視界が急速に開けていく。覚醒した脳が網膜に降り注ぐ朝日を知覚し意識が微睡みから浮上する。眩しさの次に襲いかかったのは痛み。右手がバーナーで焦がれているようなじくじくとした刺激によって完全に目が覚まされる。
体を叩き起こす。
はっきりした視界で食い掛かるように右手を確認する。
そこには血のように赤い、四足獣の爪で切り裂かれたような三本の痣があった。
「...は、はは。はははははははは!!」
夢か?
拳を壁に叩きつける。痛い。床に捨てられた試作用の符を取って魔力を込める。込められた魔力によって急速に右手が冷やされ、あっという間に悴む。
夢か?
はやる気を抑えながら、それでも抑えが効かない興奮に背中を押されながら部屋を飛び出した。
廊下を走りながら体が倒れかける。息する暇も無い、息が切れる。
夢か?
曲がることに失敗して壁に叩きつけられる。肩に伝わる痛み。
夢か?
───いいや、違う。違う違う違う夢じゃない!
それでも、心の隅に残った小さな不安を払拭したかった。扉を叩きつけるように強引に開けると、予想していたかのように椅子に座ってこちらを睨む衣沙が右手に符を構えていた。灯りのついた勉強机には散々にマーカーと文字で埋め尽くされた参考書とノートが広がっている。
窓からはゆっくりと昇っている太陽が伺えた。
制服に着替えていた衣沙が怒りとを滲ませた声で言う。
「朝から煩いんだけど。分かったなら邪魔だから消えて」
「昨日俺の部屋に入ってないよな!?」
命令を無視されて更に眉間に皺を寄せるも、質問に答えるだけの理性は残っていたようで渋々といった様子で手を降ろして答える。
「昨日は夕食の時に会ったっきりでしょ。別に術式も掛けてないし、あんたの妄想癖に付き合う暇なんて無いの。だからとっとと───」
「じゃあ他の誰かが入ったのは!?誰かが魔術を使ったのは!?ババアが帰ってきたのは!?」
滝のようにのしかかる大声に、衣沙の堪忍袋の緒が切れた。
「...ああもう知、ら、な、い!!第一この屋敷で無断に魔術なんて使おうとすれば探知に引っかかるわよ!馬鹿!」
罵声とともに氷片と風圧に襲われる。氷片に触れた柔肌が裂けて、赤い氷がぱらぱらと床に散った。
受け身も取れずに呆気なく俺が尻餅をついた事に驚いたらしい。珍しく動揺した顔を見せて目を泳がせる衣沙だが...全てどうでもよかった。どうでも、よかった。
息を整えて立ち上がる。服に引っかかった氷をはたき落として血で汚れた頬を拭う。万が一は無い。衣沙の優秀さを身に染みて知っているからこそ、その言葉は信じられる。右手を隠す為にズボンのポケットに入れて笑みを作る。
「悪かったよ...部屋から蔵の本が無くなってたからよ。つい...な」
そう断って早足でその場を去る。ああ、何とかこの場は凌ぎ切った。確信に至った事実に少しずつ自覚が芽生えてくる。
聖杯戦争。
凡ゆる願いを叶えると言われている奇跡の魔術───『聖杯』。
そしてその出場資格である『令呪』と呼ばれる痣。これを持つことが参加者...『マスター』の資格。海馬の奥底から掬い出すように記憶を反芻させる。もし世界に神がいるのなら、俺は一番愛されているのだろうとすら思える。死ぬ気で笑いを噛み殺す。この歓びは決して知られてはいけない。この復讐は、決して防がれてはいけないのだから。
だが、と思考が止まる。衣沙やババア、そして本家の奴らにばれずに計画を進めることは確実に無理だろう。術師としての大きな技量の差があるのに加え、そもそも開始までずっと右手を隠し続けるのは無理がある。このままで行けば三日と経たずに俺は本家の奴らの傀儡まで直行コースだ。
だから.........何の因果かは知らないがこれは天啓なのだろう。
先程の笑みと真逆の、薄ら笑いを浮かべて一歩一歩衣沙から遠ざかっていく。
自室に戻る背中に声が掛けられる。さっきと同じ様に苛立ちを隠そうともしない声だったが、ほんの僅かに疑心と心配が混じっているようだった。
「ねぇ。後で母さんに言っといたら?もし泥棒が来てたらやばいし、それにその傷...」
「心配すんなって。絆創膏なら俺の部屋にあるからよ」
