ラブライブ!~虹ヶ咲学園合同企画集~【完結】   作:薮椿

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 近江彼方を初めて見た時のことは、いまだに鮮明に覚えている。

 第一印象は、自由な人。

 声が柔らかくて、眠たげながらもちゃんと前を向いていて、隣にいると自然とこちらも明るくなれる。そして……

 

 ――本当に楽しそうに笑う、そんな人だった。

 

 

 

 

 それまでの私の人生といえば、語るほど大したものじゃなかった。

 親の敷いたレールを無言で歩き続け、文句も言えず、逸れないことだけに必死だった。

 勉強の点でしか親に評価されなかった私は、それでしか自分を語れない。

 親が選んだ高校を受けさせられ、合格した時ですら素っ気なかったけど、その時にはもう『まあいつもの通りだ』というくらいには慣れていた。。

 

 ただ少し気がかりだったのは、私の実家と高校が遠いことだ。遅刻しないためには新幹線を使わなければいけない。

 そのことについては、両親はすでに決めていたみたいで、私に一人暮らしをさせた。

 学校からそれなりに近い集合住宅の一室。お金も全部出してくれた……けど、どうしても追い出されたという感じが拭えない。

 寂しいとは、もちろん口には出せなかった。

 

 さて、私の話はこれくらいにしよう。

 時間はそこから少し進んで、ここに住むことになった日に飛ぶ。

 管理人さんに挨拶し、まだ何も置かれていない自分の部屋を見ると、ようやく一人暮らしの実感が湧いてくる。

 引っ越し業者が家具などを運んできた後、しばらく侘しい空気を吸い込んでから、挨拶のために隣室のインターホンを鳴らした。

 

「は~い」

 

 がちゃりと扉を開けて出てきたのは、エプロンを着けた女の人だった。歳は私と同じくらいかしら。

 長髪のところどころが跳ねているのが幼さを感じさせる。それと同時に、綺麗で整った顔は美しくもある。

 一瞬、独特な雰囲気にのまれそうになる。が、じろじろ見るのは失礼だ。少し目線を逸らして、手早く済ませるとしよう。

 

「隣に越してきた者です。これ、どうぞ」

 

 ネットで調べて、失礼にあたらないような適当な手土産を渡す。

 そうそうお世話になることはないと思うけど、無礼な人と思われて周りに言いふらされるのは面倒くさい。

 

「おぉ~、わざわざありがとうございます」 

 

 間延びした声に緊張は感じられない。とりあえず、いきなり来た見知らぬ人に対しての排他感というのはなかった。

 一言二言挨拶をかわし、その場は終了。

 

 再会は、意外にもすぐだった。

 

 その数日後、私は住宅の階段を下りて、新生活の本格的な始まりに少々の不安を覚えつつ、歩を進めた。

 学校までは駅まで歩いて、そこからさらに数駅。

 登校初日には絶対遅れまいと早めに出てきた。道順は覚えてるけど、東京の朝ラッシュはつらいって言うし。

 

「あれ~?」

 

 道を歩いている途中で聞こえた気の抜けた声に振り返ると、近江さんがいた。

 

「あ、えっと、おはようございます」

「おはよ~ございます」

 

 ぺこりと礼をする彼女に合わせる。

 

「あれ、キミもこっちなんだ~」

「駅がこっちなので」

「じゃあじゃあ、彼方ちゃんと一緒に行こうよ」

 

 別に一緒に登校する義務も義理もないのだけれど、ばっさりと断ると嫌な人に見られそうでしぶしぶと承諾した。

 

 敬語はいらないと言う彼女に従って、私は出来るだけ軽々しすぎないように言葉を崩していった。

 何度も何度もこうやって朝に会うたびに、私たちはお互いのことをなんとなく知っていった。

 

 聞けば、彼女は虹ヶ咲学園高等部の生徒だそうだ。

 自由な校風、多種多様な学部や部活・同好会があり、非常に人気のある学校だ。

 私も一度、憧れたことがある。あんなところで過ごせば、何か見つかるかもしれないと幾度も妄想した。

 

 そこに通う彼方はなんと特待生らしい。

 授業もちゃんと聞いていて、授業料免除などの特待生特権を奪われないように日々の積み重ねを怠ってないと言う。

 家を空けがちな親に代わって家事をこなし、家計のために平日アルバイトも入れているんだとか。

 いつも眠たそうな姿をしているわりには、努力家のようだ。いやそんな言葉で片づけていいものか。

 

 そんな私たちの、どこかよそよそしい雰囲気が変わるきっかけは、いつもの朝の会話だった。

 

「最近成績がちょーっと落ちてきて、先生に色々言われるんだよね~」

「あら、そうなの」

 

 特待生として入学したなら、それなりの成績を残さなきゃいけない。そのうえ、彼女は遅くまで働いている親の代わりに家事をしたり、家計を助けるのにアルバイトをしていたりもする。

 さすがに両立は難しく、犠牲になったのは勉強だった。

 

 飄々と言ってみせているが、心身ともに疲労が溜まっているようだ。だけど家庭の事情もあるから、安易に「やめろ」なんて言えないし。

 しかし、珍しく弱音を吐いている彼方の支えにはなってあげたい。私に出来ることは……

 

「だったら教えてあげるわよ。たぶん、私のほうが少し進んでるから」

「ほんと~? あ、でも……」

「私のことなら気にしなくていいわよ。教えるほうも理解が深まる。そう、これは私のためなの」

 

 彼方はどうも自分一人で背負い込む癖があるから、気を遣わせないように言った。

 

「ありがと~」

 

 屈託のない笑みで言われたけど、私のほうこそお礼を言いたかった。

 こんな私を肯定してくれるように、いつも隣にいてくれるんだもの。

 

 彼方が一緒にいれば、私は自分を好きになれそうな気がした。

 

 

 

 

 そうやって勉強を見る約束をしたのが、もう遠い過去のように思える。

 時間の流れは早いもので、一年生だった私たちは最高学年になっていた。

 彼方はすっかり大人っぽくなって、全てをてきぱきとこなすスーパーガールと化していた。人の目がないところではすぐに横になろうとするくらいお昼寝好きなのは考えものだけれど。

 私も、テストの良い点は維持しつつ、親の干渉が少なくなってのびのびと過ごしている。

 

「あ~、なるほどねえ。そうやって解くんだぁ」

 

 とあるマンションの一室。そのリビングで、私は声の主の方へ振り返った。

 隣には教科書と参考書を開いている彼方がいて、こちらを覗き込むようにしている。

 ふわりと漂ってくる香りは、彼女の柔らかい雰囲気をそのまま匂いにしたようで、優しく鼻をくすぐってきた。

 そんな彼方と肩が触れるくらいの距離で、私たちは座っている。

 パーソナルスペースが狭い彼女に少し戸惑いつつも、逃げられない。その理由は……

 

「あの、すみません、先輩。ここがわからないんですけど」

 

 逆隣からおずおずと話しかけてくるのは、彼方の妹である近江遥だ。

 姉とは対照的にしゃきっとした佇まいで、ぴんと伸びた背筋は文句のつけどころがないほどきれいだ。

 面と向かって見れば、整った顔と快闊そうな瞳が目を引く。街ですれ違えば、思わず振り返るほどだ。

 

 彼女が中学生の時から一緒に勉強会をしているからか、遥ちゃんは私のことを先輩と呼ぶ。実際は、彼方とも私とも違う高校なんだけれどね。

 この二人に挟まれることで私はどことなく安心していた。なんだか居場所を貰えてるみたいで。

 近すぎるのはまだ慣れきっていないけど。

 

