時は、二〇二〇年、夏の夕。
東京都・お台場に構える虹ヶ咲学園高等学校。自由な校風と多彩な専攻が人気の国内でも有数のマンモス校である。
そこには、それだけの個性が存在する。夢と希望を抱いて、挫折して、それすらを乗り越えようと努力して。光り輝く夢いっぱいなその日々を青春と気付かずに謳歌する。大人になって振り返った時、この時間は尊く、かけがえのないモノだったと笑えるような。あまりにも眩しい高校生活。
虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会。
学校の看板を背負って、活動する九人の女の子が居た。
彼女たちの活動は瞬く間に広がっていき、スクールアイドルを楽しんでもらうための一大イベントすら大成功させた。ただの高校生が、大人も子どもも巻き込んで架けた大きな虹に、見惚れて。
スクールアイドルフェスティバルの余韻に浸りながら、二人。闇に覆われた空を眺める。ただ時折、輝きの残像を抱いた少女は、横をチラチラと気にしながら苦笑いする。その顔すら、美しかった。
それでも、何も言わない陰のような人物。何か言いたそうな彼女とは正反対な満足そうな顔をしていた。対照的に、誰よりも可愛くありたい少女は、少し寂し気な表情を浮かべていた。
黄色のケースを纏ったスマートフォン。少女を映し出す鏡となって、自分自身と目が合う。
そこに可愛さは無くて、あまりにも綺麗な顔をしていた。
肩を並べて歩く人。夕焼けに伸びるその影を踏む。
鏡の中に手が伸びるような、浮かれ気分のまま。
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時は、去年の春に遡る。
中学三年生の中須かすみは、夕焼けに染まった空を見上げていた。
自身の胸とは対照的に、膨らみ続けるスクールアイドルへの憧れ。
一番、自分が可愛い。誰よりも、世界中の誰よりも。
自惚れなんかじゃない。彼女は本気でそう思っていた。
憧れから夢へと変わり、自分を上手く表現できるための環境を求めていた彼女。
スクールアイドルになりたい。漠然とした夢を叶えるためには、一生懸命自分を磨くしかない。
そう結論付けて、一人。使命感に駆られ歌やダンス、MCなどたった一人で練習する日々が続いていた。
彼女は放課後、決まってダンスの練習をしていた。
家の近くの公園。あまり大きくない鏡と、録画するスマートフォンを添えて。
思春期特有の恥ずかしさとか、そういうのは一切無い。むしろ見てほしい。可愛い自分のことを、もっともっと沢山見てほしい!
たったそれだけ。練習にもなって、注目もされる。女子中学生が楽しそうに踊っていれば、散歩している親子が優しい視線を送ってくれる。それが気持ち良くて、自己顕示欲が満たされていく。自分のパフォーマンスで、笑ってくれる。嬉しそうにしてくれる。高校生になったら、絶対にスクールアイドルをやると、決意を固めるきっかけにもなった。
そんな時、家の近くに住む一人の高校生と目があった。
中須かすみも、その顔に覚えがあった。通学途中で顔を合わせることのある人。とは言え、口を利いたこともないし、名前も知らない。顔見知りと呼ぶにはあまりにも薄すぎる関係性。ただ制服を見る限り高校生であることは理解できたため、先輩とだけは認識できた。
その先輩は、表情一つ変えない。
かすみは、思わず踊りを止めてしまった。そして、先輩と目が合ったまま考える。
どうして?
頭に浮かんだ疑問はあまりにも単純なモノで。
これまでのことを振り返っても、自身の目の前に広がったのは小さい子どもやその親の笑顔。優しく見守ってくれる視線。その中で練習するのが普通になっていたから、かすみの中で先輩の存在はイレギュラーだった。
「ちょ、ちょっと待ってください!!」
体が勝手に動いた。かすみの声は住宅街によく響く。
呼び止められた先輩は、少し驚いた様子で振り返る。さっきまで離れたところにいた少女が、目の前に居ることにまた驚いた様子で。
「………かすみん、可愛くなかったですか?」
先輩はさらに驚く。顔見知り程度の彼女からいきなり声を掛けられたことに加え、彼女の言葉。何を言えばいいのかよく分からずただ視線を逸らすしか出来なかった。
一方で、驚いているだけで何も言わない先輩に、かすみは妙なイラつきを感じていた。八つ当たりだとは分かっていながらもだ。
それはまるで「可愛くない」と言われているようで。それが彼女には、一番堪えた。頬を膨らませて「不機嫌」アピールをするも、先輩にそれが伝わっているのかは彼女に分かるはずもなかった。
「絶対思ってないですっ!
