喫茶ステラと死神の蝶と見える人   作:もう何も辛くない

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第七十五話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜の十一時になろうかという頃、ナツメの部屋のチャイムが鳴る。

 普通こんな時間にチャイムを鳴らされても不気味がるか腹を立てるか、どちらにしてもほぼ間違いなく居留守を使うのだが、予めこの時刻に訪ねてくる人がいると知っていればまた話は別だ。

 

 すでに寒空の外に出る準備を済ませていた俺とナツメはインターホンで相手と話す事もなく、玄関で靴を履き、部屋の外へと出る。

 

「や」

 

 扉の前で立ち、俺達が出てくると微笑み軽く手を上げて挨拶をして来たのは朔夜さん。

 ステラで約束した通り、これから俺達はこの人と夜の散歩とやらに出掛ける。

 

 俺達も朔夜さんに挨拶を返してから、ナツメが戸締まりをしたのを見届けてからアパートを出る。

 アパートの外には朔夜さん以外の人達、俺とナツメ以外のあの時、朔夜さんと話した高嶺達がすでに待っていた。

 

「それじゃあ、行こうか」

 

 軽い調子で一言そう口にした朔夜さんが歩き出す。

 俺達もそれぞれ顔を見合わせてから、何も言わずに朔夜さんの後に続く。

 

 人通りの少ない住宅街の歩道を朔夜さんを先頭に高嶺と明月さん、俺とナツメが並んで列になって進む。

 ちなみにミカドは明月さんの肩に乗っている。自分で歩かないとか、良い御身分だ。

 

「…それで、朔夜様。我々は一体、どこに向かっているのですか」

 

 ナツメのアパートを出発してから数分程。ここまで誰も喋らずただ朔夜さんについていくだけだったのだが、遂にミカドが口を開く。

 そしてその台詞は恐らく、この場にいる誰もが抱いている疑問だ。

 

 この質問はステラで朔夜さんと散歩の約束を交わした時にもした。だがその時、朔夜さんはただ笑顔のままその疑問を聞き流してしまった。

 

 いい加減俺も知りたい。俺達は一体どこに行こうとしているのか。

 そして、突然散歩をしようなんて言い出した朔夜さんの目的を。

 

「…始まったか」

 

 ミカドが朔夜さんに問い掛けてから数秒程の間が空き、不意に朔夜さんが立ち止まる。

 釣られて立ち止まった俺達の耳に、小さな朔夜さんの呟きが入る。

 

「皆、空を見上げてごらん。千尋は眼鏡を外してね」

 

 そしてそんな事を言い出した。

 

 ミカドの質問の答えはどうした、なんて内心で呟きながらも俺は朔夜さんの言う通りに眼鏡を外し、夜空を見上げる。

 

「なっ…!?」

 

 今、声を挙げたのは高嶺だろうか。それともミカドか。どちらにしてもその声は驚愕に満ちていた。

 俺だって驚いたのは同じだ。驚愕に言葉を失った。何しろ見上げた先に広がる光景は、余りにも信じられないものだったから。

 

「蝶が…」

 

 蝶。そう、俺達が見たのは空を飛ぶ蝶。あの青い蝶だった。

 だが、それだけじゃない。

 

「これは…引き寄せられているのか…?だが、これ程大量の蝶が一体何に…」

 

 呆然としながら引き寄せられていると表現したミカド。俺もまさにそんな印象を覚えた。というより、誰だってそう思う。

 

 何しろ光の帯を形成する程の大量の蝶が、同じ方向へと飛んでいっているのだから。

 

「…この方向、もしかして」

 

「おぉ、気付いたかい高嶺君。流石、付き合いが長い幼馴染みといったところか」

 

「おさななじみ…?…っ!」

 

 最初にこの異常な現象に何らかの心当たりを抱いたのは高嶺だった。それを悟った朔夜さんが高嶺を褒め、その褒め方に俺が違和感を抱く。

 

 そして、気付く。朔夜さんが口にした幼馴染みという単語から、頭上の蝶達が向かう方向に何があるのかを思い出す。

 

「墨染神社…!」

 

「正解。この散歩の目的地は墨染神社。そして、お店での質問の答えもそこにある」

 

 高嶺だからこそ俺達よりも先に気付き、更に朔夜さんが口にした幼馴染みという単語。

 そこから導き出される答えは一つしかない。

 