 勉強もそこそこに、いい時間になって彼方の手料理をいただくのも恒例だ。

 そこで近況を話したりして、より親睦を深めたりしている。

 遥ちゃんが合格した時にも、こうやって三人で卓を囲んで祝ったっけ。彼女らの親にお礼を言われたことが、良い思い出として残っている。

 

 彩りと栄養バランスの良い家庭的な料理が運ばれ、見た目通りの美味さに舌鼓を打つ。

 同じ食材を渡されても私にはできない。材料費はちゃんと払っているが、作ってもらっているぶん上乗せしたほうがいいのだろうか。

 

「今日は一段と機嫌が良さそうね」

 

 いつもよりやけに上機嫌なのが気になって、私は訊いた。

 

「スクールアイドル?」

「そ。彼方ちゃんも遥ちゃんもスクールアイドルになったんだよ~」

「スクールアイドルって……学生がアイドルやってるっていう、あの?」

 

 疎い私でも、なんとなくその存在と影響力は知っている。

 高校生で結成されたアイドル。言ってみれば、まあご当地アイドル的な存在だ。

 活動をする理由は様々だが、大流行しているらしく多くの高校でスクールアイドルがいる。

 中にはプロ顔負けの人気を誇る人もいるんだとか。

 何度か二人から動画を見せてもらったことがあるから、スクールアイドルが好きなんだとは知っていたけど、まさかそれになるとは……

 

 しかも、遥ちゃんは東雲学院のエースらしい。

 一年生だというのにそこまでたどり着けているのは、ひとえに彼女の才能や努力が人一倍だから。

 

 彼方も最近頑張っていて、日々練習に励んでいるらしい。

 なったのは少し前だがここまで隠してきたのは、サプライズ的な発表をしたかったからと説明された。虹ヶ咲はちょっとしたいざこざがあったようだし。

 

「……彼方は大丈夫なの?」

 

 彼方のことが心配になる。

 効率よく動けるようになって、体力もついてきたとはいえ、これ以上は危険かもしれない。

 

「大丈夫大丈夫。彼方ちゃん、いますっごく充実してるんだ」

 

 彼女は本当に妹が好きで、スクールアイドルが好きで、そのこととなるといつもぐいぐいと話してきた。

 その彼方がやりたいと言うなら止められはしない。まあそもそも止める気もないのだけどね。

 

「遥ちゃんも頑張ってね。あなたなら無理はしないと思うけど」

「ふふ、ありがとうございます」

「ええ~、彼方ちゃんは信用ならないかなぁ」

 

 こういう軽口を言って、最後に遥ちゃんが笑ういつもの日常。こんななんでもない日が当たり前になってきて、私も自然と笑えるようになってきた。

 

 

 

 

 曇り。

 今にも雨が降りそうだ。

 彼方、大丈夫かしら。傘持っていっているかしら。

 

「先輩、これで合ってますか?」

 

 遥ちゃんに言われて、我を取り戻す。いけないいけない。ちゃんとしないと。

 広げられたノートを手に取り、書かれている答えを見る。

 

「ええ、完璧。これなら高得点も難しくはないわね」

 

 スクールアイドル……というか部活をやるからこそ、成績も良くなきゃいけない、というのが遥ちゃんの考えだ。

 頭が悪くなって、それを自分の好きなアイドル活動のせいにされたらたまったもんじゃないものね。

 

「あの、気分が悪いんですか? あまり無理をされないほうが……」

「元からこんな顔よ。私のことなんて気にしなくていいから。テスト近いんでしょう?」

 

 誤魔化せたことに、心の中で胸をなでおろす。

 元々、自分を偽るのは得意だ。親ともクラスメイトとも無用な諍いを避けるために、常に人畜無害の仮面を貼り付けてきた。

 最近それを保てなくなっていることは、大いに反省しなければならない。

 

 原因は、あまり彼方に会えなくなってきたこと。

 スクールアイドルの活動が本格化してきて、勉強に割ける時間が短くなってきている。それでも、自分に合った勉強の仕方をマスターした彼方は高得点を取り続け、誰にも文句を言わせていない。

 私のほうも受験勉強に身を入れるために、一人の時間が増えた。

 あれだけ毎日顔を合わせていたのに、今は一瞬間に一度他愛のない話ができれば上出来。

 

 高校に入る前に戻ったみたい。

 空っぽな自分を埋めるために机に向かって、やめたらまた孤独感に襲われる。ひどく虚ろな私が、生きている意味がわからなくなってくる。

 無性に寂しくなって一睡もできない日もある。そのせいでクマもできてしまった。なんとか化粧で隠しているけど、これだけ近くで見られたらバレてしまう。

 

 ……ダメね。遥ちゃんの支えにもちゃんとなってあげないと。

 身を案じてくれるのは嬉しいけど、気がかりにさせてしまうようじゃまだまだ三流もいいとこ。

 私は私のやるべきことをやるだけ。

 

 私のわがままでこの二人を振り回すことなんて許されない。邪魔になんて、なりたくないもの。

 

「あ、そういえば」

 

 と、遥ちゃんは次の問題を解きながら口を開いた。

 

「私のステージの日、空けてくれましたか?」

「ええ当然」

 

 ライブ出来るのがよほど嬉しかったのか、遥ちゃんはやたらと何度も日時と場所を送ってきた。

 彼方からも同様のことを散々言われて、少し目を離した隙に通知が溜まっているなんて、この数週間の日常になりつつある。

 

「先輩もぜひ、来てください」

「行くって」

「ちゃんと見てくださいね」

「いや念押ししなくてもちゃんと行くわよ」

 

 そんなに信用ないかしら。それとも単純に、絶対に見に来てほしいだけかな。

 彼女らの晴れ舞台となると行くしかないだろう。休日に予定なんてないし。

 それに、頑張っている彼方と遥ちゃんを見ると、きっと私も頑張れるだろうから。

 

 と思っていたのに……

 

「実は、これを最後にスクールアイドルを辞めようと思うんです」

 

 へ? 素っ頓狂な声が上がった。

 急な告白に、私はたじろいだ。

 

「辞める?」

「はい」

「それってどういう……」

「あちゃ~、ごめんね遅くなっちゃって。すぐ晩ごはん作るから」

 

 飛び上がりそうになった。

 いつの間にか帰ってきていた彼方に気づかないほど、呆気に取られていた。

 

「……あ、手伝うわよ」

「いいのいいの。ゆっくりしてて~」

 

 そんなこと言われても、うーん。

 ちらちらと二人へ視線を動かす。なにやら壁のような、見えない何かが挟まってる感じがする。

 ……知らない間に、何かあったみたいね。

 

 

 

「ふんふんふ~ん」

 

 夕食も食べ終わって、遥ちゃんがお風呂に入っている間、私たちはソファに体を預けてテレビを見ていた。

 普通の家族はこんなふうに一緒に過ごす時間が多いんだろうか。勉強に、食事に、歓談に、テレビ鑑賞。二年経っても全部が新鮮に思える。

 

「いつものとは違うわね」

 

 日頃はどこかのスクールアイドルの曲を口ずさんだりするのに、その日はまったく聞きなれないメロディー。

 アイドルに、いやそもそも音楽自体そんな詳しいわけじゃないけど、彼女の雰囲気にぴったり合うような旋律が引っかかった。

 