抑揚の無い「可愛い」発言が気に食わなかったらしく、彼女は駄々をこねる。そこで先輩が言い直したとしても、この不愉快さは消えることがない。
だがそれ以前に、
昔、どこかで会っただろうか。なんて考えるも目の前に居る少女のことは知らない。だから、なんと言えばいいのか困った。
黄色の練習着が夕焼けに跳ね返って眩しい。
だから、無難に乗り切ろうとしたのだ。
かすみから見ても、初めて声を掛けた先輩は、苦笑いを浮かべて明らかに困っていた。彼女だって、見ず知らずの人にいきなり話しかけることは無い。それが出来たのは、スクールアイドル関係。まして、自分の姿を見て「可愛い」と思ってくれなかったから。
だからこそ、負けず嫌いのかすみは燃える。
まだまだ彼女の理想には、程遠い。
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時は、半年前に遡る。
あの日から、中須かすみと先輩の奇妙な関係は続いていた。
かすみにとって、自分が可愛くないのは論外。それを肯定したような先輩の存在は非常に迷惑で頭を悩ませるモノだ。
そこで、かすみは考えた。アンチの種は今のうちに潰しておくと。家が近所ということもあり、先輩に付き纏って練習を見学するように迫った。
最初は断り続けていた先輩も、あまりにもしつこい彼女に半は呆れつつ、帰宅部で基本暇だからと。それからは、公園で踊る彼女を眺めるだけの役を担っていた。
この人に、可愛いと言わせたい。
つまり、可愛いと言うまで解放させない。
中須かすみの心の声が漏れてきそうなほど、キラキラとしたダンスを見つめる瞳。
負のループに陥る寸前まで来ているというのに、先輩は踊る彼女をしっかり目に焼き付ける。時折スマートフォンをいじって暇そうにするが、その場を離れようとはしなかった。
「休憩です。先輩も何か飲みますか?」
首を横に振って、視線をスマートフォンに落とす。
少し肌寒くなってきた季節。かすみも鬼ではない。先輩をジッと待たせるのは気が引けた。
かすみから見て、先輩は変わった人だった。
基本的にあまり口を開かない。寡黙、無口。話しかければ答えてくれるが、声を掛けるということはほとんどしない。
かすみも十分変わり者なのだが、同じぐらいかそれ以上。優しいというか、なんというか。お人好しであることは間違いないのだが。
彼女は近くの自販機でスポーツドリンクを買い、先輩が腰掛けているベンチに座る。ここに来て、汗くさくないか気になった。
スポーツドリンクの甘さが体に染み渡る。人気のない公園。制服姿の先輩とだけの空間。妙な静けさ。秋風に揺れる木々の音。掠れたような可愛くない音。かすみにとって、あまり心地の良いモノではない。
「………えっ?」
その静寂を破ったのは、先輩だった。
どうして可愛さにこだわるのか。
その問いかけは、真面目なトーンでかすみの胸に刺さる。
顔が合う。視線が合う。
かすみは咄嗟に、先輩から顔を背けた。
約半年。先輩に練習を見てもらうようになってから、話しかけられたのは初めてかもしれない。戸惑いよりも、妙な嬉しさが胸を覆う。
「なんだろ。可愛いのは見ていて可愛いし、幸せになる……から?」
彼女は上手く言葉に出来ない自分が情けなかった。
あれだけこだわっておいて、だ。
だが、これは仕方がないのだ。それが、中須かすみの持って生まれた感性そのものなのだから。誰かに理解してもらうより、誰かに伝わればそれで良かったのだ。
そんなかすみを見て、少し恥ずかしそうに笑う先輩。答えになっていなかったと心の中で自嘲した彼女だったが、その様子を見て満足気だ。
「まぁ、先輩には可愛くないって言われましたけど」
拗ねたように彼女が言うと、先輩は苦笑いを浮かべる。
そこまでは言ってない、と反論する。かすみは心臓をチクっと刺すような視線を送る。何度目になるか分からない、そのやり取り。そうやって戸惑う先輩の表情が、かすみの心を優しく撫でた。
