プロデューサーを辞めて樋口のヒモになる話 作:吉田
仕事を辞めた。
もともとW.I.N.G.というシビアな競争の世界に強いプレッシャーを感じていたこともあったが、とどめとなったのはおそらく先日まで担当していたアイドルのキツい言葉による精神の不調だと思われる。
なんというか、マジでずばずば言ってくる子なのだ。
一人の人間にあそこまで敵意をむき出しにされることは、まあ普通に生きていればなかなかないだろう。少なくとも俺には初めての体験で、彼女とどう接していくべきか最後まで正解が分からなかった。
だからと言ってべつに彼女を嫌っていたり恐れていたりするわけではない。ただ、あの調子で無能を指摘され続けると、だんだん俺はアイドルが頂点を目指す努力の邪魔になっているんじゃないかと不安に感じられるようになったのだ。
そうして「失敗してはいけない、上手くやらなくてはいけない」という緊張が大きな失敗を生み、そのことで余計に「失敗してはいけない」という強迫観念に囚われる負の連鎖に陥った。
そんなこんなでいよいよ本格的に俺が彼女らの邪魔になっているなと確信できたところで、思い切って仕事を辞めてみた次第である。
引き継ぎで接した新プロデューサーはなかなか有能そうだったし、まあこの先はトントン拍子だろう。
もうアイドルたちのことを心配する必要はない。
これからは心に落ち着きを取り戻して、悠々自適に毎日を過ごせる――
はずだった。
ところが実際に何もしないとなると、趣味を持たず仕事に打ち込むことくらいが生きがいだった俺は妙な後ろめたさから落ち着かなくなって、部屋の中を意味もなくそわそわと歩き始めるようになった。
そしてその時になって俺はこの部屋が歩くのに最適でない空間ということを知る。仕事のストレスから生活能力が著しく低下し、ゴミが散乱し飲みかけのペットボトルが大量に床に置きっぱなしとなっている
片付けようにもどこから手つ付けていいか分からないという有り様。
片付けなくてはと思った。
何かしなくてはと思った。
しかし何もしないことには変な気まずさがあるのに、実際には何をするのも億劫で、片付けは出来ないし外のバイトもダルいしで何も手につかなかった。
それでも俺は、「せめて在宅の仕事でいいから、とにかく何かしなくては」と考え、造花造りの内職を始めた。
他にすることのない俺は、一日中、ひたすら造花を造り続けた……飲まず食わずで三日間。極端だ。馬鹿なんじゃないかと自分でも思う。
でもひたすら造った。
ひたすら造る。
ひたすら造る。
そうして途中で意識が
大量の造花の上で俺は意識を手放した。
目が覚めると何もかもが見違えていた。
まず汚かったはずの部屋が整理されていた。ベランダにはパンパンに膨れ上がったごみ袋がいくつもあり、部屋の隅に大量の造花が積み上がっていた。
次に音があった。何かを焼く音だ。
それから……匂いがあった。
「目が覚めましたか」
台所の方からアイスコーヒーみたいに冷えた声がする。
聞き覚えのある声だが――その人物がここにいるはずもない。何かの間違いだ。
俺はどきどきしながらいつの間にか被せられていた布団から出、声のあった方を確認した。
「
その人物は、俺の担当アイドルだった樋口
涼しげな垂れ目と常につり上がった眉毛が意志の強い……というよりきつめの印象を与えている。少し顎を上げ、まるで見下すようにしている仕草やそのファッションも含め、全体に気の強そうなな雰囲気をまとっている。やわらそうなのは赤茶けた色の髪の毛くらいか。
そして見た目から受ける印象は大体間違っていない。実際の樋口は確かに気の強い少女で、そもそも俺が仕事を辞めた原因は彼女の悪態にあるのだった。
そんな彼女がどういうわけか台所に立っていて、何かを作っていた。
どうしてここにいるのか分からなくて、ただただ混乱する。どんなボタンの掛け違えからこんなシチュエーションに発展するんだ?
