想いなど、なにひとつ重なってはいないけど   作:紙粘土

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前編

-1-

 

きっと話しても誰も信じやしないだろう。絵空事かおとぎ話と笑うだろう。あるいは、白昼夢を見たに違いないと言うかもしれない。

 

どうだってよいことだ。誰が信じようが信じまいが、〝あの三日間〟は夢や幻でなく確かに存在してたのだから。

その記憶は今尚胸の深くに輝き、瞳を閉じれば色褪せぬまま蘇る。

 

月を浴びた泡沫と、光虫の数多に輝く河原。舞うは白く細い四肢、靡くは漆のような黒髪。ひらりひらりと装束が回り、世界が回り、高下駄の跳ねる音を聞く。風切る扇は紺染花柄、闇夜に花吹雪を纏うよう。

美しい月、美しい夜に、美しい人。

 

踊る彼女を眺めているのが好きだった。

きっと関わることはないだろう。住む世界が異なることを理解していた。だから、眺めるだけで幸せだった。

いつもの狩場の水辺から、見上げた人里に彼女が見える。それは遠く高い場所だったけど、夜目が利くからよく見えた。

 

そのうち────いつからだろう。いつからか、彼女の舞を見ることが、一日の楽しみとなっていた。

 

 

・ ・ ・

 

 

ある日のことだ。狩場に獰猛化したタマミツネが浸入してきて、撃退に酷い苦労を要した。

どうしてこうも殺しあうばかりになるのだろうか。遠い異国では竜と人が通じ合い、手を取り合っただなんて例もあるのに、この地はあまりにも殺伐としてる。

襲い来るタマミツネは種の中でもかなりの巨体で、それに伴い力も素早さもまた見事であった。ハンターズギルドの定めた基準に則るならば、間違いなく金冠級であっただろう。獰猛化という性質故に脅威となったタマミツネへの、勝利の代償は重傷だった。

 

腹から血が、止まらない。致死量がどの程度かなど知識はないが、意識が霞むから寝て治る程度でもなさそうだった。足場が水ばかりなのも災いしていて、みるみる血と体温が流れ出てゆく。無意識に爪先がぶるぶる震えた。

 

────死ぬかもしれない。

風も水も自らに触れる全てが冷たく寒い中、唯一暖かい血液にじっとり腹を濡らして、見上げたのは月だった。

星も霞むほどの満月に、ひらひらと葉の舞う夜空が美しい。

だから、最期に彼女の舞を見たいと思った。

残り僅かとなった体力を必死に振り絞り、脚を引きずりながらいつもの水辺を目指して這ってく。

誰かも知らない、名前も知らない、ただ美しいあの女の踊りが見たい。割れた爪や噎せた喉からも血が落ちて、いよいよ呼吸すらも苦しくなった。

 

あと少しで、彼女が見える水場に辿り着けたのに。

胸に満ちるは無念であった。本当に、あと少しであったのだ。遂には瞼を開けているのも困難になり、視界が黒く閉ざされる。

 

 

「おいっ……あれ────」

 

その時だ。人の声が耳へと届いた。

 

「タマミツネだ……死んでる」

 

「観測隊が獰猛化してると……」

 

男達の会話から、彼らがハンターであることがわかった。彼らはついさっき討ち取ったタマミツネの死骸を前にどよめいている。狩猟のために来たのだろうか。

 

「一体誰が……」

 

「待て、あそこの血溜まり……!」

 

複数の足音が近付いてくる。

 

「おい、大怪我────」

 

 

そこで、男達の声が途切れた。同時に大地がけたたましく鳴り、激しい水流に身体が呑まれる。水に視界が真っ暗になり、もがけば割れた爪が痛んだ。

だが何よりも驚きを覚えたものは、滝の上から放り出される小さな女の影だった。

 

 

 

 

 

-2-

 

彼女の生まれた村はとても小さな鄙であったが、各地に伝わる宗教の発祥の地として信仰熱心な者の間では有名だった。

彼女は村の名家の長女であり、両親ともに信心深い人物でもある。よって、当たり前のことのように神に仕えることを義務付けられるが、彼女本人はまるで宗教を信じてなかった。

 

信じてないが踊りは好きで、教えられた奉納演舞を踊ることに抵抗もない。幸いなことに踊りの才にも恵まれており、実に見事な舞を舞う。そのため、彼女の信仰心の無さを咎める声もあまりなかった。それほど美しいものだったのだ。

 

村外れの崖が彼女の練習場だ。

川が崖へ滝となって続いており、その下は野生の竜の生息地である。深い森の奥では修験に励む山伏の一族が暮らすらしいが、交流を好まない性質のためか彼女が山伏を見たことはない。また、ハンター達が依頼で訪れることもある。そんな危険な場所であったが、巨大な滝に阻まれるため、崖の上や村まで竜が来ることはない。壮大な滝は、人里と魔境を分かつ境界線であったのだ。

 

毎夜彼女は奉納演舞を踊っていたが、この頃は特に気合が違った。年に一度の祭りの季節が近付いてるのだ。

村一番の舞い姫である彼女は祭りの大トリである。たいそう立派な舞台が築かれ、遠方からも信心者が集まる一大イベントなのだ。信仰心のない彼女であるが、舞をたくさんの人に見てもらうのが楽しみだった。

