最近、清美は高校に行くのが楽しみになっていた。通学中も、授業中も上の空。頭にあるのは、早く仲間と剣道がしたい、ただそれだけだ。この頃、元々楽しかった剣道がとても楽しい。自分でも分かるほど、指数関数的に実力が伸びていく。
「彼女は天才だ」
「なぜこの才能が埋もれていたのか」
今日この日の県大会個人戦を迎える頃には、警察に稽古に行っていたおかげか、密かにそのような声が愛知の剣道関係者の間で囁かれるようになっていて、清美の耳にも入っていた。しかし、それを聞いて何が変わるでもない。今まで通り、楽しく剣道をするだけだ。
しかし、気になることはある。勇子のことだ。最近、彼女の様子が変だ。浩二たちが入部して暫くは元気を取り戻したようだったが、近頃はまた思い詰めた様子を見せてきている。
今もそうだ。浩二と誠司を含めた四人でアップをしているが、勇子は力み過ぎだ。動きや打突にしなやかさがない。それに、彼女の清美を見る目が、少し怖かった。
それでも、試合は始まり、進んでいく。清美としては拍子抜けだった。相手の動きが全て読める。負ける気がしない。これまで自分が食らった技、見てきた技、偶然出た技——それらを全てモノにできる彼女には、県大会のレベルは児戯に等しかった。抜群の間合い感とセンス、技の多様さを見せつけ、全試合二本勝ちで、圧倒的な力を見せつけて勝ち上がる。しかし——。
(勇子……)
既にベスト8進出を決めた自分と違い、勇子はまだ四回戦、ベスト8決めの段階だった。彼女は接戦を勝ち上がっていた。シードで二回戦から参加した彼女は、その緒戦で長い延長の末に引きゴテという、彼女らしくない技で決着をつけた。
今目の前で行われている試合にしても、本来の勇子からすれば格下の相手に苦戦している。中心を真正面から割る豪快なメンが出ない。手元を浮かせて打ち込まれる電光石火のコテが出ない。メンに来た相手をバッサリ斬る鮮やかなドウが出ない。外れた中心に飛んでいく、芸術とも言うべきツキも出ない。つまり今の勇子のメンもコテもドウも、全くキレがない。見るからに動きがギクシャクしていて、米倉勇子の剣道が、全くできていないのだ。
お互いに鍔迫り合いが多くなり、双方に反則が言い渡される。それから暫くのことだった。勇子の相手が引きメンを打った。勇子は彼女を追いかけ、手元が下がりかけた瞬間にメンを打つ。相手はそれを防いだが、下がりながらということもあり、勇子の体当たりを堪え切れなかった。バランスを崩し、試合場の外に出たのだった。
相手に二回目の反則が付き、勇子に一本が与えられて試合は終わった。試合の一部始終を見ていた清美は、半ば呆然としながら試合場を去る勇子を見つめていた。
(格下相手に延長で反則勝ちだなんて。やっぱり、今日の勇子はおかしい)
清美は声をかけようとして、アップ中に勇子が自分に向けていた視線を思い出した。信じたくはないが、状況的に今の勇子に自分が声をかけるのは逆効果だと清美は悟った。
(新津はまだ試合してるし、西原はもう負けたけど勇子に声をかけさせるのは違うし、誰か——)
制服姿で応援している六ツ寺高の面々を一瞥する。一番勇子の気持ちをわかってやれそうで、勇子が心を許しそうな人物は、雅代しかいない。清美はそう判断して、彼女に駆け寄った。
「雅代。勇子のこと頼める?」
「オーケー。ありゃほっとけないよね」
雅代は二つ返事で了承してくれた。勇子に駆け寄る雅代の背中を見送ると、清美は残った二人に顔を向けた。
「勇子、どうしたんだろうね」
「焦ってるんじゃないかな、勇子ちゃん」
弘恵が目を伏せながら口を開いた。それから、その先は清美が彼女から聞いたことのないような、少し馬鹿にするような口調で続けられた。
「日本一になりたい。でも自分は伸び悩んで、清美ちゃんは凄く伸びてる。自分がチームを引っ張るはずだったのに——こんなところじゃないかな、勇子ちゃんの心の中は」
「弘恵先輩?」
司も、弘恵のいつもと違う雰囲気に訝しむ。しかし弘恵は、当惑する二人をよそに言葉を止めない。
「浩二君の心も勇子ちゃんから離れ始めてる。だから勇子ちゃんは指針を見直さないと、多分復活できないと思う。分かってるよね、みんな」
弘恵の言葉に対して、二人は何も言えなかった。清美にとっては薄々分かっていたことだが、直視するのを避けていた話だった。
(雅代、上手くやってね)
清美は縋るような目で、勇子の方に向かう雅代を一瞥した。
***
最近、苛立ちが治らない。それは自分の剣道に伝播し、みるみる雑に、荒くなっていく。自分が愛知の同年代で一番強いのだという自信はとうに砕け、己の胸に深く刺さった。
この県大会の個人戦も、勇子は全く集中できていなかった。二年生ながら優勝候補として臨んだこの大会で、力を発揮できない。何とかベスト8まで残ったが、今のままでは優勝どころか三位入賞すら絶望的だ。
(落ち着け、落ち着け私。こんなところで折れられないんだ)
深呼吸を繰り返し、力を抜こうと試みるが、一向に肩肘の張りが取れなかった。準々決勝が始まるまでに、調子を取り戻したかった。
勇子が試行錯誤していると、雅代が駆け寄ってきた。彼女は勢いを止めず、勇子の手を取ると有無を言わせない勢いで体育館の廊下に引っ張った。アリーナの近くには人が沢山いたが、薄暗い隅の方に行くと、誰もいなかった。
「勇子、信じてるから。信じてるからね」
雅代は、直視するには眩しい目で勇子を見つめた。ただ、雅代がそう言ってくれたのが嬉しかった。
雅代は、中学で全国道場連盟の大会で個人ベスト8になっているが、結果を出したのはそれだけで、錬成会などで全国ベスト8に相応しい戦いができなかった。それ故に、一発屋などと心無い囁きがあちらこちらから聞こえてきていた。
勇子も、全中ベスト16になった時や、一年生で県三位になった時はちやほやされたが、清美が実力を急上昇させてからは、剣道関係者からの期待も薄れていた。
それだけに、勇子は雅代が「信じてる」と言ってくれたのを喜んだ。雅代が腐らずに頑張っているのに、自分が不甲斐ない様をこれ以上見せるわけにはいかない。
(それに——)
少しだけ、会場を覗く。まだ何試合か行われているが、多くの観客の目を引いているのは、左腕一本でここまで勝ち残り、堂々と戦う大柄な剣士の姿だった。
(浩二が頑張ってるんだ。不貞腐れてなんかいる暇はない!)