「えーっと……状況が理解できない……。なんでここにいる?」
「はづきさんに住所を聞きました」
辞めた従業員の住所を他人に教えるのはNGだが……まあどうでもいい。はづきさんも俺がそんなことで咎めることはしないと踏んで樋口に住所を開示したのだろう。
だが俺が聞きたいのはそういうことではなくて……
「どうやってここに来たのかって意味じゃなくて、どうしてここにいるのかって意味なんだが……」
「…………」
そのことについてはだんまりだった。
とはいえ樋口が来てくれなければどうなっていたかわかったもんじゃないので、とりあえずは不問にしておこうと思う。
「……まあいいけどさ。部屋、片付けてくれたんだ」
「そうでもしないとここにいられないので。片付けるか出ていくかの選択になります。はっきり言って異常ですよ、さっきまでの惨状は」
「それ、なに?」
「……卵焼きです。普段、料理とかしないので、凝ったものは作れません」
「いや、ありがとう」
香ばしい卵焼きの匂いが漂ってきて、ここしばらく何も食っていなかった俺の食欲を刺激した。
ぐうううううっとお腹が鳴る。俺の方はなんとなく気まずい気持ちになったが、そんなつまらないことで樋口は突っ込んでこなかった。
食事ができあがり、樋口がモノを運んでくれる。卵焼きとパックの白米がテーブルの上に並んだ。
……思えば、テーブルの上に必要なもの以外何も置かれていないというのはとても新鮮な光景だ。記憶の中のテーブルは、油のついた書類だかチラシだかが散らばっているのが常だったから。
食事を前に、どう扱っていいやらわからず樋口をじっと見つめる。
見つめられた樋口は不審そうにこちらを見返していたが、
「……ああ、どうぞ。犬じゃないんだから、いちいち《よし》を待たずに食べてください」
言われて、箸で卵焼きを小さくちぎり白米と共に一口。
空腹は最高のスパイスと言うが、どうだろう。単に樋口の腕が良いのか、文字通り空腹が最高のスパイスになっているのかは判別つかないが、卵焼きの塩っ気がすっからかんの身体全体に染みていくようで、とにかく今まで食べてきた卵焼きの中で一番美味かった。
「なんも気の利いたこと言えないけど……めちゃくちゃ美味しい」
「べつに。コメントなんて求めてません」
体感三秒くらいで食事を平らげると、すかさず500mlペットボトルのお茶が出てきた。
「お茶、どうぞ」
「なんというか、至れり尽くせりだな……」
普段はこちらを小馬鹿にしたような態度を取ってくる相手なので、謎の献身に裏があるんじゃないかと勘繰ってしまう。普通に怖い。
「流石に目の前で野垂れ死にされては私も気分が悪いので。もう少し今の自分のみすぼらしさを自覚してはどうですか。はっきり言って、汚らしい」
「うっ……」
献身ぶりは異様だったが言葉の刺々しさは相変わらずの樋口円香だった。だが、俺は違う。前までの俺なら樋口のチクチク言葉にミスター・好青年(※樋口談)式のとぼけた返しをしていたが、プロデューサーを辞めた今の俺に、樋口の生意気を我慢する理由はないのだ。
「みすぼらしいとか汚らしいとかさぁ……事実でも普通他人にそんなこと言わないだろ? ジョーシキでもの言えよジョーシキで」
「……っ」
言い返されるとは思っていなかったのだろう。面食らった顔で言葉に詰まる樋口は目新しく、正直かなり愉快だった。
が、いつまでも答えに窮する彼女ではなくて、すぐに溌剌と言葉を投げ返してくる。
「……いつもと雰囲気が違うようですね? 私の記憶では、キラキラした言葉しか吐けない、頭の中がお花畑の夢見がちな人物でしたが」
「そりゃあな、仕事じゃあ相手に合わせて顔色を変えることもあるさ。樋口の場合、ああ接した方がいいかなって判断したんだ」
結果的に正解ではなかったかもしれないが。
「そうやってペルソナを使い分けてまで好感度を稼ぐのに必死なんですね。現実は恋愛ゲームとは違いますよ、ミスター・ビリー・ミリガン」
「ぐう……」
ぐうの音が出た。
樋口に言い合いで敵うわけないのだ。
俺はふてくされて投げやりになる。
「で、そうやってまた俺にグチグチ言いに来たのか?」
「……………………」
大して考えず口をついた言葉だったが、樋口は険しい顔で黙りこくってしまった。
慌てて付け足す。
「いや、感謝してるけどさ。飯も作ってもらって」
「……はい、当然です。ご飯どころか、命の恩人かもしれませんよ。あのまま放置していればどうなっていたことか……」
確かに、樋口が来てくれなければ最悪死んでいたかもしれないのはその通りなのだ。
「自分の家で倒れるまで仕事して、それを女子高生に介抱してもらうなんて……」
「情けないな、俺……」
「本当、情けない」左手で前髪を耳にかける。「あなたのような生活能力が著しく欠如した人間は、私が定期的に見てあげないと、すぐにまたああなってしまいそうです」
「いやホント……って、え?」
今、何かとんでもないことを口にしなかったか?
