想いなど、なにひとつ重なってはいないけど   作:紙粘土

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後編

-1-

 

抉れたような岩場の陰から続く岩場は緩やかな坂を形成しており、そこに細やかな川が流れる。川面をよく見るとサワガニが歩き回り、カメが泳ぐ姿もあった。

頭上からは赤い葉がひらひら落ちてくる、なんとも風流な場所に着く。

 

辺りはすっかり暗かった。

今はモンスターの姿もみえないが、昼間はもっぱらガーグァやケルビの楽園だというその場所は、光虫のただようとても綺麗な風景である。

 

「この辺りには、……竜は来ない」

 

ようやっと抜けた草原の先にこのような場所があろうとは……そう彼女は息を飲む。光虫の放つ光で、水面がキラキラ輝いている。

 

 

「もう休もう。……ここを一番上まで登ったら、ハンターの使うベースキャンプに着く。明日、明るくなったらそこまで送る」

 

「……どうか、手当てをさせてください。人里に出れば薬もあります。恩返しを、させてください」

 

「…………どうだろう。人里は好かない」

 

「お願いです……このままでは……」

 

「でも、頼みがある。奉納演舞とやら、……あの舞が見たい。ずっと遠くから、暗いところからしか見えなかった。近くで、明るくなったら見せてくれまいか」

 

「そんなの、いつでも……いくらでも踊ります。だから……」

 

「ありがとう」

 

 

この想いは叶わぬものだというのだろうか。

青年は優しい目をしてる。その優しさは、消えゆく灯火を思わせるのだ。

ずっと止まらない頬の雫を、青年の指が掬い取る。

いつの間にか面立ちは近く、吐息だけで鼻先を撫でられるよう。

間近で見る彼の碧眼はやはり何より美しく、その長い睫毛に自らの顔が映り込んでる。

 

「────手を、」

 

先に喋ったのは彼女であったが、唇はふるりと震えてしまった。

 

「今夜、手を……繋いではくれませんか」

 

青年は無表情であったけど、瞳にわずかな熱がある。

答えは言葉でなく行動だった。長い指が彼女の手を掴み取り、そのまま強く握るのだ。

手だけではなく、気が付けば腰も抱かれていた。

その力強さに、触れる肌の温かさに、彼女の心臓が微弱な痛みを感じ出す。甘く心地よく痛む鼓動は、いつまでもこうしていたいと願って泣いてる。

彼が抱きしめてくれるから、彼女もまたその胸板に額を擦り付け、繋いだ手に力を込めた。

これが愛しさだと初めて知って、けれど言葉になりそうもない。

震える唇で彼を呼べば、返事の代わりに頭をそっと撫でられた。

 

 

 

 

この岩場の坂道を登ったら、ハンターのベースキャンプに辿り着く。

そうすれば観測隊にコンタクトを取れるだろうか。やがて里へ送ってもらえる。恋し故郷に帰れるだろう。

それは望んだことだったのに、何故胸は痛むというのか。

弱り果てた青年を想い、彼女の涙は止まらなかった。

 

 

 

 

 

-2-

 

独特の口調と不思議な雰囲気、彼はどこか雅で神々しい。

けれど、その美しさは悲しく弱って見えた。グラスの水に挿した花のような儚さだった。まるで……まるでもうすぐ枯れてしまう、そんな、一輪の。

 

ふと鼻先を掠めるは、柔らかくも温かな立派な襟巻きである。濃紫色のそれはタマミツネのと酷似していて、すぐに彼の装備とわかった。

寒くないようにと、彼が被せてくれたのだろう。

 

ゆる、ゆる、と身体が揺れてる。うつらうつらと瞳を開ければ、視界に入るは彼の耳である。それから、周囲の景色は些か高い。水の音が、さっきよりもハッキリ聞こえる。

 

「…………あれ……」

 

「……起きたか、悪い」

 

「私……おんぶ……?」

 

「あまり時間がなくてな、思ったよりここに居られそうにないのだ。

もうじきベースキャンプに着く、そのまま寝ていろ」

 

 

なにを、彼は言っているのか。

疑問が頭に浮かんだ刹那、頭が眠気をどこかへ飛ばした。瞬間はっきりと意識を取り戻し、自分がおぶさっていることに気が付いたのだ。同時に全てを思い出し、彼女は「下してください」と悲痛に叫ぶ。

 

「怪我を、してるじゃないですか……!駄目です、下して、自分で歩けます!」

 

「軽いものだ」

 

「そっ……そんなこと!駄目です、歩きますからっ!!」

 

