夏の終わりに虹を見た。
入道雲がこれでもかという程背伸びしていた空は、その高さに根負けした雲がいつの間にかいなくなって青色一色になっていた。そんな駆け足で過ぎていった夏に、僕はただぼんやりと公園のベンチに座って想いを馳せていた。
といっても僕の夏に特に大した思い出なんてなくて、思い出と呼べるようなものはせいぜい夏休み始まって二週間くらい夏期講習という名の強制登校させられた事と、お盆にじいちゃん家に行って農作業の労働力にされたくらいで、俗にいうアオハル的なことは一切なかった。
こうして『高校生活初めての夏』に大いに期待を寄せていた僕は、過度な肩透かしによって夏休み前の有り余る元気をなくして無気力になっていた。空っぽの脳内には、いつもは鬱陶しく聞こえるセミの声が僕の思考の代わりに響いている。
じわりと額に汗が滲む。あぁ、今日は特別暑いや。そういえばさっき通り雨が降ったからそのせいで湿度が上がってるのかな。
「あーあ……何もなかったなぁ……」
真っ青な空に不満を投げかけてみるけれど、入道雲でさえ根負けした空に僕の声が届くことはなく、空しく宙を漂う。まぁ、仮に空に僕の不満が届いたところで急に女の子が空から降ってきてアオハルできるわけでもないし、いいんだけど。……いや、別に落ちてきてくれてもいいんだけどね?
真上に上げていた視線を下げて地面に息を吐く。その途中、ふと視線を止める。
遠くの方でも通り雨でも降ったのか、空にまだ少し薄暗い雲が残っている。そして、そこには夏の残光が七色の橋を架けていた。
虹だ。なんて普段は見られない自然現象に少し感動する。それも結構くっきりと見えてるから猶更出で、思わず「おー」と感嘆の声が出た。
パシャリとデジタルカメラで一枚撮る。技術がなくて下手くそではあるけれど、この虹を思い出す一端になればいいやなんて想いながら、ディスプレイ越しの虹を眺める。
瞬間ふと、思った。この虹の根元には何があるんだろうって。
虹はよく橋みたいに『架かる』って表現されているけれど、じゃあどことどこを繋いでいるのだろうか。天と地を繋ぐ橋にしては、両端は地面にあるし、何より天と地を繋ぐとしたら橋ではなく坂になる。
虹はそうそう見られるものではないのだから、もしかしたらその根元には何か特別なモノがあるのかもしれない。それこそ虹が綺麗と感じる理由を知る何かが見つかるのかもしれない。
今思えば結構バカげた動機ではあるとは思うものの、夏休み終わりに何もなしえなかった思春期男子が一人、気になってしまったのだ。もはや僕を止められるのは宿題を終わらせていないことを知った両親くらいだ。
僕は急いでベンチを立ち上がり、そのまま駆け出した。虹が消える、その前に。そこに何かあるんだとそう信じて──
「……で、まっすぐ走ってたら森で迷子になって? 熊に遭遇したから命からがらシャツで熊の視界を封じて逃げてきたと?」
「はい」
「あー……それで、君、上裸で女の子に抱き着こうとしたの?」
「ようやく出会えた人間に安心感を覚えてつい」
「成程ね。……で? 本当は?」
「嘘偽りない事実なんですが?!」
──結果、僕の言葉を信じてくれない見知らぬ土地の警察官に上裸で職質を受けていた。
15の夏。初めて警察のお世話になる思い出ができました。
「それじゃあ今日は君のことを信じて見逃してあげるけど、次同じ事したら問答無用で親と学校に連絡するからね?」
「……あざっしたー」
数時間の取り調べの末、僕はようやく陽の光を浴びることを許された。背面に感じるこのぬくもりが数年ぶりのような、そんな懐かしささえ覚える。
だけどまぁ、こういっては何だけれど、僕の犯したことに対しては罰も軽ければ拘束時間も短かったなぁ。普通は上裸で女の子に抱き着こうものなら問答無用で豚箱だと思ってたんだけど……ちゃんと話聞いてくれるお巡りさんに捕まったのが不幸中の幸いなのかもしれない。着る服もくれたし、感謝感激雨あられ。だけど話の途中から可哀想な人を見る目で見ていたので、差し引きでちょっとコンビニバイトに慣れ始めた学生のような感謝の言葉を奥へ引っ込んでいくお巡りさんに放り投げておく。
