「──ねぇ貴方、私を飼って見る気はない?」
きっとあの日、僕の運命は決められてしまったのだろう。
頬杖を突きながら妖しく笑う、青い瞳の猫に。
▼
その日は台風と見紛う程の豪雨だった。
今でも思い出せる、12月8日、午後11時24分。バイトを終えたとある大学の一学生の僕は、疲労でベッドに倒れてしまいたい体に鞭を打ち、バイト終わりのその足で午前0時まで営業している近場のゲームショップへと、豪雨の中を駆け抜けて普段の倍近い時間をかけて辿り着いたのだ。長年続いているRPGの新作を無事に発売日に手に入れることが出来た僕は、内心の高揚を必死に隠しながら店を出た。幸いこの店からならば、家まで5分もかからないだろう。一刻も早く開封して中を拝みたい気持ちに抗いながら、何気なく横を見たときに視界に飛び込んできた薄暗い路地の中で。
──1人の女性が、うつ伏せに倒れていた。
「は?」
異常事態に、呟きが勝手に漏れた。傘をさすのも億劫だ、僕は豪雨の中をびしょ濡れになりながら路地へと駆け込んだ。左右の建物が屋根になってくれているのだろう、雨脚は外よりか幾分かマシだが、それでも降り頻る雨が女性へと容赦無く降り注いでいる。
「大丈夫ですか!?」
僕は女性へと駆け寄ると、体に触れて体温を確認しようとするが、雨のせいで僕の手も女性の体も冷え切ってしまっており上手く熱を感じることが出来ない。
「すいません、失礼します……よ」
仕方なく女性の肩に手を差し込み、うつ伏せから仰向けへと体勢を変えた。すると僕の目に飛び込んできたのは、星空のような優しい藍色の髪と苦しそうな表情を浮かべて尚大人の魅力を感じさせる美貌。冬場にも関わらず惜しげもなく晒された鎖骨の艶美なラインと、その下にある黒子に、視線を吸われてしまう。息がある、という安堵を擦り抜けて先に押し寄せてきたのは、美しい、という一人間に抱くにはあまりにもスケールの大きい息を呑むような感情だった。そんな人が、どうしてこんな薄暗い路地に1人で、行き倒れているのだろう。すると女性は、僕の膝に頭を乗せたまま、呻くように音を零した。
「……ぅ、ぅ」
「っ! 大丈夫ですか!? 何があったんですか!?」
「……ぃ……た」
「え!?」
「──お腹……空いた……」
「…………………………………………はい?」
「朝から、何も…………食べて、なくて…………」
「…………はぁ」
数分前からの異常事態の積み重ねに、僕の頭はついに思考放棄を始めてしまった。だって考えてみてほしい。現代日本で空腹行き倒れたとてつもない美人と遭遇するなんてこと、異常事態と言わずして何と言うのだろう。そしてこの後の僕の発言が、今後の僕の運命を大きく変えることになる。
「……あの、ウチでなんか食べていきますか? 簡単なモンなら作りますけど」
「え……いい、の?」
「流石にこのまま放置して帰るなんて出来ませんよ。そのまま最悪のことになったら、僕も寝覚めが悪いんで」
「そう……ね……お願い、しようかしら」
そして女性は、初めて目蓋に隠された瞳を僕へと向けた。髪色と似て非なる、透き通る
「……どうぞ。立てますか? 肩貸しますよ」
「ああ……ありがとう」
今振り返れば、もっと選択肢はあった。近くのコンビニやファミレスまで連れて行ってもよかったし、携帯がないなら貸してあげて知り合いと連絡を取らせたっていい。それかゲームショップに戻ってタクシーを呼んだって構わない。自分の家に連れて行く必要性なんて、無かったのに。それでもその選択肢を導き出してしまったのは、前述のように思考回路が麻痺してしまっていたのと、それとは別に、このとき既にこの迷い猫の妖しい魔法に掛けられてしまっていたからなのだろうと、今になって思う。
▼
「楽にしててください。少し準備してきますから」
「悪い、わね……」
豪雨の中、傘をさして女性に肩を貸しながら歩くこと10分程、ようやっと自宅へと辿り着いた。何の変哲のないマンションだが、綺麗にしておいてよかった。備え付けられているソファに女性を寝かせると、大慌てで諸々の用意を始めた。先ずはタオル。そして着替え。女物の服、ましてや下着なんてのは持ち合わせているはずもなく、仕方がないのでスウェットを用意するか……と思った矢先。半年程前に別れた前の彼女が残していった衣類が、衣装ケースの中に丸ごと残っていることを思い出した。未練があるわけでもなくただ面倒くさいから放置していたこれが、こんなところで役立つとは。僕は自室から衣装ケースごと引っ張り出すと洗面所に置き、ついでにシャワーから温水を出して、浴室を温めておく。そこまでの用意を終えて、僕はリビングに横になる女性へと声をかけた。
「お待たせしました。これ、タオルです。拭いてください」
「ん……ありが、とう……」
「それと風呂、湯は張ってないですけど温めておいたんで。着替えも置いてます、合うかはわかんないですけどテキトーに使ってください」
「えっ……それって」
何かを察したのだろう、女性が言葉を続ける前に、笑いながら僕はそれを否定する。
「大丈夫ですよ。捨てることすら忘れてたゴミなんで、如何様にでも使ってください。あなたが気にしないなら、の話ですけど」
「そう……なのね。わかったわ」
「お気になさらず。体温めてる間に何かテキトーに食える物作っときますね」
「ええ、本当にありがとう」