「……妙なことに拘る女だ」

 

 

怪我などさしたる問題ではなく、血もとっくに止まってる。そう悠々と彼は述べ、しかし優しく彼女を下ろした。

……たしかに、血は止まっていた。

けれど相変わらず彼の瞳に生気はなく、頬もやはり青いのだ。

いつの間に────最初は普通に見えたというのに、いつの頃からか彼はじっとり弱り始めて……多分それは最初から辛かったのだろう。ただ、彼は隠すのが上手かった、普通なふりが上手かったからそんなふうに思われたのだ。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……私が落ちたりなんかしたから……」

 

早朝の渓流は静まっている。

ひんやりとした空気は澄み渡っていて、なにもかもを清らかにした。

 

「謝ることない」

 

この岩場の坂道を登ったら、ハンターのベースキャンプに辿り着く。抉れた岩の坂道は、ちろちろと小川の流れるガーグァやケルビの楽園だという。

東に朝日が薄っすらと登ると、聳える霊峰が逆光で黒くぼやけてた。

 

 

「眺めてるだけで穏やかな気持ちになれた女と、こうして会話が出来るのだ。奇跡だろうな。もう、見れないと思ったのに」

 

「そんなこと……そんなことありません。いつでも舞なぞ踊りましょう、奇跡ではなく、当たり前に致しますから……」

 

注ぐ暁は木々の隙間から黄金の矢を放つようで、細く幾重にも挿し込まれるのだ。

晴れた天気の光の反射は、やがて液体のようにみずみずしい閑寂の空気を湛えてくれる。

 

遠くに鳥の声が聞こえた。眩しさに彼は瞳を細めた。

 

「最期にあの舞を見たいと願った。あれが奇跡になったのだろう。

本望だ」

 

「……『最後』って、どうして、そんな……」

 

「行くといい。この先がベースキャンプだ、一本道なので迷うまい」

 

ひらり。

頭上から赤い葉が舞い落ちてくる。それが水面に乗せられて、下流へゆっくり流れてく。

何故だかそれに、彼女が連想するのは人の死だった。

 

「なぜ、一緒に……来てくれないのです……?」

 

「独特の香か、或は呪(まじな)いの類いか知らぬがな、好かぬ匂いに満ちている。我々はベースキャンプに立ち入らない最大の理由がそれよ」

 

「え……」

 

「行くといい。だが我儘を言ってよいなら、舞を踊ってくれないだろうか」

 

 

青年の言葉は空漠とすることが少なくなかった。なにか本質を包むように隠してしまう。いや、隠すというより、そっと遠くへ押し退けられてしまうよう。

 

彼に聞きたいことがたくさんあった。

けれど、その姿が儚いものだから、彼女は質問を後回しにする。

足は一夜で大分回復を見せていた。涙を拭って彼を見る。それから、真っ直ぐその目を見て頷いた。

 

 

「わかりました。踊ります、あなたのために」

 

 

 

・ ・ ・

 

 

 

彼は踊る彼女を眺めているのが好きだと言った。渓流の底から、きっと生涯関わることはないだろう美しい女を眺めるだけで幸せだった。

住む世界が異なることを理解していた。だから、それだけでよかったと。

 

 

 

 

いつもの狩場の水辺から、見上げた人里に彼女が見える。それは遠く高い場所だったけど、夜目が利くからよく見えた。

そのうち────いつからだろう。いつからか、彼女の舞を見ることが、一日の楽しみとなっていた。

 

こんな経緯だが彼女に触れられ、会話もでき、実にたくさんのことを教えて貰えた。満たされていた。

今やこんな近くで黄金の日を浴びながら、ずっと好いていた彼女の舞を見ていられるのだ。これでもう、心残りなどあろうはずもないことだ。そう、人知れず彼は納得をする。

 

残り時間はあまりないと理解していた。

そのせいか油断すれば意識が消えてしまいそうで、何度も奥歯を噛み締めた。

気怠さが増し、そのまま消えてしまいそうな錯覚もした。だけど、彼女をここまで連れてこれたのだから、そして踊ってくれるのだから、今ならそれも悪くない。

彼女が舞うたび、足場の水がわずかにはねる。それらの一つ一つにまで光が射して、まさに幻想的な世界が広がる。

 

 

朝日を浴びた泡沫と、光虫の数多に輝く河原。舞うは白く細い四肢、靡くは漆のような黒髪。ひらりひらりと装束が回り、世界が回り、高下駄の跳ねる音を聞く。風切る扇は紺染花柄、闇夜で花吹雪を纏うよう────だのに、暁の下には明かりを反射し、金色に光るようだった。

