プロデューサーを辞めて樋口のヒモになる話 作:吉田
「……樋口い、どこにいるんだよ……」
俺の独り言が、部屋の中で虚しく溶けて消えた。
樋口が家に来なくなって、もう三日が経つ。
その間、樋口からの連絡はなく、こちらから送ったチェインにも既読はつかない。
こんなの、はっきり拒絶されているのだとしか思えない。逆にそれ以外の解釈があり得るだろうか。
つまり――俺の恐れていた事態がついに訪れたということなのだろう。
俺は樋口に愛想をつかされてしまったのだ。
そりゃまあ、成人して無職で家に引きこもっているダメンズなんかに魅力があるなんてとてもじゃないが思えない。どう転んだところでいずれこうなるのは明らかだった。
だがそれでも、連絡のひとつくらい入れてくれたっていいんじゃないか?
もう俺の面倒を見るのはイヤになったと、たったひとこと告げてくれれば、俺の方でも《終わった》とはっきりするのに……。
もういいや、考えるのは疲れた。
この三日間、何も食べずにいる。外に出ず、日の光にも当たらず……どころか動かず、布団の中で丸まってばかりいる。気分が悪い。頭が痛い。身体が重い。
やはり樋口がいてくれないと俺はダメだ。
樋口がいなくなって五日が経った。
この五日間で味わったのは、飢えと倦怠感と惨めさと、それから途方もない孤独感だった。
樋口がいてくれないと、寂しい。
樋口じゃないとダメというわけなのかは分からない。ただそばに誰かがいてくれればそれでいいのかもしれない。でも俺には、樋口しかいないから、その樋口がいなくなった今、俺はすごく寂しくて、孤独で、辛かった。
「どこ行ったんだよ……」
ご心配なく。私はどこにも行きませんよ。
嘘だ。
俺の前からいなくなったじゃないか。
そうやって取り上げるなら、初めからくれなければよかったのに。
世の中は交換で成り立っている。貰ったら与える。そのようにして全体は循環しているし、個々の関係も保たれている。俺は樋口から貰ってばかりで何も与えてこなかった。与えるものがなかった。
だが、貰ったものを返すべく立ち上がろうとしたのを拒んだのは、他でもない樋口だろう?
そのままでいろと言ったのは樋口だ。俺はその言葉に従っただけで――
――ああ、ああ。責任転嫁の言葉ばかりが出てくる。
やり場のない悲しみを怒りに変換して、ここにいない樋口にぶつけている。
欺瞞だ。
樋口がいないとダメなうえに人を非難してしまうクズな自分が嫌になる……。
――腹が減った。
一日中寝たきりでもどうしてかエネルギーは消費されるらしく、腹が減る。
俺はなんだか無性に卵焼きが食べたくなっていた。
なんでだろう……。
「ああ」
そうだった。
そう、あの時、俺が仕事を辞めたばかりで、一人で、お腹が減って、死ぬほど孤独だった時――突然樋口がやって来て、俺に卵焼きを振る舞ってくれたのだった。
何よりも美味しかった。
ふと、俺はあることに気づく。
樋口は俺を捨てたんじゃなくて、何かのっぴきならない事情から俺の家に来ることができず、また、連絡を入れることも叶わないのではないかと。
のっぴきならない事情。
なんだろう――事故?
さっと身の毛がよだつ。
そうだ、今まで気づかずにいたが、その可能性だって充分にあるのだ。
事故だけじゃない、何か事件に巻き込まれた可能性だってあり得る。
自分のことしか考えていなかった俺は、樋口の身に降りかかっているかもしれない災難の可能性を見落としていた。
確かめなくては。
樋口に繋がらないなら、事務所に。
だが俺の携帯電話は通信契約を打ち切っていて通話ができない。Wi-Fiさえあれば、樋口との連絡はすべてチェインで行えるからので、それで充分と判断していた。さらに関係者との連絡はすべて社用携帯で行っていたので、現状こちらから連絡を入れる手段は何もなかった。
もう樋口の安否を確かめる手段は、直接事務所に出向く以外にない。
ならば――出るしかない。
この部屋を。
だが、そのことを考えるだけで眩暈がした。普通の人にはただ部屋の外に出るだけだが、俺にとっては絶対的な安全圏であるこの部屋から出、人々の自意識やら悪意やらが渦巻く危険な外の世界を旅するということなのだ。
玄関の前でただただ立ち尽くす。出れない。身体が動かない。最寄りのコンビニに行く時は素直に言うことを聞く身体が、外出を拒否している。
そうだ、コンビニに行くと思えばいいのだ。いつもコンビニに行く前に心のなかで何度も唱えている言葉を強く念じれば、普段の癖でむしろ身体が勝手に外に出てしまうはず。
俺は心のなかで強く念じる。
コンビニに行くだけ。
コンビニに行くだけ。
コンビニに行くだけ。
コンビニに行くだけ……
念じていると、右手が動き出した。カチッと開錠し、ドアノブに手をかけ、ドアを押し込む。
開いた! と思うと同時にもう身体は外に出ていて、エレベーターに乗っている。
やった! やった! 外に出れたぞ!