少しは回復したのだろう、女性は自分で立ち上がると、しっかりとした足取りで浴室へと消えていった。
「さて、冷蔵庫に何があったかな……」
呟きながら、僕は献立を決めるためずぶ濡れの鞄の中からスマホを取り出そうとした。その時手に触れたのは、先ほど購入した未開封のRPG。そのパッケージの表紙の剣を掲げた主人公と、目があった。
「……今日はやれそうにないな」
苦笑混じりに呟いて、パッケージを鞄の中へ戻すと、僕はキッチンへと向かった。
▼
「……っし、あとは」
「上がったわ、温まった、ありがとう」
「あぁよかった。こっちももう少しでできま……す、よ」
時間にして、25分くらいだろうか。声に釣られて女性を見た僕の視界に飛び込んできたのは、風呂上りの蒸気を纏いながら元カノの所有物である上下灰色のスウェットに身を包む彼女の姿。しかし150前半の低身長だった僕の元カノに対して、女性の身長はおそらく165を超えている。着ることはできたのだろう、だが明らかにサイズが合ってない。スウェットは、女性のあまりにも立派なボディラインに沿うように形を変えている。そして丈が足りずに僅かに見える腹部が、余りにも扇情的で、僕に目のやり場を困らせた。
「服、ありがとうね。ただやっぱり少し小さくて、スウェットは着れたけど、下着はどうしてもサイズが合わなくって、着けられなかったわ」
「…………え、上下ですか?」
「上下」
「くぁwせdrftgyふじこlp」
「はい?」
僕は考えるのをやめた。あのスウェットの下のことを考え出したら、永遠に帰って来られない気がする。何より自分の服を貸さなくてよかったと、心の底から安堵した。
「も、もうすぐ! もうすぐできますから! テーブルに座って待っててください!」
「え、えぇありがと……わぁ、凄くいい匂い」
「口に合えばいいんですけどね」
女性を促し、僕は改めて料理に集中した。頭の7割で女性のスウェットの中に広がる桃源郷のことを考えながら。
「どうぞ召し上がってください。簡単なモノで申し訳ないですが」
「そんなことないわよ、とても美味しそう! いただきます」
卓上に並べられたのは、何の変哲もない生姜焼き。偶々豚バラが残ってたから、自分好みに濃い目に味付けて簡単に済ませた。肉を漬け込む時間がなかったから、いつもよりさらに濃い目に。白米はコンビニのレンチンで、付け合わせのサラダはキャベツを千切りしてドレッシングをかけただけ。味噌汁は、豆腐と戻しわかめを入れて、上に万能ネギをかけた。簡単に、とは言ったけど持ち合わせの食材の全てを掛け合わせた、我が家の冷蔵庫の最大火力。自分の料理を食べるなら、美味しいと思ってもらいたい。そんな僅かな見栄と共に作った料理、女性は先ず生姜焼きを口へと運んだ。数度咀嚼して、彼女は青玉を見開いて呟く。
「……美味しい……!」
「っ! ……良かったです」
「こんな美味しい生姜焼き、初めて食べたかも」
「大袈裟ですよ。お腹空いてたからじゃないですか?」
「美味しい……幸せ」
たかが生姜焼きに舌鼓を打ち、女性は心底幸せそうに頬を紅潮させながら微笑む。女性はそのまま白米へ、サラダへ、味噌汁へ。どんどん箸が伸びて行く。その様子をじっと眺めていると、女性は怒ったように頬を膨らませた。
「ん……そんなに見ないでよ、恥ずかしいじゃない」
「えっ、あぁ……すいません、つい」
「見惚れちゃった?」
「え?」
「私に、見惚れちゃった?」
「……まぁ、ハイ」
「ふふっ、素直でよろしい」
満足げに微笑むと、女性は再び卓上の料理へと箸を伸ばし出した。見惚れたことを自覚させられたからか、なんだか恥ずかしい。女性の……いや。
「……名前」
「えっ?」
「名前、何て言うんですか? 僕、あなたの名前も何もわからないし。あそこで倒れてた理由とか、住所とかあんまりパーソナルなことは触れるつもりはないですけど、名前くらいなら教えて貰ってもいいですよね?」
正直、気になる。目の前の女性がどこの誰で、どんな理由であんな場所で倒れていたのか。人には触れられたくないこともあるだろうし、どうせ1日限りの付き合いだ、これからの数十年、この人と関わらない期間の方が長いのだからそんなことを聞いたってしょうがない。何かおかしなことを言っただろうか、女性は目を見開いて数度瞬かせたあと、我を取り戻したかのように微笑んだ。
「……ふふ、そうね。いいわよ、教えてあげる、私の名前」
「勿体振りますね」
「からかっただけよ。怒らないで──
「アオイ……さん。どういう字書くんです?」
「ご想像にお任せするわ」
「え?」
「ふふっ」
これ以上答える気はない、というように女性……アオイさんは再び箸を動かし始めた。いや、アオイだけだと名字か名前かもわからないんですけど。しかしその様子を見て更に追求する気にもなれず、僕は彼女が食べ終えるまで無言を貫くしかなかった。
食事を終えて、使った食器類を片付けてテーブルに戻ると、そこにはテーブルに突っ伏して眠るアオイさんの姿があった。疲れていたのだろう、体が温まって満腹になり、眠気に負けてしまったというところか。そのままテーブルで寝せるのも申し訳ないので、俺はアオイさんを起こすべく声をかけた。
「アオイさん。起きてください。風邪引きますよ」
「んー……」
