尾張予選の翌日の月曜日、授業が終わるや否や、司は一年生の教室から飛び出し、道場に向かう。司は悩んでいた。勇子は、尾張予選の準々決勝で負けたのは自分のせいだと言っていたが、先鋒の司が二本負けしなければ、チームは負けなかった。司は剣道歴はまだ四年目だが、それでもいかに先鋒が重要かよく知っている。先鋒が二本負けしたチームは殆どが負ける。それは地区予選レベルから全国トップレベルまで、総当たり戦でも勝ち抜き戦でも変わらず当てはまる原理原則だ。
(強くならなきゃ)
司の脳裏にあるのは、明星高の先鋒の清水だった。女子でもこんなにも力強く上段を扱えるんだと思った。清美には完封されていたが、彼女と当たった時点で交通事故のようなものだ。
足が止まらないから全く居付かないし、大技も小技も自由自在だし、手首が柔らかいからどんな角度でも打てるし、気を抜けば巻き落としを仕掛け、その上どの間合いでも手が出せるから却って自分の間合いが存在しないなど、相当変わった剣道に初見で対処できるわけがない。
「だから清美先輩の真似は出来なくても、清水さんのように上段を取るんだ。私は上段で強くなる」
司の身長は170cmある。女子の中では結構高い。上段を遣う価値は十分にあるだろうと考えた。頭の中で言うべき言葉をシミュレーションする。着替えている時もその言葉を脳内で延々と繰り返した。着替えを終えて道場に入ると、そこには既に浩二がいた。
「新津先輩!」
司は大声で呼んで、高々数メートルの距離を全力で走った。浩二の前に到着すると、先程よりも大きく、浩二に唾を飛ばす勢いで切り出した。
「私、上段を取ります! だから教えてください!」
「ああ、構わないけど……」
浩二は唖然とした顔で、結構引いていた。
***
稽古が始まる前に、浩二は一通りの上段のいろはを司に授けることにした。司が大会が終わってすぐに言い出してくれたことだ。最初は勢いに引いたが、その想いには応えなければと思った。
「まずは打ち云々の前に足だ。左足前の足捌きをマスターしないと、強い上段にはなれないぞ」
「はいッ!」
司はよく言うことを聞いた。元々素直で一本気な性格が功を奏した。一生懸命に上段に構えながら、左足前での摺り足を練習する。その様子を見た弘恵が、こちらに寄ってきた。
「新津君と司ちゃんは何してるの?」
「正田が上段を始めたいというから、その練習だよ」
へえと息を漏らして、弘恵は司を見つめていた。そのまま彼女から目を逸らさず、弘恵は浩二に話しかけた。
「私も、強くならなきゃだよね」
「そうだな。でも岡谷は素質あるから大丈夫だよ。みんなに言えることだけど、焦らず基本を身につければいい」
「確かにこの間の試合は、稽古の結果が出てるって実感湧いたよ。続ければ強くなるよね」
「ああ。あとは試合の経験だ。これからは毎週のように練習試合や合同練習、それと錬成会になる。休みが無くなるのは申し訳ないけど」
練習試合の調整は、主に芳一のコネで行った。本来は顧問の川野の仕事だが、彼女が動かないから仕方がない。川野は対外試合の承認をする以外は本当に無気力だった。とはいえ、そのおかげでレベルの高い高校や大学、芳一の実業団、さらには警察にまで行くことができるので、悪いことばかりではない。
今日の稽古も基本の繰り返しだ。司が上段を始めようが、清美と勇子の個人戦が控えていようがメニューは変わらない。芳一が来れないので浩二が稽古を見るが、それでも部員の気の引き締め方に差異はない。その中でも今日は、特に勇子の気合いの入りようが良かった。昨日の決勝で見せてくれたような、凄まじい気迫だった。
稽古を終えて一息つく勇子に、浩二は話しかけてみた。
「今日すごく気合入ってたな」
「いいことあったからね。絶対に全国行かなきゃって、今まで以上に思ったんだ」
「いいことって?」
「昨日の夜ね、京ちゃんと全国の舞台で試合しよって約束したの」
「キョーチャンって誰?」
横で話を聞いていた清美が、不思議そうに聞いてきた。弘恵と司も同じような顔をしている。その疑問には、雅代が勇子の代わりに答えた。
「楪京のことだよ。私らの代の全中チャンピオンで、道連全国個人三位。今は福岡の上市学園にいる。勇子は友達なんだ」
「福岡のそんな人と知り合いなんだ」
「私も雅代も京ちゃんに負けたんだよ」
勇子は清美にため息混じりに告げた。雅代も苦笑いしている。その時は清美は興味が薄れてきた様子だったが、司と弘恵は逆に興味津々だった。
「どんな感じでその人は勇子ちゃんに勝ったの?」
「延長入ってすぐに相メンで負けたなあ」
食い気味に尋ねる弘恵に、勇子は目を細めながら答えた。顔は笑顔だが、目が笑っていない。懐かしさと共に悔しさも込み上げていたのだろうと浩二には見えた。しかしそのことには気が付いていないのか、司と弘恵は全中の話を聞きたがった。これまで意識することがなかった強豪に心をときめかせているのかもしれない。勇子と雅代は笑顔で受け答えするが、やはり目は変わっていなかった。