 

 

その夜も、彼女は練習のために舞っていた。

月の綺麗な晩であり、風も優しく穏やかである。しかし、異変は突如として起きたのだった。彼女が川に呑まれたのである。

 

遡ること数日前、川の更に上流の吊り橋が崩れたのだが、滅多に人の踏み入らない地であるばかりにそれに気付く者もまた居なかった。

落ちた橋は川の一部を堰き止めるものの、その耐久性から長持ちしよう筈もない。その晩、ついに水圧に耐えきれなくなった橋は真っ二つに折れ、それまで堰き止めていた水が一気に押し寄せることとなる。ダムの決壊と同じ原理で荒れた水流は、本来の水位を超えて氾濫もさながら暴れ狂った。そこにいたのが彼女である。

 

あっという間の出来事だった。

咄嗟に逃げようとしたものの、彼女の逃げ足は水の速さに及ばない。意思を持って足首を掴んでくるかのように、獰猛な水は彼女を捉えて離さないのだ。

前述の通り崖であるため川は滝へと直結している。「助けて」と叫ぶいとまもなく、華奢な身体はそのまま呑まれて消えたのだった。

 

 

 

・ ・ ・

 

 

 

「死ぬかと思った」という感想は、同時に「生きてる」という実感でもある。と、いうことを彼女が知るのは、眩しい朝日の中でのことだった。

 

そこは崖の下だった。見下ろすことはあれど決して踏み入ることをしなかった、竜のうろつく渓流である。戦う術を持たない人からするならば、まさしく魔境と呼んで過言ではない。

ところがだ、広がる魔境はとても危険な場所と理解してなお、人里には決してない美しさに溢れていたのだ。木漏れ日は静まった水辺を光らせ、生命力に溢れる花や木の実が茂り、美しい声で鳴く鳥がいる。

崖の上は慣れ親しんだ人里なのに、下れば美しい別世界がある。彼女は不思議な心地で辺りを見ていた。

 

身体は全身が痛かったものの、骨は問題なさそうだった。あれだけの高さから落ちたというのに軽傷なことを不思議に思う。偶然が幾重にも重なり合ってくれたのだろうか────と、幸運を喜ぶのも束の間である。

 

〝どうやって家に帰ればいいの〟

 

高い高い崖を見上げて、彼女の顔色が蒼白になる。

ハンターならまだしも、一般人の彼女にはとても登れる高さではない。

この崖を登れないとなると、ぐるりと迂回して地道に登山する他に帰路はないが……ここは竜のうろつく渓流である。そして彼女は、武器はおろか食料の一つ、アイテムの一つすら持ってないのだ。あるのは舞に使う扇だけ。とても生き抜くのに有用だとは思えない。

 

 

「……どうしよう……」

 

地図はなく地理も全くわからない。岩肌沿いにひたすら高地へ進むしかない。けど、果たしてどれほどかかるのだろうか。ジャギィの一頭にすら倒せないのに。

 

誰かが自分の不在に気付いて助けを呼んではくれないだろうか。一瞬とはいえあれだけ川が荒ぶったのだ、その痕跡は残るだろう。……しかし、あの崖は彼女の秘密の練習場所でもあるのだ。〝秘密の〟と称せるくらいに、人が滅多に訪れない。まして祭りを前に村は準備に勤しんでるのだ。彼女の家族も例外ではなく、それどころか中心となり詰所であれこれ指示役として指揮を取ってる。父など二日ほど詰所に篭りきりである。母も、そんな父に協力していて、寝るとき以外は帰らぬくらいだ。

……毎年、祭りの前はそうだった。当然でないか、彼女とてもう大人であるのだ。食事も就寝も一人でできるし、まして奉納演舞という大役もある。例年自己練習に励む時期でもあるために、この時期は家族の時間が希薄になる。

────つまり、自分の不在に気付くのにもまた時間を要するということだ。

 

「ああ……うそ……」

 

不安と恐怖に指が震えた。三日後、前座の踊り子も合わせての予行練習が予定されてる。どんなに遅くともそこで不在に気付いてもらえる。

そこから、村中を探されどこにも居ないと大慌て────やがて川の氾濫の跡を崖で誰かが見つけてくれるだろう。

渓流に落ちたと予想がつけども、村の男では渓流の捜索はあまりに危険だ。プロのハンターが必要だろう。ギルドに依頼要請が出る。

依頼要請が出たら、すぐに依頼はクエストカウンターに並ぶのだろうか。観測隊が竜の有無を確認するとか、危険度を加味されるとか、報酬の取り決めだとか、手筈や行程があるはずだったが、素人ゆえに要する時間がわからない。

クエストカウンターに依頼がいっても、ハンターはすぐに動いてくれるだろうか。同行者を募り集会所で待機するケースも少なくはない。彼女は歯の根が合わさらなくなる。

一体何日かかるのだろうか。その間、ここで一人で生きてゆくのか。食料のひとつ持ってないのに。ナイフの一つも持ってないのに。

 

「どうしよう……どうしよう……」

 