「これから、できるだけ毎日ここに来ます。そうでもしないと、あなたは本当に野垂れ死にしてしまいそうなので」
「いやいや、何言ってんの!? え、俺んちに通う? そんなの無理だし、樋口に迷惑だろ。学校だけじゃなくて、仕事もあるんだからさあ……」
「あなたのようなダメ人間と一緒にされては困ります。この程度の生活管理なら支障ありません」
「そりゃ、口では簡単に言えるけどさ」
「私はできないことをできますと口走るほど馬鹿な人間ではないつもりです」
樋口は頑なに退かなかった。
どんな情熱がそうさせるのかは分からない。
そもそも樋口は俺のことが嫌いだったんじゃないのか?
俺がプロデューサーを辞めてせいせいしたろうに、なんでまた俺にわざわざ自分から近づくような真似をするんだろう。本当に裏はないのか。
「や、ほんと悪いって。大体、俺は仕事辞めたんだからもう赤の他人だろ? なんでそこまでしようとするんだよ」
「…………っ」
言うと、樋口は勢いよく立ち上がって背を向けた。
「……とにかく、また来ます。ベランダのゴミはちゃんと捨てるように」
そう言い残して樋口は部屋を出ていった。
「……なんなんだ、突然」
子供の考えることはよく分からん。
よく分からんなりにこれまでは考えてきたが、もうその必要がない今になってまた悩むのも面倒なので、考えるのはよそう。
それから樋口は宣言通りほぼ毎日俺の家に来るようになった。
樋口の家は俺のマンションのベランダから望める光景の中にある。それも、真っ直ぐに覗ける位置に。つまりこのマンションと樋口の家との間に大きな距離はなくて(徒歩だとそれなりに時間はかかるが)、樋口がここに通うのには悪くない条件というわけだ。
だからと言って、平日にわざわざ早起きして手作りの弁当を俺んちまで届けてくれるのは流石に献身ぶりが凄まじくないだろうか?
「……ああ、ゴミ、出してって言ったのに」
俺に弁当を渡した後、ゴミ袋の放置されたベランダを見てそう一人ごちる。
「ゴミ出しって今日だっけ」
「ゴミの曜日も把握できないんですか?」
「そもそも今日って何曜日だっけ?」
「…………本当、ダメな人」
そう言ってゴミを持って部屋を出る。
俺の元には樋口の作ってくれた弁当箱が残る。
夜になると食材の入った買い物袋を提げて俺の家に寄ってくれる。そして流し台に置いてある空の弁当箱を洗いながら、俺にいつもの皮肉をぶつけてくる。
俺は適当なことを訊いたりして流す。
「学校、どうだった?」
「いちいちあなたに話さなくてはいけませんか?