 墨染神社。確かに蝶達が飛んでいく方向にはそれがある。

 だが一体何故。墨染神社で何が起きているのだろうか。そして、墨染神社には一体何があるのだろう。

 

 再び歩き出した朔夜さんに続く。

 墨染神社に近付くごとに空を飛ぶ蝶の数が多くなっていくが、それだけじゃない。空に伸びる、蝶が形成する光の帯が四方から墨染神社に向けて集まっている。

 そしてその中心、墨染神社は淡い青色の光に包まれていた。

 

「何だよ、これ…」

 

 鳥居の前で、神社の現状を目にした高嶺が呆然と呟く。

 その呟きの直後、何も言わないまま朔夜さんが鳥居を潜り境内へと足を踏み入れる。

 俺達も彼女について行き、境内へと踏み出す。

 

「─────」

 

 途端、空気が変わる。

 鳥居を潜る前は冬の刺すような寒さから、突然空気の冷たさが身体に纏わりつく様に感覚が変わる。

 

「っ…」

 

 視界の端で、俺の隣を歩くナツメが体を震わせたのが見えた。

 視線を向ければナツメの横顔が見える。ナツメの表情が青くなっていた。

 夜の外が寒いからこうなっているのではない、というのはすぐに分かる。ナツメも、そして他の皆もまた俺と同じ感覚を味わっているのだろう。

 

「…やぁ。久し振りだね」

 

 すると突然、朔夜さんが足を止めたかと思うと明後日の方へと視線を向けて、何かに対して挨拶をし始めた。

 

 朔夜さんの視線を追い掛けて、俺もそちらに目を向ける。だが、何もいない。

 正確には朔夜さんが見ている方でも大量の蝶が飛び回っているのだが、朔夜さんはそれを見ていない。

 

「私の顔なんて見たくもないだろうし声も聞きたくないだろうけど、姿を見せてもらえないかな」

 

 穏やかな声で見えない何かに語り掛ける朔夜さん。しかし、俺達が見ている先で景色の変化はない。

 

「…千尋。意識を集中させて見てごらん」

 

「え…。─────」

 

 こちらを見ないまま朔夜さんにそう言われ、とりあえずそれに従ってみる。

 意識を集中させ、自身の意識を接続。直後、瞳に映る世界が広がりを見せる。

 そして、広がった視界の中に見た事のない()()は映っていた。

 

「赤い、蝶…?」

 

「千尋…?」

 

 ()()は、他の蝶と比べて明らかに大きなサイズをしていた。だが何より目を引くのは、鮮やかな青い光を発する他の蝶とは違ってどこかおぞましさすら感じさせる赤い光を発していた事。

 その赤い蝶は未だにナツメ達には見えていないらしい。しかし確かにそいつは俺達の目の前にいた。

 

「朔夜さん、こいつは…」

 

『…私が見えている方がいらっしゃるのですね』

 

 こいつは一体何者なのか、そう朔夜さんに問い掛けようとした時、境内に女性の声が響き渡った。

 この神社に来た俺達の中の誰かじゃない。ナツメとも明月さんとも朔夜さんとも違う、別の誰かの声。

 

 どこか固く、緊張を感じさせる声が続く。

 

『それに…、私と似た方まで連れてきて…。今更私に何の用でしょう』

 

「聞くまでもなく君なら分かっているだろう?それよりも早く姿を見せてくれないか。見えている千尋はともかく、他の彼らが戸惑っている」

 

『…』

 

 少しの間声が聞こえなくなる。かと思うと、突然赤い蝶が光り始めた。周囲に赤い光が広がっていき、やがて収束していく。

 

「…え?」

 

 光が収まった時、何かが変わったかというとそうではなかった。赤い蝶がどこかに移動したとか、姿が変わったとかそんな事は全くない。

 ただそれは、俺が視界に赤い蝶を捉えられていたからこそそう感じるだけで、俺とは違って赤い蝶が見えなかったナツメ達には違った。

 

「本当に…赤い…」

 

 先程の光が収まって、ナツメ達にもあの赤い蝶を見られる様になったらしい。

 今まで朔夜さんが見ている方を見ながら微妙にそれぞれ違う所を見ていた視線が一ヶ所に、確かに赤い蝶に向けられている。

 

「…先程の声は、貴女のものか」

 