よほど疲れているのか、アオイさんは体を起こして目を擦りながらも、夢現と言った様子。ソファで寝かせることも考えたが、ここまで疲れているならベッドでゆっくりさせた方がいいだろう。僕の部屋のベッドを貸して、僕がソファで眠ればいい。
「ベッド、案内しますから。立てますか」
「うーん……ありがとう……」
そしてアオイさんは立ち上がり、僕の手を握った。大きな身長から想像もつかないほど小さく、柔らかい手。一瞬で心拍が暴れだした僕は、それを隠す様に「行きますよ」と無愛想に声を掛けて、アオイさんを自室へと引っ張っていった。そのままベッドに寝かせ、毛布を掛けて謎の後ろめたさを感じたまま急いで部屋を退散する。そこまでして緊張の糸が切れたのだろう、猛烈な睡魔を感じた僕は、その勢いのままソファに倒れ込み、そのまま眠りについた。
▼
慣れないソファでの睡眠で、深く眠ることはできなかった。朝6時に目を覚ますと、その勢いでシャワーを浴びて、朝食の準備へと取りかかった。部屋に入ってアオイさんを起こそうかとも思ったけど、どうせ今日の授業は午後からだ、慌てて用意する必要もない。どうせならゆっくり寝かせてあげようと、自分から起きてくるまで待つことにした。
昨日の残りの生姜焼きとキャベツを、トースターで焼いた食パンを三角に切って挟み、即席サンドイッチの完成。あとはフライパンで卵とベーコンを焼いて、冷凍のミックスベジタブルを温めてからさらに盛り付ける。そういえば味噌汁も残ってたっけ……いやでもサンドイッチには合わないかな、なんてことを考えていると。
「んー、くぁ……おはよう〜」
「あぁ、アオイさん。おはようございまああああああああああああああああ!?」
「え?」
タイミングよく起きてきたアオイさんに声を掛けようと振り返った刹那。スウェット姿以上の衝撃的光景が僕の瞳に飛び込んできた。
「どうしたの?」
「どうしたのじゃない! アオイさん服、服ッ! なんで服着てないんですか!!」
「え……あぁ。寝てる間に脱いじゃったのね、多分。小さくてキツかったし、何より私寝る時は何も着ないのよ。裸族ってやつね」
「冷静に解説なんてしてないで! 早く服着てくださいッ!!」
鋼の理性でアオイさんに背を向け、僕は叫んだ。アオイさんは渋々と言った様子で部屋に戻り、昨日のスウェット姿で再び現れた。十分扇情的だが、さっきの姿に比べれば遥かにマシだ。
「これでいいかしら?」
「いや、まぁ……大丈夫です」
「ふふっ……あら、もしかして朝食も用意してくれたの?」
「もうすぐできますよ。座って待っててください」
「はーい。楽しみね」
アオイさんは笑顔で鼻歌を歌いながらテーブルへと向かっていった。自分の容姿に頓着が無いのだろうか?
「はぁ……」
大きなため息を一つ吐いて、僕は味噌汁を温め直した。
「ごちそうさま。貴方の料理はやっぱり最高ね」
「お粗末様です。昨日の残りなんで殆ど何もしてないですけどね」
食器を洗う僕に、食後のコーヒーを楽しむアオイさんがテーブルから声を掛ける。最後の食器を乾燥機に突っ込むと、僕は自分のマグカップを持ってアオイさんの目の前の椅子へと腰掛けた。
「本当にありがとう。何から何までお世話になっちゃって。何かお礼をしないとね」
「いいですよ別に。大したことしてないですし。たった一晩宿貸しただけじゃないですか」
「いいえ。貴方が宿を貸してくれなかったら、私はあそこで行き倒れたまま。最悪、死んじゃってたかもしれない」
「そうだとしても、誰か他の人が駆け寄ってくれてますよ。特にアオイさんみたいな美人なら、男は放って置かないでしょうしね」
「……何? からかってるの?」
「さぁ、どうでしょうね」
昨日のからかいの些細な仕返し──中身は本音だが──に、バツが悪くなったアオイさんは僅かに頬を赤らめてコーヒーに口を付けた。してやったりの気持ちで自分もコーヒーを口に運ぶと、カップに手を添えたまま俯いているアオイさんの姿が目に入った。
「アオイさん?」
「……迷惑じゃ……なかった?」
「はい?」
「一晩経って冷静になったわ。私、相当非常識なことやってるって。迷惑……かけたわよね」
ごめんなさい、アオイさんは深々と頭を下げた。その様子を見て僕は、思わず笑い声を上げてしまった。
「なっ……! 何よ、本気で謝ってるのよ!?」
「いや、すいません……今更ですよ、そんなの。迷惑になるなら最初から家に連れてきてなんかないです。本当に気にしないで欲しいし、それに……嬉しかったんです、僕」
「嬉し……かった?」
「……まぁ別にもうわかってることだと思うんですけど。僕、半年くらい前まで彼女と同棲してたんですよ。別に未練があるとかじゃないんですけど、やっぱり家に一人って寂しいんだな、って。それにアオイさん言ってくれたでしょ? 僕の作ったご飯を美味しいって。あれ、凄く嬉しかったんです。本当に。その言葉だけで、僕はアオイさんを家に泊めてよかったって思ってるくらいなんで。ごめんなさいなんて、言わないでください。お礼とかそういうのも、本当に大丈夫ですから」
つい、長々と思いの丈を話してしまった。気恥ずかしさにコーヒーを一気に啜る。するとアオイさんは、嬉しそうに笑った。
「ありがとう。私を拾ってくれたのが貴方で、本当に良かったわ」
「拾ったなんてそんな。猫じゃあるまいし」
「猫……いいわね、それ」
「えっ……?」