「さて、と……」
襟を正してちらりと左隣に目を向ける。そこには派手なようで落ち着いたシルバーアッシュっぽい髪色の少女がいた。
かわいいを寄せ集めたような童顔で、少女特有の甘い感じのするかわいらしさを前面に出しつつもちょっと大人びたレトロモダンっていうんだっけ? そんなワンピースを違和感なく着こなしている。
そんな誰もが認めるような美少女が、今まで列挙した美少女要素を帳消しにできるくらいひどくやつれた顔をしていた。
「うぅ……バスを降り過ごしただけなのに何でかすみんまで警察のご厄介に……」
「ははっ。ドンマイ!」
「いや、誰のせいだと思ってるんですか?!」
ちょっと軽い感じで元気づけようとしたら凄い剣幕で怒られてしまった。しかも彼女の言い分はもっともなので何とも肩身の狭い思いである。
というのも彼女こそ、僕が警察にご厄介になる発端になった事案の被害者であり、僕とは別室で念のための事情聴取を受けていたらしい。いきなり上裸の男に迫られて、その後事情聴取を受ける羽目になるなんて……不憫な方だ。
がるるるると全力で威嚇される僕。別に怖くはないのだけれど、ここまで彼女の怒りを買ってしまっているのだから、それ相応の誠意を見せなければ。
「いやーごめんね。お詫びとして何か甘い物奢らせてくれないかな?」
「ふんっ。甘い物なんかじゃかすみんは許しませんよーだ」
「んー……じゃあ靴舐め土下座でいいかな?」
「代案の誠意レベルの差が激しすぎですよ?! 高低差で風邪ひきそうなんですけど!!」
まぁろくな装備もない現状、差し出せるのがお金か尊厳かの二択なわけだから仕方ないよね。うん。まぁ仮にいつも遊びに出かけるときの装備が整っていたとしても、選択肢に大きな変化は無かっただろうけども。
どっちにするの? と問いかけると、彼女は「じゃあ甘い物で……」とさっきよりもよりやつれた顔表情で答えた。うんうん、やっぱり疲れた時は甘い物だよね。
少しあたりを見回してみると数メートル先に喫茶店の看板が見えたのでそこに入ることにする。
ドアを開けるとカランコロンと年季の入ったドアベルが店内に響く。シンプルな外装ではあったけれど内装はカジュアルな感じで雰囲気のいい店だった。
僕らは窓際の席に陣取り、お店で一番高いスイーツとお冷を注文する。正直滅茶苦茶痛い出費ではあるのだけれど、背に腹は代えられない。さらば野口。
尊い犠牲に敬礼しているうちにスイーツが運ばれてくる。所謂『映え』を意識して作られているであろう色鮮やかなスイーツを前にした彼女は、さっきまでの疲れ切った表情はどこへやら。一転して目を輝かせていた。
「んん~! おいしい~」
「それはよかった」
それから暫く彼女は食没タイムへと入り、食べ終わるころには彼女の周りには幸せオーラが蔓延していた。ご満足いただけたようでよかったよかった。
「ところで一つ聞いてもいいかな? えっと……」
「? あ、わたしは中須かすみっていいます。ふふん、今日は色々ありましたけど、このスイーツに免じてかすみんって呼んでもいいですよ?」
「わかったよ、ミン」
「『かす』の部分どこいったんですか?!」
「いや、ほら……さ、中須さんが学校でどんな立場にいるか分からないけど、ここには学校の知り合いとかいないんだし、今ぐらいは……ね?」
「あーだーなーでーすー! 別にかすみん学校でいじめられてないですから!」
『かす』がないともはや別人じゃないですかーと腕を小さく上下に振って起こる中須さん。これは失敬。なんかこの子、中須さんから漂う被虐的なオーラのせいでつけられた渾名なのかと思った。
ぷんぷんと効果音が聞こえそうなくらい頬を膨らませた中須さん。意外にもよく膨らむほっぺたをつつきたくなる衝動に駆られてしまうけれど、それをやったらまた犬みたいに威嚇されてしまうから我慢我慢。