「かすみん、高校生になったら本格的にスクールアイドルをやりたいんです。もっともっと、沢山の人に見てもらいたいんです」
素敵な夢だね。
先輩の声は優しかった。
「えへへ。あ、ライブには絶対来てくださいよ? 先輩はかすみんファン第一号ですから!」
気分が良くなった彼女は、つい口走る。
一方では、初耳だと言わんばかりの表情を浮かべ、また苦笑い。
中須かすみという少女は、とにかく自分のことを追い詰める。可愛くあろうとして、努力を重ね続ける。ストイックといえばストイックだが、視野が狭いと言えばその通りで。
半年も彼女に付き合わされていれば、かすみの性格の一つや二つを理解するのは容易。だから、先輩は素直に彼女の発言を飲み込むことが出来なかった。
「……その、先輩」
ついさっきまで跳ねた声だったのに、その声はどこか湿気のせいで萎れているような違和感。何か気に障るようなことを言っただろうか、と深刻な表情を見て、かすみは少し慌てている。
「べ、別に怒ってるとかそんなんじゃなくて! ただその……」
普段から歯切れのいい彼女だったが、今日はやけに吃る。
半年の付き合いになる先輩ですら、そんな彼女を見るのは初めてだった。だからだろうか、どんな言葉を掛けるべきなのか悩んでいるようにも見える。
かすみの言葉を待つべきか、答えてあげるべきか。思春期の思考をひたすら回して、結論を導き出そうとする。
「……嫌じゃないんですか?」
思考が回りっぱなしの先輩が聞き返すと、彼女は少し考えて、やがて言葉を紡ぐ。
「その……かすみんがワガママ言ったから。無理矢理付き合わせてるんじゃないかなって」
中須かすみも、決して鈍いわけじゃない。
自信を持って告げた言葉に、気を遣っているような先輩の表情。これまで気付かないフリをしてきた彼女にとって、それは避けては通れない道でもある。
一時の勢いだけで、練習に付き合うようにこじつけた。それに先輩は、驚きはしたもののなんだかんだで付き合ってくれている。
可愛いと認めてもらいたいがための行為。だから、相手方の理由なんて気にしたこともなかった。
それが途端に、気になった。
強く吹き付ける秋風のせいだろうか。空を舞う落ち葉のせいだろうか。彼女には、理解出来ない何かのせいで。勇気を出して問いかけたというのに、胸のモヤモヤは晴れないままだ。
「えっ……?」
先輩は、申し訳なさそうに笑った。
そんなことはない、と言葉を添えて。
「本当ですか?」
嘘を吐く必要もないのだ。
彼女の言葉にしっかり頷くと、少し恥ずかしそうに顔を背けた。
「じゃあ、どうしてそう思うんですか?」
この追撃に、困ったのは先輩だった。
明確な理由が思い浮かばなかったのだ。家が近所というだけで、ほとんど毎日こうして顔を合わせるこの関係。続ける必要なんて無い。なんなら、今日この場で断ち切ることもできるだろう。
実際、中須かすみもそう考えていたから、問いかけたのだ。今さら。だから、ここは素直に思ったことを言っていい。そう、頭では理解しているようだった。
「……へ?」
でも。
先輩の口から、彼女を突き放す言葉は出てこなかった。かと言って、彼女に寄り添うような言葉も出てこなかった。
「分からない」と言って、自嘲するように笑う。頭を掻く。そんな先輩の姿を見て、かすみは何とも言えない感情に苛まれた。
それは、やがて笑みに変わる。
笑みと言っても、先輩と同じような苦笑いではある。だけど、彼女の心は不思議なことに、軽くなったような気分。
「一緒ですね。かすみんと」
お互い、分からないのだ。こうして一緒に居ることに、理由は居るのだろうか。かすみは考えて、やがて結論づける。
先輩の存在があって、これまで以上に練習も捗るようになった。こうして話し相手にもなってくれる。高校生で歳が近いこともあって、話も合う。いつしか彼女にとって、居心地の良い空間になっていた。
「高校生になっても、先輩には付き合ってもらいますからね?」
口数の少ない先輩。
だけど、かすみにとってそれは不思議な感覚だった。