「いや、お前に言われたくないから。把握どころかバリバリ干渉してくるじゃん」
「あなたにプライベートだとかプライバシーだとかそういった高等な概念があるわけないでしょう」
でもそんなサイクルが崩れるときがあって、それは決まって仕事のせいだ。
『すいません』
『明日は仕事があるのでそちらには行けません』
『ご飯、必ずちゃんと食べてください』
『それと、明日はゴミの日ですので』
『忘れないように』
なんてチェインが来る。
しかし樋口に生活の面倒を見てもらっている俺は、自炊どころかコンビニに行く気力もなくて、結局飲まず食わずで一日を過ごした。
翌朝、樋口がいつも通りに弁当を作って持ってきてくれる。
「おはようございます。……ちょっと、顔色が悪いようですが。ご飯食べましたか?」
首を横に振る。
「……! じゃあ、私が一週間ここに通わなければ、一週間何も食べずにいるつもりですか?」
応えなかった。
「……呆れた! 前までは《体調管理も仕事のうち》なんて偉そうなことを言っていたくせに、自分のこととなるとてんでダメですね」
「もうお前のプロデューサーじゃないし……」
部屋の温度が下がった気がした。
「それ、二度と言わないでください」
「あ、ああ……悪い……」
ただの事実なのに、どうしてそこまで機嫌を悪くするんだろう。
樋口はぶっきらぼうに弁当箱を押し付けて、
「では、私はあまり長居できませんのでこの辺で。ちゃんと食べてくださいね」
と念を押した。
このことがあってから、樋口は以前にも増して過保護になった気がする。それまでは家庭のこともあってか夜には家に来ないことも多かったが、ほぼ必ず寄ってくれるようになった。ゴミ出しについていちいち言わなくなり、すべて勝手にしてくれる。俺はというと、朝に樋口を出迎え、彼女の作った弁当を食べ、生活の中でゴミを生み出し、夜樋口が来てくれるのを待つ、というベルトコンベア式の一日を延々繰り返すだけになった。
そんな生活が二週間ほど続き、俺は樋口におんぶにだっこですくすくと堕落していった。樋口が身の回りのことをしてくれれば、それだけ俺は自活の必要がなくなる。俺は「助かる」が口癖になった。樋口はため息まじりに「本当にしょうがない人ですね」「私がいなければどうなっていたことか」「ダメな人」と言うのが口癖になった。
俺はせめて樋口に金回りのことで苦労してほしくなかったので、絶対に失敗しないという触れ込みの資産運用の話に乗っかり、貯金の七割をつぎ込んだ。リターンはなかった。
ってなわけでここしばらくめっきり外に出ていなかった俺だったが、とはいえこんな毎日ではいくらなんでも飽きが来るのは目に見えている。俺は思い切って外に出てみることにした。その辺を散策して遊べそうな場所を探す。パチンコはなんだか依存症になってしまいそうで怖いので、代わりにゲーセンに寄ってみた。その内のとあるアーケードゲームにハマってしまう。一回のプレイが100円、キャラクターのカードを排出するのにもう100円。一回のプレイだけなら大したことない金額だが、馬鹿みたいにカードを排出して初日から一万円も溶かしてしまった。
うーん、やばいな。
これまで遊びを知らなかったので貯金はそこそこあったが、それも資産運用の件で底を尽きかけている。無職の俺が家賃と光熱費をいつまで賄えるか分からない。
こういった遊びに熱中したいのならせめてバイトでも始めるべきだが、一度知ってしまった怠惰の味からは抜け出せそうもない。
家に帰って樋口が来るのを待つ。
夜、樋口がやって来る。
「……ただいま戻りました」
この生活を続けているうちに、いつの間にか樋口はそう言って部屋に入ってくるようになった。いちいち俺が出迎えることもなくなって、勝手に合鍵を使って上がり込んでくる。