「まったく、かすみんみたいな超絶かわいいスクールアイドルがいじめられてるわけないじゃないですか。寧ろ学校の人気者過ぎて毎日ちやほやされてるんですから」
「え、中須さんってスクールアイドルだったの?」
「勿論ですよ! ほら、かすみんって超絶かわいいじゃないですかぁ?」
「それはまぁ、確かに」
「お、おぉぅ。なんかこうして男の子に面と向かって肯定されるのは照れますね……」
仄かに頬を染めて照れる中須さん。てっきり自分で超絶かわいいとか言ってるし、スクールアイドルやってるものだから慣れてると思っていたけれど、なかなかどうして異性のファンとの交流は少ないみたいだ。あれ? もしかして今の状況って中須さんのファンにバレたら僕嫉妬で闇討ちされるんじゃ……。
こほんと中須さんが小さく咳払いする。
「それで、さっきあなたは何を言おうとしてたんですか? かすみんにわかることならなんでも聞いてくださいねっ」
得意気な顔で任せろと言わんばかりに胸をたたく。なんか叩きやすそうだなって思ったのは内緒だよ。
「じゃあ遠慮なく聞くんだけどさ、僕いつの間にか隣の県からこっちに来てたみたいなんだけどどうやって帰ればいいと思う?」
「えぇ……そんなスケールの大きめな迷子だったんですか?」
実はそうだったりする。さっきの取り調べの時に出身地答えたら驚かれたし、僕自身県境付近に住んでるとはいえ越県してたとは思わなかったんだよね。しかも森の中をずっと進んできたから帰る道もわからないと来た。いや、ほんとまいったね。
むむむと中須さんが腕を組んで唸る。
「スマホの地図機能とか使わないんですか?」
「あったらとっくに使ってるかなぁ」
「ですよねー……」
僕の言葉にがっくりと肩を落とす中須さん。ごめんね、本当に何も持ってないんだ。
「あー……じゃあとりあえず一緒に駅に行きませんか? かすみんも駅に行かなきゃなので」
「ありがとう。是非そうさせてもらうよ」
「ふふーんっ。もーっとかすみんに感謝してもいいんですよ?」
そういいながらどや顔で最寄り駅を検索し始める中須さん。一時はこのまま帰れないかなぁなんてぼんやり思っていたけれど、いやはや、あそこで中須さんと出会えたのはまさに幸運だったなぁ。これで無事に帰れそうだ。
ついついと流れるようにスマホを操作する中須さんを横目に窓の外を眺める。人気も車通りもとても少ないのに、妙に落ち着く雰囲気がするのは田舎特有のモノなんだろうか。いつもは何かにせかされて日々を過ごしている分、今ここにいる時間だけはいつもよりゆっくりに感じて心地よい。
すっ、とポケットに入れていたデジタルカメラで一枚パシャリ。うん、いい写真が撮れた。
「あ”あ”??!!」
大きな音を立てて一台のバスが窓の外を通過する。その瞬間だった。中須さんから悲痛な叫びが飛び出たのは。
一体どうしたんだと視線を窓の外から中須さんに移すと、そこには操作途中で動きを止めた中須さんと、妙に黒い画面をしたスマホの姿があった。
まるで首関節がさび付いてるかのように顔を上げた中須さんの顔にはいくつもの冷や汗が滲んでいる。
「じゅ、充電……切れちゃいました……」
「……really?」
突然の梯子外しに思わず出てしまう僕の心のネイティブアメリカン。でも許してほしい。頼みの綱だと思っていたスマホが息絶えたのだから。
一秒、二秒、三秒。僕らの間に無言の時が過ぎていく。
どうしましょう? どうしましょうと言われても。交番に聞きに行きますか? なんか怒られた後って職員室に暫く近寄りたくなくならない? そ、それはそうですけど。
お互い目と表情が雄弁に考えいることを雄弁に物語っている。どうしようどうしようとアイコンタクトで話し合っていると、すっと僕らに近づく影。
「あのー、お客様。少々よろしいでしょうか?」
店員さんが少し遠慮がちに声をかけてくる。ええい、今度は一体何なんですか!