少なくとも、スクールアイドルになりたい自分のことを、馬鹿にしているとかそんなのは無い。口には出さないだけで、きっと本気で応援してくれている。
「寒くなってきましたし、今日はやっぱり帰りましょうか」
秋の寂しい風に、中須かすみの笑顔は良く似合う。
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時は、一ヶ月前に遡る。
虹ヶ咲学園に進学した中須かすみは、スクールアイドル同好会に入部。サポートの生徒を含めた十人で、日々自分自身を磨き上げていた。
ひとりぼっちで練習していたあの頃とは違い、同じ志を持った仲間たちと切磋琢磨することで生まれる友情や、思いやり。その一つ一つが、確かにかすみの感性をより柔らかいモノへと変えていった。
毎日遅くまで練習に励むのだから、帰る時間は遅くなる。
この間まで付き合ってくれていた先輩は帰宅部で、時間は合わない。そのせいか、彼女が高校に入学してから一度も会えていなかった。
ただ、定期的に連絡は取り合っていた。
それは全て、かすみから。同好会での練習の様子を送ったり、意見を求めたり。そっけない返事しかしない先輩にイラつきを覚えながらも、しつこくしつこくメッセージを送り続けていた。
――――今日の練習はきつかったですー。可愛いかすみんもヘトヘトー
そしてこの日も、何気ないメッセージを送る。無駄な自撮りを添えて。同好会メンバーとのやり取りでは普通に送ってはいるが、次第に慣れてきて反応も薄い日々。それが彼女は少し寂しかった。
自室のベッド。干したばかりでふかふかだ。かすみの軽い体が綺麗に沈んでいる。
同好会に入部して以来、慌ただしい毎日を送っている彼女にとって、この時間は一日の中でも数少ない休息。その貴重な時間を先輩との連絡に充てている時点で、彼女にとってその存在は特殊であった。
「相変わらずそっけないなぁ」
カワイイネ、なんてカタカナの返信。暴言を返されるよりマシだということを彼女は分かっていない。
そっけないと呟いたものの、文面でも分かる抑揚の無さは「思っていない」とほぼ同義だ。そういう意味では、暴言とも受け取れる。
だが、彼女はこういうのにも慣れっこだ。
メンバーたちから適当にあしらわれることだって日常茶飯事。特に気にせず、話を続ける。
――――先輩は今日何してましたか?
慣れた手つきでフリック入力する。終えると、真っ暗な画面に自身の顔が映る。妙に疲れた顔をしていたせいで、つい目を背けたくなった。
枕元にスマートフォンを投げ置いて、枕に顔を埋める。洗い立てのいい香り。このまますぐ眠ってしまいそうになる。
こうして同好会が存続できているのは、ある意味奇跡だった。
かつての衝突。考え方の違い。強すぎる個性の集まり。可愛いを追い求めるかすみと、違う考え方のメンバー。同じ方向を向けば当然、すれ違いが起こるわけで。一度は解散する事態となった。
が、トキメキを抱いた少女たちの力で再集結。むしろ、あの頃よりも団結力が強くなった。
着信音とともに震えるスマートフォン。
顔を上げて、部屋明かりすら眩しく感じるようになった目を擦る。その音の主は、やり取りしていたあの人だった。
「これ……」
送られてきたのは、同好会メンバーの歌唱ステージのサムネイル。動画サイトへのリンクだった。
これをずっと見ていた、と続け様に言葉を送り込む。それを見たかすみは、無意識に心が跳ねた。
虹ヶ咲に入学してから、一度も会えていない。それなのに、なんだかんだ気に掛けてくれているその優しさ。つい口元が緩む。
――――かすみんが一番可愛いですけど、他のみなさんも可愛いですからねぇ
足をパタパタさせながら、打ち込まれる文章。
通常運転で、他意はない。メンバーたちのことを蔑んでいる訳ではない。可愛いのは可愛いと認めている。ただ、自分が一番可愛いと言い切っているだけの話だ。
返信が来た。早い。
それを見たかすみは、思わず言葉を失った。
(可愛くある必要……ない?)