幸いにも身体は無事だ。少々痛むが歩くことに問題はない。

このまま、体力のあるうちに村を目指して出発しようか。竜に遭遇しない幸運を祈り続けて……。

それとも、ここで救助を待つべきだろうか。ここには綺麗な水がある。水さえあれば、人間は一ヶ月は生きられるとなにかで聞いた。竜に遭遇さえしなければ、ここで一ヶ月は生きられるのだ。

けれど水場は……竜もまた水を飲みにくるのでないか。そう思うと彼女は再び震え上がった。

どちらが安全なのだろう。

なにが最善なのだろう。まるでなにもわからないのだ。

 

混乱のせいで無意味に同じ場所をぐるぐると回る。どうしよう……どうしよう……、目眩すらする。

 

その時だった。背後の草叢の更に奥から、かさかさと物音が聞こえてきたのだ。足音もした。

冷静に考えれば竜の可能性もあったのに────そちらのほうが可能性が高いのに、あろうことか彼女が思ったのは「人かもしれない」ということだった。

実は昨晩のうちに誰かが気付いて助けを呼んでくれたのだろうか。たまたまハンターに会えたのだろうか。そんな、御都合主義の希望的な考えが頭を占めて、彼女は走り出していた。

 

 

「たす────」

 

助けてください。

 

そう叫ぼうとした声が、二文字目でぴたりと止まった。

草叢の先にあったのは、彼女の想像とはまるで真逆のものだったのだ。

 

 

────血の、匂い。

 

仰向けに倒れたタマミツネが、瞼を閉じたままその腹の中身を食われていたのだ。

既に息絶えているのは明白だった。爪は割れ、ヒレは破れ、口からは血を流してる。

一際大きな傷は腹だった。そこに口を突っ込んで、ジャギィ達が屍肉を引っ張り出している。死んでまだ間もないのか、滴る血もまたまだ赤い。みちみちと、筋肉繊維が引きちぎられる音がする。肉を咀嚼する音もする。

 

長閑な渓流、差し込む日差し。新緑は青々と水気に艶めき美しい。そこに血生臭さを漂わす、食物連鎖をまざまざと見る。

大自然の当たり前の光景だけど、彼女にとってはあまりに恐ろしいものだったのだ。食われるタマミツネに自分を重ねて、恐怖が最高潮に達してしまう。

 

 

「あ、あああああ……」

 

悲鳴というには力無い、抑制のない呻きが漏れた。その声は絶望そのもののよう。

死ぬ。死ぬのだ。こうやって自分も死んでしまうのだ。頭の中がぐちゃぐちゃだった。

 

ジャギィの一頭が彼女に気付く。

だけど竦んだ足は逃げることすらしてくれない。

人すら食らう竜がこちらに接近するというのに、彼女は一歩も動けなかった。

 

 

 

 

「────どけ」

 

死を前に祈る神の名すらも思い出せない混乱の中、鼓膜を撫でるのは人間の男の声である。

 

〝どけ……?〟

 

いま、なんて言ったの?

そう聞き返すより先に指に触れたのは体温だ。自分より大きな手の平が、強く指を握ってる。風が吹いて視界に長い髪が映った。濃紫色のさらさらとした、女の彼女から見てもとても美しい長髪だった。

 

振り返る。同時に後ろへ引き寄せられる。

目に映る男はどこか幻想的な雰囲気を纏う、碧眼の美しい面立ちだった。玉のような白い肌に、咲き乱れる花を彷彿とさせる白と菫の羽織が生える。

男は武器を持っていた。ハンターの扱う、とても大仰な弓だった。

 

「はんたー、さん……?」

 

知り合いではない。ハンターに知り合いなどいない。けれど渓流の近場にある彼女は村は、狩猟に赴くハンター達の中継地点となるものだから、旅の狩人を幾度も見てきた。

 

 

「ハンターさんっ、助けてください……」

 

 

人がいた。人間に会えた。それも逞しきハンターだった。

絶望に飲まれた心の中に、希望が差すには十分すぎて涙が溢れる。

彼は一度頷いて、彼女を後ろへそっと押す。

そのまま鮮やかに跳躍し、しかし背の弓を構えることなく、あろうことか振るわれたのは長く真っ直ぐな脚である。

体術とは意想外で、彼女は目を丸くした。

弓を持った青年は、しなやかな跳躍とともに力強い蹴りを放ってみせたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

-3-

 

男の齢は彼女よりも少しばかり上であろうか。

紅藤色の袴に蒲葡の襟巻きという、風変わりな和装であった。それは僧服というより祭事の華やかさをもっており、どこか神秘的な趣がある。青年の立ち振る舞いは不思議なもので、ふとした仕草の一すらも雅に思えた。さらさらと濃紫色の髪が揺れると、それだけで風流な一枚画のよう。

 

 

「ありがとうございました」

 

落ち着きを取り戻した彼女がまず理解したのは、青年とは言語が異なるということだった。少しばかり、簡単な単語はわかるようだが耳に馴染みのない単語が幾度も混じるのだ。また、彼女が当たり前に使う単語を知らなかったりもする。

それでも礼を繰り返すのは、感謝の気持ちが少しでも伝わればいいと思ったからだ。

 