形のいい眉をハの字にした店員さんは、非常に申し訳なさそうに、そして言い辛そうに僕たちに現実を突きつける。
「駅に行くバスなのですが、今バスが出たばかりのため、次のバスは夕方くらいになっていまして……夕方までに駅に着きたいのでしたら恐らく数十キロ歩くことになるかと」
ゴトリ、と静かな世界にスマホの落ちた音だけが響いた。
「うぅ……不幸ですぅ……かすみん、今超絶不幸美少女ですぅ……」
中須さんがぼやきながら重い足取りで歩く。その少し後ろを歩く僕も決して軽快とは言えない足取りでついていく。
いくら夏が過ぎたとはいえ日中の気温は割と高く、おまけに少しだけ高い湿度のせいで、長距離を歩くことになった僕たちの体力を容赦なく奪う。
「まさかバスに乗り遅れて数十キロ歩くことになるなんてね……流石に僕も超絶不幸美少年を名乗ってもいいかもしれないな」
「…………美少年?」
「はっはっは。こらこらかすみん、そこに疑問を持たないでよ。泣いちゃうでしょ」
自分がイケメンじゃないことは重々承知していたのだけど、こうやって改めて僕がイケメン枠ではないという事を突きつけられると泣きたくなるよね。上を向いて涙がこぼれないように歩く。へへ、空が眩しいや。
「それにしても、本当に人が見当たりませんね。こんなにかわいいかすみんが歩いてるんですから、窓からチラ見する人とかもいると思ったんですけど、そういう人たちもいませんし」
「うん。言葉後半はさておいても、確かにそれは薄々僕も思ってたんだよね」
辺りを見回してみるけれども人影はなく、ただがらんとした民家が連なってるだけだ。田舎というには結構色んな店とかが集中してるし、なんて言うんだろ、人がいなくなった町って言えばいいのかな? そんな雰囲気があった。
「流石に駅がある方向を聞いただけだから詳しい位置をここら辺の人に聞きたかったんだけどなぁ」
「と言いつつ今拾ったその棒で何しようとしてるんですか?」
「棒の倒れた方向に人がいるかなって」
「それ絶対迷子になるパターンじゃん!! 知らない場所では無暗に動かないのが鉄則なんですからね?!」
「さぁ僕たちを導いてくれ! エクスカリバー!!」
「無視しないでくださいよ!!!」
僕らが帰るためなんだ。許せ中須。決してさっきの美少年というフレーズに疑問を持ったことに対する仕返しとかじゃないから。ホントホント。
垂直に支えた棒から手を離す。支えを失った棒は暫く静止したのちふらりと右側へ倒れた。
「右かぁ……じゃあ、とりあえず次の角を右に曲がってみようか」
「これで人に会えなかったら絶対今日の事全部許しませんからね」
「…………あと二回くらい猶予くれませんかね?」
「急に自信無くして日和らないでくださいよ……」
いやだって、運にすべてを託せるほど今日の僕の失態は軽くはないからさ……警察のお世話案件なわけだし。
数メートル先の角を右に曲がり、また棒を垂直に立てて運命の二回目のために精神を集中させる。神よ、残り二回に向こう10年分の幸運を招いてくださいっ──。
「──というわけで、奇跡的に商店街らしき所に出ることはできたんだけど」
「なんかここも閑散としてますね……」
残り二回のチャンスで奇跡的に商店街にでることができた僕ら。先ほどまでの道程とは違って人がまばらにいるので、とりあえずは目的は果たせたと言えるんじゃないかな。
「とりあえず、少し歩いてみようか」
商店街の細い道を歩き出す。
年季の入った店が多く立ち並んではいるが、その多くの店にはシャッターが下りて風景的な寂しさを感じさせる。それでもどこか活気づいて見えるのは、ちらほらと見えるお客さんと店員が世間話に花を咲かせているからだろうか。
「……なんか、さっき閑散としてるなんて言っちゃいましたけど、結構いい感じの所ですね」