「彼方ちゃんの新しい曲だよ~。こんどステージで歌うから」

「へえ? あなたが? ステージやるのは遥ちゃんじゃないの?」

「サプライズで、遥ちゃんに見せるんだ~。遥ちゃんには内緒ね」

「言わないわよ」

 

 隠してることを言いふらすことなんてしない。

 それにしても、こんな急にサプライズ企画を立てるなんて……原因は一つしかない。

 

「遥ちゃんがアイドル辞めるって話、聞いてるでしょ」

「うん」

「理由は聞いた?」

「彼方ちゃんが無理してるからだって。お勉強も家事もバイトもやってて、無理してるんじゃないかって、我慢してるんじゃないかって思ってるんだよ」

 

 実際、そう思われても仕方ない。普通ならどこかで倒れてもおかしくないくらいのことをこなしているのだから。

 無理してないというか、無理を自覚してないというか。ずっと前からそうだったけど、いま咎められたってことは……

 

「情けない姿見せたんでしょ」

 

 と言うと、彼方は目をぱちくりさせた。

 

「え、エスパー?」

「それくらいわかるわよ。遥ちゃんにとって、あなたは何でもできるお姉ちゃんだもの」

 

 その姉が出来ないことがあるなんて見せられたら、彼女にとっては衝撃的なことだったんでしょうね。

 で、おそらく『自分がいるから』なんて考えた。

 最終的に辿りついた答えとしては、『姉は自分のために色々と差し出している。本当にやりたいことをさせるには、自分も何か差し出さなきゃ』ってところかしら。

 

「実は彼方ちゃんに練習風景見られたんだけど、まあ結果はおっしゃる通りで」

 

 彼方は他にも時間が取られていて、練習一筋でいくわけにはいかないものね。

 

「だから全力で、見せにいくんだ。家族だけどライバルなんだぞってね。それで、どっちかが背負うだけなのはやめにしようって伝えるんだ」

 

 姉だから、妹に与えることに苦はない。過去も未来もそれは変わることはない。しかしそれが続けば、どちらかがどちらかにもたれかかるようにしか生きていけない。

 やめにしよう。

 一方的な関係はお終いにして、一人でもちゃんと立てて、でも躓いたらすぐに支えられる。そういう関係になろうとしているのだ。

 

「いいんじゃない。彼方も遥ちゃんも、お互いのこと気遣いすぎだから」

「まあちょっとした妹離れってやつ~」

「妹離れ、ねえ。それとはちょっと違う気がするけど……ん、まあ全否定はできないかな」

 

 過保護なのは卒業。

 自転車を後ろから押すのをやめるように、相手の力を信じて、ちょっと手を離す。本当につらい時は支え合う。

 自立していくけど、繋がっている。妹離れってのは、言い得て妙かも。

 遥ちゃんに届くといいわね。

 

「同好会のみんなも協力してくれてるんだ」

「……いい人たちね」

 

 仲間とともに夢を追っている彼方は美しい。周りに素敵な人がたくさんいるからなのでしょうね。

 

「にしても、あなたがアイドルになって、歌って踊るワケでしょ? 想像がつかないわね」

「ふふ~ん、期待しててね~」

 

 自分の持ち歌ができたというのがどれほどのものか想像つかないけど、よほど嬉しいことだってことは彼方の顔でわかる。

 体を揺らしてリズムを取り、放っておけば踊りだしそうだ。

 

「それにしても、勉強も家事もスクールアイドルも楽しそうにするわね」

「楽しいからねぇ。遥ちゃんもキミも喜んでくれるし、彼方ちゃんにとってそれだけで満足なのです」

 

 にこっと笑って、彼方は返してくる。

 

「羨ましいわ。人のために何かできるっていうの」

「キミもそうじゃ~ん。こうやって彼方ちゃんのお勉強にも付き合ってくれてさ」

 

 ごろ~ん、と言いながら、彼方は私の膝に頭を乗っけてくる。

 私の膝なんて、すべすべももちもちもしてないから気持ち良いとは思えないんだけど、それでも彼方は充足感たっぷりに重さを預けてくる。

 時々、遥ちゃんがいない時に甘えてくるのがくすぐったい。悪い気持ちには全然ならないのは、彼女の魅力あってこそだろう。

 頭を撫でてやるとだらしなく顔を崩れさせるのが面白い。

 

「勉強が好きなんだねぇ」

 

 ぴたり、と私の手が止まった。

 

「ん?」

 

 私からの反応がなくて、彼方は閉じかけた目を開けた。その瞳に映る私は、いったいどんな顔をしていただろうか。

 ほんの少し、驚愕と困惑が混じっていたような気がする。

 

「わた、し……は……」

 

 勉強なんて、ほんとは嫌い。やらないで済むなら、全部放り出してしまいたいくらいには嫌い。

 だけどもサボるなんて出来なかった。

 親と私を繋いでるものがそれしかないような気がして、焦燥感に駆られる。

 がむしゃらに詰め込んで、パンクしそうになってもひたすらに押し込んだ。

 

「そう、ね。勉強、好きよ」

 

 思わず吐き出しそうになった言葉を飲み込んで、少しだけ苦しくなった。

 つまらない話をしてどうする。

 私は、彼女たちといられればそれでいい。雰囲気を壊すようなことを言う必要なんて、ない。

 

 

 

 

「ええっと、ここよね」

 

 お台場のショッピングモール『ヴィーナスフォート』。

 中にある広場には特設ステージが建てられていて、そこにスポットライトが当たっている。

 時間には間に合ったみたいだ。

 

「あ、先輩」

 

 遥ちゃんは私を見つけるなり、ぱたぱたとやってくる。

 

「ええと、ここで見ておくようにって言われたんですけど……」

 

 何が何だかというような表情。

 それもそのはず。自分がセンターになって歌うはずが、観客に混じってステージを見上げているのだから。

 ざわざわと客が壇上に注目しだす。光に照らされて、一人の女性が姿を現した。

 まるで妖精のような美麗な衣装に身を包んでいるのは、近江彼方。

 まさかの姉の登場に、遥ちゃんは目を見開いた。

 

「せ、先輩も知ってたんですか?」

「……ええ」

 

 私も彼方の雰囲気に圧倒されて、かろうじて肯定は出来たってところだ。

 遥ちゃんに言おうとした言葉が吹き飛ぶ。

 ちゃんと見ておきなさいとか、これが彼方の答えだとか、そんなのが喉でつっかえて落ちていく。

 

 彼方がいる。

 あそこにいる。

 見えている。

 そのはずなのに……

 

 ぱっと曲が始まって、彼方の手が動く。全身が軽やかに跳ねる。

 ステージで歌う彼方を見て、私は一瞬で魅了されてしまった。

 高く飛ぶように、誰よりも煌めくようにステップを刻み、華麗に舞う。スクールアイドルという、青春の塊をぶつけてくる姿に釘付けにならざるを得ない。

 同時に、近江彼方という女性の本質を見た気がした。

 

 緩やかに見えて、芯に情熱がある人なんだ。何にも全力で、自分のやりたいこととやるべきことを両立してる。

 東雲学院のステージをやるってところ、アウェーな空気もなんのその、パフォーマンスをやりきる度量と強さがある。

 何かに打ち込んだことのない私とは正反対な人。自らの内を体現するような歌と踊りに、誰もが目を奪われた。

 

 私は、彼方のことを知っているつもりでいた。けれどそれは大きな勘違いだった。

 きびきびと動き、可愛くもかっこよくセクシーな姿は、普段からは想像がつかない。

 

 ――でも、ファンの人や同好会の人は知っている。

 

 彼女に注目すればするほど、遠くに感じてしまう。何も知らなかったことを思い知らされてしまう。

 手を伸ばしても届くはずなんてない。彼女と私の間にはたくさんの人がいて、無限にも感じる距離があって……

 

 ――彼方にとって、私はそのうちの『一』でしかない。

 

 まるで、遠い別人を見ているような……

 

 ――ねえ、私は彼方の何なの? あなたには、私が見えているの?