疑問ともに漏らした僕に、アオイさんは妖しく笑い、頬杖を突きながら僕に告げた。
「──ねぇ貴方、私を飼って見る気はない?」
「…………はい?」
「私、いい猫になれると思うんだけど。従順だし、家事だってするし、お金だって……まぁそこそこあるし、どう? いいペットだと思わない?」
「端的に言うと?」
「居候させてください」
「ですよね」
妖しい笑みを一転、真顔でテーブルに頭を擦り付けながらアオイさんは頭を下げた。あまりにも潔い懇願に、僕は面食らってしまった。何も言えずに固まっている僕に、アオイさんはここぞとばかりに畳み掛けてくる。
「ねぇダメかしら。貴方言ってたわよね? 一人は寂しいって。その寂しさ、私が埋めてあげる。猫みたいに寄り添って、慰めてあげる。なんなら、貴方が望むならそれ以上だって──」
「──やめてください」
「え……」
僕は少し語気を荒げて、アオイさんを嗜めた。彼女は驚いたように目を見開いて、固まっている。
「僕はあなたそんな事を言わせるために、家に泊めたんじゃない。そんな言葉で僕の気持ちを誘おうとするの、僕は嫌です、やめてください」
「……ごめん、なさい」
「……ただ、困ってるのはわかりました。行くとこっていうか、帰るところもないんですか?」
「……そう、ね。今はどこにも行けない。帰る場所もない。恥ずかしいけどね」
「……じゃあ改めて言いますね──アオイさん」
そこで言葉を切り、僕は彼女に手を差し伸べながら、笑った。
「── ウチでなんか食べていきますか? 簡単なモンなら作りますけど」
「っ──!」
「行き先が見つかるまで、この家で休んでいけばいい。贅沢はさせられないと思うけど、ご飯くらいなら作りますから。迷い猫を一匹家で飼うくらい、僕はなんてことありません」
「……いい、の……?」
「勿論。っていうか、アオイさんが言い出したんでしょう? 何驚いてるんですか。僕はアオイさんが僕の作った料理で喜んでくれるなら、それだけでいいです」
どうですか? と言葉を続けて、アオイさんの返事を待つ。暫くした後、彼女は恐る恐ると言った様子で、差し出された僕の手を取った。
「よ、よろしくお願いします……いい飼い猫になれるように、頑張ります……」
「もっと猫みたいにどうぞ」
「にゃ、にゃん! 拾い猫アオイだにゃん! 可愛がって欲しいにゃん!!」
「お帰りはあちらです」
「ちょっとぉ!? 貴方がやれっていったんでしょ!?」
顔を真っ赤に染めて、アオイさんは反駁する。その様子があまりにも可笑しくて、僕は大声を上げて笑ってしまった。
「ははは……はぁ、では改めてよろしくお願いしますね、アオイさん」
「もう……次からかったらタダじゃ置かないんだから。よろしくね、飼い主さん?」
拗ねたように口を尖らせた後、再び握手をしながら、アオイさんは妖しく笑った。
こうして僕と、一人の迷い猫の、奇妙な共同生活は始まったのだ。
▼
最初は環境の整備から始まった。
共同生活が決まってすぐに、アオイさんはネットで必要最低限の下着と衣類を購入した。そしてその機会に合わせて、元カノの私物を全て処分した。
そして2人で、『共同生活のきまり』を作った。
1.部屋のものに勝手に触らない
2.日中の家事はアオイさんが、帰宅してからの家事は僕がする
3.寝るときはアオイさんがベッドで僕はソファ
4.食事は僕が作る
5.食費は、基本アオイさんが出す
6.直して欲しいところがあれば、すぐに言う
他にも細かいのは色々作ったけど、最初に決めたのはこの6つだった。とりあえず一番に、6を使って『お願いだから寝るときは服を着てください』と懇願した。本人は極めて不服そうにしていたが、僕の土下座に根負けして渋々了承してくれた。そしてこの約束を履行するにあたって大きな困難があるということが、開始一週間で明らかとなった。
「ちょ、アオイさん!! どうしたんですか!?」
「あ! ねぇどうしたらいいのかしら、洗濯機から泡が溢れて床が……」
「うわっ! どうしてこんな……って! 容器の中身丸ごとブチ込んだんですか!?」
「え? 違うの?」
「違いますよ!!」
「アオイさん起きてください。掃除してくれるんじゃなかったんですか?」
「んぅ……なによもう、こんな朝早くから掃除しなくたって大丈夫じゃない……」
「もう昼の4時なんですよ!!」
「ねぇアオイさん、なんか風呂入ったら全身ヒリヒリするんですけど、バスロ○ンどのくらい入れました?」
「何? もしかして私を疑ってるわけ?」
「
「ンフフ、残念ながら今回は間違ってないわ。一箱しか入れてないもの」
「マジで洗濯機から何も学んでないなぁああ!!」
──この飼い猫に、生活能力が皆無だという大きな困難が。
結果、2に関しては僕も一緒に家事をして、一緒に覚えていくことになった。
一緒に暮らすようになって、アオイさんのことが色々わかってきた。大人ぶっていても──実際大人っぽい部分もあるけど──実際はとても甘えん坊だということ。生活能力、家事スキルが皆無だということ。中でも料理は壊滅的だということ。ただお金だけは、何故か本当に僕より遥かに持っているということ。
一緒に過ごしていくうちに慣れが出てきて、作ったきまりが形骸化していくのに時間はかからなかった。