そうして俺はコンビニへ行き、カップ焼きそばとお茶を買って家に帰った。
お茶を一息で半分くらい飲み干して「あ~」と息を吐いて、それから台所に立ってやかんに水を入れて火をかけてお湯を作り、それを口を開けたカップ焼きそばの容器に作ったお湯を注いで三分待ち、ソースとかやくを入れて混ぜて完成したカップ焼きそばをテーブルの上に置いた。
「いただきます」
じゃねえよ!
「何をしているんだ俺は……」
ほかほかと湯気を立てるカップ焼きそばの前で俺は頭を抱えた。
マジで俺はもうどうしようもないな。
本当にダメだ……。
せっかく外に出れたというのに、そのチャンスをふいにしてしまった。
もうコンビニ作戦も使えないし……
改めて玄関の方を見つめると、廊下がどんどんどんどん長くなり、外へ通じるドアが遠くなるようだった。
時間をかければかけるほど、この距離は開いていく。
悩んでいる時間なんてない。
しかしもう俺ひとりではこの距離を埋められない気がした。
樋口、樋口がいないと……。
この期に及んで俺はまだ樋口の助力を求めていた。
だが、樋口はその先にいる。
その先に行かなければ、樋口には会えない。
樋口。
樋口。
樋口。
葛藤なんて無駄だ。
息を吸って、吐いて。
覚悟を決めて。
俺は万里の長城ほどの長さの廊下を歩き、ダイアモンド並みの硬度でガチガチのドアノブを回し、ブラックホールくらいの質量を持つそのドアを開けた。
久しぶりの外出はやはり恐ろしかった。
目に映るものすべてが無職で女子高生のヒモをしている俺を笑っているように思えた。
「あいつ、仕事してないんだって」「女子高生に飼われてるらしいよ」「うわ、くっさ!!」「面構えからして情けないよね~」「パチンコにハマってるんだって」「借金あるらしいよ」「ああはなりたくないよなあ」「ウケる!」
うう、もう帰りたい……。
というか、俺は何をしているんだろう。べつに樋口が何かに遭ったと決まったわけではないし、ダメな俺を見捨てたと考えた方が正しいはずなのに、わざわざ外に出て、辞めた職場に出向かなくてはならないなんて。どんな罰ゲームだ。
樋口がそこにいたとして、「うわ未練がましく来ちゃったよ。キモ~しつこ~」とか思われるのが関の山だ。
うん、そうだ。そうに決まっている。
だが。
それでも、例え笑われても、大恥をかいたとしても、樋口が無事であることに勝る事実なんてない。
樋口の安否を確認できればあとはどうなってもいい。
電車の乗り方なんて忘れていたつもりだったが身体が憶えていて勝手に事務所へ向けて進んでくれた。
かつての見慣れた通勤路を歩き、変わっているところと変わっていないところを確かめながら、俺は事務所に辿り着いた。
283プロダクションの事務所は三階建て家屋の二階にある。階段を上って玄関ドアの前に立つ。辞めた社員が今さら来て、大丈夫だろうか。
知らん!
てかここに来るまでにさんざん悩んだろお前!
もう葛藤は要らん!
事務所の玄関をノックすると、「はい」と聞きなれた返事があって、ずいぶんと久しぶりに見るはづきさんが出てきた。
彼女は俺を見るなり驚いて
「プロデューサーさん!」
と叫んだ。
「元、ですけど」
と俺は付け加える。
「どうしたんですか。あ、もしかして……」
急な訪問でただただ驚かせるばかりになるだろうと思っていたが、はづきさんには俺が来た理由に思い当たる節があるようで、それが俺を不安にさせた。
「とにかく、上がってください」
神妙な顔つきで事務所の中に勧めるはづきさんに着いていき、居間のソファで二人して座る。つい先日までここにいたのだ……という感慨を抱く暇もなく、本題に入った。
「樋口さんのこと、ですよね……」
「どうしてそれを?」
「やっぱり……。ということは、プロデューサーさんのところではなかったんですね」
元、と付け加えるのも忘れ、俺は声を荒げる。
「やっぱり、と言うのはどういうことですか? 俺のところではない、というのも分かりません」
どうして俺を不安にするようなことばかり並べたてるんだ。
はづきさんは俺に言うべきか否か悩む素振りを見せ、やがておずおずと切り出した。
「……実は、先週の金曜日から樋口さんは自宅に帰っていないそうなんです」
俺は頭が真っ白になった。
自宅に帰っていない?
