静まり返る夜道。時折吹き荒ぶ風が体を震わす。
周囲に人の気配はない。ここにいるのは俺達だけ。
目の前にあるのは赤い鳥居。その奥に見えるのは墨染神社の本殿。俺達は何も言わないまま、境内の中へと足を踏み入れた。
途端、空気が変わった様な気がした。真冬のそれも真夜中の冷たい寒気の中にどこか温もりがある。
その温もりを感じさせるのが何なのか、俺達はもう知っている。きっと、もう俺達がここにやって来た事にその人も気付いている。
「はつさん」
本殿の前で立ち止まり、一息置いてからその名前を呼ぶ。
口から出した声が闇に溶けていく。余韻も何もなく、辺りに沈黙が流れる。
その中で、俺達の前にどこからともなく一匹の蝶が現れた。
赤い鱗粉を散らしながら羽をはばたかせて現れたその蝶は俺達の前ではばたきを止める。
『…よく気が付かれましたね』
はばたきを止めても空中に留まり続ける蝶から聞こえる女性の声。
はつさんが発した声には隠しきれない驚きが込められていた。
「貴女が何故あの神に自分から会いに行かずにこの神社に留まっているのか。その理由を考えるとこの結論に至りました」
『…そうですか』
はつさんの言葉にそう返事を返すと、今度はどこか諦念が籠った声で短く一言を漏らした。
先程のはつさんの台詞は自身が近くにいる事に気付いた事に対してではない。
俺の後ろにいる彼女をここに連れてきた事へのものだ。
「…お母さん、と呼べば良いのかな」
『いいえ。…三百年前はそうだったというだけで、今の私は貴女の母ではありません。
後方から聞こえてくる、地面を踏みしめる足音。その足音は俺のすぐ隣で止み、同時にその場所ではつさんに語り掛ける声がする。
俺の隣に立つ少女、墨染さんにはつさんが返事を返す。かつて、自身の娘
今、彼女の心中はどうなっているのだろう。
「三百年前に亡くなった貴女の娘の魂は転生を続けていた。そして巡りめぐって、この神社の娘として生まれ落ちた」
「貴女はずっと見守っていたのでしょう?希さんの…貴女の娘の魂の行く先を」
『…いいえ』
ミカドと明月さんが発した言葉をはつさんが否定する。
羽から舞う赤い鱗粉の量が増えた様に思えた。
『私が娘の事を思い出したのはここ最近─────。それまではあの方に会いたい気持ちと、朔夜様への恨みが私を突き動かし続けていました』
はつさんから発せられる声がはっきりと木霊する。
その声の中に小さいながらも確かな激情が込められているのが感じ取れた。
『世界中を飛び回りました。あの方を探して…、あの方にお会いしたくて…。けれど、あの方の存在を感じる事すら出来なかった。すぐに分かりました。朔夜様が私とあの方を会わせない様に仕組んでいるのだと』
どこへ行っても会いたいと請い願う相手と邂逅できず、しかもそれが自身を殺した相手によって引き起こされている事だと悟ったはつさんの心境は想像するに容易い。
『絶望した私が辿り着いた場所が…この神社でした。特に意識をした訳ではありません。それなのに…、疲れきった私は無意識に、この場所に帰ってきたのです』
はつさんが墨染さんを見た、様な気がする。
『その時初めて、怒りと妄執に囚われていた私は娘の事を思い出しました。あの子を産んだ時の事を…、あの子が嬉しそうに笑う顔を…、あの子が怒って泣いた顔を…。あの子との幸せな日々を思い出しました。ですが私は、あの子の名前だけ思い出す事が出来なかった』
娘との日々を思い出しながら語っているのだろう。はつさんの声は先程とは打って変わって幸せに満ちていた。
しかしそれも少しの間だけ。すぐに、はつさんの声は沈んでいく。
『…私は母親失格です。自分がつけた娘の名前を忘れたまま他の事に現を抜かしてしまう愚か者です。そんな私が貴女の名前を思い出そうとする事がどれだけ許されざる事かは分かっています』
「そんなことないっ…!」
ひたすら続く痛々しい懺悔に耐えきれなくなった墨染さんが口を開く。
「忘れた事を思い出そうとして何が悪いの?失くした物を探して何が悪いの?貴女は…お母さんは何も悪くない!」
『…希さん』