左手を振りながら背後から明るさを増す廊下を歩く背に掛けられる言葉はそれ以上無かった。心の中に燃え広がる昏い炎が、暗がりに進む程静かに大きくなるように感じられる。
既に外では油蝉が鳴き始めている。明け方の寒さを梅雨明けの嫌な蒸し暑さが飲み込んでいった。
<<<秋近家・玄関<<<
あの日から俺の目標は決まった。
まず一つは自分がマスターであると知られないこと。
二つ目に召喚する使い魔であるサーヴァント.........俺の望む「あの方」を呼ぶ触媒が必要だ。
三つ目に聖杯戦争を乗り越えるための準備。これから戦う多くの敵サーヴァントと魔術師達に対抗する術が必要だった。俺の魔術師、ひいては陰陽師としての実力は全体の中の下といったところ。他の魔術師と戦闘にでもなってしまえば確実に負ける。
そして幸運なことに、俺はその全てを解決する手段を持っていた。
あの時怒り任せに衣沙が俺を傷つけてくれた事は逆に有り難かった。傷口を保護する事を口実に右手に包帯を巻いていれば誰も俺を怪しがらなかったし、衣沙が俺によそよそしくなったのは見ていて胸がすく思いがした。
でも絆創膏こんなにもらっても困るんだが...昔から優しさの基準がずれているが何時になったら気づくのだろう。その時俺は久しぶりに優しく笑った。
右手の包帯を揶揄われることを一日中耐え忍び学校から帰宅すると直ぐに封印蔵に向かう。林を抜け、数千年前はきっと見事な純白の壁だったのだろうその蔵に対峙する。錆びついた扉を開けて埃と湿気に支配された薄暗い内に踏み入れると、たった一歩で空気が全く別世界のように感じられた。
封印蔵は一族の遺産。いつも読む本やただのガラクタだけが収められているわけではない。平安から現代までの多くの魔術礼装や道具。この家が本家から一目置かれる程度には、この蔵は秘宝に溢れている。
踏み出した瞬間。蔵の中で過ぎ去った年月は、重みとなって俺の肺を沈ませた。心臓がバクバクと激しく鼓動を打ち、内心の焦りを加速させる。懐から取り出した紐で纏められた紺色の表紙の帳簿と、古い記憶を頼りに目的のものを探す。掃除を一才していない煙たい蔵の色褪せた骨董品を一つ一つひっくり返してはや一時間。
「...あった」
帳簿を捲る手が止まる。肺へのダメージを引き換えに、漸く俺はその箱を見つけることが出来た。見事な富士の絵と松の木を背景に筆で遊ぶ子供達が描かれた、年季が入った只の箱に見えるそれは江戸の時代に蔵に入れられたものであり本家の者達が無用の長物として此処に捨て置いたものの一つ。
名を、
「さて...頼むから動いてくれよ?」
箱の前につけられた戸を開けると、カチャンと気味の良い音と共に箱が開いていく。
カチャン、カチャンと左に、右に、後ろにと重ねられた棚が移動する。内部から無数の歯車がその役目を果たすべく回り続ける音が聞こえてくる。
そして上から五段目の段の天井がゆっくりと開き始め台座がせり出し、遂には謎のBGMが流れ箱の隙間からカラフルな光が溢れ出す。掠れた、三味線のような弦楽器の響く音が蔵中に反響する。人形の動く様はまるで浄瑠璃か歌舞伎のようだ。音に合わせて弛緩した動きで踊る人形をじっと見つめる。
最後の音が終わると、そこには小さな人形が相撲場のような円形の台座に座った人形箱が出来上がった。
「うん、動いたな。いやー動いたけど...」
この機能要る?
湿っぽい空気を吐き出しながら祝詞法師の前で首を傾げた。何せ本家の奴らですら、この機能は散々調べたけどマジで意味ないんですがどゆこと?(意訳)ってなってた機能。
無言のまま人形の布でできたのっぺりとした顔を見つめる。やはり意味がわからなかった。正直魔力食うからやめてほしんだがやめられないからどうしようもない。
気を取り直してポケットから符を作る為の長方形の紙を取り出して、箱の最下段の紙幣を入れるような隙間に入れると歯車の回る音と共に紙が巻き取られる。そしてまたBGM。
それに紛れた小さな駆動音に気づくと、関節を動かしながら人形が動き始めていた。ゆっくりと後ろに立てかけられた筆を取る。両手で抱えるようにした筆を肩で担ぎ直し、ババーン!という効果音を響かせて歌舞伎役者の様に見栄を切った。
この機能要る??