ここで指す自宅とは俺の家のことではなくて、もちろん樋口宅のことに決まっている。
俺の家ならともかく、自宅に帰らないのはなぜだ?
「…………どういう、ことですか」
「わかりません」はづきさんは眉を八の字にして首を振る。「家出ということも考えられますが、もしかしたら事件や事故に巻き込まれた可能性も……というのは、その間に樋口さんが事務所に来たことは一度もなく、アイドルたちも、樋口さんには会っていないそうなんです」
「ノクチルのメンバーは?」
首を振るはづきさん。
ノクチルのメンバーでさえそうなのだから、誰も樋口に会っていないと見て間違いないだろう。
「つまり……行方不明、ということですか?」
「そうなります」
絶望的だ。
「捜索願は……?」
「それが、つい先日出たばかりなんです。というのは、少し前から樋口さんは休日に家に帰らないことが多かったらしくて、最初の頃は親御さんもあまり気に留めてはいなかったそうなんです。心配していたのは、ノクチルの皆さんくらいで……」
つまり、俺のせいだ。
俺の家に通うようになって外泊を繰り返すうち、樋口はしばらく姿を見なくなってもおかしくないような子で、突然いなくなってもあまり心配することはないという空気がなんとなく出来上がったのだ。
「休日が明けても、その……樋口さんはプロデューサーさんと交際しているんじゃないかという噂があったので……なんと言いますか、そのぉ……駆け落ちしたんじゃないかと……」
「まさか!」
「で、ですよねー……」
「樋口とは、付き合ってるとかそういうわけじゃないんです」
俺は言い訳をするようにそう言った。事実だが、逃げ口上だ、とも思う。
「でも、そうだとすると樋口さんは……」
そうだ。
家にいない。事務所にいない。誰も所在を知らない。
なら、樋口はどこに行ったんだ?
ご心配なく。私はどこにも行きませんよ。
「プロデューサーさん?」
突然立ち上がった俺を、はづきさんが不審そうに見上げる。
「すいません。俺、もう戻ります。ありがとうございました」
ここにいたってしょうがないことが分かった。とはいえどこへ行っても手掛かりなどないが……。
踵を返す俺の背中に、はづきさんが声をかけた。
「あの……! 樋口さんは、絶対に見つかります! どうか、気を落とさないでくださいね」
「はい、ありがとうございます」
気休めだ。
それでもありがたく受け取って、事務所の外に出た。
すると階段を下りたところで思わぬ人物に遭遇する。
浅倉透だ。
「あれ、プロデューサーじゃん。久しぶり」
いつも通りのようでいて、その実声に陰りがあるのが分かる。親友が行方不明なのだ。不安なのは当然である。
「ねえ……樋口知らない?」
「悪いけど……」首を振る。
「そっか」
俺はバツが悪くなって目を逸らす。
「樋口と付き合ってるの?」
「いや」
「じゃあ樋口から聞いてない?」
「何を?」
「ヤバいファンの話」
ヤバいファンと来たか……。
樋口が失踪したことと関係があるのなら、絶対ろくなことにならない。
「聞かせてくれるか?」
「聞きたい?」
「物凄く」
「……もしかして、樋口のこと捜すの?」
「まさか」
俺は否定するが、どうだろう。
俺は樋口を自分の力で見つけようとしているのだろうか。確かに見つかってほしいが、俺にはどうにもならない。警察の仕事だと思う。
しかしそれならなぜ、こうして透から話を引き出そうとしているのか。
「……いや、やっぱそうかも」
「ヒーローじゃん。かっこい」
「そんなんじゃないよ。それより、話を聞かせてくれないか?」
「あー、うん。なんか、握手会のときにいろいろ変なこと言われてた。『目が合ったよね』とか『俺に微笑んでくれたよね』とか」
うん? ライブか何かのときにステージ上で目が合ったということか?
厄介なファンだが、まあ割と少なくない勘違いではある。普段、どれだけ悟ったようなことを言っていたって、結局好きな人には認知されたいと思うのが人情だ。それを食い物にするビジネスだって、アイドルの仕事には含まれている。
とはいえまあ、それを至近距離からぶつけられていい気分にならないのは確かだ。そういう意味で、彼女がその人物を危険視してしまうのも無理はない。実際にそういった事件は存在するし。
「透はその場にいたのか?」
「うん」
「じゃあ、何か変だって思ったのか?」
「うーん……怖いなーとは思った」
「そうか……」
透がそう言うのであれば、意識に留めておいてもいいかもしれない。こういう肌感覚は、存外無視しきれない。
「わかった。話してくれてありがとな、透。じゃあ、俺はこれで」
俺は手を挙げて透と別れた。
「お願い。プロデューサー」
家に帰りながら俺は考える。
単なる事故ではない。たぶん、事故なら何かしらの形で見つかるはずなのだ。
つまり、樋口は何か人為的な事件に巻き込まれて――
俺は透の話を思い出す。
ストーカー。
樋口はストーカーに拉致された?