「今日の晩御飯はあなたの好きなハンバーグですよ」
どうせ豆腐ハンバーグだろう。
俺が好きなのはひき肉を使った普通のハンバーグなのだ。
「ありがとう。実は樋口に相談があるんだけど……」
「相談? あなたが。珍しいこともあるものですね」
「ちょっとさ……」人差し指と親指で丸を作って『銭』のハンドサイン。「これが欲しいんだけど」
「は?」
樋口の眉根が額の中央に寄った。
そりゃまあ、怒るよな……。
予想できていたので困らない。
「最悪……。あなた、自分が何を言ってるかわかってますか」
「いや……はは……」
「自分よりも年下の女の子をつかまえてお金をせびるなんて……偉そうな肩書から、落ちるところまで落ちましたね」
笑って誤魔化すしかなかった。そうして樋口の言うことすべてを素直に受け入れ、この場を切り抜けるのだ。
「落伍者」
笑う。
「社会不適合者」
笑う。
「最近運動不足で太ってきましたよね、醜男」
笑……う。
ちょっとムカッとする。
「はあ…………。あなたのような人間にお金を出してあげるなんて、普通ありえませんからね。あなた、誰からも愛されてないんですよ。それじゃ当然ですが。哀れなので、恵んであげます。……いくらなんですか?」
「まじで!? ありがと樋口! じゃあ……とりあえず一万でいいかな」
「《いいかな》って……人として最低ですね。成人したあなたはどうか知りませんけど、高校生にとって一万円は大金ですよ」
ちょっと失言したようで、小遣いを貰うまでに十分くらいお小言を食らった。
で、次の日。その小遣いを全てゲームに費やす。ゲーセンから帰るついでに適当な店で晩御飯を食った。たまにはいいだろう。
家に帰ると樋口がいて、俺の帰宅を待っていた。今日はやけに早い。
「遅い。どこほっつき歩いていたんですか」
なんて言葉とは裏腹に、なんだか声色がやわらかいのが不思議だった。
「いやいや、俺も大人だからさ。そんな母親みたいなこと言わないでよ」
「まあ、あなたのプライベートに干渉するつもりはありませんが。……今日は少し早めに来たので、勝手にキッチンを借りました」
「え?」
テーブルの上を見ると、いつもよりずっと豪勢な食事が並んでいた。パンカップのグラタンとエビピラフ。煮込みハンバーグ、タンドリーチキン、ミネストローネスープ。普段の健康に気を遣ってるらしき質素なメニューから一転、高カロリーでかつ手の込んだ、子供舌の俺がいかにも好みそうなメニューだった。
あちゃー……。
「今から温めますので、早いですが夕食を……」
「あー……その、樋口」
「なんですか。たまにだけですよ、こういうのは」
ほんの少しの微妙な仕草だが、照れくさそうに髪を撫でながら言う。頼むからやめてくれ。
「……いや、その、さ……」あまりにも言い出しにくくて言葉を濁す。「つまりさ、その…………ご飯、食べてきちゃった」
「…………は?」
数学の授業中に芥川龍之介の亡霊が現れたみたいな顔をされた。
あああ、ヤバい。罪悪感で死にそう!
「その、マジでごめん……。ちゃんと全部食べるから」
「……いえ、無理して食べなくても結構です」
どんな罵声が飛んでくるかと身構えたが、意外にも樋口は言葉数少なめに皿にラップを敷いていき、淡々と食事を片づけた。
「明日、チンして食べてください」
そうして部屋を出た。
俺はというと、樋口に済まないことをしてしまったという申し訳なさで胸がいっぱいになり、樋口が去っていった玄関のドアをいつまでもいつまでもじっと見つめ続けた。
それにしても、どうしてこんな日に限って樋口はあんなにも張り切りって豪華な食事を用意したりしたのだろう。本当に間が悪い……。
しばらくして喉が渇き、お茶を取り出そうと冷蔵庫を開けると、中に白い箱があった。
なんだこれ?