「たすかり?」

 

「感謝の言葉。嬉しい。ありがとう。助かりました」

 

なんとか伝わらないか言い方を何度か変えてを繰り返す。いまいち伝わった気がしない。が、彼女の笑顔をまじまじと見て、やがて青年は頷いた。

……わかってくれたのだろうか。なんとなく、気持ちが伝わったような気がする。

 

 

「あなたはハンターさんですか?」

 

「……」

 

「えと、竜と戦う人のことです。その、弓とかで。さっきのジャギィとか、タマミツネとか……」

 

「……」

 

手振り羽振りしてみたものの、彼女はボディーランゲージの限界を知る。複雑な表現は無理である。

どうしたものかと頭を捻れば、目に入るのは木の枝だった。そこで今度は絵で会話を試みた。木の枝を足場の土に走らせたのだ。

描いたのは先ほど見たタマミツネ。それと、武器を持った人間の姿。

〝あなたはこうして戦う人ですか?〟

尋ねれば、青年は「ああ」と納得したような溜息を吐く。それから、彼女を真っ直ぐ見つめて頷いた。

 

 

「よかった……、あの、お願いです。どうか崖の上の村まで、私を連れてってもらえませんか」

 

「がけ?」

 

「ああ、ええと……」

 

指し示すのは崖の上。土に描く家や寝床。

どうか、私はあそこに行きたいのです。帰りたいのです。そう祈るように絵を描けば、青年はまたまじまじと彼女の顔を見て、もう一度ゆったり頷いた。

 

 

 

 

・ ・ ・

 

 

 

 

発音がどうにも難しい。

そう、青年は困った顔をした。

 

どうやら青年は彼女の言葉を少しばかりは知ってるらしいが、発音するのを難しいと感じるらしい。

わかる気がすると彼女は思った。昔に異国の言葉を勉強した時、現地の人に「母音がめちゃくちゃだ」と駄目出しされたことがあるのだ。きっとそういうものなのだろう。

 

比較的安全らしい道を進んでく。

青年との会話もぽつぽつと増える。

彼女は青年をユクモから来たハンターではと思ったけれど、どうやらそれは違うらしい。彼はこの渓流のずっと奥から来たそうだ。そこで、彼女は山伏の一族を思い出す。それならば言語が異なるのにも納得だし、先をひょいひょいと行く土地勘にも頷けた。

 

 

それから、驚くべきことに先ほどのタマミツネを仕留めたのも彼なのだという。

昨晩戦ったのだと、ぎこちない言葉で教えてくれた。

たった一人でタマミツネに打ち勝とうとは、彼は相当な凄腕らしい。しかし彼女が真っ先に思うのは心配だった。

いくら勝利したといえどあのタマミツネだ。無傷だとは考えにくい。

「怪我はないの」

彼女が聞けば彼はちっとも痛そうにせず、「少しある」と短く答えた。

 

「手当は……?」

 

「もう痛みはない」

 

青年の横顔は悠々としてて、やせ我慢のようには見えない。だから、軽傷なのだろうと彼女は思った。

 

 

青年との会話は次第に頻度を増してった。彼は発音のコツを掴みはじめて、また彼女は木の枝を使い絵をたくさん描き、新たな単語をたくさん教えた。

元から知ってるものもあるようで、そのたび青年は「ああ」と頷く。

夕日が西を染める頃には、ぎこちなさは残るものの大分話せるようになっていた。

 

やがて、夜は来た。

 

 

 

 

夏を目前に控えた気温は、すっかり濡れた衣服を乾かしてくれていたけど、それでも夜は肌寒い。

最初の地点からどれだけ移動したのだろうか。水場を離れ、そこいらは森林地帯であった。

その木々の高さと葉の多さから、月明かりも届かない。近くにはハチミツが滴っていた。巨木の名残のような切り株もある。

 

 

青年はごろんと、躊躇いもなく土の上へと転がった。

そのまま猫や蛇のように身体を丸める。どうやら眠るつもりらしい。土汚れを嫌がりもせず、また寝込みを竜に教われる危惧もまるでないから、彼女はまたも面喰らう。

「ハンターさん……寝る時、テントとか……?」

 

「使わない」

 

数メートル先が闇に呑まれるくらい、視界は悪いものだった。彼女はこの闇の向こうから、いつ竜が現れるのではと恐怖するのだ。明かりが欲しい、少しだけでも。

 

「……寒く、ないですか」

 

「寒くない。……寒いのか」

 

「少しだけ……、あの、どうか焚き火を────」

 

言い終わるより先にしゅるりと青年が起き上がる。装束や長い髪がふわりと舞って、その身のこなしや獣の如し。その美しい目は、闇を睨んだ。夜目が利くのか……碧眼は闇の奥の正体を探る。

数瞬遅れて彼女もまた足音に気付いた。

 

……森の中に、なにかがいるのだ。暗くて見えないから心を包むのは恐怖であった。

だが青年のリアクションはまるで真逆で、ひくりと眉を動かしたあと、再びころりと寝転んでしまう。

 

「あの……、この奥になにが……」

 

「ドボルベルク」

 