分からない。透から聞いた話は確かに不穏だったが、それでも例の人物が犯人だと確信できるほどに大きなことではないようにも思えた。
しかしその件とは別に、水面下で樋口に近づく影があったのかもしれない。結局は確かめなければ分からない。
「…………」
もうひと仕事必要になりそうだ。
いったん家に帰った俺は服を着替える。ベランダから遠くに小さく見える樋口の家を確かめながら、スーツの袖に腕を通す。久しぶりのスーツは少し窮屈になっていたが、サイズではなくもっと観念的な意味で、俺という存在にぴったりと収まる感じがした。
行き先は樋口の自宅だ。
樋口宅に行き樋口の両親と会う。
「すいません。283プロダクションの者です」
俺は名刺を手渡す。
もちろん方便だ。
樋口宅を訪ねるにあたって、どうすれば樋口の両親に話を通せるか悩んだ結果、283プロダクションの人間であると説明すればいいとの結論に達した。
それ以外の身分で来ようものなら、最悪警察を呼ばれかねない。
「円香さんの前任の者です。今日、お邪魔させていただいたのは円香さんの件で――」
つらつらと前口上を並べ立て本題に入る。
「円香さんの自室に上がらせていただくことは可能でしょうか」
「なぜ、円香の部屋に?」
樋口・父が言った。
尤もな質問である。
「円香さんの捜索に当たって、担当プロデューサーとして接した期間の最も長い私なら、何か手掛かりになるものを円香さんの自室から発見できるものかと思い……」
苦しい言い訳に樋口の両親も渋面を崩さなかったが、最後までそれで押し通した。
樋口の両親から許可を得て、樋口の部屋に入る。
樋口の部屋は階段を上ってすぐのところにある。中は、落ち着いていながらもちゃんと女子の部屋だ。女子の部屋に上がるのは人生初なので緊張する……わけではなくて、これからとあることを確かめるのだが、その結果によっては最悪な事実が確定するので、それが俺の緊張を煽っている。
俺は携帯ラジオを取り出して電源を入れる。周波数を合わせ、番組を流す。ニュースがつまらない非日常のできごとを並べ立てていた。俺は通信環境の悪い部屋で回線状況の良い場所を探すが如く部屋のあちこちを歩き回り、携帯ラジオを振り回していると――音声にノイズが雑じった。
…………。
冷たい石を飲まされたような感覚がする。
が、結論づけるのはまだ早い。
ノイズが走ったのはベッドのあたりだ。俺はベッドの裏に腕を突っ込み、ベッドの背を手で撫でて異物がないかを確かめる――――あった。取る。
盗聴器だ。
「くそっ!」
俺は思わず叫んでから、盗聴器をフローリングに叩きつけて足で踏みつぶしてぶち壊そうとするのをすんでで止める。
ああ、ああ! これで樋口の身に何が起こったかほぼほぼ確定したようなもんだ。樋口はずっとどこぞの変態野郎に監視され、いよいよ我慢ならなくなったそのすっとこどっこいに誘拐されたのだ。
もちろん結論付けるには早い。この盗聴魔の馬鹿が樋口を拉致った人物と同一人物である確証はまだない。
だが、もう、そういうことだろう?
部屋中のあらゆる場所をひっくり返して残りの盗聴器とそれからもしかしたらあるかもしれない盗撮用カメラを探すがそんなものは無かった。だが、どうだろう? ここまでするアホが音声ひとつで満足することなんてあるだろうか?