同じように辺りを見てた中須さんも同じように感じたのか、小さく微笑みながらこの風景を眺めていた。
暫く散策して、そろそろ駅の場所でも聞こうかなと思った矢先に、くるるるると耳なじみのない控えめな音が聞こえてきた。何の音だろうとふと中須さんの方を見ると、真っ赤な顔で顔を逸らしていた。
「中須さん、今のってもしかして……」
「ち、違いますよ? 今のかわいいお腹の音はかすみんじゃないです。たとえかすみんの方から聞こえてきたとしても、ちょっと前にスイーツを食べたんですよ? だからかすみんのお腹がへってるだなんてそんな──(くるるるる)」
結構早めの口調で主張する中須さんだったが、無情にもお腹からのインターセプトによりそこから先の言葉が紡がれることはなかった。
「まぁ結構歩いたししょうがないよね。僕もお腹すいたから何か軽く食べようか」
「しょ、しょうがないですねぇ! あなたがどうしてもって言うならかすみんも付き合ってあげますよ?」
「あ、すみません。僕たち駅に行きたいんですけど──」
「嘘ですー! そこのお肉屋さんのコロッケコッペパンがすっごく食べたいんですー!!」
人の優しさを無下に扱うとこうなるんだよ、中須さん。
赤面したままの中須さんを連れてご所望の精肉店へ立ち寄る。どうやら肉の販売だけでなく、肉を使った総菜なども売っているみたいだ。こういうのはなんか昔ながらの商店街っぽさがあっていいね。
売り場の前まで来ると、僕らの来訪に気が付いたおばちゃんが奥での作業を切り上げて柔らかな笑顔で歓迎してくれた。
「あら、いらっしゃい! 学生さんのお客なんて珍しいわねぇ。何か御用かしら?」
「えっと、このコロッケコッペパンってまだありますかね?」
「ええ! ちょうど揚げたてのコロッケがあるから作ってくるわね。二つでいいかしら?」
「はい。お願いします」
「わかったわ。ちょっと待っててね」
おばちゃんはお代を受け取ると店の奥の方へ入っていき、三分もしないうちにニコニコしながらコロッケコッペパンを両手に持って戻ってくる。
「はい、コロッケコッペ2つね! 熱いから気を付けてね!」
「い、いただきます」
おばちゃんからコロッケコッペパンを受け取った中須さんは瞳をきらりと輝かせて、恐る恐る一口かじる。僕にまで聞こえるほどザクッという小気味いい音が鳴り、その瞳をより一層輝かせた。
「ん~!! おばちゃん、これめちゃくちゃおいひい!!」
「あら、そう言ってもらえると嬉しいわねぇ~。ほら、あんたも熱いうちに食べちゃいなさい」
「あ、はい。いただきます」
勧められるがまま僕も一口齧る。あ、確かにこれはおいしいな。ザクッとしたコロッケの衣ともちッとしたパン生地の触感の対比が凄くいいし、何より噛んだ瞬間じんわり広がる肉汁の旨味と濃厚なソースがたまらなく舌を喜ばせてくる。
「お味はどうかしら? ……って聞くのは野暮かしらね。あんまりがっついて食べると舌をやけどするから気を付けなさいね」
そういわれて気が付くと、さっき一口食べただけだと思ってたパンがもう半分ほどなくなっていた。中須さんももう半分以上食べており、その表情は喫茶店でスイーツを食べていた時よりも幸せそうだった。
「ふふっ。学生さんが来てこんなにおいしそうに食べてくれるなんていつぶりかしらねぇ……」
「そんなに来てないんですか?」
「そうなのよ。ちょっと前まで近くに学校があったから部活帰りの子とかがよく食べに来てたんだけど、その学校が廃校になってからはもうめっきり来なくなったわ」
「廃校……」
「そうなのよ。ほんの四年前の話だけれどね──」
曰く、ここの町は四年前までは近くに高校があったということもあり、結構老若男女問わず賑わいがあったらしい。
