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草木も眠る丑三つ時。極東の地方都市は本格的な夏を迎えていた。梅雨明けの蒸し暑い空気が街を覆う中。山々に囲まれた、一見普通の地方都市に見えるその街には...とある大きな屋敷が存在する。
曰く幽霊が棲むやら悪魔が棲むやらと噂されるその屋敷に今、異形の影が蠢いていた。
音を殺して進む影は体を屈めて立ち止まると周囲に耳を澄ませる。そしてまた警戒心を孕んだ足音を立てずに速度を上げた。
少女の眠る、浅葱色に塗られた襖の前を過ぎて、
今は誰も居ない、伽藍堂の部屋の前を過ぎて、
昼間の熱気の消えた居間の前を通り抜ける。
暫く経って影の右足が月明かりに照らされ、息を呑んだ異形の影が浮足立つ。羽虫のように月光へと引きつけられた異形の影はゔっ、と悲鳴を零しながら玄関に背中を引っ掛ける。
慌てて背中を外す...いや、背中に背負われた大きく膨らんだバックパックを下ろして腕を震わせながら玄関から引っ張り出した人影は慎重に、最小限の音と共に鍵を掛けその場を後にする。
ザクザクとサンダルを鳴らしながら歩く人影。夏の夜の熱気を孕んだ風が頬を撫でる。雲の隙間から顔を出した半月によって照らされたその男の顔が顕になり、剥き出しの白い歯がキラリと光った。
「まさかババアが二泊三日の温泉旅行に行ってくれるとはなぁ...お陰様で楽勝だったぜ」
何を隠そう、俺である。
そこからはひたすらに歩き続けた。蒸し暑い夏の夜に加え、誰かに追われているかもしれないという焦燥感に苛まれ続けながら歩き続けた。頬も背中も汗に濡れ、ガラガラの喉が呼吸のたびに乾き、酸欠で息が荒くなる。
小高い丘に建てられた家から出て数十分。漸く駅が視界に入った。
予め決めておいた集合場所に辿り着くと、待ち構えていたかのように後ろからクラクションが聞こえてくる。振り返った俺の目を黒塗りの車のライトが刺した。
俺の横に並んだ外車の窓が開かれ、蛍光灯に照らされたカソックが顕になる。見慣れた黒い修道服に妙ちきりんなサングラス。懐かしい古い友人に喜びの声をかける間もなく、ぶてぶてしい笑みから毒づかれる。
「やぁ、良い夜だ。生憎運転していたので私は分からないが...その様子ではさぞ暖かく過ごし易いのだろうね」
「そりゃありがとう。挨拶も済んだから早く乗せろ」
苛立ちを隠そうともしない声を聞いて、何が面白いのか神父は笑った。他人を
...久しぶりに会ったから、若干嬉しい気持ちがあったというのは死んでも言いたくないけど。
ドアを開けて強引に荷物を押し込むと、空気を抜くような吐息とともに後部座席に腰を下ろしてドアを閉め直す。それを確認した神父はエンジンを入れ、唸り声を上げて車は走り出した。
殆どの家から灯りが消える丑三つ時。目の前で日常が後ろへと押し流される。見知った建物が次々に遠ざかり、家族の顔が、友人の顔が、一気に薄れていくようだった。
いや落ち着け、俺の目的を忘れたか?頬を張って活を入れ直し、目の前に迫る山を見た。壁のような黒々とした山々は只静かに佇んでいる。
壁を抜ければ、俺の中で何かが吹っ切れたような気がして少し気が楽になった。
街を抜けて高速道路に入り辺りに車が殆ど見えなくなった頃、神父が口を開いた。普段は妄言と狂言と挑発しか出ないその口から、珍しくそれ以外の言葉が出てきた事に少し意外に思う。
「一つ聞いていいかい?」
「...何だよ」
いや。大したことではないよ。と前置きを入れて神父は問う。まるで何気ない普段の会話のように。
「君は何故この争いに参加するのか、その理由が聞きたい。もっと言うならば───この戦いに勝利した暁に。君は、聖杯に何を望むのか」
一言一言を丁寧に神父は問いかける。それはまるで教会で行われる審判のよう。皮肉な笑みを消した神父を鏡越しで見据え、山道を通り抜ける車に揺られながら俺は呟く。
「正直さ。聖杯何てどうだっていいんだよ」
「ほう」
「俺は証明したい。馬鹿にしてきた本家を、俺を嘲る奴ら全てを否定する。蔵に閉じ籠もるのはもう辞めだ。この戦いで、俺が聖杯を手にして、俺が強いことを証明する。俺が、本家ですらできなかったことを成し遂げる
「...成程。了解した...では、君の聖戦に幸運があらんことを」
思ってもねぇことを言うんじゃねぇよ。そう言おうとしたのを堪えて俺は沈黙を返す。後一時間と数十分。それを過ぎれば戦場に着く。選ばれた七人の魔術師が争う超常の戦い。本来なら側で見ることすら叶わない舞台に俺は立とうとしている。
「クソ暑ぃ、エアコンかけてくれ」
少し経って、言われた通り効き始めたエアコンの騒音が気にならない位心臓が鳴り響く。
ああ、やってやろうじゃないか。兄じゃない。彼奴等じゃない。
この俺が、聖杯戦争の勝者になる。
<<<八ヶ山市・しののめ荘<<<
やぁコンニチハ!僕はやつがん。この街、
この街の特徴はなんといってもその名の通り、大きな8つの山に囲まれていることだよ!秋には紅葉がとってもきれいなんだ!こらそこの君!ネーミングセンス無いとか言わないの!