分からん。だが――もし満足できていないのなら。樋口の生活のあらゆる場面を知りたいと、そのクソが欲望するのなら。
もしかしたら、見ていたのかもしれない……直接。
窓に近づき、外に目をやる。閑静な住宅地。どの家も頭が低く、この部屋を覗くのに向いているようには思えない。
だが遠く――この窓から直線をずーーーっと引いていって辿り着くとある地点に、道具を使ってこの部屋を覗くのにちょうどな十五階建ての建物がある。
俺の住むマンションだ。
俺は散らかしたままの樋口の部屋を出て、樋口の両親に盗聴器を押し付けると「警察に連絡してください!」と言ってマンションに向かった。
俺の中でいろいろと繋がった。
透の話を思い出す。
うん。なんか、握手会のときにいろいろ変なこと言われてた。『目が合ったよね』とか『俺に微笑んでくれたよね』とか
その場面が俺の目には見える。
樋口はひとり家を出る。彼女は夕飯の献立を考えている。考えていると、なんとなく俺の住むマンションを見てしまう。そして俺のことを思いながら、ふっと笑みをこぼす。
そのとき、奇しくもマンションから樋口を監視していたそいつは、樋口と目が合ったと思っただろう。そしてその笑みを、自分に向けたものだと勘違いしたのだろう。
全速力で駆けながら、思考も加速する。さらに気づく。
樋口が誘拐された現場は、俺のマンションだ。
樋口は俺のもとを訪ねようとマンションにやってきたその時、折悪くもストーカー野郎と出くわしてしまったのだろう。樋口がこのマンションに通っていたとストーカーが知っていたのか知らなかったのかは判別つかないが、おそらく咄嗟のことじゃないかと思う。
偶然が重なったのだ。それが樋口を悪い方向へ連れて行き、その偶然性により、誰も樋口の行方を予想できないでいる。
樋口の行方を捜索するにあたって、目撃証言や人物関係の観点に基づき警察は俺ひいては俺の住むマンションまで辿り着くだろう。だが、それまでだ。俺の住むマンションに辿り着くのはいいが、たまたま一緒のマンションに住んでいたストーカーの存在はそもそも想定外のことで、いわば推理小説の登場人物一覧に存在しない人物が犯人のようなものなのだ。見つけられるはずがない。
さて俺んちに戻ってきたところでプランを考える。
流石にこの建物すべての部屋を回ろうだなんて考えは不細工にすぎる。
もっとスマートなやり方はないだろうか?
そこで考える。
犯人は、最初からこの部屋に住んでいて、あとから樋口の家を観察できるということに気づいたのだろうか? それとも、最初に樋口の家を調べ上げて、あとから観察するのに都合のいいマンションとしてここに引っ越してきたのだろうか?
ここまで偶然が重なると前者の考えもありだが、樋口の家に盗聴器を仕掛け、咄嗟とは言え誘拐をおこなうだなんて行動力だけは無駄にあるこの犯人のことだ、樋口の家を調べ、それから樋口の監視に都合のいいこのマンションに引っ越してきたという後者の考えの方が、前者に比べて蓋然性が高くないか?
なら、このマンションに……そうだな……半年以内に越してきた人間を調べ、そいつらに的を絞って部屋を訪ねていけば探索をスムーズに運ぶことができそうだ。
もちろん前提が正しいかどうかは分からんが、無作為に一から調べるよりも方針を決めた方がずっといいに決まっている。間違っていたらすべての部屋を訪ねればいい。そもそもを言えばこのマンションに犯人がいるという推理すら前提から間違っている可能性があるのだし、もうできることをするしかない。
俺はマンションの管理人をつかまえ、半年以内にここに越してきたやつについて訊く。
「え? そんなこと勝手に教えられんよ」
俺はそのジジイにひたすら頭を下げて媚びておだてて話を聞き出そうとしたが、全然答えてくれないので胸倉を掴んで「教えねえと家賃滞納するぞクソ野郎! 人の命がかかってるんだ」と脅すと、202号室と503号室と601号室と701号室と702号室の計五部屋がそうだと教えてくれる。
「ありがとう、長生きしろよな」
と言って六階へ。
マンションの構造上、樋口の家を真っ正面から臨めるのは○○1号室の部屋だけだ。つまり目的地は601号室と701号室のみ。
エレベーターが上昇を続ける中俺の心拍数はバクバク上がる。
六階に到着。まだ開きかけのドアをすり抜けて俺は廊下を走り601号室の呼び鈴を鳴らす。
だが誰も出ない。もう一度鳴らす。
「あの!」
鳴らす。出ない。鳴らす。出ない。鳴らす、鳴らす、鳴らす、鳴らす――
「おいクソ犯罪者! さっさと出てきやがれ誘拐魔この野郎!」
俺がイラついて怒鳴ると、
「なに? 誘拐魔?」
と部屋の中から筋肉がバキバキで身長が190cmはあろうというスキンヘッドの大男が出てきた。
俺はキュゥゥゥッと心臓が委縮し、息がしにくくなる。
「あ、あの……」
「あんた、なに?」
「す、すいません、お宅に円香さんという方はいらっしゃらないでしょうか……」
「いないけど」
「そ、そうですか。すみませんでした」
俺は踵を返す。すると肩をがっしりと掴まれる。
「で、誰がクソ犯罪者って?」
――一分後、俺は顔面にあざを作って七階への階段を上る。
さっきからいろんな所へ行って走って殴られて、俺はもうへとへとだ。
今まで生きてきて今日が一番大変な日なのは間違いない。
それもこれも、
全部、樋口のためだ。
全部、自分のせいだ。
701号室の呼び鈴を押す。出ない。呼び鈴を押す。何度繰り返しても出ない。
部屋の間取りについてだが、このマンションでは玄関から中に入ってすぐ横に台所がある。だからマンションの廊下の欄干を超えると、部屋の台所に繋がる窓が見える。欄干に足をかけて窓に手を伸ばしてもギリギリ窓に届きはしない。しかし、もし窓の錠が降りていないのなら、命を張れば――具体的には欄干から窓に向かって跳躍すれば――部屋に入ることが可能だ。
窓は――少し開いているようだった。
あーあー、やりたくねえなあ!