『はい』

 

「馬鹿な…。蝶が意思を持ち話せるなど聞いた事がない…」

 

 赤い蝶と言葉を交わすミカドの声が震えている。

 

 そう言われれば確かに、言葉を話す蝶には出会った事がない。

 蝶の記憶を覗き、蝶の声を聞いた事はあってもあれは言葉を交わしたとはいえない。

 ミカドの言うように意思を持ち、人と言葉を交わせる蝶はこの赤い蝶が初めてだ。

 

「彼女はね、高嶺君。君と同じなんだよ」

 

「同じ?」

 

「そう。君と同じく魂の強大な力を持ち、その力を以て奇蹟を起こして世界を変えた」

 

「な─────」

 

 驚きと共に皆が赤い蝶へと視線を向ける。

 そんな中、驚愕の言葉を口にした張本人である朔夜さんは言葉を続ける。

 

「ただ一つだけ、君とは違う点があってね。まあそれは今のこの状態を見れば分かると思うんだけど」

 

 朔夜さんが言う、高嶺と赤い蝶との違い。それが何なのか。

 先程と同じ様に、朔夜さんの台詞を思い返し、一部を読み取ってその違いが何なのかを導き出す。

 

「…まさか」

 

「千尋は分かったみたいだね。…そう。彼女はね、奇蹟を起こした報いとして殺されているんだよ。といっても─────」

 

 高嶺と同じく奇蹟を起こし得る力を持ちながら、高嶺とは違う境遇を持つ。何故か蝶と成り下がり、現世に留まり続けている。

 こうやって状況を整理すれば考えられるのは一つしかない。

 

 彼女は殺されたのだ。()()()()()()、奇蹟を起こした報いを受けたのだ。

 しかも、それだけではなく─────

 

「彼女を殺したのは私なんだけどね」

 

 彼女を殺した本人が、彼女の目の前にいる。

 なるほど、最初に聞こえてきた声に緊張を感じたのはそのせいか。

 

 自分を殺した張本人が目の前にいる。そんな状況に遭えば誰だって警戒する。

 何をしに来たのか。自分を消しに来たのか、と。

 

「殺した…って…」

 

「さっきも言ったけど、彼女は奇蹟を起こした。君が特別なだけだよ高嶺君。一度奇蹟を起こすだけでも殺す、或いは魂を刈る。奇蹟を起こすというのは本来、それ程の重罪なんだ」

 

 高嶺は奇蹟を起こしている。それも二度も。

 一度目は自分の死を改変し、二度目は過去へと渡って未来の記憶を一時的に植え付けた明月さんと再会した。

 

 本来ならば高嶺は殺され、魂ごと存在を刈り取られて転生の機会を失っていた。それでも今、生きていられるのは愛の奇蹟ともいえる出来事によるものというのが何とも皮肉な所だが。

 高嶺は奇蹟に殺されかけ、奇蹟によって生き延びている。

 

『世間話はもう良いでしょう。私に何の用なのか、本題に入ってください』

 

「いや。悪いがもう少しだけ付き合ってくれ。彼らに君と奴の話を聞かせる約束なんだ」

 

『何故、そんな話を─────』

 

「聞かなくとも分かるだろう?三百年現世に留まり続けた君なら、生前見えなかったものも見えている筈だ」

 

『…』

 

 赤い蝶がこちらを向く。

 彼女の、といえばいいのか。両目というのは俺の目にはよく見えない。だが、じっとこちらを見られている様な気がした。

 

「彼らはあいつに狙われている。本当に迷惑な話だよ。男女の壮大な修羅場に無関係な子供達が巻き込まれているんだから」

 

『…あの方が怒っているのは』

 

「私のせいだと?違う。あいつの忠告を無視して奇蹟を起こした。…愛する男を信じきれなかった君の自業自得だろう?」

 

『…』

 

 朔夜さんが言うあいつ、というのがあの男神の事なのは何となく分かる。

 だがそうだとしたらその後の台詞が気にかかる。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 何だそれは。それではまるで─────

 

「あいつは君に言っていたね。我慢しろと。出来なければ徒労に終わるどころか二人とも死ぬぞ、と。…それなのに君は」

 

『もういいでしょうっ』

 