「ええっ」

 

「ここは縄張りに非ず、通っただけだ」

 

彼はそう言うが彼女はとても安心できない。今も闇の向こうに気配は留まり、ずる、ずる、と尾が地を引き摺る音がする。

青年は「向こうもこちらに気付いておる」とあっさり言った。だから今更隠れる必要もまたないと。彼女とは真逆の考えである。彼女はむしろ、今すぐ逃げる必要性を感じていたのだ。

だのに青年は彼女の手を取り、自らの胸へ引き寄せたあと、「怖がることない」と囁いた。

 

「ドボルベルクはヒトを食わぬ。放っておけばよい。敵意はなかった」

 

「あの……」

 

「火は良くない。うようよと虫が集まる」

 

暗がりの中、間近に映る横顔はどこか神々しい。噂に聞く山伏とならば、彼は神仏に仕える身ということだ。だからこそ、このような雰囲気を纏うのだろうか。

「息をしろ」

無意識に呼吸を忘れた彼女の背中に掌を当て、囁く声は凛としていた。

 

ずし、ずし。

重厚な足跡が近付いてきて、やがてそれは視認できるところまで来た。木々の隙間からぬらりと聳える巨躯はまるで大岩のよう。草木の色と良く似たコブが、一歩のたびに上下する。

立派な角の先から瞳がきょろりと彼女を見据えてきたが、青年の言う通りに敵意や闘志は見当たらなかった。樹齢の高い木の肌にも似た図体が、ずしり、みしりと枝を退けてく。

────なんて、大きい。

人間には見上げる他ない巨大生物……竜の姿は、ただ壮大で静かな静かな存在だった。

 

まるで興味のないものを一瞥しただけのよう。

結局ドボルベルクは二人に何一つしないまま、ゆっくり通り過ぎるのだった。

 

 

 

 

 

「……いつまで掴む?」

 

足音が聞こえないほど遠退いたあと、先に声を出したのは青年だった。

「あ」と彼女が我に返る。無意識に彼の服を強く強く握っていたのだ。半ば抱きついたも同然の姿勢に、彼女がかあっと赤くなる。

 

「ごめんなさい、これは」

 

「温かいなら、こうして寝るといい」

 

言いかけの言葉を遮って、ふわりと被されるのは彼の美しい羽織りであった。

薄手に見えたが生地はしっかり織り込んであり、かかるだけで風を塞いで暖かくなる。

 

「温かいし、汚れなくて済む」

 

「悪いです、大切な装備品では……」

 

彼女は慌てた。ハンターにとっては武器も防具も大切なものだ。

ましてやこんな立派なものを、毛布代わりに使うとならば抵抗がある。

だのに青年はキョトンとして、「大切ではない」と言い切った。

 

「え……」

 

「服が汚れるから包まって寝るといい」

 

「えっ、いえいえ、そんな使い方……!それにハンターさんが寒いんじゃ……」

 

「寒くないし汚れてもいい。どうせヒトのものだ。だがそれは汚れては良くないだろう」

 

「借り物なんですか……?それならば尚更私が汚すわけには……。私は汚れてもいいんです」

言いながらふと思うのは、「何故汚れては困る」などと気にしてくれるのかということだった。疑問をそのまま声にしたら、あっけらかんとして青年は言う。

「舞う時に困るだろう」

 

〝舞う時〟……彼女はすぐにはっとした。

どうしてそれを?尋ねれば青年は穏やかに答える。

 

「崖の下の水辺、滝際……そこが、狩場だった」

 

それは彼女が毎夜舞の練習をする場所の、丁度真下にあたる場所。

だいたいいつも同じ時間に、見上げれば美しい女がそこで踊ってる。

それが、いつしか彼の楽しみになっていたことを、彼は静かな声で語ってくれた。

 

「あんたが踊るのが見えた。見るのが好きだった」

 

「……私を……?」

 

「けれど昨日、舞を最後に見ようとしたら、あんたが落ちてきて驚いたものだ」

 

「ええっ……み、見てらしたんですか」

 

「見てた。助けようとしたのだが、先のタマミツネとの戦いの傷で、思うように行かなかった。岸に放ってやったところで、意識がなくなってしまった」

 

「あなたが助けてくれたのですか……!」

 

「目が覚めたら大分離れた下流でな。……合流できてよかった。無事送り届けてやったら、また舞を踊ってはくれまいか」

 

彼女は驚きに口をあんぐりと開け、何度も何度も瞬きをする。

彼は、青年は偶然通りかかってくれたのではない。彼女を助け、そして彼女を探しに来てくれていたのだ。

 

ありがとうございます。ありがとうございます。何度も彼女は繰り返すけれど、青年は「好きでやったことだ」と短く答えるだけだった。

 

「人里までまだ遠い。寝るとよい」

 

いつまでも頭を下げる彼女の髪をよしよしと撫で、青年は優しい声でそう言った。

 

 

 

 

 

 

-3-

 

おはようと囁く顔は相変わらず感情をあまり表に出さない。けれど、瞳は暖かく優しいもので、見つめていると落ち着いた。

海の底の宝石のような、あるいは快晴の日の湖のような、そんな不思議な碧眼だった。彼女はこの色を見るたびに、心から美しいと思う。それから、なぜか既視感が胸を過ぎった。