でももう、ここまで来たからなあ!
退路はふさがれている。こうなったら俺は無敵の人だ。
心臓がもっもって言って嫌な汗が流れて全身が震えて口の中に嫌ァーな苦みが広がる。ここに来たことを後悔してるしなんでこんなことと思ってるけどやめようなんて考えは浮かばなくてそれが本当に嫌でしょうがない。
やるしかない。
俺は欄干に足をかけ――窓に飛び移る!
飛距離が足りなければ七階の高さから地面にたたきつけられて即死だが――手が届いた! 俺は窓枠に手をかけ、なんとかよじ登り台所に侵入した。
不法侵入。背水の陣。ここまで来たらもう何もせずには帰れない。
これで間違いでしたなら最悪だと思ったが、本当の最悪はそうではなかった。
キッチンは男の一人暮らしといった感じでとても汚く、まるでかつての俺の部屋を見ているようだった。この部屋は全体的にうす暗く、それ以上に重苦しく、人がいるような気配はない。だが、部屋の中の陰気臭さに胸騒ぎがする。嫌な予感がして、先ほどの命がけジャンプとはまたべつの怖さがある。
その恐ろしさから逃れるため、俺は楽な希望に縋る。
もしかすると単に留守なだけかもしれない。
しかし現実がそっちに転がることはなかった。
台所を抜け、俺はついにゴールにたどり着く。
ゴールにあったのは――うす暗い部屋の中で仰向けになっている樋口の死体。
「あああっ!」
俺は叫んで、樋口のもとに駆け寄った。口許に手をやる。息をしていない。樋口の目は薄く開いていてどこを見ているか定かではなかった。瞳孔は開き、うつろな瞳を宙に向けている。樋口の顔のすぐ真横に嘔吐物があった。口の端にもゲロがついていたが俺はもうそんなことはまったく気にせず樋口を抱き上げようと背中に手を回した。樋口の身体は以前抱きかかえた時よりもずっと重い。背中に当てた手に力を入れると胸だけが持ち上がって後頭部が床に接したままでそのまま首が折れてしまうんじゃないかと怖くなった俺は頭にも手を差し込み樋口を持ち上げた。樋口の身体は重力やその他外部から加わる力に一切抵抗しなくなっていた。自分の頭を支えられない赤ん坊を抱きかかえるようにして、俺は樋口の胸に顔を埋めて泣いた。
「樋口っ、樋口っ」
情けなく裏返る声で何度も樋口の名前を呼んだ。手遅れになってしまった樋口の名前を呼んだ。
ああ、ああ!
俺はまったく、どうして手遅れになって初めて気づいたんだろう!
俺はどうしようもなく樋口のことが好きで、樋口がどこにもいなくなってほしくなんかなかったということに!
真っ暗で広くて冷たい宇宙の中で初めて触れた人工の光みたいな樋口。
仕事を辞め独りになって倒れた俺を介抱し卵焼きを作ってくれた樋口。
そんな樋口を俺はばっちり好きになってしまっていたのだ。それ以外はもう欲しくなんてなくなっていたのだ。
当たり前だ。そこまでしてくれた女の子のことを好きにならない男が、この世のどこにいるのだろうか? これは俺が当たり前に樋口のことを好きになってしまったというだけの話だ。そして異常な形であり得ない形でそれを失ってしまったという話だった。
もう手遅れだ。
今になって気づいても、遅すぎる。
だからこの気持ちを口にしたところで意味なんてない。
だがそうして遅いと決めつけて今この気持ちを口にしなかったら、俺はそのことを一生後悔するんじゃないか? 手遅れでも意味がなくてもあのとき言えばよかったと、そしてもう今さらになってそれを言ったところで遅すぎると、一〇年後、二〇年後、三〇年後、俺は一〇年前を振り返りながら後悔し続けるんじゃないか?
