練成会の翌日の日曜日、稽古が終わった午後に、浩二は隣町に出かけていた。そこには行きつけの武道具店がある。今使っている剣道具はそこで買ったもので、また竹刀も稽古用、試合用を問わず全てそこで買っている。
「浩二君、最近よく竹刀買いに来とるな」
店主に会計時にそのように言われて、そういえばこの人には言っていなかったと思い出した。
「最近、部活でも剣道してますから」
「そうかそうか。次は部活のお友達も連れてきて、売り上げに貢献してちょうだいよ。はっはっは」
この店主は底抜けに明るい。彼の笑顔を見ていると、ついつい浩二も破顔してしまう。
「じゃあ、また来ます」
ドアの鈴を鳴らしながら浩二は店を出た。それから、買った竹刀の先を自転車のカゴに入れ、柄の部分を肩に乗せて自転車を漕ぎ出す。今日は義手を装着しているので、右腕があった頃とほぼ同じ感覚で過ごすことが出来る。自転車に難なく乗れるのもそのおかげだ。
浩二はとある屋敷の前まで来た。それは浩二の家から武道具店までの道の中で、民家の中では最も大きかった。広大な敷地は漆喰の塀に囲まれて、中を窺うことはできない。
(どんなのが住んでんだろ)
毎度の如く抱く疑問だったが、運良く今日はその答えを知ることができそうだった。門の前に黒塗りの高級車が停まっている。そして、そこから扉を開けて足が出てきた。ハイヒールを履いて、その上はタイツか何かに覆われている。
女だ、と思って見ていると、その女はよく見知った顔をしていた。彼女も浩二に気が付いて、固まっていた。
「岡谷、だよな?」
「新津君、どうしてここに?」
思いがけない遭遇に、二人とも動けないでいた。すると、弘恵の後から出てきた熟年の女性が、弘恵の側を通り過ぎて、浩二の前に立った。顔に刻まれた皺のひとつひとつに、浩二は気圧されてしまう。見た目はどこにでもいる熟年女性だが、有象無象とは違う気品が、浩二を圧倒していた。
「あなたが、新津浩二君ね。お話は娘から常々伺っております。娘の面倒を見てくれているそうですね」
「岡谷の、お母様……?」
「ええ。岡谷みずえと申します。今後ともお見知り置きを」
彼女は笑顔を崩さず、礼儀正しく振る舞っている。しかし、彼女から発せられるオーラが、浩二にリラックスを許さなかった。
立ち話もなんだから、と言われて、浩二はみずえに家の中まで案内されてしまった。広大な敷地と迷宮のような屋敷の内部に、浩二は目が眩みそうになった。やがて、ある板の間にたどり着くと、用意されている椅子に座るよう言われた。その部屋は洋風のインテリアで彩られていた。椅子の座り心地は、これまで体感したことがないほどに良い。木のテーブルや床は徹底的に磨き上げられていて、よく手入れされていることがわかる。このような高級なものに触れ、尚且つみずえのような、圧倒的なオーラを持つ者を前にして、浩二は落ち着いていられなかった。幸いなことに、弘恵がちょこんと同席してくれている。いつも通り、のほほんとした雰囲気を醸し出す彼女のおかげで、幾分かは緊張が和らいだ。
「浩二君」
「はい」
みずえに声をかけられたのは、湯呑みに茶が注がれてからだった。浩二は背筋を伸ばして、硬い声で返事をした。その声を聞いて、クスリとみずえが笑った。
「そんなに緊張しなくてもいいのよ。書道と剣道、ものは違えど道を求めるもの同士。仲良くしましょう?」
「え、ええ」
まだ、浩二は落ち着けない。みずえは道を求めるもの同士というが、だからこそ、浩二は彼女に圧倒されていた。剣道の師範を前にしているのと同じような感覚だった。
弘恵が心配そうな目を浩二に向けていた。大丈夫と目で返事をするが、やはり浩二の心は浮ついたままだった。その浩二の心を見透かしたのか、みずえは大仰に立ち上がった。
「やっぱり、おばさんは引っ込むことにするわ。あとは若い二人でごゆっくり」
何かを言う間もなく、みずえは部屋から出て行ってしまった。残された浩二と弘恵は、無言で顔を見合わせていた。この時初めて弘恵の服を見たが、黒のシースルーの上着が、彼女の身体のラインをうっすらと見せて、浩二をどきりとさせた。また、剣道の時は単なるおかっぱの髪もしっかりと整えられて、非常に可愛らしかった。そのような愛らしい見た目で、彼女は玉を転がすような声を出す。