 

 

 

 

「ええっとですね……『肉体は魂の容れ物』っていうのが、うちの家の宗教の考えでですね」

 

その日もよく晴れていた。

森林地帯ゆえに空の様子はわかりにくいが、木漏れ日がキラキラと輝いてるのだ。湿気もないし雨の匂いもしないから、今日は一日中晴れてるだろうと青年は言う。

 

「普通は、魂は肉体の死のあと次の身体に宿るんです。これが生まれ変わりってことになるんですけど……」

 

朝食はキノコやハチミツだった。森林地帯はロイヤルハニーが採れるのだ。なんでもアオアシラの好物らしく、その味は人間の舌をも溶かすほどの美味である。

また、渓流は昔からキノコが豊富で、様々な種類が生えている。マヒダケや毒テングダケのように危険なものはあまりなく、素人の彼女にもすぐにアオキノコや特産キノコを見つけることが可能であった。

 

「でも、強い未練を残したまま亡くなったものは、生まれ変わらず魂だけでそこに留まってしまうそうです。果たせなかった思いを抱えて、転生もできない状態というのは、非常に苦しいそうですよ。中には、生きてる人に取り憑い着いちゃう霊もいるそうです」

 

「〝憑く〟……?」

 

「父が教えてくれたことで、私はあまり信じてないんですよねぇ、魂とか生まれ変わりとか。まあ、そういうものって前提がありまして……」

 

何故こんな話になったかといえば、青年が彼女に問うたためだった。

二日目の朝。森林地帯をぽつぽつと歩き、いずれ開けた草原に出ようという頃である。あまり会話の弾まなかった道中だったが、不意に青年は問うたのだ。

「何故毎夜舞っていたのか?」と。

青年の狩場からは彼女の練習場所がよく見えた。だから、青年は彼女の舞うことを知っていた。彼と彼女が今こうして一緒にいるのも、思えばそれに起因するのだ。

彼女が滝から落ちたのはあの夜も踊りに来たからで、彼が助けられたのは舞を見ようとあの夜もあそこに居たからだ。

崖と、滝。人里と魔境。名前も知らぬ舞姫と、それを眺めるだけの関係だった。

思いなどただの一つも重なってはいないけど、今に続く軌跡はあのとき確かにあそこにあった。それは不思議な運命でないか。

 

「それで……そうやって魂が生まれ変われずに留まって、苦しんだりしないように……無事に転生できるように捧げるものがあの奉納演舞なんです。なんだっけな、敬い、鎮め愉しませるためにって……そんな感じです」

 

彼女の説明はしどろもどろだ。一族きっての踊り手であり、祭では大トリを任される身というのに、これは由々しき事である。

結局彼女には信仰心はあまりなく、宗教にはお家柄以上の認識もない。奉納演舞も、単に舞が好きなだけ。そしてその才能に恵まれたのも完全にただの偶然である。

 

「そのような意味だったとは知らなんだ。美しかった」

 

青年は実にストレートな言葉を選ぶ。

彼女は時にその真っ直ぐな表現に戸惑い、あるいは照れたり動揺をした。

彼という人は悠々としてどこか神秘的な雰囲気があり、また浮世離れしたような魅力があるのだ。端正な面立ちにまじまじ見られ、その碧眼に褒められては赤らみもする。

 

「あ、……りがとうございます。えと、タマミツネを見てたんです。あの崖の上から、タマミツネがたまに見えるんですよ。それを見てて、その、真似とかもして……」

 

青年は目を丸くした。

何故タマミツネ?そう首を傾げてみせる。彼女は途端に饒舌になる。

宗教もその教えもよく知らないが、踊りに関するものであったら別である。彼女はそのルーツも知っていた。

 

「奉納演舞を最初に考案した人は、タマミツネの動きを真似たそうなんですよ。タマミツネって舞い踊るかのようなその動きから、『妖艶なる舞』の異名があるんです。それだけ美しいんですよねぇ……」

 

ほう、と息つく彼女の瞳は、恋する乙女のようでもあった。彼女は、本当に踊りが好きなのだろう。

「だから、実際のタマミツネを見たらもっと上達するんじゃないかって……。あの練習場所から渓流をじっと見下ろしてると、たまに見えて……それが嬉しくて。一度だけ、戦うところも見た事があります。シャボン玉のような泡がたくさん浮かんだ、幻想的な光景でした」

 

咲き乱れる花を彷彿とさせる、白と菫が美しい鱗。胴体や尻尾などを覆う濃紫色の体毛、

そして頭部や背中から生える花弁のような大振りなヒレ。特に雄の個体が持つヒレは非常に立派で、タマミツネの感情に合わせてより鮮やかに色付くという。

書物で読んだタマミツネという竜は、狐や蛇、霊獣などを思わせる幻想的な雰囲気を醸し出していた。そして実際に目にしたら、その姿は想像を遥かに超えるとても優美なものだったのだ。

仕草、動きの一つ一つが雅であり品があり、しかししなやかで力強い。彼女はタマミツネに夢中になった。滅多にその姿は見えないけれど、少しでも近付こうと記憶を何度も何度も思い出し、あの素晴らしい舞をものにしたくて芸を磨いた。