いつだって今しかないのだ。
俺は言う。
「樋口……遅くなってごめん。俺、やっと気づいたんだ。本当は樋口のことが好きで、失いたくなかったことに。樋口さえいてくれれば他の見返りなんて何もいらなかったのに……。
俺のことを最後まで見捨てないでくれてありがとう。俺を助けてくれて、ありがとう。
本当にありがとう、樋口。俺、この先一人でもまっとうに生きれるように頑張るから――」
そう誓って、心のなかでさらに付け足す。
樋口をこうした馬鹿を絶対に許さないと。
そいつは俺の告白を聞いているのかいないのか、部屋の隅で体育座りをしてうずくまっていた。
「おい、顔を上げろクソ野郎」
呼びかけられ、びくっと震える。そしておずおずと顔を上げる。
憎たらしく憎たらしくててたまらないその顔を今すぐぶん殴ってやりたかったが、情状酌量を訴える時間を与える。
「何か言い訳はあるか?」
そいつは言った。
「まっ、円香がっ、悪いんだよっ。俺が、俺っ、俺のっ、俺がいながらっ、アイドルなのにっ、男と遊んでっ、俺はっ、悪くないっ」
「……なるほど」
殺す。
俺はそいつの腕を引っ張り上げる。「うわあああっ」と悲鳴を上げるそいつの顔面をぶん殴って壁に打ち付けると、死んだように静かになった。さらに追撃しようとそいつに近寄ると、「あああああああああっ!」と奇声を上げながら俺に飛びかかって来た。
そいつは両腕を風車みたいに回し――俗にいうグルグルパンチで俺に反撃を仕掛けてきた。
「――ってえ! ちょ、おまっ、やめっ――いって! おい、それやめろよっ! こら――てめえ! 犯罪者の分際でやり返してくんじゃねえぞ!」
がりがりに痩せて喧嘩馴れもしてなさそうなそいつのへなちょこパンチなんて効くはずもないが、言ってしまえば俺だって部屋に引きこもってばかりの上この五日間はろくに飯も食わずあちこちを走り回って殴られてきたばかりの身の上なのだ。鬼気迫るそいつの猛撃に押され、ついにクリティカルなパンチを身体の正中線に見舞われる。
「がはっ!」
俺は短く吐いて仰向けに倒れそうになり――
樋口の胸の上に勢いよく尻もちをついた。全体重で樋口の胸をプレスする。
「樋口っ!」
すでにこと切れているとはいえ、樋口を傷つけたくなかった。俺は慌てて樋口の上からどく。すると――
「がっ――――はっ! げほっ、げほっ――! ――はあ!」
樋口が大きく息を吸い――むせた!
生きているのだ!
「樋口!」
樋口!
樋口!
樋口!
何か途方もない感情それも喜び八割が俺の胸を去来し目の奥が熱くなった。
そうして俺が樋口を抱きかかえたのは何も感極まってというわけではない。樋口と向き合う俺の後ろで、馬鹿あほクソの低能が獲物――バストイレから取って来たデッキブラシを手にして近づいてきたのを悟ったからだ。
「オアアアアアアアアアアアアっ!」
樋口の頭を抱きかかえながら、背中に打撃を浴びる。俺が反撃しないのは、やつの振るうデッキブラシが万が一にも樋口の頭部に直撃しないようにするためである。せっかく助かるかもしれない命なのだ! みすみす奪われるようなことがあってはならない。
やつは俺が意識を手放すまで攻撃を止めないだろう。なので俺は身体の力を抜いて死んだふりをしようとするが、全身の緊張を緩めると同時に意識まで手放してそのまま二度と力が入らなくなりそうだった。だから力を抜きつつ意識は手放さないというギリギリの境界線で俺は耐え続け、やつの攻撃が止んだところですかさず立ち上がってぶん殴る。
またもや壁に打ち付けられたそいつの頭を、今度こそ反撃がないようにデッキブラシでぶん殴りしっかりとどめを刺してから電話を探す。
時間は限られているのだ。
樋口の身体は衰弱していて、もたもたしていたらいずれろうそくの炎のようにふっと消えて失われてしまうかもしれない。
俺は警察と救急に電話をかけた。駆けつけてきた救急隊員が意識のない樋口を運ぶ。俺も手負いなので、付き添い人を兼ねて樋口と同じ救急車に乗った。
その間俺はずっと樋口の手を握り締めて名前を呼びかけた。気絶なんかしていられない。
途中、樋口がほんの少し視線の焦点を俺に定めて、
「プロ……でゅー……さー」
と久しぶりに俺をその呼び方で呼んだ。
意識が混濁しているためか、それとも俺がスーツ姿だったためか。
いずれにせよその時俺は感動で全身を打ち震わせた。
何者でもなかった俺という存在がようやく定義されたような気がした。
以下は事件の顛末である。