箱を取り出し、開ける。
「あ」
中にはワンホールの小さなケーキが入っていた。シュガープレートに俺の名前と「誕生日おめでとう!」というメッセージがチョコレートで描かれている。
そう言えば今日は俺の誕生日だった。
ケーキを食べたあと謝罪のチェインを送ったが無視された。翌日樋口は家に来なくて、俺はミネストローネスープとグラタンを朝に、エビピラフとタンドリーチキンと煮込みハンバーグを昼食にした。そして何もする気が起きなくて寝た。目が覚めると樋口が流し台に放置していた皿を洗っていて、俺は彼女の前まで駆け出して土下座して謝った。樋口は俺を見ずに「もういいです」と言った。
そういった失敗も何度かあったが、樋口は俺の家に通うのを止めなかった。
俺は樋口の尽くしっぷりに甘えるだけ甘え、ますます人としてのランクを下げていった。ゲーセンは飽きてパチンコにハマり樋口に要求する小遣いの金額が増えていって、だけどある日空いているパチンコ台で確変を出したらそこでもともと遊んでいたらしい強面のチンピラに理不尽にブチ切れられてボコボコにされる。俺はボロボロになってよろめきながら帰ったが、その途中横を集団の女子高生が通りすぎたと思えば後ろから大爆笑が聞こえてきて、恥ずかしくなって居た堪れなくなって心がぐちゃぐちゃになった。全員が俺の無様を見て笑っているんじゃないかと思った。
家に着いた俺は布団にくるまり、樋口が帰ってくるまで先ほどのできごとを繰り返し思い出していた。
「ただいま」
「樋口っ!」
樋口が帰って来たと分かると俺は安心して布団から飛び出した。
「ちょっと……どうしましたか。頬、腫れているじゃないですか」
俺は今日起きたことを話した。樋口はいつになく親身に俺の話を聞き、氷水の入った袋を作ったり傷に絆創膏を貼ったりなどの処置を施してくれた。
「俺、樋口がいないとダメだ……。樋口がいないと生きていけないよ。どこにも行かないでくれ……」
不意に、そんな言葉が出てくる。
まだ17歳の女子高生を相手に、なんて情けない……。
俺は自らの惨めさのあまり、いよいよ涙が出てきてしまう。一回り年の離れた女の子の前で膝に手をついて嗚咽を漏らす成人男性の図だ。
「本当に、ダメな人ですね……」
樋口が言って、俺ははっと自分の言ったことの不甲斐なさに気づく。
「樋口っ。今のは……」
「ご心配なく。私はどこにも行きませんよ。どこかの誰かさんは、私がいないと生きていけないようなので」
俺はきっぱりとパチンコをやめ――というかそもそも外に出るのをやめ、家庭用のテレビゲーム機を買い日がな一日家に篭ってゲームをするようになった。樋口はそんな俺に呆れる素振りを見せるも自堕落を止めようとするでもなくひたすら尽くしてくれた。休日のほとんどを俺の家で過ごすようになって、もう俺たちは半分くらい同棲しているようなものだった。
これでいいのだろうかと俺はゲームをしながら思った。毎日がうす暗くてぼんやり漠然とした不安の中にあった。このままの生活を続ければ俺と樋口は落ちるところまで落ちてしまうのではないだろうか。
いや、最悪でも樋口が落伍することはないだろう。俺たちは付き合っているわけではなくて、なんとなく一緒にいるだけの赤の他人なのだから。樋口が俺を見放せばその瞬間にこの関係は終わるし、あっちは後腐れもない。一方の俺は生活能力という生活能力を根こそぎ失い、もう樋口なしでは生きていけないのだ。
この関係が終わったとき、俺は何を頼りに生きていけばいいのだろう?