 

「ほら、綺麗なものを見ると心が洗われるようっていうじゃないですか。魂を鎮めること、浄化って言いかたするんですけどね、美しいものを捧げて心を洗うってことなんです。

奉納演舞を最初に考えた人も、きっと『なにが美しいのか』を考えたと思うんです。考えて、それがタマミツネだって結論に行き着いて……私、神様とか魂とか全く信じてないんですけど、タマミツネが美しいってところだけはすっごくすっごくわかります」

 

 

ふと、風が吹いた。

彼女は青年の顔を見る。すると、ずっと表情を露わにしなかった面立ちが、にこりと優しく微笑み返した。

途端に心臓が跳ね上がり、彼女の頬が熱を持つ。

何故だか急激に全てが恥らしくなってしまって、思わず彼女は俯いた。

 

 

 

 

・ ・ ・

 

 

 

 

森を抜ければそこは開けた草原だった。

朽ちた木造物の屋根が中央に残っているが、それは辛うじて骨組みを残すだけの、ほとんど全壊に近い状態である。とても、寝床のテント代わりに使えたような代物ではない。

遠方にはいくつもの山々が雲を貫いて聳えており、ここが高山地帯のど真ん中であることを再意識させられるよう。

 

「昔、ここに人里があった」

 

枯れ果てた井戸の残骸や、古びた廃屋。草も疎らな土に混じる瓦礫の欠片は、かつてここに人の生活があったことの残滓である。青年は少し寂しそうにそう言った。

「集落というべきか……、人間がここに住んでいた」

もう、随分と昔の話であると、彼はうっそり遠くを見つめる。

ここの人間とは水が合わず、顔合わせれば必ず争いになったものだと、語る青年は懐かしそうに瞳を細める。

今はもう誰も居らず、時間だけが寂しく過ぎる打ち棄てられた場所である。ここに足を運ぶのは、餌を求める竜か狩猟に来たハンターだけだ。

嵐が────それもひどく強く巨大なものが、ある日一夜にして集落を破壊し尽くしたらしい。それ以来、人間がここに住むことはない。

 

 

ジャギィ達はここにも生息しているようだった。人の姿に警戒を露わに、ひょこ、ひょこと独特の動きでこちらの様子を伺っている。攻撃してくる様子はない。鳥竜種は、彼の強さを肌で感じるのかもしれない。

 

 

「少し休むか」

 

青年の提案に彼女は頷く。

彼と違い、彼女は体力があまりなかった。緊張や不安がいつもより消耗を早くするから、夕刻を前に足がバテてしまっていたのだ。

採取したキノコを齧りながら歩いたために、腹はあまり空いてはいない。けれど足はくたくたである。舞衣装のまんま落ちてきたから、履き物が高下駄なのも災いしていた。今やつま先がひりひりするのだ。

 

「……すいません、ご迷惑ばかり……」

 

申し訳なさそうに頭を下げるも、青年は迷惑そうにはしなかった。ああ、といつものように頷き、そのままゆったりと寛いでいた。

 

西の空が、少しずつ赤くなってゆく。

 

「気にすることない。そこらに……────」

 

言いかけた彼は言葉をはたと止めてしまった。

急な沈黙にその面立ちを覗き込む、……と、その瞳は強い眼光を放つでないか。

一体何が。

問うより先にその正体を知る。

背後に、重々しい地響きと共に、ジンオウガが降り立ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

-4-

 

青年はあの無双の狩人と呼ばれるジンオウガの、連続攻撃を全く寄せ付けないほど滑らかに動く。見事な体術は舞い踊るかのように洗礼されて、戦いというのも忘れて彼女は見惚れた。

 

彼は彼女の舞を美しいと褒めてくれたが、彼の戦いもまた美しいのだ。

彼女の舞は演舞であるが、青年の舞は攻撃であり回避であった。

やはり背の弓は使うことなく、繰り出されるのは脚や拳だ。彼女はそれを不思議に思うが、それよりも熾烈なジンオウガとの応酬に目を奪われてしまい、疑問を紡ぐいとまもない。

 

「あの金雷公の下っ端かっ、群れの末席が生意気なものよ」

 

青年は苦々しく眉を歪めて、ひらりひらりと攻撃をかわす。

 

「こんななりでは遊んでやろうことも出来ぬな、全く不便だ」

 

言いながら振りしだかれる爪を避け、逆にその腕を足場に飛び上がる。

どこか獣じみた身のこなしで、振るわれた脚は真っ直ぐにジンオウガの鼻先を蹴る。……なれど、さしたるダメージは見込めなかった。当然だ、ただの蹴りなのだから。

 

だが不思議なことに、徐々にジンオウガはその攻撃を緩めてゆくのだ。

バテたのではない、躊躇するような、葛藤するような、そんな動きが随所に見える。夕刻、朽ちた廃屋がジンオウガの電撃を受けてがらがら崩れる。

青年は最後まで弓を弾いたりしなかった。ただ、まっすぐにジンオウガを睨むだけ。

するとジンオウガは耳を垂れ、やがて悲しそうに喉を唸らす。

 