「違うでしょ!?貴女にとっての…お母さんにとっての私は──────」
時は二日前に遡る。俺が墨染さんの魂を星詠みの瞳で覗き、全てを悟ってからの話だ。
あの後俺達はすぐに散らかしてしまった資料を元の場所に片付け、墨染さんも連れてステラへと戻った。
「希が赤い蝶─────はつの娘だと?」
「間違いない。この瞳で確かに見た」
俺が導き出した結論を耳にしたミカドが驚き目を剥く。
ミカド以外の、ナツメ達にはステラに戻る道中で説明していたためこの場では驚いていないが、始めに話した時はミカドと全く同じ反応をしていた。
そして当のはつさんの娘の魂を宿した墨染さんはというと─────何が何だか分からない様子。呆けた表情で何度も首を傾げ、疑問符を浮かべていた。
「赤い蝶?蝶の娘?つまり、私は芋虫だった?」
「違うぞ希。お前は人間だ」
まあいきなりそんな話をされても混乱するだけだろう。墨染さんのフォローはとりあえず高嶺に任せておくとして、今はミカドを交えてこれからの方針について話し合う事にする。
だがその前に、俺がこの結論に至るまでの経緯をミカドに伝える。
「…なるほど。あ奴は我輩達に願いを伝える以前から、娘の名前を思い出そうとしていたという事か」
「疑ってた訳じゃないけど、はつさんの一番の願いが娘の名前を思い出す事っていうのは確かだと思う」
「だろうな。請い慕う男との再会を差し置いて墨染神社に居座り、希を見ていたのだからな」
はつさんが会いたいと願うあの方との再会は叶えてあげられない。だがもし、娘の名前を
「だがどうする。転生した娘の魂を見つけたのは良いが、三百年前の記憶を─────それも文献に残されていないものをどうやって辿る」
そう、
はつさんの娘の名前なんて現代まで何らかの文献として残っている可能性は限りなく低い。
だがすでにその問題を解決させる方法に見当はついている。というより、ミカドは墨染さんの魂を俺が覗いたというのをもう忘れているのだろうか?
「俺が覗くよ。今度は墨染さんの魂の深い所まで」
「…そういう事か」
という事で、またまた俺の出番である。
高嶺のお陰で少しは落ち着いたか、さっきよりも冷静でいる様に見える墨染さんに歩み寄る。
「あの…?」
「悪い、少しだけ我慢しててほしい」
不意に近づいてきた俺に戸惑いの視線を向ける墨染さんの肩に手を乗せる。
触れられた墨染さんが小さく震える、が、そこまでだった。俺の手を振り払いはせず、やや不安げに見上げてくるだけ。
変な事はしないという信用は得られているようでこっちも安心する。だが、まあ墨染さんが思う変な事とは違うベクトルの変な事をこれからするのだが。
「俺が話してた事、よく分からなかっただろ」
「え?…はい」
お店に戻ってきて、俺達が話していた事を全て墨染さんは聞いていた。
自分の事を話している事だけは理解できただろうが、それ以外の事はきっとさっぱりだった筈だ。
「多分、墨染さんと俺はこれから同じ景色を見ると思う。それを見終えたらきっと、俺達が話してた事の全てが解る」
「…」
「…始めるぞ」
そして今、俺が話している事も墨染さんには理解しがたい話だった筈。それでも、俺に身を委ねてくれる事に感謝しながら意識を集中させる。
目を閉じれば先程まで広がっていた視界が閉じられ、暗闇が広がる。
しかし意識を集中させる毎に闇に塞がれた筈の視界の奥に小さな光が浮かぶ。その光を手繰り寄せていく。
光は広がり、広がった光の奥には見覚えのない景色。風に揺られる草原が、その草原に立つ一人の女性が。
女性は微笑みながらこちらを見守り、風に撫でられる髪を押さえながらやがてこちらに歩み寄ってきた。
『待って、──』
口を開いた女性が呼んだその名を、確かに俺と墨染さんは耳にしたのだ。
「お母さんにとっての私は、
『─────』
はつさんが息を呑む。
そう、俺と墨染さんが覗いた魂の記憶の中で確かに彼女は、
記憶を追体験する俺達の方を、つまりはつさんの娘の方を見て。
『こと─────。こと…、こと。ことっ』
はつさんは何度もその名前を反芻する。何度も何度も繰り返し、自身に再びその名前を刻み付ける。