 

 不意に恐ろしい思いが浮かんで、足が竦んだ。立っている場所が崩れていくような気がした。歌声も歓声も、もやがかかったみたいに聞こえる。

 ひどい目眩がして、嗚咽を漏らしそうになる。

 ああ、そうだ。おこがましかったんだ。私が何かになれるなんて、思うことすら。

 

 何も持ってない私が与える側になれるはずがなく。だから与えられる資格もない。

 才能もあり、努力もしている彼方に、私が出来ることなんてない。ない。ないんだ。

 

 いたたまれなくなって、ステージを最後まで見ることなく、私はその場から去ってしまった。

 

 

 

 

 校舎を出て伸びをする。

 予定されていた先生との二者面談はつつがなく終わった。ただ時間が取られただけの意味がなかったものだけれど。

『相変わらず成績は良いな。このまま頑張れ』って言われて終わり。

 手がかからず頭の良い私を先生は半ば放置気味。そりゃそうよね。模範生だもの。何もしなくても勝手に進んでいく生徒にわざわざ手をかけたりしない。

 わかっているからこそ、優等生の仮面を被る。

 

 私だって先生に怒られるくらいの馬鹿をやりたい。校内を走ったりなんて軽い違反をやってみたいとも思う。

 でも、夢のまた夢。

 私は、誰もが思う『私』でいなければならない。良い大学に行って、良い会社に入って、適当に良い人と結婚して……

 ぼんやりと、具体性も個性もない未来を押し付けられても、私には抵抗する意志も力もない。

 籠の中の鳥は、外へと飛び出す自由を与えられず、羽ばたく力を奪われ、やがては翼を開く方法も忘れる。

 

「お~い」

 

 門を出ようとしたところ、聞きなれた声に跳ね上がりそうになった。

 こちらに向かって手を振っているのは……

 

「か、彼方?」

 

 いるはずのない彼方を捉えて思わず二度見、固まってしまう。

 数秒して幻ではないとわかって、早足で駆け寄る。

 

「どうしたのよ、こんなところまで」

「ちょっと会いたくなってね~。せっかくだから迎えに来ちゃった」

 

 え。来ちゃった、って、家からも虹ヶ咲学園からも近くないじゃない。

 疑問に思いつつも、来てくれたことに対して文句みたいなことを言うこともないな、と判断して黙る。

 さあ行こう、と先を行く彼女に、私は追いついて歩幅を合わせた。

 

 あのステージのことを思い出して気まずくなる。気にしてるのは私だけだろうけど。目を合わせづらくて、視線の先を前に固定する。

 なんとなくつらい沈黙を破ったのは、やはり彼方だった。

 

「聞いてなかったけど、彼方ちゃんのステージどうだった?」

「最高だったわよ、本当に」

 

 ちくり、と胸が痛む。最後まで見ていないのに、なに感想言ってるのよ。

 でも少し見ただけでも彼女の努力は知れた。

 

「んふふ~、やっぱりねぇ。けっこう自信あったんだ~。いっぱい練習したからね」

「評判も良いみたいじゃない。声かけられたりするの?」

「うん、あれを見てファンになりましたって人もいてね~。彼方ちゃん引っ張りだこだ」

 

 反響はチェックした。

 それまでに隠れファンのいた彼方だったが、表立って応援してくれるファンも増えたみたいで、彼方の表情はますます明るくなっている。

 そこに至るまでの努力が認められるというのはとても嬉しいことなのだろう。

 素直に喜んでいないのは私くらいか。単純に、諸手を挙げて褒めてあげればいいものを。

 

「これもキミのおかげだよ」

「私?」

「キミが勉強見てくれるから、彼方ちゃんは安心して練習に打ち込めるんだ」

 

 私は眉間にしわを寄せる。

 要領のいい彼方なら、なんだかんだやってのけてしまうような気がする。最近じゃ、遥ちゃんも家事に積極的だし。

 なおさら、彼方の中での『私』の割合は小さくなっているはずだ。

 

「久しぶりに、一緒に勉強しない?」

「今日は他にやることはないの?」

「ううん、同好会もバイトもなし。だからこうやって来たんだよ~」

 

 その言葉にずきりと胸が痛んで、ばれないように奥歯を噛みしめた。

 

「そうね。そうしましょうか」

 

 

 

 

 頭がうまく働かない。

 自分のノートを見ても、意味のない文字の羅列にしか見えない。

 

「お疲れ気味かな~?」

 

 ぼうっとしているのを見られて、はっと我を取り戻す。

 久しぶりの勉強会だというのに、気持ちが戻ってこない。前みたいな安らぎが、ここにはなかった。

 

「そーんなぼっとしちゃって~。彼方ちゃんに見惚れちゃったかな?」

 

 冗談交じりに言ってこられたが、当たらずとも遠からず。

 見惚れた。確かに私は彼方に見惚れた。

 いや、そもそもあの歌と踊りを見て引き込まれない者はいないだろう。それくらい素晴らしかった。

 

「……ええと、なんだったかしら。ああそう。ここの公式は、こういう時に使えて……」

「なるほどなるほど」

 

 あんなに楽しそうな彼方を、私は見たことがない。

 こうやって一緒にいる間もあんな輝きは一度も目にしていない。

 当然だ。あの舞台は彼方を際立たせるためのもので、そこで披露できることは何よりも嬉しい事だろう。努力が実を結び、みんなに見られて、幸せだったに違いない。

 

 あの時感じた寂しさは、そういうことだろうか。いつもと違うってだけで、気持ち悪くなるほどに壁を感じたのは。

 親でも何でもないのに、何様なんだか。

 

「お~、解けた解けた~」

 

 元から成績の良かった彼方は、私の不器用な教え方でもちゃんと理解してくれている。たぶん、もう少し時間をかけて考えれば、私の助言なんてなくても解ける。

 それが余計に、心に影を落とす。

 もう……必要なくなっているのね、私は。

 

 寂しい。構ってほしいだなんて、わがままを言ったら、きっと彼方は私のために時間を作ってくれて、なにかと世話を焼いてくれるに違いない。

 それが問題なのだ。

 勉強、家事、スクールアイドル、バイト……諸々を掛け持ちしている彼方の重荷になってしまうことだけは、どうしても避けたい。

 無理だ。これ以上頑張って、なんて言えるはずがない。

 

 彼方の生活の中に私が入ることで、あなたが壊れてしまうことが何よりも怖い。

 輝いてるあなたには、たくさんの人が待ってる。こんな私が足を引っ張っていいはずがない。

 でもあなたは……あなたは優しいから、私を追い出したりしないのでしょう。

 

 彼方はこれからもどんどん前に進んでいく人。私は、ここが限界。

 

 だから……

 

「よーし、次の問題は……」

「ここまでにしましょうか」

 

 そっけなく言うと、彼方はわかりやすくしょんぼりとした。

 