 言葉を続けるごとに朔夜さんの表情が険しくなっていく。これは苛立ちだろうか。

 まだ朔夜さんと赤い蝶の間にかつて何があったのかは分からない。ただもうとっくに感じてはいたが、この二人の間柄は決して良好ではなさそうだ。

 

 そして朔夜さんの台詞に割り込む形で大声が上がる。

 響き渡る大声は、赤い蝶のもの。これまで固くなりつつも静かに朔夜さんと言葉を交わし続けていた彼女の突然の大声に、思わず目を見開く。

 

「…そうだね。話が脱線するところだった」

 

 朔夜さんは一度目を瞑り、先程までよりも落ち着いた声でそう言った後に俺達の方へ振り返る。

 

「ここまでの話で察しはついているだろう。彼女は昔、あいつと恋に落ちていた。まあ、結ばれたという訳ではなかったが」

 

 朔夜さんの口から語られたのは大方俺の想像通りのものだった。

 やはり彼女とあの神との間には只ならぬ縁があったらしい。しかし、結ばれていないというのはどういう事なのか。

 

「人間と神が恋に落ちる…。そんな事が…」

 

「珍しい事ではあるけどね。でも、前例がない訳じゃない。千年以上前にも同じ様な人間と神がいたらしいし」

 

「…?」

 

 信じられない様子で震えた声で呟く明月さんに、朔夜さんが淡々と言葉を返す。

 だが、気のせいだろうか。一瞬、朔夜さんの目に僅かな物悲しさを感じたのは。

 

「それでここからが本題。あいつが千尋の目を狙うのは、これが原因」

 

「…申し訳ありません、朔夜様。これが原因、とはどういう─────」

 

「だから、生き返らせようとしてるんだよ。こいつを」

 

「─────」

 

 そちらに目を向けないまま赤い蝶に親指を指して言う朔夜の台詞の意味が理解しきれず聞き返すミカドに、またもやばっさりと、簡潔に返答する朔夜。

 だが今度の回答は余りに単純明快な()()だった。

 

「死者蘇生…!?千尋の瞳は、それすらも可能にするのですか!?」

 

「さあ?分からない」

 

 動揺しながら更に聞き返すミカドに向けて困ったような笑みを浮かべながら首を傾げる朔夜さん。

 

「だけど、星詠みの瞳は星から力を引き出す事が出来る。もしかしたら、可能なのかもしれない」

 

「─────」

 

 ミカドだけでなくこの場にいる全員が絶句し、言葉を失う。

 だが誰が一番驚いているかと問われれば、間違いなく瞳の主である俺だ。

 

 今までもやばい目だと思ってはいたが、それでもまだ足りないらしい。

 死者蘇生?そんなもの、星が嫌う奇蹟そのものじゃないか。何故奇蹟を起こし得る力を俺が持ち、しかもそれを見逃し続けているのか。

 

「とにかく、今まではあいつがやかましくなりそうだから見逃してきたけど、そろそろ限界だ」

 

 朔夜さんの声色が変わる。先程よりも険しく、しかし苛立ちは感じさせない。

 それでも他者に有無を言わさない迫力と強制力を感じさせる。

 

「答えろ。お前の望みは何だ」

 

『…』

 

「何故現世に留まり続ける。何がお前を縛り付ける。私への恨みか?あいつへの慕情か?それとも─────」

 

 女神は赤い蝶へと振り返り、質問を投げ掛ける。すると不意に言葉を途切らせて少しの間沈黙し、赤い蝶をじっと見つめる。

 

「娘への未練か?」

 

『─────』

 

 赤い蝶は黙ったまま。しかし、小さく誰かが息を呑んだ音がした。

 それが赤い蝶のものだったのかは定かではないが、朔夜さんが大きく息を吐いた。

 

「…なるほど、全てか」

 

 そして朔夜さんの口から出てきた答えは俺達の想像を越えていた。

 朔夜さんが口にした三つの答え。その内の一つかと思いきや、まさかの三つ全て。しかも赤い蝶はその台詞に対して否定を返さない。図星、という事だろうか。

 

「娘に関しては努力をしよう。同じ魂を持った生き物がもしかしたらこの世界に生きているかもしれない。見つかる可能性は限りなく低いが。…だが、その他二つはどうにもならないな」

 

 無機質な、感情の籠っていない声で朔夜さんは言う。

 