どうしてそこまでして。
可愛くあろうとするのか。
綴られたゴシック体の文字。かすみは返信を躊躇った。
可愛くあろうとする。その言葉はつまり、可愛くないのに無理をして取り繕っている。そういうニュアンスにも受け取れる。
瞳が揺れていくのがよく分かった。こうして言われると、何も言えないことも。
自らの存在価値を真っ向から否定されたような気がして、枕に顔を埋める。返信を考える余裕なんていうのは、とっくに消え去っていた。
でも、送り主にはそんなつもり一切無くて。
続け様に送られてくる言葉。震えるスマートフォン。かすみは憂鬱な顔を起こす。
「……意味が分かんないです」
そのままでいい。
たったそれだけの言葉には、沢山の想いが込められている。
そのままで、中須かすみのままで。可愛くあろうとする必要なんてない。そのままでも君は――――。そう紡げたのなら、かすみがここまで悩む必要もないのだが。
――――先輩はいじわるです
――――可愛いって言ってくれません
すぐ既読が付く。しかし、中々返事は返ってこない。
また枕に埋まるかすみの顔。ここまで固執する必要なんてないのに、どうしてか。同好会のメンバーとは違う何かをこの先輩に感じている。
なんなら、メンバーたちよりも付き合いは長い。彼女の抱く感情はある意味、普通で思春期らしい。
横を向くと、姿鏡に映る自分と目が合う。
なんともみっともない顔をしている。そんな自分が嫌になって、三度顔を埋める。もう息すらしたくない。このぶつけようのないイラつき。
鏡に映る自分が、本当の自分。中須かすみだ。あんなみっともない顔をする人間こそ、隠し通そうとするもう一人の。
この人に言われたい。
日に日に重くなっていく想い。
鏡に映る自分を見ている、この人に。
一ヶ月後、絶好の機会がやってくる。
学校、そして地域を巻き込んだスクールアイドルフェスティバルという、夢の舞台で。
ここで、物語は冒頭に戻るのである。
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時は、二〇二〇年、夏の夜。
スクールアイドルフェスティバルは大成功で大盛況。学校近辺がまるで夢の世界に浸ったような幸福感に包まれた。
その帰り。中須かすみは、虹ヶ咲学園の近くで待つ先輩の隣を陣取っていた。
海を眺めながら、先輩に買ってもらったアイスクリームも食べてしまって、二人。街灯の近くでただただ夢の余韻。
寂しそうな顔をする彼女に、何も言わない。それがなおさら、彼女の心を寂しくする。
「……先輩って」
蒸し暑い風が吹き、意識が揺らぐ。
夏の夜。虫たちの泣く声と、帰り道の生徒たち。二人の空間だけ切り離されたような、違和感。
お祭りが終わった後の寂しさのせいだ。そのせいで、彼女の声がどこか虚しく聞こえる。
「不思議な人ですよね」
「なんて言うか、自分のことが好きじゃないって感じがして」
ピアノ線が張ったような空気。余韻が消えてしまう。
でも、かすみの声はすごく優しかった。頭を撫でるようなトーンで、隣に居る先輩を見つめる。
さっきまで、ステージを彩っていた彼女。降りると一人の女子高生である。そのギャップに、先輩は恥ずかしそうに目を合わせた。
「あはは。そう、正反対ですね」
笑う。声が躍る。跳ねる。
自身とは対照的な彼女の性格。かすみもそれは理解していて、だから先輩がそう言ったのが可笑しかった。
「前、先輩聞きましたよね? 可愛くあろうとする理由」
スクールアイドル同好会の活動を通して、彼女は考えた。自身の存在価値を。とにかく自分が可愛い。これまでは、それだけで満足だった。