最初は別々にわけていた洗濯物も、いつからか面倒くさくなって一緒に洗うようになった。僕もアオイさんの下着を干すし、アオイさんだって僕の下着を干す。きっかけは、共同生活をする上で、互いの下着を見ないで過ごすことなんて無理では? というアオイさんの提案。至極真っ当だけど抵抗があった。アオイさんが「私は別に気にしない」と言うので、それならば、と意を決して提案を受け入れた。蓋を開けてみれば別に男子高校生でもあるまいし、確かに今更女性物の下着を見たところで微塵も興奮なんてしなかった。いや『デカイな』とは思ったけど。
いつしかソファで寝るのをやめて、同じベッドで寝るようになっても、肌を重ねることは決してなかった。ただアオイさんがそっと手を握ってくるときに、僕が握り返すだけ。それだけで良かったし、不思議とそれ以上をする気も起こらなかった。
そんなこんなで、アオイさんとの日々は続いた。一緒にご飯を食べたり、休みの日には近くの公園を散歩したり、家でゲームをしたり。どこにでもあるような、ありふれた日常を過ごした。
別に付き合ってるとか、そういう感じでもなくて。文字通り飼い猫の世話をする、主人のような気持ちだった。周りから見れば、きっと意味がわからないだろう。初対面で、同棲から始まった謎の関係。ただ僕は、そしてきっとアオイさんも、この関係が、とても楽しかったんだ。『行き先が見つかるまで』だったはずのこの生活も、気づけば一ヶ月が経ち、二ヶ月が経ち、半年が経ち、それでもまだ続いた。見つかったかどうかには触れない。触れればこの楽しい生活が終わってしまいそうだったから。アオイさんの名前以外のことに関しても同様に触れずじまいのままだった。
そして季節は巡り、アオイさんを拾った冬が近づく11月のある日、それは起こった。
▼
「っと……じゃあいってきます、アオイさん」
「えぇ。いってらっしゃい。今日は久々に私が料理を作ろうかしら」
「チェンジで」
「まだ何も作ってないじゃない!」
「ゆっくり寝てていいですよー。じゃ」
「もう……気をつけて帰ってきてね」
笑顔で手を振るアオイさんに、僕も笑顔で手を振り返した。そして歩いてバス停まで向かうと、大学直通のバスに乗り一番奥の座席へと座った。
現代人の習慣のようにSNSを開き、適当に目を滑らせていると、ある一枚の画像が視界へと飛び込んできた。その画像に写っていた人物は見慣れている──否、毎日見ている、その人のものだった。
「──アオイ、さん……?」
その画像が添付されているまとめ記事の見出しには、こう書かれていた。
「『アイドル、
概要を纏めるとこうだ。
一昨日、朝香果林が所属する芸能事務所が、約一年前の12月に、突如連絡がつかなくなった事を発表した。朝香果林は都内の有名私立高校虹ヶ咲学園出身で、一時期世間で一斉を風靡した『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』の主軸メンバーの1人である。学校を卒業後、モデルとして今の事務所で活動した後、数年経ってファンの強い要望と、本人きっての希望でアイドルデビュー。大ヒットとまでは行かずとも順調な滑り出しを見せていたが、3rdシングル発売前に事務所と金銭と今後の活動方針で揉め、その場の勢いで事務所を飛び出した後、消息が掴めずにいる。事を大きくしたくなかった事務所は独自で捜索を続けていたが、ファンの不安の声が大きくなりすぎて、事実を隠し切ることは困難だと判断し、今回の公表に踏み切った──
「──なん、だよ、コレ……!」
暫く呆然として、絞り出すように呟く。
気がつけば、スマホを持つ手が震えていた。
「アオイさんが……アイドル……?」
明かされた衝撃的事実に、思考が漸く追いついてきた。いまだに信じ切ることができてない自分を、信じたくないだけだと客観的に見ている自分がいた。
記事に書かれている、朝香果林が失踪した時期と、自分がアオイさんと出会った時期の合致。何より、事務所が公表した朝香果林の顔写真が、今朝笑顔で「いってらっしゃい」と自分を送り出した彼女のものと、完全に一致している。最早疑いようもない真実であると、理解せざるを得なかった。
「どうして……っ」
突如明らかになった、自分の家に転がり込んできた迷い猫の正体。家出とか、そんな生優しいレベルの話ではなかった。もし本当に彼女が朝香果林であるならば、事務所が公表し、SNSで記事が作られている以上、これまでのように僕の家で過ごすのは不可能なはずだ。今まで触れてこなかった爆弾は、最早核のような規模だったということに、今更気付かされた。
その日の授業はそのことに気を取られ、全てが耳を擦り抜けていくばかりだった。アオイさんのことが気になって、他の全てのことが考えられない。
……そろそろ、ハッキリさせないといけないのかもしれないな。これまでずっと、そのことから目を逸らし続けてきた。アオイさんと過ごす日々が楽しすぎて、知らなくてもいいと思っていたから。否、知ることが、怖かったから。知ることで、変わってしまう気がして。全てが終わってしまう気がして。しかし遅かれ早かれ、彼女の正体には、触れないといけないことだった。それが偶々、タイミングが今訪れただけのこと。終了のチャイムと共に僕は席を立ち、家への帰路を急いだ。
▼
「あら? お帰りなさい。早かったのね」
「うん……ただいま、アオイさん」