『そう…そうです…!私の…娘の…、あの子の名前は…っ!』
ふらり、とはつさんが墨染さんの方へと揺れ動く。
だがはっ、とすぐに身を固まらせてその場で止まってしまう。
そんなはつさんを、墨染さんは柔らかく微笑みながら見つめていた。
「お母さん」
『…違う、違います。貴女は…貴女は、ことじゃない』
「…今だけは、ことだよ」
『っ…!』
その言葉で限界を迎えたらしい。再びはつさんは墨染さん─────ことへと近付いていく。
そして、変わり果てた姿となった母は、赤い両羽を両腕の代わりにして娘を抱き締める。
温もりの感じない抱擁。それでも、娘の顔は嬉しそうに綻んで、一滴の涙が目の端に浮かんでいた。
本当の意味での三百年ぶりの親子の再会に、言葉はなかった。ただお互いに抱き締め合って、互いの存在を確かめ合う。
「…」
そんな二人に俺は背を向けた。
いつまでもここに、墨染さんの隣に立ったままでいられなかった。今この場に俺という存在はただの邪魔でしかないのだから。
振り返った俺を迎えたのは、ずっと俺達のやり取りを見守っていたナツメ達。
「お疲れ様」
一歩、俺の方に足を踏み出したナツメが微笑みと共に手を差し伸べてくる。
「…うん。ナツメも。皆も、お疲れ様」
その手を掴み、ナツメの背後の皆にも声をかけてから俺はナツメと手を繋いだまま今も続く親子の抱擁に視線を向ける。
「─────」
一瞬、目に映るべき景色と違うものを見た気がした。
地面に膝をついて小さな子供を抱き締める母親と、すがるように母親の首に両腕を回して抱き着く女の子の姿。
「…」
寄り添い合う少女と赤い蝶の姿に微笑みが溢れる。
ようやく果たされた親子の再会。見ているだけのこちらですら込み上げてくる思いがある。
実際に再会を果たした二人は俺達とは比べ物にならない喜びを噛み締めているのだろう。
冷たく流れる筈の冬の風を感じない。今この時、この瞬間だけ、まるで二人を祝福するかの様に、今の時期ではあり得ない優しい温もりを感じさせる風が優しく撫でた。
「…誰かが来る」
そんな幸せの一時に水を差す何者かの気配。俺がその気配を察知し、振り返るより先にミカドが口を開いた。
俺だけでなくナツメ達が、抱き締め合っていた親子が反応し、ミカドが見つめる先へと振り返る。
「誰だ…?」
俺達が振り返った先、鳥居を潜って境内へと入ってきたのは一人の男だった。
ふらふらと覚束ない歩調でこちらに歩み寄ってくる男は、虚ろな瞳でありながらも真っ直ぐに、俺とナツメを睨み付けていた。
「人間…?馬鹿な。どうやってこの結界に侵入してきた」
ミカドの戸惑いに満ちた声が響く。
ミカドの言う通り、今この神社の周囲はミカドが張った結界に覆われている。目的は俺達以外の第三者に侵入されないためのもの。
もしこの結界に侵入できるとすれば、俺とミカドの中で浮かぶ存在はたった
だからこそ、俺もミカドも侵入者の存在を察知した際はそいつが来たと頭に浮かんだ。
実際は、俺とミカドが立てた予想とはまるで違う存在が俺達の前に現れた。
『…どうして』
「お母さん?」
背後から聞こえてくる震えた声。直後、その声の主に問い掛ける墨染さんの声がした。
『どうして、貴方がここに…』
俺達が振り返った先で、やや墨染さんから離れたはつさんが、境内に侵入してきた男を呆然と見つめている様に見えた。
そしてその声を聞いた男がぴくりと反応し、そして俺とナツメを睨み付けていた視線をはつさんへと向ける。
「変ワリ果テタ姿ニナロウトモ、ヤハリ気付クモノダナ」
その声はまるで古いスピーカーから発せられる音のように濁り、誰か二人の声が重なっているように響き渡った。
「ハツ…。迎エニ来タゾ」
『っ…』
はつさんに向けられたその一言と、息を呑むはつさんの声で悟る。
何故ここにいるのか、ここに入って来られたのかは分からない。
しかしこいつは確かにここに存在している。今はそれだけでいい。それだけで、これからするべき事はハッキリするのだから。
「…久シブリダナ柳千尋。ソノ瞳、此度コソ貰イ受ケヨウ」