美しい朝、美しい舞、美しい人。彼の心も洗われてゆく。

 

 

瞼がゆっくり重くなってく。

それに、逆らう意思も消えてゆく。

 

彼女の舞を好きだと思った。

彼女に舞を、褒めてもらえて幸せだった。

彼女も、見ていてくれたことを嬉しく思った。

 

もしかしたら、好きだったのは舞ではなく彼女そのものになっていたのかもしれない。

 

返す手が扇をぱっと開き、散りゆく桜のように落ち、翻れば長い髪が数瞬遅れて弧を描く。

渓流の短い旅で彼女の裾は汚れていたけど、その姿は今までで一番美しかった。

 

泡立つ水辺の全てが輝いて、彼はもう、思い残すものはなにもなかった。

 

 

 

 

 

・ ・ ・

 

 

 

 

 

最後の一節を踊り終えたのと同時であった。

ゆらりと青年の身体がよろめき、やがて力なく地に伏したのだ。

 

彼女は息をはっと呑み、扇も放り彼に駆け寄る。

その瞼は既に閉じてて、呼吸も拙くなってしまった。

 

 

「い、いやです……待ってください……!」

 

堪えていた涙腺が、再び決壊してしまう。

昨晩よりも更に大粒となった雫が、ぽたぽたと頬を伝ってゆくのだ。

 

「いやです、お願いですから……!」

 

彼の胸に頭をうずめ、揺すりながらその手を取った。ぎゅっと強く握りしめても、もう握り返してくることはない。

 

 

「……見事だった」

 

掠れた声で彼が言う。

 

「美しかった、……ありがとう」

 

「待って、待って……どうか……」

 

 

泣きじゃくる声は悲鳴に近い。

そこでふと、名前も知らぬことに気付いた。彼の、名前も彼女は知らないのだと。

 

 

「……別れのようだ」

 

「いやです、私は、あなたの名前も知らないのに……」

 

するとどうしたことか、彼はふたたび、すっと淡い笑顔を浮かべる。

 

 

「なにを言う。何度も呼んでくれたでないか。美しいと……言われて……嬉しかった」

 

「────え」

 

「タマミツネだ。……我が名は。……滝の下から、ずっと見ていた」

 

 

そこで、糸の切れたように彼の全身から力が抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

-3-

 

いやだいやだと泣いて叫んだ。

混乱の中に取り残された。

 

すると背後のベースキャンプから、人の足音が近付いてくる。

振り返ったら、そこにはハンター達がいた。

 

 

「おいっ、大丈夫か!」

 

「あっ、タツキ!!」

 

「タツキもいるぞ!」

 

ざわめきはすぐに広がった。

彼女は訳もわからぬまんま、ハンター達がどよめくのを眺めてる。

〝タツキ〟?

それは一体誰なのだろうか。明らかに腕の中に倒れる青年を指しているのに、彼女の理解は追いつかない。

彼はたった今自らをタマミツネと名乗り、そのまま意識を手放したのに。タツキとは、一体誰のことだというのか。

 

「秘薬を……」

 

「いや、意識がない。先に粉塵で……」

 

 

ばたばたと忙しなくハンターたちは装備をいじり、そのうち一人が白い小瓶を振り撒いた。

真っ白い粉の粒子がきらきら輝きながら彼の身体に付着してゆく。

 

 

「よかった……ずっと探していたんだ。あんたが助けてくれたのか?礼を言う」

 

ハンターの一人がそう言って彼女に頭を下げた。

違う。違うのだと、彼女は涙目に首を振る。

助けられたのは自分の方だ。それに彼の名前はタツキではない。本人がそう言ったのだから。それに、人里が嫌いとも言っていた。ベースキャンプも入れないと。

なのに、彼は────

 

 

 

と、そこで胸の中で男が動いた。

彼女は希望に笑顔を咲かす。

 

よかった、無事だった。

そう言いかけた言の葉は、しかし寸でのところで凍った。

 

 

「うわっ……イッテテテテテ、超痛ぇ!!死ぬかと……あれ、ここどこだよ!あっ、お前ら!」

 

彼女の腕の中で目覚めた彼は、まるで違う口調でそう言ったのだ。

その面立ちは、あの美しい碧眼ですらなくなっていた。

黒々とした黒目で周囲を見渡して、そのあと彼女をキョトンと見るのだ。

 

「あんたは誰だ?もしかして俺を助けてくれたのか?」

 