「待っててね、今ご飯作ってるから。私、本当に大分料理も出来るようになったのよ?」
「まぁ確かに……でも未だに火を使わせるのは怖いですけどね?」
「もう! 少しは私を信用してよ!」
「ははは、ごめんってば。洗濯物、干しときますね」
「あ、大丈夫よ。もう終わってるわ」
「え、大丈夫ですか? ちゃんと干せました?」
「……大概私を信用してないみたいね」
「アオイさんが干すと両端がねじりパンみたくツイストするじゃないですか、ハンガー」
「記憶の改竄が著しいわよ!?」
帰宅してすぐ上着を脱ぎながら、いつものように自室越しにキッチンにいるアオイさんと軽口を交わし合う。こんな何気ない会話が、本当に楽しかった。一人じゃないと感じさせてくれるアオイさんに、何度も心が救われてきた。
──でも。
このままじゃダメだ。
好奇心じゃなくて、僕らのこれからのために、一度ハッキリさせるんだ。
「……そういえば、今日ネットでニュース見たんですよ」
「へぇ、何の?」
「いや、大したニュースじゃないんですけどね。あなたは何か知りませんか?」
──朝香果林さん。
時間が、止まった。
聞こえるのは、蛇口から流れる水の音だけ。アオイ──否、果林さんは、微動だにせず僕に背を向けている。そんな彼女の背中を、僕は真っ直ぐ見据え続けた。
「……いつから、知っていたのかしら」
「今日です。SNSの記事で纏められてますよ? “アイドル朝香果林失踪”って」
「そう、良かったわ。知っていて黙っていたなら、気持ち悪くてしょうがなかったもの。事務所も、隠しきれなくなったみたいね」
──
今までの彼女と、違う。喋り方がとかがじゃない。身に纏う雰囲気が、変わった。大人っぽさの中に、甘えん坊でどこか放って置けない、庇護欲のような感情を掻き立てる何かが入り混じった柔和な雰囲気が掻き消え、大人の魅力を前面に放出し、全ての視線を奪って離さない妖しい魅力へと上書きされている。これが“迷い猫アオイ”ではなく、“アイドル朝香果林”としての彼女の姿。
「……黙っててごめんなさいね」
「いえ……気にしないでください」
「怒ってないの?」
「怒りませんよ。それで僕が被害被ったわけじゃありませんし」
「そう……」
再び部屋に沈黙が訪れる。振り向いた果林さんは、困ったように──ともすれば、憑物が落ちたかのように、笑っていた。蛇口の水を止め、「座りましょう」と僕を促して、彼女はソファへと腰掛ける。僕もゴクリと唾を飲み込みながらも、彼女の横へ腰掛けた。
「……いつかこんな日が来るかも、とは思ってたけど。神様って意地悪ね、心の準備もさせてくれないなんて」
「……どうして、って聞いたら答えてくれるんですか?」
「逆に答えたくないって言ったら聞かないでくれるのかしら?」
「言葉遊びがしたいんじゃありません」
「冗談よ、そんな怖い顔しないで。ほら、笑って笑って」
「果林さ──っ!」
いつもと違うその名で呼んだ瞬間。彼女は僅かに、それでも確かに表情を歪めた。鋭いナイフで胸を抉られたように、死んでしまうんじゃないかというほど苦しそうに。しかしもう次の瞬間には、果林さんはいつも通りの艶美な笑顔で僕を見つめていた。
「……フフッ、ごめんなさいね。私こう見えて、結構動揺してるのよ? さっきも言ったけど、心の準備なんて微塵も出来てなかったから」
「……認めるん、ですか?」
「そこまでわかってるんだもの、隠しようがないじゃない──
認めた。自分こそが、朝香果林であると。
状況は限りなくクロだった。それでも、心のどこかではまだ信じていた。彼女は世間を賑わす朝香果林とは何の関係もない、ただの迷い猫だと。だって、彼女が朝香果林であるならば──。
「……黙っててごめんなさい。隠してるつもりは……無かったなんて言えない。でも、貴方には知らないままでいて欲しかった。貴方が知らないのを、聞いてこないのをいいことに、貴方の優しさに、つけ込んでたのよ、私。貴方との日々が、本当に楽しかったから」
そこまで言うと、果林さんは僕の方へと倒れ込み、ぽすんと肩に頭を乗せた。この空気に相応しくないその行為の意味を、僕は知っている。これは彼女が辛いとき、苦しいとき……それ故に、誰かに甘えたいときにしてしまう、ほぼ無意識に近い行動。それを知っていたからこそ、僕は心境とは裏腹に、彼女の頭を振り払う気にはなれなかった。その行為だけで、彼女が今本当に苦しんでいることを、理解させられてしまったから。気づけば僕の手は、果林さんの手の上に乗せられ、その手を優しく握っていた。瞳を閉じて微笑んだまま、彼女は小さく呟く。
「──ずっと、この家で飼われていたい」
きっとそれは、果林さんの──アオイさんの、本当の気持ちなのだろう。その呟きに、僕は何も言葉を返すことができなかった。その状態のまま、時だけが流れていく。僕は思う。“どっちが本当の彼女なのだろう”、と。そして彼女は、突然立ち上がると、僕の正面に立って呟いた。
「ねぇ」
「はい」
「──
「……は?」
「いいでしょ? 一回くらい。私、今そんな気分なの」
そう言いながら、僕の目の前で彼女はTシャツとズボンを脱ぎ捨て、下着のみのあられもない姿を僕の眼前に晒した。今までそれを全く見たことがないわけじゃない、しかしそれでも彼女が
「っ、やめてくださいっ!!」