他にも八ヶ山には凄い観光地がまだまだ盛りだくさん!南方の一際大きな半月山にご注目!あの山の麓には倉森神社っていう古ーい神社があるんだ。行けばご利益間違いなしかも!?お次は北東の紅葛山を見てみよう。三年前にリニューアルした八ヶ山エイティアドベンチャーワールドは毎年500万人以上が訪れる県内最大のアミューズメントパークなんだ!8つに分かれたエリアではここでしか楽しめない体験がいっぱい!更に八ヶ山には美味しい食べ物もいっぱい...
「くぁっ...」
石のように重い頭を、硬くざらざらした畳が受け止めた。何処かでばしゃりと紙が擦れる音がする。自重を受け止める左頬が平たく潰される感覚と、眠気によって重力が何倍にもなったような錯覚の2つで頭がサンドイッチになる。
眠い。もうそれしか思い浮かばない。寝させてくれ...。
感覚の消えた右手の先で視界から消えた観光ガイドの本を引っ掛けて寄せる。だが俺が出来たのはそこまでのようだ。
俺は寝た。ぐっすりと。スヤァ。
さて、現状を整理しよう。俺の目の前に鎮座するは短針が12を堂々と示す置き時計。俺の部屋にあったものだ。次。どでかいバックパック。家から持ってこれそうなものをとにかく詰めた。次。ガイドマップ、本屋で売ってた。次。しわくちゃの防寒コート、昨日布団だと思ったらこれだよ、はぁ。最後、鍵。此処の部屋の鍵、昨日サガラから受け取ったものだ。
「これで全部か」
大きく息を吐いて畳に寝転がる。ささくれだった安い
目頭を抑えながらズボンのポケットからしわくちゃの覚え書とドライフルーツの袋を取り出して僅かなブドウ糖を脳に送る。少しすると給料を得た脳は一先ず落ち着いたらしい。頭痛から立ち直り、紙を広げると幾つかの文章の内祝詞法師と聖遺物の入手、拠点入手のためのサガラとの交渉の2つが塗り潰されている。それを丁寧に二つ折りにし、畳に放り投げた。
「ぐぇえっ...」
もう一度、全身の空気を、一欠片も残らず吐き出す。この二週間の疲れを全て取り除くように。この二週間は俺の人生の中で一番疲れた二週間だった。ほんともう疲れた。ばれないかずっと胃痛いし...ババアに会った時凄いキョドったし...。
けど、と心の中で呟いて立ち上がる。此処までくれば追手もいない。そう、
「自由だぁーー!!じ・ゆ・う!じ・ゆ・う!じ・ゆ・う!ZI!YU!U!」
楽しいわー。今凄い楽しい。昂ぶるパトスを抑え切れず、暑いとばかりにシャツを脱ぐ。ババアがいない!衣沙がいない!そう、自由だぜ!クソ狭い六畳一間をぐるぐると巡る。
ぴょんと飛び上がって俺は踊って歌った。
振り付けはクソ適当だ。歌詞も適当だ。だがこの歓びを止めることが出来なかった。此処から先、俺は神速になる。
「自由〜。自由〜。俺は自由〜。辛かったよ〜嫌だったよ〜でも頑張った!貯金60万全部消えた!バイト代全部消えた!でも〜良いの〜自由だから〜。テスト赤点だろうけど〜帰ったら殺されるだろうけど〜。今だけは、今だけは(裏声)そう〜。じ〜ゆ〜う〜。明けない〜夜はねぇ〜」
<<<東雲荘・303号室<<<
深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ ニーチェ
<<<東雲荘・303号室<<<
「ふぅ.........」