夕日が、美しかった。

淡い暮れ方の日光が、湖面のもやを通してほの赤い縞になって射す。次第に山肌は茜色に染め上げられて、渓流に夜の訪れを広める。

 

 

「…………。そういうことだ。わかったなら金雷公のところへ戻れ」

 

青年が言えば、人語を理解するというのか、ジンオウガはくるりと踵を返すでないか。

その背は大切なものを失ったような悲しい喪失感に塗れてて、彼女はまた息を飲む。西日の奥へと歩き去る、ジンオウガは哀愁を孕んだ目をしてる。まるで今生の別れのように、それはそれは悲しげに。

 

 

────と、風が血の匂いを運んだ。

見れば彼の袴が赤く濡れている。目を見開いてまじまじ見れば、血の出処は下半身ではなく腹だった。腹部がじっとり濡れていて、そこから伝う血が袴までも赤くしたのだ。

 

「け、けが……!手当てしなくちゃ……」

 

いつの間に……攻撃は全て避けていたのに。青くなる彼女とは対照的に、青年は落ち着き払っていた。

 

「大事ない。昨日の傷が開いたのだろう」

 

あっけらかんとして彼は言うけど、彼女はもう気が気でなかった。道中キノコとともに拾った薬草を差し出して、飲んで下さいと彼に言う。

それを彼は軽く否して、「草は嫌いだ」などと言い出す始末だ。好き嫌いの話ではない。

 

「そんなっ……」

 

「すぐ止まる。一度塞いだ傷だ。……それより、移動する必要がある、結局休ませてやれなんだが、歩けるか」

 

青年は目に見えて顔色が悪かった。

元々白かった頬が、今はもはや青白いのだ。

 

私は大丈夫ですから、どうかあなたこそ休んでください。そう涙目に懇願せども、彼は「急いだ方が良い」の一点張りだ。

あまり時間がないとも言った。

 

「……ここらは夜になれば蒼火竜が来ることもある。今の騒ぎで、様子を見に来る可能性がある」

 

これを聞いては、移動に従う他になかった。

彼とて、休みたくともここで休むわけには行かないのだろう。

ようやっと彼女は頷いた。頷いて、痛む脚を堪えてそっと腰を上げる。思わず一瞬よろめけば、すぐに彼が肩を抱えた。

 

「あ……」

 

「寄り掛かれ。ゆっくり歩く」

 

「そんな……ご自分だって怪我を……」

 

「問題ない」

 

 

────〝こんななりでは遊んでやろうことも出来んよ〟

彼は、戦闘の最中にそう言っていた。

それは、まともに戦えないほどの重傷ということではないのか。弓は使わなかったのではなく、使えなかったんじゃないのだろうか。不安がみるみる大きくなってく。

こんなにも近くに身体はあるのに、あまりに遠くに彼を感じた。間近に見る横顔はこんなにも辛そうなのに、彼は「問題ない」だなんていうのだ。

 

日が暮れる。

渓流にまた夜が来る。足音はゆっくりゆっくり草原を抜ける。青年の呼吸は次第にか細く不規則になり、額には薄っすら汗が浮かび始める。

何度か「休みましょう」と彼女は言ったが、青年は首を左右に振るのだ。……もう少し、もう少し安全なところに抜けたら……。そう言って脚を止めたりしなかった。

 

 

 

「あのジンオウガは……」

ぽつりと、声を出したのも青年だった。

 

 

「あのジンオウガは、……霊峰に向かう金雷公の群れの若僧だ。まだ子供で、あまり……強くない……」

 

こほ、と彼は咳き込んだ。

彼女の背中がびくりと跳ねる。ただ一度の咳なのに、青年は今にも煙のように消えてしまいそうに思われたのだ。

月の光の差す頬が、血の巡りを忘れたように青くなる。それだけで彼女が涙ぐむ。

 

 

「金雷公……」

 

「ああ……群の長だ。若いが強い。さっきのジンオウガは、そこの末席だが……あの負けん気で、よく喧嘩をした……」

 

こうなってはもう戦えないと悟ったのだろうと、青年は悲しい目で空を見る。声まで弱々しくなってゆくのだ。彼女は必死にうなずいた。

声を聞いていないと、会話をしてないと、不安で不安で仕方ないのだ。

 

 

「ごめ……ごめんなさい」

 

やがて流れ落ちるのは謝罪だ。涙と一緒に、気が付けば彼女は謝罪していた。

 

「ごめんなさい……あなたがそんな怪我を負ったのは……私が、……私のせいで……」

 

「ああ、違う。タマミツネにやられたのだ。獰猛化したタマミツネが暴れ狂ってな……そのせいでこうなったのだ、謝るな。今は、幸せなんだ」

 

それに、ジンオウガが退いたのはこの怪我のせいでもない。そう青年は優しく言うのに、彼女は安堵の息を吐けないでいる。

どこか眠たげな瞳は疲れ果て、切なげな視線を注ぐのだ。彼女はそれが悲しくて、同時に無力な自分が愚かしくって、ほろほろ雫を落とし続けた。

 

この人を、好きだと思った。

 

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