勇子は自分の頰を両側から叩いた。気持ちの立て直しはうまくできた。そう思い込んで、今度は勇子から雅代の手を取り、照明の眩しい会場の中へ戻っていった。
***
浩二の四回戦の相手は、名古屋
お互い一歩も譲らない試合展開で、この試合は延長に入っていた。一回戦から接戦を制してきていた浩二の腕は、この時疲労に悲鳴を上げていた。竹刀の鍔を面の上に乗せて、その疲労を少しでも和らげつつ、一方で酒井に対して圧力をかけ続け、無闇に入らせないようにする。今の疲労では、狙うとしたら出端しかないと浩二はよく分かっていた。しかし酒井も浩二が出端を狙っているのは当然気付いているはずで、だからこそ不用意に入れない。この勝負は我慢比べだ。先に動いた方が負ける。
もう他の試合は終わったのか、浩二の耳には竹刀を打ち合う音は一切聞こえなくなっていた。観客も自分たちの勝負を固唾を呑んで見守っているのがわかる。聞こえるのは、自分の息遣いの音だけだった。
その中で、酒井が起こりを見せたように見えた。浩二は迷わず、ほとんど反射的にメンに飛んだ。しまったと思ったのは、酒井の竹刀の裏鎬が浩二の竹刀を擦り上げるのを目の当たりにしてからだった。酒井の竹刀が迫るのが見える。しかし、完全に捨て切って打ちに行った浩二は、それに反応出来ない。ボコっと、酒井のメンが浩二の脳天を叩く感覚があった。その次の瞬間、審判の旗が酒井の技に三本とも上がった。
悔しくはあったが、浩二の気分は不思議とスッキリしていた。捨て切って勝負に出て負けたのだから仕方がない。相手が一枚上手だったということだ。東海大会まであと一歩というところで負けてしまったが、六ツ寺の皆を導くものとして、敗れはしたが良い背中を見せられたと思う。
今日は、芳一は仕事の都合で来られていない。自ら試合をしながら清美と勇子の様子を見るのも大変だったので、ここで負けて指導に集中できると、浩二は意識を切り替えた。
「お疲れ様、浩二君」
面を外すと、六ツ寺の面々を引き連れた弘恵が一番早く労ってくれた。彼女の優しい笑顔が、浩二の心をより澄み渡らせた。
「ありがとう、弘恵。それにみんなも」
「新津の分まで頑張るよ。あと二回勝てばインターハイ出れるし」
ずいと清美が前に出て、左手を軽く挙げた。何を言われるでもなく、浩二はその手にハイタッチする。そのまま、左手で清美の胴の真ん中を小突いた。
「こうなりゃインターハイ出場だけじゃなくて、優勝掻っ攫うつもりでやってくれよ、天才!」
「ガッテン承知」
清美はおどけてみせていたが、その目にはごうごうと燃え盛る闘志の炎があった。今の清美は、ここまで来たらやってやるという気合いに満ちている。
「浩二。私も、頑張るから」
勇子が、浩二と清美の間に割って入るように告げた。その表情と声に、どことなく悲壮感が漂っている。今の彼女では、インターハイ出場は無理だ。浩二はそう思って、せめてこれで変わればと、一言だけ助言をする。
「肩の力、ちゃんと抜いておけよ。じゃないと勝てるもんも勝てないぞ」
「……うん」
勇子は変わらぬ様子だった。浩二は、返事をする勇子の目を見て、己の失敗を悟った。しかし、まだ彼女は二年生だ。ここで負けて、「勝たなければならない」という気負いが無くなれば、また素晴らしい剣道を見せてくれるだろう——そのようにも考えられた。
「さあ、もうすぐ始まるから。二人とも早く準備しな」
浩二が促すと、清美はスキップするように試合場に向かった。一方、勇子はその後ろ姿を少し眺めてから、ゆらりと重い足取りで歩き出した。あまりにも分かりやすいその背中の差が、浩二の心を痛めた。