「まず一つ目。私は君に悪い事をしたとは思っていない。君が私に恨みを抱くのは筋違いだとすら思っている。何故君の逆恨みに私が付き合わされなくてはならない?」

 

「朔夜さん、そんな言い方…」

 

「そして二つ目。これは論外だ。君とあいつを会わせる訳にはいかない。今まで私が君からあいつを遠ざけてきた努力を不意にするつもりか」

 

『っ…。やはり、あの方が私に会いに来ないのは貴女が…』

 

「あぁそうだ。あいつが君に出会えば何をするか分からない。色々と君があいつに見つからないよう細工をしたが…、君も厄介な真似をするものだ。大量の蝶を誘引しているのは、この場所をあいつに教えるためだな」

 

 これまた突然のカミングアウトである。

 神社に来る途中で見たあの蝶の群れ。あれはこの赤い蝶が原因、しかもちゃんとした目的があった上での意図的に引き起こした現象だった。

 

「しかし残念、その努力は無駄だ。あいつはまだここには来られない。そして、ここに来られる様になる頃には君はもうこの世から消えている」

 

 朔夜さんが一歩、赤い蝶へと足を踏み出した。そのままゆっくりと、赤い蝶へ歩み寄っていく。

 

「初めからこうしておけば良かったんだ」

 

 歩きながら、赤い蝶に向けて手を伸ばす。朔夜さんは俺達に何も言わない。だが、朔夜さんが何をしようとしているかは分かった。

 

『…』

 

 赤い蝶は何も言わない。その場から動こうとしない。逃げられないのか、それとも逃げようとしていないだけなのか。

 もしかしたら、とっくの昔に覚悟は出来ていたのかもしれない。こうなる覚悟は─────

 

「待って!」

 

 朔夜さんの手が赤い蝶に触れる、直前だった。突如響き渡った制止の声に時が止まる。

 

「…どうしたのかな、ナツメ君?」

 

 足を止めた朔夜さんが振り返り、ナツメの方に視線を向けて問い掛ける。

 そう、制止の声を挙げたのはナツメだった。

 

「っ…」

 

 朔夜さんの視線を向けられたナツメは体を震わせながら言葉を詰まらせる。

 当然の反応だ。実際に視線を向けられていない俺でも身震いしそうになる。

 それ程の迫力、威圧感。神朔夜の神威が、真っ直ぐにナツメに注がれているのだ。

 

「…そ」

 

「…」

 

「そ、その人を…消すんですか」

 

「間違えちゃダメだよナツメ君。こいつはもう、人じゃない」

 

 まるで小さい子供の間違えを優しく正す、そんな言い方だった。だが、その声に感情は籠っていなかった。

 

「そういう問題じゃ、ないんです」

 

「…」

 

「可哀想、だと思います。確かにこの人はいけない事をしたのかもしれない。殺されても仕方のない事をしたのかもしれない。それでも…このまま何の未練も晴らせずに消してしまうのは可哀想だと思います」

 

「優しいね、ナツメ君は。だが、こいつに同情する価値はない。奇蹟を起こすだけならまだ良かった。殺されて、そのまま輪廻の輪に還ればこんな事にはならなかった。…理に背き、現世に意地汚く留まり続ける。それはね、君の思う以上に罪深い事なんだよ」

 

 ナツメの言葉に耳を貸さない朔夜さん。もう彼女の中で赤い蝶を刈る事は決定事項となっている様だった。

 

「大体、まるでこいつの未練を晴らしてあげたいという口振りだったけれど、どうするつもりなのかな?さっきも言ったけど、こいつの未練全てを晴らすのは無理だ。唯一可能性があるとすれば娘の事だが…それも限りなく低い。第一、彼女の娘の魂がこの時代に転生しているかすらも分からない」

 

 そう、たとえ朔夜さんがナツメの思いを良しと感じたとしても、赤い蝶の未練を晴らすのはほぼ不可能だ。

 娘の事に関しても、朔夜さんが言う通りこの時代に転生しているかも分からない。たとえ転生していたとして、何に転生しているか分からない。どこの国にいるかも分からない。人に転生しているかも分からない。

 

 それにたとえ運良く人に転生していたとして、更に運良く日本にその人がいたとして、どうやって探す。

 仮にその人が見つかったとして、どうやってここまで連れてくる。第一その人はこの赤い蝶が自身の母親だと分かるのか?