 やめて。そんな顔をしないで。私の一言で喜びも悲しみもしないで。

 姉として、スクールアイドルとして、学生として頑張っているあなたの足を引っ張りたくない。

 私の重みで、あなたが曲がっていくのを見たくない。

 

「うん。じゃあ晩ごはん作るよ~。今日はねぇ……」

「彼方」

 

 立ち上がろうとした彼方を遮って、私は語気を強めて言った。

 

「ここまでに、しましょう」

 

 その意味を、彼方は分かっていた。徐々に目を丸くしていっている。

 

「彼方はもう十分でしょう。結構先まで教えたから、虹ヶ咲でついていけなくなることはないと思うわ。遥ちゃんの勉強はまだ見るから、そこは心配しないで」

「あ、あはは、冗談にしてはたちが悪いな~。彼方ちゃん、驚いておめめぱっちりしちゃったよ~……」

 

 冗談ということにして、彼女は沈んだ空気を吹き飛ばそうとした。

 私もそれに乗れば、先の言葉を撤回できる。そういう意味じゃないって繕える。

 けれど何も返さなかった。それこそが答えだと理解して、これがなんのジョークでもないことを飲み込んで、だんだんと顔が青ざめていく。

 

「な……んで……」

 

 詰まった声を絞り出して、彼方は目を見開く。いつも爛漫な笑顔が、曇っていく。

 

「な、なんで、なんで? 彼方ちゃん、何か悪い事しちゃった?」

「違うの。彼方は何も悪くない」

 

 じゃあなんで? と彼方は見上げてくる。逃がさないように強い力で腕を掴まれた。

 私はそれを無理やり引きはがして、自分の物を片づける。

 

「私の役目はここでおしまい。ただそれだけよ」

 

 

 

 

 あれから、ほんの少し。いや一か月経ったか、数か月か。

 時間の経過があまりにも曖昧になっていた。同じ日の繰り返しに、感覚が狂ってきている。

 来る日も来る日も変わらない日常。学校に行って、授業を受けて、帰ってきて、勉強してを延々とループしている。

 

 何かを考えようにも、煙が纏わりつくように思考が邪魔される。

 ほとんど何も手につかずに、空腹を自覚したのは二十二時を回ったころ。買いだめしておいたレトルトのカレーを頬張る。

 

 不味い。

 高校生になってからほとんど彼方に任せっきりだったから、私はそれほど料理は上手くない。だからレトルトで済ませたっていうのに……

 ここ最近はずっとそうだ。学食もレストランもコンビニも、どこもかしこも不味い。それほどまでに食業は衰退したか、それとも私の舌がおかしくなったか。

 ……答えはわかりきっている。

 彼方と遥ちゃんと一緒に食べるご飯が何よりも一番だったってこと。

 

「……慣れないとね」

 

 これからはこんなのが続くんだから。

 

 私と彼方のことを、遥ちゃんはとっくに気付いてる。

 当たり前か。彼方のいない時だけに合わせて勉強会を開いているんだから。

 そのたびに遥ちゃんは何かと問い詰めようとしてくる。彼方だって、遅刻ギリギリまでエントランスで待っていることが少なくない。

 

 もしかしたら、引っ越しも視野に入れないといけないかもしれない。

 勉強時間をもっと確保するために学校の近場に住みたいと言えば、あの親なら大して深く突っ込んでこないだろう。

 入学当初から物もそんなに増えていないから、手間は少ないはず。

 

 暗い未来を想像して、鼻を鳴らす。

 変わらなかった。

 なにも。なんにも。ほんの少しも。微塵たりとも。

 近江姉妹の輝きに当たって、ちょっとは私も輝いていると勘違いしていた。月になれたかと思っていた。

 頑なに閉じてしまった私の心はずっと閉じこもったまま。

 自分で鍵を閉めたのに、いつの間にか鍵穴は錆びてしまって、もう開け方がわからなくなってしまった。

 

 

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 あの人を初めて見た時の第一印象は、固そうな人、だった。

 ガチガチの堅牢な鎧で身を包んで、その重さで潰れてしまいそうな人。

 近寄りがたい雰囲気を感じながら話しかけたのは、少し自分に似ていたからかもしれない。

 何もかもを背負って、つらいと言ってはいけないと言い訳していた自分に。

 

 接してみると、これがなかなか心地よかった。

 決して踏み込んでほしくないところには入り込んでこず、膝枕を二つ返事で受け入れてくれるほど寛容。

 頭が良いのにちょっと抜けてるところもあって、靴下が左右違うのは珍しくない。

 几帳面なところもある。一緒に料理をしてみた時は、適当でいい調味料の量をきっちりグラム単位で計ってたっけ。

 買い物に行った時なんか、スーパーの品ぞろえにびっくりしていた。冷凍食品の種類の多さに目を輝かせるへんなところも面白かったなあ。

 

 なのに。

 いつからだろう、あの人が目を合わせなくなったのは。目の前にいるのに、触れることなんて簡単なのに、遠く感じるようになったのはいつからだろう。

 あの人が考えていることがわからなくなってしまったのは、なんでなんだろう。

 

「ここまでに、しましょう」

 

 彼女が彼方ちゃんと距離を置きたがっているのは感じていた。その違和感がピークに達していた時、決定的な一言が放たれた。

 思い違いだと信じておどけようとしても、彼女は理解させるようにもう一度言ってみせた。

 

 嫌になったのだろうか。

 

 勉強している時、何度も苦しい顔を見た。

 まるで、その問題が解けないと死んでしまうと脅されてるような追い詰められている表情。

 やりたくないならやらなくてもいい。たまには休んで、だらだらする一日があってもいい。

 なのに、あの人は毎日毎日溺れそうな面持ちで手を動かす。

 

 そこまでして、なんで頑張ってるの?

 

 訊けば、返ってくるのは何通りかの言葉。

 『なんのこと?』『元々こういう顔よ』『言われるほどのことはしてないわ』。

 無表情を作って、頑なに内面を見せない。

 

 言いたくないなら、いつか行ってくれる時まで。そうやって傍観していたのが良くなかった。

 気づいたのは、手遅れになってからだった。

 

 関係が壊れるのが怖くて、あの人の棘に触れる勇気が出なかった。

 隣にいることでわかってくるだろうと、先送りにしていた。

 

 言ってほしいって、助けになりたいって、口に出さなきゃ伝わらないって知ってたはずなのに。

 

「お姉ちゃん、大丈夫?」

「だめかも~」

 

 遥ちゃんが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。

 あまりにも考え過ぎたせいか、悩みを振り飛ばすつもりで激しく練習したからか、体調を崩してしまった。

 学校も休んで、布団にくるまって安静にしている。とはいえ、もう落ち着いてきて37℃程度。ほんの少し体がだるいくらいだ。

 でも、起き上がる気はしない。

 

「お買い物行ってくるけど、何か欲しいものある?」

 

 冗談交じりに返そうとしたけど、頭はあの人のことでいっぱい。

 

 大人びたあの人が、何度か歳相応に笑ったところを見たことがある。

 その時ばかりは、偽りだとか隠し事だとか感じられなかった。

 あれすらも嘘だった……とは思えないけど、真相はもはや闇の中。

 

「もう一回お話できたらいいのに」

 

 

-------------------------------------------

 

 

 夏も近づいてきて、湿気の鬱陶しさを呪いながら、淡々と過ごす。

 三年生のこの頃になれば、もう毎日が勉強漬けの日だ。学校の自習室には人がいっぱい。なんとなく、家よりこっちのほうが集中できるから入り浸っている私もその一人。

 今日もまた志望校の過去問を受ける。すらすらと、というのは難しいが、わからないところはどんどん減っていく。

 

 問題が解けることに喜びを感じなくなったのは、いつからだっけ。

 親や先生はいつの間にか高得点が当たり前だと言わんばかりに無反応になっていき、ついには一言返すだけになってしまった。

 

『次も頑張りなさい』

 

 言う通りに頑張った。次も、その次も、いつだっていつだって頑張った。

 何かが変わると信じて、ただひたすらに磨き続けた。

 転ばそうと伸びてくる手を必死に払い、心に差す影なんてないと自分を保った。

 もがいてもがいてもがいて……でもゴールが見えない。

 どこまでも続く『次』。決して辿り着けない『次』へ、歩き続けて……歩き、続けて……

 

 私は……一体何をやってるの?