けれど、田舎という立地上働き口は少ないし、子供たちも近隣に遊び場の少ない高校よりも、放課後にどこか遊びに行ける都内に離れていった。その結果残ったのは慣れ親しんだ土地で過ごしたいご老人たちと数名の地元高校に進学した生徒だけになり、ついには四年前に高校は廃校に。近くに高校もなくなったから段々と寂れていった、というのがこの町の顛末らしい。
「──その子たちは優しい子達でね。スクールアイドルっていう部活まで立ち上げて街興ししようって言ってくれてたんだけど、こんな何もない町にアピールできるものもなくって断念しちゃったのよねぇ」
「そうですか、そんなことが……」
昔のことをしんみりと寂しそうな顔で語るおばちゃん。
昨今、スクールアイドルが学校という枠を飛び越えてローカルアイドルじみた立ち位置で町興しをすることはよくあることになった。実際には勿論難しいので失敗することも多いのだけれど、成功例だってある。多分、その学校のスクールアイドルたちはその成功例にすがるように始めたんだろう。何もないから寂れて忘れ去られていく街の何かになろうとして……。
「…………何もない、かぁ」
「どうかしましたか?」
僕の様子を訝しんだのか、中須さんが顔を覗き込んでくる。僕は何でもないよと笑っていってみたけれど、少しだけ、身体が宙に浮いてるかのような居心地の悪さがあった。
「ごめんなさいね、なんか湿っぽい話しちゃって! 年寄の話を聞いてくれたお礼にコロッケサービスしちゃうわね!」
おばちゃんは寂しそうな表情から一転し、さっきまでの温かな笑みを浮かべた。
湿っぽい話より楽しい話題。寂しそうな顔よりは笑顔の方がいい。そんなことは分かってるはずなのに、なんでだろう。その笑顔を見ると、少しだけ寂しさを感じてしまっていた。
あの後、精肉店のおばちゃんから駅の場所を教えてもらった僕たちは駅へと向かっていたけれど、突然の大雨に遭遇してしまい、急遽バス停で雨宿りすることにした。
「うへぇ、結構濡れちゃいました」
中須さんが濡れた髪や顔をハンカチで拭いながら愚痴る。水も滴るなんとやらとは聞くけれども、雨に濡れた髪が素肌に張り付いてるせいかかわいい全振りだった中須さんにアンバランスな妖艶さが生まれてちょっとドギマギしてしまう。
「本当に突然降ってきたからね。でも近くに屋根付きのバス停があって助かったよ」
ただこのバス停の屋根、結構古いせいか所々雨が染み落ちてくるから完全には防げてないんだけど……まぁずぶ濡れになるよりかはましかな。
ぽたぽたと落ちてくる雨粒が当たらないようポジション取りをしていると、ふわりと香る甘い匂い。視線を動かすと、肩と腕がほんの数ミリほどの近さの距離に中須さんがいた。
「あぁ、ごめん。近かったね」
そういって距離を取ろうとするけれど、中須さんは別に大丈夫ですよ、という。
「そもそも初手で抱き着こうとしてきた人が何言ってるんですか。かすみん的にも、これ以上濡れて風邪ひいたなんて言われたら気になっちゃうんで」
「そっか。ありがと」
「あ。でもでも、かすみんがかわいいからって襲い掛からないでくださいね?」
「今すぐ雨の中に突き飛ばしたくなったんだけど大丈夫かな?」
「全然大丈夫じゃないですよ?!」
中須さんって最初被虐的なオーラがあるなと思ってたけど、たまに出る挑発的な言動のせいで輪をかけていじりたくなるなぁ。
ざぁざぁと激しい音を立てて雨が降り続く。僕らはそれを暫く黙って見つめていた。
そして、ふとこの町の事を思い返してしまう。何もないから人が離れていった町。何もないから、寂れていくだけの町。何もないから──そんな悲しみさえも忘れ去られる町……。
心がきゅっと縮こまる。あぁ、やっぱり。僕は……