でもそれは、ただの自己満足にすぎない。分かっていたのに、目を背けていた事実。それに向き合って、考えた。
十人十色の同好会メンバーを見て、ステージで輝く彼女たちを見て、一つ一つの言葉に耳を傾けて。中須かすみというスクールアイドルは、何のために居るのか。生まれたのか。
その答えは、ひどく単純なものだった。
「かすみんを見てもらって、嫌なことも全部忘れて欲しい」
「スクールアイドルとして、沢山の人を勇気付けたい」
「それが、
ステージ上の興奮がそのままに、音に乗る。
矢継ぎ早に紡がれる美しい言葉。
そう言い切る彼女は、ダイヤモンドよりも輝いていた。
眩しくて眩しくて、つい目を背けてしまう。でも、吸い寄せられるように彼女の瞳を覗いてしまう。
こんなに綺麗な瞳を見たのは、いつぶりだろう。隣で、そう考える先輩をよそに、かすみは優しく笑う。
「今日は、楽しかったですか?」
食い気味にうなずく姿に、彼女は驚く。
が、それもやがて笑いに変わる。そんな姿を見たのは出会ってから初めてだったからだ。年上なのに、年下らしい行動。妙な愛くるしさを抱いて、かすみはまた海を眺める。
結局、一時間近く二人はこの場から動かなかった。余韻に浸りすぎて抜け出せなくなるクスリのよう。
もう夜も遅い。そろそろ帰らないと家族から心配される時間帯でもある。
「帰りましょうか」
かすみは立ち上がって、背を向ける。
その小さな背中は、一年前よりも確かに大きくなっていて、洗練された雰囲気を醸し出している。
「……あと一つ、言い忘れてました」
かすみは振り返って、また目を合わせる二人。
不思議そうに見つめる先輩と、やけに嬉しそうな彼女。そのコントラストがどんな景色よりも美しい。
一応ですよ、一応。なんて前置きをして、彼女は控えめな胸を張る。
「それは先輩も例外じゃありません」
「……あなたを、笑顔にしたいんですから」
そしてまた、振り返る。
振り返りざまの風、彼女の匂いを乗せた風。それがこのお台場を駆け巡る。それはそれは夢の味。甘くて酸っぱい彼女の味。
あぁ、やっぱりそうだ。中須かすみという女の子は、やっぱり。
胸の奥に閉じ込めていた感情。「自分が嫌い」というレッテル。それを全て剥がしてくれる存在。それが、今目の前にいる彼女だ。
フラッシュバックする記憶。初めて出会った時。可愛いと言ったが、アレは本当で、アレは嘘。
喉が熱い。込み上げてくる感情の波。それを食い止めるはずの堤防は、無い。今日、彼女のステージを見た瞬間からずっと。壊れたままだ。
「出会った時からずっと、君が――――」
無意識だった。
彼女の自惚れとも取れる性格もあって、中々素直になれなかった。それが自身でも分かっていたからこそ、今紡ぎかけている言葉はとても重くて、二人の関係性には不釣り合いなモノ。
かすみはもう一度だけ、向き合う。
少し驚いた表情を隠せず、大きな瞳が揺れている。
「――――君が、なんですか」
聞き返す。何も言わない。
「あれあれぇ? もしかしてぇ、先輩もぉー、かすみんの可愛さにぃー、ようやくぅー、気づいたんですかぁー?」
追撃。強がる。見栄を張る。
本当は、その場から動くことすら辛いほど、ふわふわと浮かれているというのに。先輩の顔を見て、即座に詰め寄る。
今、この瞬間。言わせたくて言わせたくて仕方がなかった言葉を、目の前のこの人が紡ごうとしている。
分かっていた。こんなことを言ってしまえば、きっと先輩は何も言わなくなると。分かっていた。
だけど、そんなことはどうでもよくて。