 

 褒められるでもない、達成感を感じるでもないことに縋って、どこへ行きたいの?

 周りにはたくさん人がいるのに、誰も私に見向きもしない。

 これからもずっとずっとそうなのだと思うと、不意に冷たい汗が滲んできた。

 私を立たせるのは、私しかいない。折れてしまったら、壊れてしまったらそれまでなのだ。元に戻してくれる人はいない。

 

 ぽたぽたとノートに水滴が落ちる。それが自分の目から落ちているとわかっても、止められない。

 死刑台へと上がるような絶望的な黒い恐怖。小さい頃からそんな心地でいた。

 忘れさせてくれたのは、彼方と遥ちゃん。その二人を手放して、私は何がしたかったのだろう。

 もうわからない。

 

 

「……?」

 

 不意に、胸ポケットが震えた。

 しまった。スマホの音は消してたけど、バイブレーションはそのままだ。いつもならこんな初歩的なミスしないんだけど……

 すぐにポケットからスマホを取り出してロックを解除しようとするが、視界が滲んで上手くいかない。

 目をぐしぐしと袖で拭って、スマホの画面が見えるまで待つ。まだぼやけて読みづらいが、誰かからメッセージが来たみたいだ。

 目をしばたかせて、視界をはっきりさせる。

 

<お姉ちゃんが、倒れました>

 

 急に飛び込んできた文章に、血の気が引く。

 は、なに。どういうこと?

 倒れた? 倒れたって何よ。無理しすぎたの?

 それとも、私のせい? 強引に断ち切ってしまったせいで、彼方に心労をかけてしまった?

 倒れた彼方の姿が頭に浮かんで、頭がパニックになった。悩んでることとか、苦しいこととか、一気に吹き飛んだ。

 

 何をすべきかなんて判断する前に、私の手は鞄をひっつかんで、足は外へ向かっていた。

 がたがたと忙しなく動く私にびっくりする目が刺さるが、どうでもいい。

 後ろから先生に咎められた気がするが気にしない。そんなことを気にしてる場合じゃない。

 

 慌てながらも靴を変え、校舎を出て、門を過ぎたところで息が上がる。

 こんなことなら、ちょっとはスポーツもしておくべきだった。

 勉強ばかりで鈍りきった身体に鞭打って、止まるなと指令を下す。

 ああもう、心臓が痛い。肺も痛い。

 でも止まれない。彼方のことを思うと、少しでも前へと内なる私が焦らせてくる。

 

 会ってどうするの? かける言葉なんてあるの? そもそも顔を合わせる資格なんてあるの?

 わからない。わからないわよ。でも走らずにはいられないの。理屈だとかなんだとか越えて、体が動くから仕方ないじゃない。

 

 そうやって夢中で家に着いた時に、よく知ってる顔を見つけた。

 

「遥ちゃん!」

 

 息を切らしながら叫ぶ私に、家の扉を開けようとしていた遥ちゃんはぎょっとした。

 駆け寄って、肩を上下させながら咳き込む私。困惑する遥ちゃんは、背中を撫でてくれた。

 

「は、速いですね。大丈夫ですか?」

「へ、平気よ……そんなことより、彼方は無事なの?」

 

 息を整えた私は、おろおろとする。

 こういう時、勉強だけしかできない頭でっかちなんだと思い知らされる。頭の中がやかましくて、冷静な判断を下せない。

 

「過労とか? それとも重い病気? だったら救急車を呼ばないと……えっとえっと、117?」

「117は時報です」

 

 くすり、と遥ちゃんは笑った。

 

「ただの風邪ですよ。朝は元気なさそうでしたけど、もう体調は戻ってきています」

 

 よくよく落ち着いて見てみると、遥ちゃんは買い物袋をぶらさげていた。

 中にはヨーグルトだったりうどんだったり、病人でも食べやすいものが入っている。

 彼方が小康状態になったから、必要なものの買い出しに行っていたのだろう。

 

「よ……かったぁ」

 

 その場に座り込んでしまいそうになるほど、へなへなと力が抜ける。

 大事になっていなくて、本当によかった。

 

「倒れたって言うから、とんでもないことになってるかと……」

「まあその、大げさに言ったのはごめんなさい。でもそうじゃないと、先輩が来てくれないかと思って」

 

 見抜かれたことと、極度の緊張から解かれた安堵で大きなため息をつく。

 遥ちゃんの言う通り、こんなことでもなければ走ってなんかいない。騙された、なんて怒りが湧かないくらい安心したりしていない。

 ひいひいと浅く呼吸しながら、膝に手をつく。この間も、遥ちゃんは苦笑しながら背中を撫で続けてくれた。おかげでだいぶ落ち着いてきたみたい。

 私たちの階に到着するころには、背筋を伸ばせる余裕があるくらいには回復した。

 

 遥ちゃんは空いてる手で私の手を握った。有無を言わさず引っ張って、袋を持った手で近江家の扉を開けて、中へ入れようとしてくる。

 

「お姉ちゃんに会っていってください」

「無事ならそれでいいわよ。わざわざ私が……」

「もう、そこまで心配してるんだったら、顔見てあげてください! ほらほら!」

「ちょ、ちょっと!」

 

 ぐいぐいと押される。私には抵抗できる力は残されていなかった。

 あっという間に迎え入れられ、水とスポーツドリンクのペットボトルを手渡され、近江姉妹の部屋前に立たされる。

 じーっと見てくる遥ちゃん。これは……逃げられないわね。どうしても彼方と顔を合わせてほしいみたい。

 

 起きてれば飲み物を渡して、寝てれば置く。それだけ。それだけやって立ち去るだけ。

 深呼吸する。心配な気持ちはそのままに、だが焦りは抑えて。

 コンコンとノックをして、返答を待つ……が、いくら待てども何も返ってこない。

 

「彼方?」

 

 呼びかけても、静かなままだった。

 そろりと音を立てないように扉を開ける。

 暗くてよく見えないけれど、彼方は二段ベッドの下段で大人しくしているようだ。布団が盛り上がっている。

 どうしよう。起こすべきだろうか、寝かしといたままのほうがいいのか。ずっと動いてないようだから、水分補給くらいはさせてあげたいんだけど。

 

「ん……んぅ」

 

 いまいち決心がつかず、ドアノブを掴んだままおろおろしていると、彼方がもそもそと動きだした。

 開き切っていない目で私を認識すると、数秒止まって口を開いた。

 

「あれ、キミ……?」

「ごめん、起こしちゃったわね」

「ううん、ちょっと寝つけなかった」

 

 寝ころんだまま、彼方は手を出してひょいひょいと振った。

 