「ねぇ」
中須さんの呼びかけでハッと我に返る。
「……あなた、やっぱり何かありましたよね?」
「え、いやいや、そんなことな──」
「さっきからずーっと寂しそうな顔してましたから」
中須さんがコンパクトミラーを僕に突き出して見せる。鏡の中には、よく見知った顔の青年がいて、その青年はどこか寂しそうに笑っていた。
「よかったらかすみんに聞かせてくださいよ。あなたがそんな顔をしてる理由を」
かすみんは虹ヶ咲の笑顔大使ですから。そう言って彼女はにひひと笑う。
その虹ヶ咲という単語も笑顔大使という単語も初耳なんだけど……。でもまぁ大したことでもないし、暇つぶし程度に聞いてもらおうかな。
僕はすぅっと深く息を吸って、静かに話し出す。
「別に、本当に大したことじゃないんだよね」
中須さんは僕の次の言葉を待つ。
「僕さ、虹のふもとを見たくてここまで来たんだ。ほら、虹って綺麗でしょ? だからその根っこの部分には何か特別なモノがあるんじゃないかー、とか、そこまで行けたら特に自慢できるものが何もない僕でも、そういう自慢できる何かができるんじゃないかなーとか。そんな浅っさい考えでここまで来たんだ」
でも実際には虹はすぐ消えたから、方角だけを頼りにまっすぐ歩くことしかできなかったし、何より、虹のふもとがどこにあるのかすらわからないから結局は何も見つけられなかったり散々だったよ。
「それでさ、さっきのおばちゃんの話を聞いてちょっと思ったんだよね。何の取柄もなくて、何もない僕もいつかはこの街みたいに誰も寄り付かなくなって忘れられていくんじゃないかなって」
そう思ったら、少し寂しくなったんだ。そう付け加えて、僕の短い話を終える。
僕の感じたことなんて、本当に大したことではないんだ。何もない僕は、いつかこんな風になるんだなって思ったら寂しくなった。ただそれだけの話なのだから。
考えが飛躍しすぎと思われたかもしれない。でも許してほしい。夏休みっていう特別な時間の中でも何もなかった思春期男子なのだから、もしかしたらそうなるかもなんて妄想くらいしてしまう。
中須さんは何も言葉を返してこない。うーんと眉間にしわを寄せ腕を組んでうなるだけだ。
ざあざあと雨が降り続ける。沈黙はまだ続いている。
「カメラ、貸してください」
雨脚が少し弱まった頃、ようやく腕を解いた中須さんの第一声がそれだった。
流石に僕もその返しは予想外で戸惑いはあったけれど、別に僕の話に飽きたのだろうと結論付けてポケットからカメラを取り出して渡す。
カメラを受け取った中須さんは、若干なれない手つきでカメラを操作しながらポツリポツリと話し出す。
「正直、今の話を聞いてかすみんが思ったことって、勘違い乙ーってことくらいです」
「へ? か、勘違い?」
「ええ、勘違いです。それはもう赤っ恥レベルの大勘違いですっ」
激しく瞬きをして動揺する僕に目も向けず、中須さんは得意気に話す。
「そもそも何ですけど、あなたは本当にこのまちに何にも魅力がないって思ったんですか?」
「いや、そういうわけではないけど……」
「でしょう? だから大勘違いなんです!」
にやりと笑い、中須さんはデジタルカメラの液晶を僕に見せる。そこには精肉店のおばちゃんと楽しそうに話している中須さんの写真が写っていた。
「確かにこの町ってかすみんの住んでるお台場みたいにキラキラでもないしかわいい場所もないです。目立った特徴なんてなかったのは確かです」
だけど、と言葉を続ける。
「ここって何もないけどあったかい雰囲気はあったし、コロッケコッペパンもおいしかった。逆に何もなかったからゆーったりした感じがして居心地よかったでしょ?」
「それは……確かに……」