しばらくして、そんな俺の懸念を表面化するような出来事が起きた。
樋口が熱を出したのだ。
「ただいま」という声がいつになく弱々しい気がしたのでなんとなく樋口を見ていたら急に倒れそうになって慌てて抱き起した。
「ちょっと、大丈夫か!?」
「大丈夫です……ちょっと躓いただけですから」
もちろん大丈夫ではなくて、抱き起した時に触れた樋口の体温ははっきり異常であるとわかるくらい高かったし、顔は真っ赤で弱り切った表情も懸命に体調不良を訴えていた。
無論、俺のせいである。仕事と学校と俺の面倒とをすべてこなそうだなんて土台無理な話だし、この頃は俺の怠惰もますます拍車をかけていて、その分樋口の負担も大きくなっていた。
つまり、当然の結果だった。
しかし樋口は、それでも熱で弱った体を押して俺のもとを訪ねてきたのだ。俺はその甲斐甲斐しさに途轍もないいじらしさを覚えた。
「やめてください……自分で立てますので……」
「いや、ダメだ。樋口はそこで寝てなって」
俺の手を振り払おうとする樋口の肩に半ば無理やり腕を回す。最初はなんとか俺を拒もうとしていたが、やがて諦めたのか抵抗しなくなった。
俺は万年床になっている敷布団の上に樋口を寝かせ、毛布を掛けた。
「…………臭い」
「まあ、男だし。ごめん」
それからコンビニでレトルトのおかゆでも買いに行こうかと思ったが、玄関に立つと途端に動悸がする。パチンコ屋での出来事以来、外に出るのが恐ろしいのだ。コンビニに行くだけ、コンビニに行くだけと五分くらい唱えながらドアを開ける。おそらくコンビニ以外での外出は今後不可能だろうと俺は思う。で、モノを買ってきて鍋で温める。その間、樋口に洗ってもらう前提で流し台に放置していた皿を洗う。
していると、途中で手を滑らせて皿を床に落として割ってしまった。寝ていた樋口が飛び起きて「何やってるんですか」と皿の破片を片づけ始める。
「代わってください。私がやりますから」
と樋口はてきぱき皿洗いを済ませてしまって、俺は何をするでもなく所在なさげに樋口の斜め後ろに立ってそれを眺めて、「いつまでそうしているんですか。邪魔なのでそこに腰かけてテレビでも観ててください」という樋口の言葉に従うまま床に座り込んでテレビのスイッチを入れた。
情けない……。
自分の不甲斐なさに情けなさが込み上げてきて泣きそうになっていると、樋口が皿におかゆを盛ってやって来て、この部屋では初めての食事を摂った。
「……美味しいか?」
「レトルトの味です」
「そう……」
食後、樋口を再び布団に寝かせ俺はテレビを観続けた。
何かしようとすると失敗してまた樋口の手を煩わせてしまいそうだったからだ。
「今日、泊まってく?」
「……不本意ですが、そうさせてください」
「明日も学校あるんだろ。大丈夫か? 親御さんとか……」
「その辺については心配していただかなくて結構です」
素っ気なく言って、寝た。
樋口が寝息を立てている。普段はきつい印象を受ける目元も目を閉じてしまえば安らかなもので、愛おしく感じた。
俺は樋口の寝顔を眺めながら考える。樋口がいなくなったら、どうなるんだろうと。樋口が熱を出しただけでこの有り様だ。もし樋口が身体を壊したら。もし樋口が俺に愛想を尽かしたら……。
翌朝、シャワーの音で目を覚ます。
外はまだ暗いが、このくらいの時間帯から起きなければ樋口は学校に間に合わない。薄い壁一枚隔てた向こう側で素っ裸の樋口が湯浴みをしてるんだと思うと後ろめたくなって、俺は二度寝を決めようとしたが目を閉じても眠れなかった。
それからずっと目を閉じて、樋口がバスルームから上がって服を着て外に出る準備ができたところで俺は寝たふりをやめた。
「おはよう」
「おはようございます。起きましたか」
「うん、たった今」
「そうですか。じゃあ、私は少し出てますので」
買い出しだろう。ここで一泊するのは予定外のことだったので、朝食の用意がないのだ。
「あっ、樋口。熱は大丈夫?」
「はい。おかげさまで」
「あのさ……樋口」
「なんですか。まだ止めますか」
樋口は怪訝そうに言うが、俺には大事なことだった。
昨日のことがあって、俺は考え直したのだ。
――もし、樋口がいなくなったら。
俺は樋口に「どこにも行かないでくれ」と懇願したが、それは間違っている。もし樋口がいなくなっても、俺はひとりで生きていけるようにならなければいけないのだ。いつまでも樋口に寄りかかってばかりでいては、それが却って樋口を俺から遠ざけてしまう結果になる。
自立。それこそが樋口のために――そして俺自身のためになるのだと俺は考えた。
「昨日のことで思ったんだけどさ……俺、これからはバイトとかして、料理も自分で作って、いつも世話かけてばっかりの樋口の負担を……」
言いかけながら樋口の方を見ると――この世の終わりのような顔をしていた。
俺は意表を突かれ、心臓が飛び跳ねる。
なんだ、何か間違えたのか?