「入ってきなよ~」

 

 元々そのつもりだったのだけれど、いざとなると足が重い。

 彼方の弱った様子を見て、ひどく胸が絞めつけられる。急に、場違いな感覚が全身を震わせる。

 

 でも。

 こんな状況で、置いていけるわけないじゃない。

 意を決して、踏み出す。

 私が近寄ると、彼女はふらりと起き上がった。そして、あろうことか立ち上がりかけた。

 思わず身体が動いて、彼方を抑える。

 

「そのままでいい。こんな時まで気を遣わなくていいの」

「じゃ、お言葉に甘えて」

 

 いつも以上に覇気がない。けど、意識が朦朧しているとかそんなことはないようだ。大事がないことにほっと胸をなでおろす。

 ベッド脇に腰を下ろし、彼方を見る。

 

「しんどい?」

「ん、だいぶましになったよ」

「はい、これ飲んで」

 

 スポーツドリンクの蓋を外して手渡すと、彼方はゆっくりと飲んでいく。かなり喉が渇いてたようで、半分以上が一気になくなった。

 一息ついた彼方の表情は幾分か和らいで、ちょっとは楽になったみたい。

 私は枕の横に水とスポーツドリンクのペットボトルを置いた。

 

「じゃあ、私は出てくよ。欲しいものあればすぐ持ってくるし、連絡くれればどんなことでもするから。それから……遥ちゃんがもう帰ってきてるから、何かあったら……」

 

 まくしたてて去ろうとした私を、彼方は阻んだ。

 立ち上がろうとした私の袖を、いまにも解けそうな力で掴まれる。

 

「彼方?」

「ずっといてほしいってのは、だめ?」

 

 後ろ髪を引かれる、とはこのことか。

 儚く消えてしまいそうな彼方を見て、私は止まってしまう。

 少し面倒を見て、すぐに去るつもりだったのに、どうしても、どうしてもここに一人で置いていけない。

 私はそっと手を取り、静かに座り直した。

 

「来てくれないかと思ったよ~。嫌われたかと思ったから……」

 

 彼方の手が震える。

 今まで見たことないような弱気な声と態度に、私は驚いた。同時に罪悪感も感じる。

 そこまで追いつめてしまったのは他でもない私で、とすると解決策は二通り。

 謝って関係を取り戻すか、それとも完全に断ち切ってしまうか。

 

「ねえ、どうしちゃったの?」

「私……」

 

 はっとして、頭を小さく振る。

 今、口から弱音が出るところだった。

 

「……いえ、なんでもないわ」

 

 彼方はふるふると首を横に振って、私の手にもう一方の手を重ねた。

 

「溜め込んじゃだめだよ。言って。全部。一人で悩まないでよ」

 

 こみ上げてくるものに、蓋ができなくなりつつある。隠すことは得意だったのに、彼方を前にして情緒が崩れていく。

 

「どうしてそんなに優しいのよ……」

「後悔……罪悪感……ううん、キミのために、出来ることはしたいから、かなぁ」

「私は酷い女なのよ。面倒で、勝手で、醜くて……」

 

 言っていて、涙が出てくる。ぼろぼろと流れていく間にも、本心とは逆のことしか言えなかった。

 そんな自分が情けなくて、嫌い。大嫌いだ。

 

「だから、嫌なら嫌とはっきり言って」

 

 言わないで。

 

「傷ついたなら、私のことを罵って、最低だと蔑んで、見限ってよ」

 

 嫌だ。

 

「私が彼方の隣にいてもいいなんて勘違いをしてほしくないなら、きっぱりと突き放して。一切の希望を持たせず、期待をさせず、怒って」

 

 がっかりしないで。幻滅しないで。こんな私でもあなたの友達でいいって感じさせて。

 

「そんなことしないよ」

 

 彼方ははっきりとそう言ってみせた。

 

「遥ちゃんのことも見てくれて、彼方ちゃんのわがままにも付き合ってくれて……キミはこんなにも優しい人なんだから」

 

 重ねられた手が、より熱くなった気がした。

 

「本当のこと、言ってほしいな」

 

 ぱ、と今にも泣きそうな目が合った。

 

 言っていいの?

 言ったら、私たちはどうなるの?

 破裂しそうなほどに、けたたましく心臓が鳴る。

 怖い。怖い。怖い。

 けど。

 だけど彼方はもっと怖がっている。

 私からどんな言葉が飛び出してくるかを恐れているのに、それでも望んだ。

 

 勇気を出して真正面から向かい合ってくれたこの子を置いていくなんて、したくないししてはいけない。

 ここで本音を言っても死ぬことはない。それに、このままなんて死ぬよりつらいだろうから。

 

「あなたたちの隣にいさせて」

 

 感情が、口をついて出た。

 

「力になりたいとか、助けたいとか、それもあるけど、でもあなたたちの近くにいたいの。彼方と遥ちゃんが、私の隣で笑っていてほしいの」

 

 他愛のない話にも付き合って、好きなものや嫌いなものを言い合って、弱さすらも曝けだして、私のやることをありのまま受け入れてくれた。

 私の存在が肯定されている気がして嬉しかった。生きているってこういうことなんだと感じることができた。

 普通でいいんだと教えてくれたこの場所が大好き。違う場所なんて、行きたくない。

 

「だったら、離れないでよ」

 

 ぎゅう、と彼方は力強く腕を掴んできた。

 

「彼方ちゃんは、キミがいてくれるだけで笑顔になれるんだから」

 

 さっきまでのが嘘のように、いま風邪を引いてるのなんて感じさせないほど、満面の笑みが広がっていた。

 

 私はなんて馬鹿なんだろう。

 勝手に彼方を遠くに感じて、勝手に離れてしまって、勝手に傷ついた。

 馬鹿だ。大馬鹿。こんなんじゃ、誰にも偉そうなことは言えない。

 求めるものはいつだって、こんなに近くにあった。手を伸ばせば簡単に触れられるくらいに。

 

 彼方は、私が落ち着くまでずっと頭を撫でてくれた。

 

 

 

 部屋から出てきた私を、遥ちゃんはじっと座って待ってくれていた。

 

「お姉ちゃん、大丈夫ですか?」

「うん、いま寝たとこ」

 

 寝苦しいというような感じもなかったから、明日にはすっかり元気になっていることだろう。

 

「その、ごめんなさい。心配をかけたわね。私のことについても」

「いえいえ。お姉ちゃんと仲直りしてくれたなら、それが一番です」

 

 仲直り……といえるのかどうか。

 

「どう、なんでしょうね。わからない。もう何もわからないの。身を引くべきだと思って離れたのに、私は……まだ……」

「居ていいとか悪いとかじゃなくて、お姉ちゃんの周りにはあなたの場所があって、そこにあなたがいることが自然なんだと思います」

 

 言い切って、遥ちゃんは息を吸った。

 

「他の誰でもないお姉ちゃんが、そう望んでるんです」

 

 震える私の手を取って、姉と同じような柔らかい声で言い聞かしてくる。

 

「離れて全てが解決するなら、あなたもそんなに苦しんでないはずです。お姉ちゃんの隣にいることを、あなたも望んでる」

「でもこうやって、私は逃げた」

「逃げたっていいんですよ。自分のことを嫌いになっても、苦しくなったら逃げてもいいと思います。溜め込んで溜め込んで、意地になるよりはよっぽど。私だってダメダメだって思う時があって、落ち込んだり塞ぎこんだり、全部投げ捨ててしまいたいときもあります」