「どうして? 一応アイドルだし、女としてのスタイルには自信があるのだけど。私って、そんなに魅力がないかしら? これだけ一緒に過ごしてきて、一度も襲わない程私は貴方にとってその程度の存在なの? 違うわよね?」
そう言いながら、彼女は自分の指で自分の体を撫でた。時折彼女の口から零れる官能的な声が、僕の理性の鎖を引き千切ろうとする。頭の中で鎖がギチギチと音を立て、視界がぐるぐると回っている。そして彼女の豊満な胸を支える、最後の砦を解放しようと後ろに手を回したところで。
「ッ──やめろッ!!!」
「きゃっ──」
思い切り、彼女を突き飛ばした。
果林──いや彼女は──アオイさんが尻餅をついて、悲鳴を上げる。全身全霊で示された拒絶に、アオイさんは呆気に取られた表情で僕を見ている。
「僕はっ、そんなコトをするためにっ、アオイさんと過ごしてきたわけじゃない……ッ!!」
息を荒げながら、床に落ちていたTシャツとズボンを掴み取り、アオイさんへと放り投げた。彼女に背を向けたまま、僕は問いかける。
「……どうして、無理してそんなことするんですか」
「無理なんて、私はそんな」
「嘘つかないでくださいよ」
「っ……」
「わかりますよ、毎日一緒に過ごしてきたんだから。アオイさんは、そんな人じゃない。何か意図があったんでしょう?」
「…………」
答えはない。重苦しい沈黙が流れる。ややあって聞こえてくる、布ずれの音。あぁ、服を着てくれたんだ。それが止んだと同時に安堵した刹那。
「ばーか」
「えっ──」
肩を掴まれたと思った瞬間には、アオイさんが目の前にいた。そしてそのまま、唇に何かが触れる。一瞬のような、永遠のような時間の後で、彼女は頬を真っ赤に染めながら、いつものように、笑って見せた。
「──今のは、本気だったのよ?」
「え?」
「まぁ、確かにムードも情緒もなかったけどね」
「え??」
「あの時シてもいいかもと思ったのは本当よ」
「え???」
「……ちょっと、大丈夫?」
「え????」
「えbotになっちゃったわね」
もしもーし、と頬を叩かれる事数度、SAN値チェックに失敗した僕は漸く正気を取り戻した。
「あ……いや、その」
「ふふ、赤くなっちゃって。かわいいわね」
「あ、アオイさんもじゃないですか」
「そうよ。だって私も初めてだったから」
「食パンの耳ってなんかエロいですよね」
「不定の狂気ね。精神分析が必要だわ」
やれやれと言った様子で、アオイさんが苦笑する。
「で? 君はどうだったの?」
「な、なにがですか」
「シたくなかったの? 私と。さっきも言ったけど私ってそんなに魅力ない?」
「正直めっちゃ勃ちました」
「直球過ぎて言葉に困るんだけど」
「ギンギンのビンビンです」
「どのみち最低の返答ね」
はぁ、とため息と共にアオイさんは再び苦笑した。
「……ま、嘘なんだけどね」
「は!?」
「貴方の言う通りよ。貴方を試したの。私がアイドルだって知って、貴方が変わってしまうのか……今まで通りの、優しい貴方でいてくれるのか」
「そう……だったんですか」
「だから安心した。貴方は私に、アイドル朝香果林ではなく、飼い猫アオイとして接してくれるんだって」
今度こそ本音なのだろう、アオイさんが胸に手を当て、心の底から嬉しそうに笑顔を浮かべた。それを見た僕も、つられて笑ってしまった。
「……でも気をつけなきゃね。この家にはどうやら狼が住んでるみたいだから」
「っ!?!?!!??!?!?!」
「怖い怖ーい。私ってば、いつか襲われちゃうかもしれないわぁ?」
「ち、ちが、あの、そのさっきは、気が狂ってたと言いますか……!」
慌てて捲し立てる僕の反応が余程面白かったのだろう、アオイさんは声を出して愉快そうに笑った。そして僕の耳元に顔を寄せて一言。
「──もし襲ってきたら、受け入れちゃうかも」
「──────────」
「ンフフ、じゃあね、おやすみなさーい」
特大の爆弾に、全てのSAN値が削り取られた。
そして彼女は踵を翻し、微笑みと共に部屋へと消えていった。何故かその後ろ姿から、目を離すことができなかった。暫く呆然と立ち尽くし、心を整えてから、今日一緒に寝るのは色々と不味そうだと思って僕は久しぶりにソファで眠りについた。そう言えば、結局何も聞けてないや、と思いながら。
そして次の日の朝。
僕の家に居た全ての痕跡を消した迷い猫が、二度とこの家に帰ってくることはなかった。
何となく、こうなる気がしていた。昨日部屋に帰っていく後ろ姿を見て、出会ったあの日のような今にも消えてしまいそうな儚さを感じたから。何より彼女が朝香果林である以上、こうなってしまうのは自明の理だった。
昨日の様に呆然と立ち尽くした後、床に寝転がる。部屋は静寂に包まれている。朝に弱く欠伸をしながら起きてくる彼女は、美味しそうに僕の作った朝食を食べる彼女は、もう居ない。まるであの日々が夢だったかの様に、彼女の居た痕跡は、何一つとして残っていない。
僕に残されたのはただ一つ、美味しそうに僕の作ったご飯を食べるアオイさんの笑顔、洗剤の量を間違えて泡塗れの洗面所で僕を見る、今にも泣き出しそうなアオイさんの顔、朝が弱くて、どれだけ起こしても布団から出てこようとしない、アオイさんの寝顔──アオイさんと過ごした日々の思い出だけだった。それが今、荊となって心臓に巻きついて締め付けていく。けれども何故か、涙は出なかった。またいつもみたいに、ふらっと戻ってくるんじゃないかって、微かな期待をしていたのかもしれない。しかしそれは、その日の夜に裏切られた。
