナツメが思っていた事─────というより、期待していた台詞と違っていただろうから。
「…どういう事?」
「いや、だから…。ナツメと染井さんと、それと一緒に入院してた人達で同窓会がしたいんだと。あぁ後、ナツメにも出席して貰いたいって言ってたぞ」
「…」
目を丸くして呆けるナツメ。
分かる、分かるぞその気持ち。何しろ─────
「…どうしてそんな事になってるの?」
「俺にも分からん」
何故こんな事になっているのか、俺にだって分からないのだから。
あぁホント、何でこんな事になったんだろう?