「あの、私の部屋、来ない?」
「ああ、いいよ」
浩二は即答した。男として、その提案に逆らうことなどできるはずもなかった。
***
弘恵の部屋は、部屋というにはあまりに広かった。というのも、離れのひとつが、まるまる弘恵の生活空間となっていたからだった。母家に比べれば当然狭いが、建売住宅一個分くらいのスペースはある。
「私も女子高生だから、離れた部屋が欲しいって言ったの。そしたら使ってない離れを丸ごとくれたんだ」
弘恵は笑いながら話した。それを聞いて、浩二は特に深く考えることもなく言葉をこぼす。
「へェ、可愛がられてんだな」
その言葉に、弘恵は表情を暗くした。浩二がしまったと思った時には、彼女は彼の手首を掴んでいた。
「面白くないけど、話聞いてくれない?」
弘恵の豆だらけ手と、どこかギラついた目が、浩二を掴んで離さなかった。そのまま、奥の部屋に連れて行かれる。そこの畳の間にあったのは、本がぎっしり詰まった本棚と、小汚く使い古された感のある勉強机、それに壁に埋め込まれた55インチのテレビと、見るからに高級そうな敷布団だった。この部屋が弘恵の生活の中心にあると、はっきりと分かる。ただ不思議だったのは、書道に関するものが、この空間に一切存在しないことだった。
その布団の上に、浩二は有無を言わさず座らせられた。ここまでの彼女の態度に、浩二は違和感を感じずにはいられなかった。剣道部の中でも最も奥手で引っ込み思案なのが弘恵だと思っていたが、今日の彼女はその真逆とも言える様子だ。
「ねェ、新津君。新津君は、どうして剣道を始めて、今の今まで続けてきたの?」
弘恵は笑顔だが、目が笑っていなかった。その目の奥にある暗闇が、浩二がいい加減な答えを返すのを許さない。
「俺は、始めたきっかけは全日本選手権のテレビ中継をたまたま見たからだった。テレビの中の選手がカッコよくて、俺もああなりたいと思った。続けられたのは、端的に言えば剣道が好きだからだよ」
浩二は、そこで一旦区切って息を吐いた。言うべきことを一度頭の中で整理し直して、再び口を開く。
「ひとつひとつの稽古を重ねるうちに、自分の中で少しずつ成長していく気がする。技術的なことだけじゃなく、精神的にもそうなる剣道が俺は好きなんだ。だから、片腕が無くなっても、剣道を手放す気にはなれなかった。片端じゃ選手として食ってくのは出来ないけど、それでも一生を剣道と共にしたかった。だから今は、剣道の指導者になることを夢見て、剣道を続けている」
浩二が言い終えるまで、弘恵は無言で、表情も変えずに聞いていた。しかし浩二の言葉が終わると、彼女はぽつりと、無機質な笑顔のまま言葉を漏らした。
「そっか。新津君はそうなんだ。——じゃ、私の話聞かなきゃだね」
浩二が反応する間もなく、弘恵は告げた。
「私は、書道が嫌い」
その言葉に、浩二は頭を横から殴られたような感覚がした。
「私は、お母さんが嫌い」
しかし、弘恵は言葉を続ける。彼女の言葉のひとつひとつが礫となって、浩二の心に襲いかかる。
「私は、私を書道に縛り付けるこの家が嫌い」
それから彼女は語り出す。怨嗟に塗れた、自身のこれまでのことを。
***
岡谷弘恵は、一人っ子だ。兄弟姉妹はいない。長年子宝に恵まれず、諦めかけていたところで生まれた、岡谷家待望の子だった。母は高名な書家で、父は地元の不動産王。当然のように、母みずえは、弘恵が物心つくと書道の道に引っ張り込んだ。才能が無ければすぐそれから離れられたかもしれないが、なまじ才能があったために、弘恵はみずえに書家として生きることを強制させられた。父も弘恵がそのように生きるのに同調し、書家の道を強いたのだった。
指導は厳しかった。家に帰れば書道の稽古、稽古、稽古。甘えたがりの時期に、母親に甘えられず、厳しく怒鳴られ、平手打ちをされる。弘恵が書道と家のことを嫌いになるのに、時間はかからなかった。