全く同じ声で、だのに全く知らない口調で、まるで初対面のようにする。

雅であった仕草は欠片も残らずに、立ち振る舞いはハンターの荒削りな男らしさそのものである。感じた優美さも神々しさもどこにもなかった。

 

「そうだぞタツキ。お前ちゃんと礼を言えよ!」

 

「まじかよ……、ありがとう。ええっと、あんた名前は……?」

 

そうしてあっさり、自らの名を「タツキ」であると肯定までしてみせるのだ。

 

 

彼は、明らかに別人になっていた。

彼女は涙が止まらなかった。

 

 

「だって……タマミツネ……、タマミツネは……」

 

嗚咽交じりに疑問を投げれば、ハンターたちはキョトンとしてみせる。

 

 

「……?ああ、俺たちは確かにタマミツネの討伐に来たが」

 

「とうばつ……?」

 

「そうだ。依頼があった。タマミツネの二頭討伐が此度のクエストだったんだ。しかも一頭は獰猛化個体との報告があった。俺たちはそれでユクモから来た」

 

「ユクモ……。でも、滝の下が専らの狩場だと……?」

 

「なんの話だ?俺たちはみんなユクモから来たし、渓流には数えるほどしか来たことがない。

滝の下は、タマミツネの生息地だよ。専らなんてとんでもないな」

 

 

話しが何一つとして噛み合わない。

さっきまでの彼は最早別人で、この人達はハンターで、彼女の知る青年の影はどこにも見えない。

もはやダメ元であるが一応聞いた。

「私の舞を見たことはありますか?」

かつて彼だった────タツキと呼ばれる男は不思議そうに首を傾げて、「ないけど……あんた踊れるのか?綺麗そうだな」と言って笑った。

 

 

 

ベースキャンプに入れないと言った覚えなどないかのように、タツキはあっさりとベースキャンプを通り抜けてく。だから、きっと本当に別人なのだと彼女は思った。

 

 

 

 

それから、ハンター達に保護されながら、彼女はことの経緯を聞いた。

 

タマミツネの二頭討伐でこの渓流に赴いたこと。

だけど、到着した時既に獰猛化したタマミツネは死んでいたこと。

なればともう一頭の捜索に出れば、重傷のタマミツネを水辺に見つけた。水辺のタマミツネは必死に滝に向かって這っていたけど、一目でいずれ力尽きるとわかるくらいの重傷だった。

おそらく、先の獰猛化個体を始末したのはあのタマミツネだろうと察したらしい。縄張り争いのようなものか、二頭のタマミツネは互いに争い、そして、その勝者ですらいずれ命尽きんほどに互いに削りあったのだった。

 

とどめを刺すかと耳打ちする中、しかし突如異変は起きる。

 

滝の上流が水量を増し、氾濫もさながら溢れながら押し寄せたのだ。こいつはまずい、巻き込まれては死にかねないと撤退を決める。

するとどうしたことか、生き残ったタマミツネがその川に向かい飛び込んだのだ。あれほどの重傷であるというのに、あの濁流に自ら入るとは信じ難くて目を見開くも、海竜種ならではの考えがあるのではとの結論に至る。

それより問題だったのは、仲間の一人────タツキが逃げそびれて川に呑まれてしまったことだった。

 

 

川が鎮まるとすぐにタツキを探し回るも、その姿はどこにもなかった。

代わりに、あの時川に自ら飛び込んでいった、タマミツネの死骸を下流でみつけた。

 

一度ベースキャンプ戻って捜索隊を要請しようということになり、そうしてハンター達は昨晩ベースキャンプに着いたのだという。

そして、今朝。そのベースキャンプの目と鼻の先で、倒れるタツキと泣きじゃくる彼女を見つけたのだと。

 

 

 

タツキと呼ばれる青年は、この三日間の記憶を持っていなかった。

しかしそれ以前の記憶は、ハンター達の語るものと一致していた。

 

なら、あの不思議な青年は誰だったのか。

語らった言葉達はなんだったのか。タマミツネは……。

 

疑問の答えは、村へ送ってくれると申し出たハンターたちと、荷馬車に揺られる最中の夕方、タツキの口からほろりと落ちた。

それは浮かない顔した彼女を元気付けようと、戯けた彼の他愛ない話からひょいと派生した一言である。

混乱のあまり前後の会話は覚えてなかった。

だがその一言だけが、胸にぷつんと突き刺さるのだ。そして、疑問の答えを一つに繋げた。

 

 

 

「俺のカーチャンも巫女さんしててさ。血なのかね、霊媒体質ってやつなんだって。なあ、霊媒体質って具体的にどういう意味だ?」

 