これまで積み上げてきた努力が、先輩に認められた気がした。かすみはそれが、なによりも嬉しかったのだ。
月の光が照らされる。
スポットライトのように、この世界には二人だけしか居ない。錯覚。かすみが先輩の顔を覗き込むと、この人は少し微笑んでみせた。
「――――出会った時からずっと、君が一番、可愛かった」
二人、体の力が抜けた。
真面目な顔をした先輩が立っている。
真面目な言葉を紡いでいる。
今まで見たことがない顔。綺麗な声。高鳴る胸を抑えるので精一杯。でも、抑えようとすればするほど、鼓動は早くなる一方で。
言葉が出ない。痛い。胸がはち切れそう。
体温が上がっていく。目の前の先輩を見つめるだけで、体から火が吹き出しそうなほど。
「先、輩」
可愛くありたい理由。それは、目の前の人のため。
「みんなのかすみん」なんて言ってるクセに、全てはこの人と出会ってから変わり始めた。可愛いと言ってもらえるように、努力した。そしてその夢がまた一つ、叶った。
これ以上ない言葉だった。出会った時からずっと、なんて言われたらつい動揺してしまうのが女子高生の性。
可愛い顔で居たいのに、今の自分はダメだ。自嘲する。
鏡なんて見たくないのに、自分が映るイメージが脳内に浮かび上がる。
目の前のこの人は、茶化している? いや、違う。きっと本心。だからなおさら、タチが悪い。そんな顔を見せたこと無いのに、こんな不意打ちはずるい。
でも、この人はそういう人だから。優しくて、誰よりも自身のことを見ていてくれる不器用な人。そんな人に、本心を言って欲しいなんて言うのは、ただのワガママ。
私は可愛い。
誰よりも可愛い。
世界一、可愛い。
不思議なことに、そうやって褒められるよりも先輩に言われた方が嬉しかった。だから尚更、タチが悪くて胸が痛い。
何か言わないと、この静寂が苦しい。
月明かりが眩しい。互いに目を合わせられない。
目の前に居るこの人は、初めて出会った時からずっと。
変わらない。何も変わっていない。不器用で、素直で。
夏が終わる。その少し前に。
「別に、嬉しくないですよーだ」
彼女はまた、見栄を張る。真っ赤に染めた両頬。
説得力なんて無いと分かっているのに。それでも。
現実として受け入れたくなかったから、彼女は背を向ける。
この日が、思い出になってほしくない。
いつか忘れてしまう日が来るかもしれない。
この人が、思い出になる前に。
寂しいはずなのに、気持ちは晴れやかだった。
夏風。吹き付ける二人の夢。心を撫でる二人の想い。
胸の中。傷一つ無い綺麗な鏡。それが歪んでいく。少女もまた、喉が熱く燃えていく。感情が溢れる。止まらない。
「先輩は、嘘つきです」
「……でも、かすみんも一緒です」
可愛いを言わなかった先輩。その人は、もう居ない。
胸の中。鏡にヒビが入る。
もう一人の中須かすみが、顔を出そうとしている。それを抑止するだけの余裕は、今の彼女に無い。だから、思ったことをそのまま伝えるだけ。
「かすみんにとって、先輩は――――」
零れる。浮かぶ星よりも熱く、綺麗な想いが。
この夜に。二人だけのこの世界に。
君のためだけに。あなたのためだけに。
手が伸びる。手を伸ばす。
私を掴む。君を握る。
胸の中。鏡が割れた。
二人、瞳が合う。揺れる。水面のようにキラキラと光る。
この胸は、不思議と痛くない。
ぱらぱらと散っていく破片。星が散るように、光輝く夜空に舞う。
海風に乗って、先輩のもとへ。
かすみん、ではなく、中須かすみの想いを乗せて。
「すっごく、すっごく、大切な人なんですよ」
ダイヤモンドが、眩しい。