「雅代と勇子が怖い」
早々と着替え終えた誠司が浩二の隣に立ち、ボソリとそのようなことを言った。続けて曰く、段々と黒いオーラが立ち上っているらしい。
「勇子負けず嫌いだからね。昨日私が一本取った時もあの子の目めっちゃ怖かったし」
会話の輪から抜けてきた清美も寄ってきた。そして何故か彼女の手が浩二の尻に伸びていた。すんでのところで浩二はその手首を掴んだ。
「おい何をしやがる」
「最近新津とこういうことできてなかったなって。その引き締まったお尻を触らせてください」
「昔も許した記憶ねえよ。つかお前俺のこと嫌ってんのか好いてんのかどっちなんだよ」
「体が好きです。他は興味ないです」
すました顔で清美はハッキリと告げた。そして心底浩二を小馬鹿にした目で見つめる。
「ボディタッチしてくるからって勘違いしないで欲しいな」
「別にお前のことが好きなんて言っとらんだろ」
「何て失礼な! デリカシーってものが無いのかあんたには!」
売り言葉に買い言葉。浩二と清美の言い争いはどんどんヒートアップしていく。そして気がつけば、勇子たちも浩二らを見ていた。浩二が勇子と目が合うと、彼女は目一杯頬を膨らませて、何やら唸りながら大股でその場からいなくなってしまった。
「これだから鈍チンは」
清美も大きくため息をついて去ってしまう。その後を雅代がついていく。誠司はいつの間にか帰ってしまっていた。司と弘恵が残っているが、浩二は剣道以外でこの二人とあまり話したことがなかった。
「帰らないのか?」
当たり障りのないところから声をかけてみる。それに先に答えたのは弘恵だった。
「今女子更衣室に入るのちょっと怖いからね」
弘恵は苦笑いしていた。
「私は、先輩にまだちょっと上段教えてもらおうかなって」
至極真面目な顔で司は答えた。今の浩二には実にありがたい申し出だった。剣道をやってさえいれば他のことが頭に入ることは無い。
「よし、じゃあ面付けてくれ。岡谷も付き合ってもらっていいか?」
急な振りだったにも関わらず、弘恵は快諾した。司の居残りは十五分ほど続いた。
***
その日の帰路は司と共に帰った。弘恵は二人とは反対方向とのことで、学校を出てすぐに別れた。
「先輩の道場に上段の人っていますか?」
一緒になってから会話が無かったが、帰りの電車の中で、司はそのようなことを切り出した。
「ああ、おるよ。館長先生が筆頭で後は若い人で一人」
「今日って道場の稽古あります?」
「あるよ。来るの?」
司はコクリと頷いた。彼女の背後にある窓から見える街の光が、浩二には大層煌びやかに思えた。その光とは比べ物にならないくらい強い目で、司は浩二を射抜いていた。
「私は強くならなきゃいけないんスよ。このままじゃ、勇子先輩の足を引っ張っちゃう」
「強くなれるよ。その気持ちがあれば」
「先輩、だいぶ前向きですよね」
突然、司が真顔でそのようなことを言ってきた。少し面食らいながらも、浩二は思ったままを告げる。
「そりゃまァ、そういうタチだし。正田だってそうだろう?」
「私は負けず嫌いなだけっスよ。正直な話、勇子先輩の話に乗ったのもそういうことです」
司は一呼吸置いて、浩二を見つめ直した。
「
「知っとるよ。俺の一個下の女子の中じゃ、昔からでら強かったでな」
纐纈奈々は、地元こそは尾張の片田舎だが、名古屋の道場に通い、幼い頃からメキメキと頭角を表してきた。全中予選は決勝で勇子に負けたものの、二年生から二年連続で出場を決め、道連の全国大会予選では、二年生で勇子を破って出場した。三年生では東海チャンピオンになり、また全中で個人ベスト8に食い込み、道連の大会では見事優勝した。その後は親元を離れ、上市学園に進学した。
「で、纐纈がどうしたの?」
「私を市大会の個人戦の二回戦でボコボコにしたんです」
早口で司は答えた。制服のスカートの裾をぎゅっと掴む彼女に、浩二は心底同情した。言い方から察するに、彼女は西尾張大会くらいには出るつもりだったと思われた。どう声をかけようか迷っていると、司が続けた。
「凄く悔しくて、何かの形でリベンジ出来ないかってずっと考えてました。それで、勇子先輩が全国目指すって言うので、それに便乗したんです。全国に出られれば、纐纈と対戦する機会がきっとあるはず」
「そうか。頑張れよ」
浩二にはこれしか言えなかった。それでは足りないかと思って、司の頭を撫でてやった。嫌がられたらどうしようかとも思ったが、司は素直に受け入れた。
「勇子先輩にもこうやって頭なでなでするんスか?」
「いや、したことないな。したら嫌がりそうだし」
「一回してあげてみて下さい。きっと甘えてきますよ」
司は浩二の手をゆっくり退かしながら微笑みかけた。普段見ない司の表情に、彼は不覚にも胸を鷲掴みにされた。
次回は18禁要素を含むので別枠で投稿します。