「でも、書道一辺倒の生活だったわけじゃない。ある意味、一辺倒だったけど」
弘恵は語る。母はある程度、わがままは聞いてくれたと。むしろ、脇道に逸れることを奨励していた。理由はこうだ。
「たくさんのことを経験なさい。見聞の広がりが、そのまま書の深みに繋がるの」
書道のため、と言えば小説、漫画、ゲーム、ネット環境など、何でも提供してもらえた。小遣いを貰えるようになってからは、「見聞を広げるために使いなさい」ということで、同年代の女子とは比べものにならないくらいの額を貰った。それでも、弘恵は母のことが嫌いで、憎くて仕方がなかった。
「逆に言えば、書道のためと言わなきゃ、私は何もすることを許されなかった。書道のためじゃなきゃ、私のしたいことを出来なかった。たとえそれが方便だとしても、私はそんな方便を使わずに、自分がしたいことをしたいんだよ。でも、もう遅いんだ。お母さんが関係無くても、私の行動の底に、書道のためっていう言葉が刷り込まれてしまっている」
今でも弘恵は、書の修行をしている。母と書道への怨念を筆に乗せて、激しい字を書く。荒れ狂う大海のように、字がうねり、見る人を飲み込む。不幸なことに、そのような字が更に書家としての弘恵の評価を揺るぎないものにしてしまった。
「部旗の字を書いた時は、特別。家の為でもなく、お母さんの為でもなく、自分と、みんなの為に書いたから。多分、見る人が見れば私らしくない字って言うだろうけど、私にとっては、今後超えることは出来ない、最高傑作だよ」
そのように言いながら、弘恵は自分の書いた字を見せた。「濁流」と書かれたその掛け軸の字は、部旗の丁寧で明るい字とは大違いだった。その「濁流」を見ただけで、黒い奔流が心を抉り、息が苦しくなる。字に溺れるように錯覚する。「交剣知i」と共通していたのは、力強いということだけだった。
「……私より不幸な人がいるのは分かる。多分、道を強制されてる人の中でも、私は自由な方なんだろうね。それでも、私は、心に刻み込まれた書道のためっていう言葉と、それを刻んだお母さんが、憎くて憎くて仕方がない! 何も考えずに、小説を好きになりたかった! 漫画を好きになりたかった! ゲームを楽しくやりたかった! 剣道を、楽しくやりたかった……!」
弘恵は、天に向かって叫んだ。擦り切れそうなその声に、内気で引っ込み思案な、愛らしい少女を重ねることはできない。しかし、その声を出しているのは、間違いなくその少女だった。
顔を正面に戻した彼女は、清々しい表情をしていた。どうやら、呪詛は吐ききったらしかった。
「これが、私の本音。新津君に聞いてもらったのは、まあ、予行演習みたいなものだよ」
「どういうことだ?」
「鈍感なあなたは、その時まで気付くことがないだろうけど、そのときは必ずやってくる。だから、私の言葉を聞いて、私の痛みを知って欲しかった」
弘恵は早口気味に答えた。しかしそれを聞いても、理由の詳しいところは何ひとつ分からなかった。重ねて尋ねようとすると、弘恵の人差し指が浩二の唇に触れた。
「あなたが自分の立場をどう捉えてるかは知らないけど、私たちにとっては、精神的に頼れる人なの。だから、辛くなった誰かは、いつか新津君を頼るよ。誰が辛くなりそうかは気が付けなくていい。ただ、頼ってきた時に対処を間違えないで欲しいの」
弘恵はふう、と息を吐いた。そして、ゆっくりと立ち上がって浩二に背を向けた。
「沢山喋ったら喉乾いちゃった。ちょっと待ってて、お茶汲んでくるから」
弘恵の背中が見えなくなる。手持ち無沙汰になった浩二は、敷布団に手をついてくつろいでみた。すると、左手に違和感を感じた。
(なんだ? ここだけ、下の床が違う?)
浩二は、恐る恐る敷布団を剥がしてみた。そこに見えたのは、一見すると他と同様の畳だったが、押してみるとやはり他の畳とは違う反動があった。好奇心に背中を押されて、浩二はその畳の端に手をかける。それは簡単に外すことができた。そこで浩二の目に映ったのは、取っ手が付いているだけの、簡素な鉄扉だった。
次回は18禁になりますので、「交剣知i-EX-」の方で更新します。