バイトから帰ってきた後、卓上に置いてあったのは、僕がアオイさんに貸していた、青い瞳の猫のキーホルダーがついた合鍵。それを見た瞬間、改めてもう此処には帰って来ないんだと、自覚させられてしまった。それでもやっぱり何故か、涙は出なくて。ふとその横に、小さく手紙が添えてあるのに気づいた。震える手でそれを手に取り、開く。そこには彼女らしい丁寧な字で、彼女の言葉が記されていた。
『 今までありがとう。さようなら。
私のことは、忘れてね。
だいすき
貴方の飼い猫 アオイ』
「……っ、ぐっ……!」
今度こそ、涙が溢れた。
グシャリと音を立てて、手紙が潰される。
脚に力が入らず、僕は膝から崩れ落ちた。
「──そんなの……!」
嗚咽で声が震える。涙で何も見えない。
それでも、僕の心の中の本音は、自然と口から滑り出てきた、
「僕もにっ、決まってるじゃないですか……!」
アオイさんの笑顔が。
アオイさんの泣き顔が。
アオイさんの寝顔が。
アオイさんの全てが。
「──好きです、大好きです」
ずっと一緒に過ごしたかった、ひと時も離れたくなんてなかった。こんな形で、終わらせたくなんてなかった。名前なんて知らなくても、あなたの何もかもを知らなくても、あなたが隣にいてくれれば。あの日々だけが有れば、僕には、それだけあれば良かったのに。他に何も、必要なかったのに。
ちぐはぐで歪で、いつ壊れてしまうかもわからなかった。それでも確かに楽しくて、素敵で笑顔に満ち溢れていた、薄氷の日々。それを自分のつまらない言葉で、砕いてしまった。後悔してもしきれない自責と懺悔が、嗚咽と共に心の奥深くから無限に込み上げてくる。
ちゃんと伝えられなくてごめんなさい。
情けない僕でごめんなさい。
「面と向かって……言わせてくださいよ……っ」
あの日々をやり直したいなんて望まない。もう一度だけでいい、もう一度だけでいいから、彼女に会いたい。伝えたい。心からの謝罪と、あなたとの日々が楽しかったこと、幸せだったこと。
あなたの事を──心の底から、愛していたこと。
「アオイさん、アオイさんっ……アオイさん……っ!」
合鍵と手紙を握り締め、泣きながら呻くように呼び続ける。偽りの日々の中で彼女がくれた、僕だけに赦された、飼い猫の名前。その名前と思い出だけが、僕と彼女を繋ぐ、確かな絆なのだから。
結局一晩中彼女の名前を呼び続けた僕は、そのまま眠ってしまった。
その数日後、『朝香果林電撃復帰』と言うニュースが、SNSを駆け巡った。
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それから、数年が経った。
大学を卒業し、中小規模の企業に就職した僕は、ニュースを見ながら朝食を作っていた。
あれから彼女は芸能界へと復帰し、ブレイクを果たした。失踪の原因は、『事務所との方針の違い』と公表されている。アイドルの路線に難色を示した上層部が、ヌードモデルや、グラビア路線への方針転換を強引に進めようとしたらしく、朝香果林はそれに大きく反発して今回の行為に及んだ、と。この事実はファン及び世間の反感を大きく買って、反面朝香果林は悲劇のアイドルとして同情と人気を勝ち取った。事務所を新たに活動を再開した彼女の人気はうなぎ上りで、その年のベストアイドルの最優秀賞を獲得してしまうほどだった。
僕が飼っていた迷い猫は、本当に凄い人だったんだなぁと、心の底から思う。痛みに変わった思い出を、楽しかったなぁと振り返ることができるようになるくらいには、僕もあの日々を割り切ることができた。現に僕は結婚し、家庭を持つことができているのだから。一年にも満たない、僕と飼い猫の楽しかった日々の思い出は、未だ色褪せることなく、僕の中で花を咲かせている。
朝食の支度を終え、コーヒーを啜りながら、タブレットで電子新聞を開く。その一面には、こんな記事が書かれていた。
【 “大人気アイドル朝香果林、
惜しまれながらも引退!”
○先日人気絶頂アイドル、朝香果林が事務所を退所したことを所属事務所が公表した。人気ドラマの主題歌を担当し、次の活動が望まれる中、惜しまれながらの引退となった。また彼女は2ヶ月前──
「んー、くぁ……おはよう〜」
「あぁ、やっと起きた。やっぱり朝は弱いんですね──」
僕が振り返りながら妻の名を呼ぶと、彼女は嬉しそうに、青玉のような瞳を輝かせながら、笑って見せた。
──2ヶ月前、入籍が発表された。相手は一般男性で、数年前彼女が失踪した際に、約1年間寝食を共にした相手だ。彼女はインタビューに対して、『彼はアイドルとしてではなく、一人の女性として私に接してくれました。私の素性には一切触れず、ただ温かく、私を支えてくれたんです。失踪の報道が出たとき、初めて彼に正体を問われました。それでも彼は、私を“アイドル朝香果林”ではなく、それまで過ごしてきた素の私を、信じてくれたんです。その時思いました。アイドルとしてケジメをつけて、全てにケリをつけてから、彼の元に帰ろうって。そしてその時に、彼がまだ私を受け入れてくれるなら、今度こそ、大好きな彼と、ずっとに一緒に居たいって。そう思ったんです──』と答え、恥ずかしそうに笑った。】