俺の予想通り、樋口は俺の部屋に向かう途中、エレベーター内であの男に襲われ誘拐されたらしい。樋口は強く抵抗したが、それは男にとって意外なことだった。おそらくだが、アイドルのイメージでしか樋口を知らない男にとって、抵抗の際樋口が吐いた言葉の数々は自分が夢に見ていた理想の樋口をぶち壊してしまうそれだったに違いない。
そして樋口は男に誘拐されてからもずっと反抗的な態度を取り続け、男を苛立たせた。
男はいつまでも抵抗をやめない樋口にとうとうしびれを切らして睡眠薬を無理やり飲ませた。仕置きの意味も込めて、大量に。
多量の睡眠薬でオーバードーズを起こした樋口は意識を失った。そして吐いたゲロが喉に詰まって窒息し、身体が衰弱していった。
しかしその後、男に突き飛ばされた俺が勢いよく樋口の胸に尻もちをついたことで、喉につっかえていた嘔吐物が吐き出された。運よく気道が確保され、一命をとりとめたのだという。
幸い男は樋口に対して睡眠薬を無理やりに飲ませる以外の暴力らしい暴力は働かなかったと言うが、樋口の心には大きな傷跡が残ったろう。もっとデッキブラシで殴っておけばよかったと思う。
樋口は苦痛を伴う胃洗浄で身体の中の薬物を外に出したが、意識は混濁したままだ。知能レベルが著しく低下し、まともな判断や高度な意思疎通は難しいと聞く。
知能レベルが通常に戻ったと聞き、俺は樋口の病室を訪ねた。
「よ、樋口」
「……しばらく見ない間にずいぶんとみすぼらしい顔つきになりましたね」
開口一番からこの悪態だ。
だが俺はそれすらも心地いい。
「いろいろあってな」
肩をすくめると背中が痛んだ。
「ってぇ……」
「大丈夫ですか?」
樋口は慌てて身を起こした。
「や、大丈夫だから」
言いながら樋口のそばのパイプ椅子に座る。
樋口を見る。ちゃんと呼吸して、意識もあって、俺のそばにいる。ただそれだけのことがすごく特別で、井戸の底よりも深い……深い感慨を抱いた。うっかりすると涙をこぼしてしまいそうにさえなった。
樋口が突然言った。
「私……アイドル続けます」
「え?」
「退院したら、アイドルに復帰して、これまで通りにちゃんと稼ぎます。だから……」
その先は言わせなかった。樋口の手の甲に俺の手のひらを重ねて、言う。
「いろいろあって複雑だけど、樋口がアイドルを続けてくれるのは嬉しい。でも、それが俺に見返りを与えるためだけに復帰するって話なら、絶対に無しにした方がいいと思う」
「でもっ」
俺は首を横に振った。
「俺、やっぱりちゃんと働くことにするよ。樋口だけ何もかも背負わなくてもいいようにさ」
言うと、樋口が例の悲痛な顔をした。
「そうしたら……きっとあなたは私の前からいなくなってしまいます」
「いや、俺はどこにも行かないよ」
「どうしてそう言い切れるんですか」
「今回のことで、俺、樋口のことが好きって分かったから」
「何……気持ちの悪いこと言ってるんですか」
樋口は窓外に目をやるフリをして顔を逸らした。
長い沈黙が降りるが、悪い気分ではない。
伝えるべきことを伝えられる現実に俺は感謝した。
「……わかりました。もう、勝手にしてください。それで、なんの仕事に就くんですか」
「それなんだけど」
俺は待ってましたと言わんばかりに切り出す。
「アイドルのプロデューサーをやることにしたんだ」
「えっ?」
驚いた顔でこちらを向く樋口。
「283プロに戻ることにした――幸い、社長は許してくれたよ。本当に甘い人なんだから…」
救急車の中で樋口にプロデューサーと呼ばれた時、電撃が走ったような気がした。世界が俺という存在に与える役割として、アイドルプロデューサーという職があるんだと確信した。俺の役割はここにしかないと思った。
「これは子供じみたわがままかもしれないけど、家にいる時間以外にも、多くの時間を樋口と共にしたいと思ったんだ。これ以上幸せなことなんてないと思うんだけど、それってやっぱりダメダメかな?」
問いかけると、樋口が微笑む。
「……はい、本当にダメな――――いえ、」
いつもの口癖を言いかけて、止める。
それから続きを口にすることなく、目を閉じた。
俺は手近にあったリンゴを手に取って果物ナイフで皮をむいていく。ウサギは作れないが、食べやすいサイズに切ることはできる。携帯を見ると、そろそろ出ないといけない時間だった。これから事務所に行かなくてはいけないのだ。
俺は立ち上がって、「ごめん、そろそろ行くから。じゃあ」と言い、樋口に背中を向けた。
すると樋口が、不意に先ほどのセリフの続きを言った。
「そのスーツ、立派だと思います」