 

 

 

彼との、最後の会話を思い出す。

〝なにを言う。何度も呼んでくれたでないか〟

 

あの言葉も、空漠とした言葉たち全て、なにもかも「そのまんま」の意味であったら。

一番最初も、彼女は絵に描いていたのだ。木の枝を地面に走らせて、タマミツネと戦う人間の絵を描いた。あなたはこういう人ですか?そうたずねたら、彼はハッキリ頷いたのだ。

あの時彼が頷いたのは、人間の絵の方ではなくて……

 

 

唐突に納得をしてしまう。だから、背の弓を一度も使うことがなかったのだと。彼は使い方を知らなかったのではなかろうか。

 

〝タマミツネだ。……我が名は。……滝の下から、ずっと見ていた〟

あれは、本当にそのまんまの意味だった。

 

 

『強い未練を残したまま亡くなったものは、生まれ変わらず魂だけでそこに留まってしまうそうです』

父の教え。彼女の信じていなかったこと。そして、かつての彼に語った言葉。

疑問の答えは、あの時自分の口で紡いでいたのだ。

 

『中には、生きてる人に取り憑い着いちゃう霊もいるそうです』

 

滝の下のタマミツネ。

彼女の舞を美しいといったタマミツネ。

そして、下流で死んだタマミツネ。

 

自分はタマミツネに救われたのだ。命尽きたタマミツネは、それでも魂を残し人の身を借りて彼女の元に来てくれた。

 

強い未練はなんだったのか。いや彼は自分の口で言っていた。

最後に、あの舞をもう一度見たいのだと……。

 

 

きっと話しても誰も信じやしないだろう。絵空事かおとぎ話と笑うだろう。あるいは、白昼夢を見たに違いないと言うかもしれない。

 

もはやどうだってよいことだ。誰が信じようが信じまいが、〝この三日間〟は夢や幻でなく確かに存在してたのだから。

その記憶は今尚胸の深くに輝き、瞳を閉じれば色褪せぬまま蘇る。美しい美しい追憶たちが愛おしくなる。

彼に────いやタマミツネに、惹かれた分だけ胸は苦しみ痛みを覚えた。この痛みだけが、彼が確かにいた証明なのだ。

 

 

留まる魂を天に召すのは、好きだと言われた舞だった。

 

 

 

 

 

-4-

 

閉じた瞼に差さる日差しが、手放しかけた意識を柔くくすぐった。

 

鼻先を掠めるのは優しい風だ。

近場の川がせせらぎとともに運んだそれは、乾燥することなく涼やかに鱗を撫でてゆく。新緑の香りは茹だるさをそっと遠退けて、なだらかな丘やその先の崖、一帯全てを優しく包み込むようだった。

 

 

 

泡狐竜は薄っすらと瞼を開く。欠伸で涙が睫毛の間をそっと埋め、光が視界の端を虹色にした。

 

快晴だった、雲ひとつない。

 

芝生の、目を背けたくなるような濃い緑が照り返す。太陽の高さがふと夏の気配を気付かせた。……眩しい季節だ。好きでも嫌いでもなかった夏は、しかし今ばかりは心地よい。

この暖かさの中に終われるのなら、存外それも良いものだと────竜は消えかけの身体を憂うこともしなかった。

 

 

彼女は無事元の村に辿り着き、そうしてあの崖の上から渓流を見てる。

タマミツネがそこにいること、彼女は気付く節もなかった。きっと、魂とやらは、そんな存在なのだろう。タマミツネは不思議に思うこともなく、渓流を見る横顔を見る。

 

 

痛みもあった。苦しみもあった。けれど、あの三日間はそれでも幸せであったと思う。

可憐な彼女は無邪気に懐き、常世の理(ことわり)を捻じ曲げる身に、光のように笑ってくれた。まるで心に溶け込むように。

 

 

緑の葉が色付いてゆく。

木漏れ日の下で、彼女はまた少し泣く。

悲しい瞳を、拭ってあげることすらもう出来なかった。薄っすら身体は消えてゆく。

 

彼女が無事里に帰れた。ならばもう、それで良かった。

 

例えこの気持ちが恋だとしても、想いは何一つ重なることなどないだろう。

このまま完全に消えたとしても、あるいは彼女のいうように生まれ変わりがあったとしても────それすらタマミツネはどちらでも良い。

 

無念は晴れた。

あとはただ、この意識が許す限りに、彼女と歩いた渓流の日々を思い馳せるのだ。完全に消えてしまうまで。

 

 

〝さようなら、愛おしい人〟

 

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