 

 赤い蝶と娘の魂を巡り会わせたとしても、結局虚しい結果に終わるのではないだろうか。

 

「…朔夜さん」

 

「…千尋」

 

 だが、だから何だというのだろう。

 愛する人が勇気を振り絞り、足を踏み出して思いを吐き出した。

 それなのに、彼氏である俺はだんまりか。いや、そうじゃない。

 

「無駄に終わる可能性が高い事は分かっています。…でも、無駄に終わると決まった訳じゃない」

 

「…」

 

「お願いします」

 

 朔夜さんを真っ直ぐ見据え、視線が交わる。

 色のない朔夜さんの瞳から目を逸らさず見つめ続ける。

 

 限界まで空気が張り詰める。誰かが息を呑む音がする。そうしてどれほど時間が経っただろう。数秒か、数分か。

 やがて、朔夜さんが目を瞑って頭を振る。

 

「三日だ。三日経ってもこの蝶がここに居座っていたら、容赦はしない」

 

 そう言うと、朔夜さんは赤い蝶へと伸ばしていた手を下ろし、振り返って俺達の方へと歩き出す。

 そのまま朔夜さんは俺達を通りすぎ、鳥居の方へ。そして、鳥居を潜って境内の外へと抜けていった。

 

「…千尋」

 

「うん?」

 

 去っていく朔夜さんの背中が見えなくなるまで見送ってから、ふとナツメに声をかけられる。

 ナツメは隣から俺を見上げていた。

 

「ありがとう」

 

「…あぁ」

 

 お礼の言葉に短く返事を返す。

 

 ナツメの笑顔を見返しながら、脳裏に過るのは去り際の朔夜さんの表情だった。

 その顔は、あの時と同じ表情だった。今回の話の中で一瞬朔夜さんが浮かべた、物悲しげな表情。それと同じだった。

 

 基本、いつも飄々としているように見える朔夜さん。先程までのように本気で怒ったり、下らない事で号泣したり。

 ただ、あんな悲しげな表情を見るのは今日が初めてだった。こんな朔夜さんを語れる程、付き合いは深くないのだが。

 

『ナツメさん。千尋さん』

 

 朔夜さんが浮かべた表情に引き込まれていた思考が戻る。

 背後から声をかけられ、俺とナツメは同時に振り返る。

 

『…どうして』

 

 振り返った先にいるのは赤い蝶。表情はないが、その声から戸惑いの感情が聞いてとれる。

 

「ただの…自己満足です。私がそうしたいと思ったから、そうしたまでです」

 

「俺も同じです。ナツメがしたいと思った事を手伝いたい。そう思ったから、そうしただけです」

 

 問い掛け、もしかしたら赤い蝶にそんなつもりはなかったのかもしれないが、俺とナツメは自分の思いを正直に打ち明ける。

 ただそうしたかったからそうしただけだ、と。貴女のためではなく、自分に従っただけなのだと。

 

『…申し訳ありませんでした』

 

「…さっきも言いましたが、俺達は」

 

『いえ、その事ではなく…。私は、私の自分勝手な気持ちであなた方を危険に巻き込んでしまった。その事を謝りたいのです』

 

 それは朔夜さんも言っていた。あの男神はこの人を生き返らせようとしている、と。

 つまり、俺の目が、ナツメ達の魂が狙われている件に関して少なからずこの人も関わっているという事。

 

「あの…、教えて頂けませんか。貴女に生前、何が起こったのか。…朔夜さんとあの神と、何があったのか」

 

『…』

 

 結局、朔夜さんは詳しくは語らず去ってしまった。今この場で俺達を取り巻く事件の元凶について知っているのは、この人だけ。

 

 彼女はしばらくの間黙り込んだ。その心中で一体何を思っているのか。話すかどうかを迷っているのか、それとも自身の生前に思いを馳せているのか。

 

『…三百年前』

 

 その時、彼女は語り始める。

 

『夫を亡くした私は、娘と二人で暮らしていました』

 

 事の始まりを。

 

『裕福ではありませんでしたが…、幸せでした。娘と笑って暮らせる人生が、幸せだった…』

 

 三百年もの間、一人の人間と二柱の神を繋ぐ因縁の始まりを。

 

『ですがそんな時、あの方は私の前に現れた』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「悪いが、貴様を殺させてもらうぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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