釈然としないこの気持ちは一旦横に置くべきだ。俺は一旦横に置いた。左右に開いた棚から突き出た朱塗りの平たい木版...スイッチを上下させる。目的のスイッチ全てを上に上げた事を帳簿と見比べながら確認する。その間ずっとBGMは鳴り続けていた。そして最も左にある黒塗りのスイッチを上げる。
一瞬、喧騒が止んだ。
人形の前に並べられた紙に、前屈みになった人形がすらすらと幾何学的な文様を描き出す。
それは時に図形で、文字で、身の丈程ある筆を振り回して人形は乞われたままに舞い踊る。
静まった蔵の中、小さく駆動音を駆らせるに止まる人形は舞い続けた。そして気がつけば紙一面に術式は書き出されており、人形の手は止まっていた。そっと完成した符を手に取り眺める。陰陽術専用に作られた墨は鈍い光を放ち、魔力を込めると寸分無くその効果を発揮する。
魔力を食らった符は独りでに浮き始める。宙をくるりと一回転して鉄扉へと飛び去って行った符は、多くのガラクタを飛び越えて丁度扉の前で糸が切れたように落下した。
「へぇ...こりゃ凄ぇ」
思わず感嘆の声が漏れた。祝詞法師に命じたのは森抜けの符。周囲を観測して出口まで使用者を連れて行く術式だ。空気感知や熱源感知など様々な感知系統の術式を両立させ、その上で途中で行動がおかしくならないように術式を編むのは非常に難しい。
俺は手の中の帳簿に目を落とした。
品名、祝詞法師。
年代、江戸時代。
効果───符の製作。
合わせて12つのスイッチを上下させることで300種以上の符を作ることが出来るという破格の性能を確かめた俺は、黒いスイッチの横の青のスイッチを押して箱を畳んでいく。帳簿を上に乗せて両手で抱えると蔵を後にする。その途中、一枚の布を拾いながら。
林を抜け、玄関を通って自室に向かう。この時誰にも出会わなかったのは僥倖だった。部屋の端に祝詞法師を下ろして帳簿を片付けようとした時、
部屋に落ちていた符...朝の冷気の奴だ。を踏んで体勢が崩れた。もう片足でバランスを取るも、手から大柄な箱が零れ落ちる。床に二転して転がった箱を慌てて傷の有無を確認する。何とか故障は免れたらしい。良かった...。
「あ?」
ひっくり返したおかげで、今まで見ることの無かった裏面が晒される。六面の内底だけは地味な木目のままになっており、我が家の屋根に似た様相だ。そしてその端には、小さく文字が彫ってあった。
所々削れてしまっているが、よくよく目を凝らせばそれはどうやら人名らしい。達筆な草書体で記されているが、陰陽師なので読めるのだ。何せ陰陽師ですので。
「たいら。いや違うか。ひら?」
い、いや難しいなこれ...。
「平...賀深...いや源内。源内!?」
エレキテルの人じゃん!?
この時、俺の胸中には既に嫌な予感が鎌首をもたげた。
「画...読めねぇな。飛ばして、老人、 卍 ...............葛飾北斎じゃないですかやだー」
脳裏に張り付く弁償の文字。
「次は...何だこれ?田中久重?誰だよ...」
ええ?スマホを二度見する。えええ??江戸時代最高峰の絡繰り人形の製作者ですか。どんだけオールスターズが作ってんだよこの箱...。冗談ではなく国宝級では?
「最後は、読めねぇな。傷が酷い」
傷が幾重に刻まれた名前を見つめる。推測するにたぶん江戸の陰陽師だ。これだけの量の術式が市中に出回るなんてことになれば今頃世界が変わっているかも知れない。誰かは知らないが、これだけの術式を作れる人物となるとかなりの腕利きだったのだろう。
そっと箱を壁の側に置き直した俺は合掌して拝む。
どうか、傷つけたかけたことを怒らないで下さい。祈りが届いたかどうかは分からない。小さな音がかたん、と鳴った。
==Tips==
祝詞法師
・江戸オールスターによって制作された超高機能マシン(当時)。とは言え現代でもかなりの性能を誇っている。実は北斎達四人以外にも多くのオールスターが携わっている間違いなく国宝級のアイテム。しかし本家は国宝レベルならいっぱいあるので捨て置かれた物。加えて本家の魔術師ならこれは不必要なもの。