 

 恥ずかしそうに頬を掻きながら、遥ちゃんは続けた。

 

「それでもやっぱり諦められないんです。スクールアイドルが好きだから。逃げても逃げても、好きなものはどうしても気になっちゃいますよね」

 

 私のことを否定してもいいのに、彼女はまったく邪気のない顔で私を見上げた。

 

「逃げるのに疲れたら、少しくらいわがままに、感情のままに動いてもいいんじゃないですか。ただでさえ、あなたは理屈っぽいんですから」

「……」

「まだ、悩んでるんですか」

「だってこれは、私の問題で……」

「なーに言ってるんですか」

 

 ふくれっ面でデコピンしてきた。いきなりのことに面食らい、次いで来た痛みに額をさする。

 遥ちゃんは自分を指差して、そしてその人差し指を私に向けた。

 

「もう私たち三人の問題ですよ」

 

 断言する遥ちゃんの言葉のおかげか、それともデコピンでうじうじしていた部分が吹き飛ばされたのか、私はようやく自分と向き合えた。

 私は何もわかっていなかった。彼方たちが何を大事にしてて、何を思っていたのか。

 そんな私が、彼女の気持ちを勝手に決めていいはずがなかった。

 

「どこに行くんですか?」

 

 最初に訊いたときとは裏腹に、すっきりしたような表情で遥ちゃんは問う。

 私もまた、はっきりした口調で答えた。

 

「どんなことでもするって言っちゃったからね。彼方が言ったことは叶えないと」

 

 再び彼方の部屋へ、そっと入る。

 小さく寝息を立てている彼方は、普段と同じような、本当に気持ちのよさそうな顔で寝入っている。

 音を立てないように近づいて、腰を下ろす。

 掴んだ砂をこぼさないような慎重さで、遠慮がちに彼方の手を握った。

 

 まるで強力な磁石みたいだ。目に見えない何かが私たちを引き寄せる。

 そして、ひとたび近づけば……こうやって触れ合えば、くっついたまま。離れない。離れられない。

 どれだけ否定しても、理由をつけて目を背けても、案じても、不安でも、離れがたくて、諦めたくない。

 

 やっぱり私は良い友達じゃないわ、彼方。

 あなたが思うよりずっとダメで、何の能力も取り柄もないただの女。

 だけど、あなたを想っている、その一点においてはちゃんと自信をもって言える。

 

 あなたが起きたら、すべてを伝えるわ。そして、彼方の気持ちを教えてほしい。

 もう勝手に決めつけたりしない。抱え込んだりしない。ちゃんと言葉を聞いて、どうするかを三人で話し合いましょう。

 

 せっかくこんな近くにいるんだから。

 

 

 

 

「こっち! こっちです!」

 

 手を振る遥ちゃんを見つけて、私は大急ぎでそちらへ走る。

 東雲のエースアイドルが大声を出してまで呼ぶ私は、周りの人にじろじろと見られていた。

 

「もう! せっかくの大舞台なのに遅れてくるなんて!」

「し、しょうがないじゃない。夏を制する者が受験を制するって……」

「言い訳禁止です!」

 

 有無を言わせない遥ちゃんに押され、私は黙るしかなかった。

 

 今日はスクールアイドルフェスティバルの日。

 虹ヶ咲学園と東雲学院、そして藤黄学園の三つの学校がお台場の至る所でライブを行っている。

 ボランティアスタッフも観客もあちらこちらに見え、これがどれほど大々的なお祭りであるかを示している。

 

 まあ、もうそろそろ終わりの時間なのだけれど。

 休日だったが、学校が特別授業をするとあっては行くしかなかったんだからしょうがないじゃない。

 不幸なことに、学校を出てここに向かおうと思った時に通り雨が降って、立往生せざるを得なかった。

 止んだころにはもう陽が落ちて、予定では終了になっている時間。だけど虹ヶ咲の人が、なんとか延長をねじこんだらしい。

 急いで来たんだけど、残念なことに遥ちゃんの出番は終わって、残りはワンステージだけ。

 その主役たちの一人のもとへ、遥ちゃんは私を引っ張っていく。

 

「は、速い速い速い」

「遅いくらいです!」

 

 ずんずんと進んでいく彼女に連れられてきたのは、たくさんの人が興奮冷めやらぬ状態で待っているステージ前……ではなく、その期待を一身に受けて武者震いをしているアイドルたちがいる裏側だ。

 

「関係者以外立ち入り禁止って書いてるけど……私入っていいの?」

 

 戸惑う私に、遥ちゃんは急かすようにぶんぶんと首を縦に振った。

 おそるおそる、やる人と見る人を分けるロープを越えて進む。

 表はあんなに華やかなのに、こっちは結構薄暗い。けど、いろんな人が目を輝かせて、自分のやるべきことをやっていた。何かを運んだり、機材をチェックしていたり、表と同じように楽しんでいた璃……なんか、青春してるって感じ。

 話が通ってるみたいで、スタッフの人たちに見事にスルーされた。

 きょろきょろとしていると、目当ての人物が向こうからやってくる。

 

「も~、遅いよ~」

「彼方」

 

 気づいた時には、がばっと抱き着かれていた。こんな機敏に動けるの、あなた。

 衣装崩れるじゃない。名残惜しいが、ぐいっと引き剥がす。

 ちょっと不満げになっているが、いやいやこればっかりはしょうがないでしょ。この後のこと考えたら、しわのない姿でいてほしいもの。

 

「えへへ~、どうかな?」

 

 彼方はその場でくるりと回る。

 あの日の、初めてのライブと同じ衣装。だけど印象は全く違って見えた。

 

「綺麗よ。本当に、どこに出しても恥ずかしくないわね」

「キミってばお母さんみた~い」

 

 馬鹿言ってんじゃないわよ、と頭をチョップする。

 

「ほら、もう始まるんじゃないの。歌を届けたい人がいるんでしょう?」

 

 最後に披露する曲は、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会を支えてくれて、このフェスティバルの企画者でもあるマネージャー……みたいな人への感謝の曲だと、彼方は教えてくれた。その人が作ったメロディーを基にして、同好会アイドルが必死に考え抜いた曲だって。

 その想いを知ってるから、雨が降った時には心配したし、ライブできるってわかった時は本当に良かったと胸をなでおろした。

 

 大切な人へこそ、きっちりと伝えなきゃいけないものね。

 

「じゃあ、ちゃんと見ててね。彼方ちゃん頑張っちゃうぞ~」

「ええ、行ってらっしゃい」

 

 向かおうとする彼方の背中をぽんと押す。

 そうして、私はすぐ観客に混じった。

 大盛況の大トリとなれば見る人も多くて、直前で現れた私は後ろのほうで背伸びしながら見るほかなかった。

 多数の観客がサイリウムを灯して、今かいまかと最後の時を待つ。

 満を持して、彼女たちは壇上に立つ。その中で、光の海に浮かぶような彼方が見える。

 歓声が沸き、手を振る人、名前を呼ぶ人、ただただ騒ぐ人……多様な感情が入り乱れて、集約していた。

 私も叫んだ。精一杯叫んだ。

 

 虹ヶ咲スクールアイドルの九人が踊りだす。

 煌めく彼方の踊りも歌も、ちゃんと見えるし聞こえる。

 私に向けた歌じゃないけど、でも響き渡る声はしっかり私に届いていた。

 

 雨が降っていたとは思えないほど、一点の曇りもない満点の星の下で。

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