「……はい?」
樋口は信じられないというように――信じたくないというように聞き返した。それが何かの間違いであると確かめないではいられないというふうだった。
「いや、だから。ちゃんとバイトして、ちゃんと一人で生活できるように頑張っていきたいなってことなんだけど……」
「私はもう、必要ないということでしょうか」
「や、必要ないというか……そういうわけじゃないんだけど……あー、そういうことになるのかな……」
失言だった。
べつに樋口が不要になったとかそういったことを言いたかったわけではなかったが、言葉の綾でそうとも取れる言い方をしてしまったのがいけなかった。
出かけようと玄関ドアの前にいた樋口は、ずかずかと俺のところまで来ると、俺の胸倉を両手で掴んで叫んだ。
「どうしてですか」
「え」
「なんで、そんなこと言うんですか」
「なんでって……」
「ご飯が美味しくないからですか。お金が足りませんか。それとも――私のことが嫌いですか」
「いや! そんなことはないよ! ここまでよくしてもらってるし……」
「それって、あなたによくしてあげられない私には価値がないってことですよね」
「はあ!? ひ、被害妄想だろ、それっ」
「バイトなんてしなくていい。私がもっと頑張って稼ぎますから……! 料理もちゃんと勉強して、もっともっと美味しいものを作りますっ。好きな時に外食しても、文句は言いません。だ、だからっ――」
樋口は俺の胸倉から手を放し、それを床についた。
「――考え直して、ください……っ」
俺に縋るように項垂れて、樋口はそう言った。そんなふうに感情的な樋口は初めてなので、俺はかなり面食らう。
なんだ? 一体何が起きている?
樋口は一体何にそんな執着してるんだ?
……もしかして、俺なのか?
俺にとって樋口が必要なように、樋口にとってもまた、俺が必要なのだろうか。そして樋口にとって俺を唯一つなぎとめることのできる手段が――献身。それを失ってしまえば、俺がどこかへ去ってしまうと考えているのだろうか。
俺はそんなことで樋口を見捨てたりするだろうか……分からん。
例えば、樋口以外の誰かが樋口のように俺をよくしてくれたら、俺は樋口が不要になるんじゃないか?
彼女が俺の面倒を見てくれるとかそういったことを一切抜きにして樋口を見た時、俺は樋口と一緒にいたいと思うのか?
迷う。しかし。
結論が出せないのが――答えじゃないのか?
俺は場当たり的に言葉を紡ぐ。
「樋口、樋口。俺は自分のことを全部自分でできるようになっても、樋口の前からいなくなったりなんてしないから。大丈夫だから」
しかしそんな口から出まかせは届かない。樋口は見抜く。樋口の目が、俺への不信を物語っている。
「そう言って、また、あの時みたいに……」
また?
俺が樋口のもとを離れたことが、これまでに一度でもあったか?
――いや。
あった。
そうだ、俺は樋口をW.I.N.G.優勝に導くと言って……必ず頂点に連れていくとアイドルの世界に誘っておいて、その役割を半ばで放棄したじゃないか。
樋口は俺がプロデューサーを辞めた件をずっと引きずっていたのだ。
俺はとうの昔に樋口からの信用を失っていて、だからもう俺の言葉が届くことはない。
「わかった。……ごめん。今のは忘れて」
樋口は立ち上がって、俺に背中を向けた。
らしくもなく取り乱したので、そこから普段の自分に切り替えることが気恥しいのだろう。次の言葉があるまで、数瞬の間があった。
「…………はい、忘れます。あなたも、私が言ったことは忘れてください」
そうしていつもの毎日に戻っていった。
俺と樋口の乗った船は沈みかけている。
俺たちは二人して徐に腐っていくのだ。
しかしそんな日々はいつまでも続かない。どんな形であれ、歪んでいるものはいずれ破綻を来すものである。そしてそれは、当人にとってはいきなり途絶したように見えるものだ。
その日、樋口は俺の家に来なかった。