田舎特有のゆったりした時間の流れだとか、人との距離の近さとか。そんなところが心地いいなと思う時は何度もあった。でも
「でも、それは別にこの町に限った話じゃないでしょ? 田舎の方に行けば、こんな雰囲気の所は結構あると思うよ」
この心地よさはこの町の特別じゃない。ほかにも似たような場所はあって、そこも当然のように心地いい。だからこそ僕は何もないんだって思った。
けれど中須さんはちっちっちと人差し指を振って肩をすくめる。
「考えが甘すぎですよ。侑先輩と一緒にいるときの歩夢先輩くらい甘いです」
その先輩 is 誰。
「そもそも! 他の人も持ってるからそれがその人の魅力じゃないってことが間違ってるんですよ!」
「……どういう事?」
純粋にわからなくて聞き返すと、あれ? と首をかしげるけれど、すぐに説明をはじめた。
「ほら、かすみんって世界一かわいいじゃないですか?」
「うん、まぁ、そうだね」
「でもかすみんには及ばなくても、『かわいい』って魅力は他の人もいーっぱい持ってる人いるじゃないですか。それこそ、女の子はみんな『かわいい』って特別な何かを持ってるんです」
両手をぐるっと大きく回して熱弁する。
「他の人も持ってる魅力って特別感はないし、当たり前みたいに思われるかもしれないです。というか、あなたはそう思ってるんじゃないですか?」
頷いて肯定する。
「それでも、ですよ?」
中須さんは今日一番のいい顔で、とても誇らしげに僕に言い放つ。
「ありふれた魅力でも、特別感が薄い特徴でも、自分がいちばんだって、そうやって頑張って磨き上げて突き詰めていったら、その人だけの立派な特別な『何か』だって、そう思いませんか?」
きっと町興しをしようとしたこの町のスクールアイドルの子達だって、それを作ろうとしたんじゃないかなって思います。そう言って、中須さんはにひひと笑った。
その笑顔を見た瞬間、僕の縮こまった心がほぐれた気がした。
……そっか、だからこの町にはまだ人がいて、笑いあってるんだ。
「……ははっ。確かに。恥ずかしいくらいの勘違い野郎だったよ僕は」
くつくつと自分の勘違いに対する笑いがこみあげてくる。あーあ。恥ずかしい話しちゃったなぁ。
特別だとか魅力だとか、そういうのは唯一のものじゃない。唯一にしていくものなんだ。少なくとも、中須さんにとっては、そういうものなんだ。そして、そんな中須さんの考えに同調できた僕にとっても、きっとそうなんだろう。
「中須さん。僕にもあるかな? そういう『何か』」
「さぁ?」
バッサリ切り捨てられた。
「あなたと会ったの今日が初めてですし、そんなにすぐわかるようならあなたも悩んでないんじゃないですか?」
「……まったく。その通りだね」
恥の上塗りってこういう事なのかな。全て悟った顔で僕いったけどだいぶイタい感じになってない? あ、なんか急に穴に入りたくなってきた。
じわじわこみあげてくる羞恥心に思わず顔を覆う僕。それがおかしかったのか、くふふと意地悪に笑う中須さん。よかった、中須さんがご近所とか同じ学校とかじゃなくて。もしそうだったら恥ずかしさで暫くひきこもってる自信あるよ。
「でもまぁ、もしあなたが何か成し遂げてみたいって言うんでしたら」
パシャリとシャッターを切る。いつの間にか空には太陽と、七色に輝く虹があった。
「あの虹のふもとまで行ってみましょう!」
手を差し伸べられる。
今日、中須さんと会って、話して、救われたってわけじゃない。
多分これからも僕は似たようなことで悩むんだろうなって思うし、その度にまた虹のふもとを目指して迷子になるんだろう。
でも、そうした先にきっと僕だけの特別な何かがあるんだと思う。
そしたら、そういう生き方してみるのもアリだなって思えて、彼女の手を取るために自然と足が前に出たんだ。