賢者タイムが終わった。傾き始めた日光の差す部屋に残されたのは散らばったがらくたと半裸の俺。はしゃぎすぎたな...。いそいそと服を着替える俺は、水滴の落ちた後の水面のような凪いだ心で反省した。既に俺の心は羞恥と後悔を通り過ぎ新たな境地に達していた。
そう。黒歴史の封印だ。バレなきゃ問題ないんだ精神で行こう。うん。
着替え終わった俺は丁寧に記憶に封印をかける。ついでに予備の符で精神防御をかける。源内が凄いのか陰陽師が凄いのか、祝詞法師の符は俺の作った符の数倍は性能が良いという事実に複雑な心境を抱えながら一先ず靴を履いて外へ出る。勿論俺だとばれないよう幻術を張りサガラから譲り受けた魔力改竄の首飾りをつける。そしてそれを隠すために薄いスカーフを首に巻いた。
近くのコンビニで3日分の食料を買い部屋に戻る...いや、帰宅する。前の持ち主が置いていったという小さな冷蔵庫があるおかげで、食べ物を腐らせる心配が無くて助かったのは記憶に新しい。今日の夕食は焼きそばパンとハムとレタスのサンドイッチ、それと烏龍茶。これから数ヶ月この食事だと考えると気が滅入るが我慢しようと自分に言い聞かせて、咀嚼したパンを嚥下する。
夕食の後、休憩を兼ねてこの街の地図と土地を覚える作業に入った。この街はそれなりに、まぁそれなりに栄えた街だったので覚える情報が多いのは面倒だ。
ガイドブックにパンのプラ袋を挟んで栞代わりに使い、スマホに視線を移すと、よくある怪事件サイトを開く。魍魎がいそうなら退治しておくのが陰陽師の務めだしな。
俺は検索エリアに八ヶ山を入力。ぽつぽつと幾つかの情報が浮かんでくるが、廃ビルの亡霊や三丁目の悪魔などありきたりな嘘話が大半だ。にしても...
「此処最近の更新頻度が多い。一日に何度も更新があるっつーのは、偶々熱心な馬鹿が増えたのか。それとも噂される程の何かが増えたのか...はてさて」
胡座をかいた膝に肘を置いて独りごちる。もしも噂される程の何かがいるのだとしたら。それはきっと...サーヴァントだろう。もしくは魔術師の使い魔が人に見つかったのか。たぶんサーヴァントだと踏んじゃいるが...夜中に呻き声が聞こえるだの鬼火が出ただの信憑性にゃ欠けるか。
その時、オーケストラの演奏がスマホから流れ出した。午後10時にセットされたタイマーが俺に予定の時間を伝えてくれる。
もし。相手側のサーヴァントが既に召喚されているのだとしたら、今すぐにでも召喚に移りたい。特に『アサシン』は不味い。サーヴァントのいない俺なんて六枚落ちで将棋してるようなもんだ。いや、それは言い過ぎか?言い過ぎか。俺は無意識的に慢心した。
夜闇に溶け込む黒いコートを羽織りポケットに隠蔽と護身用の符を詰め込む。そして古ぼけた木箱、偽装と結界が何重にも重ねられたそれから一枚の手拭いのような布をそっと取り出す。
一見見れば只の黒い布の切れっ端。しかし魔術師、特に陰陽師ならばその布に込められた恐るべき魔力と術式の残骸に気づけるはずだ。千年の時を経た今も、強大に過ぎる魔力が布を守護し続けている。俺がこれを見つけたのは高校に上がってすぐの時だった。一時期俺は地下室を探そうと手当たりしだいに床を叩きまくっていた時期があった。その時、天井を支える柱と床の間の溝が少し、ほんの少しだけ開いていたのを見つけたのがきっかけだった。
3日かけて掘り出した一枚。
これは俺しか知らない封印蔵秘蔵の至宝。
平安貴族が身に纏った狩衣という衣服の破片。
『キャスター』安倍晴明の聖遺物だ。
==Tips==
八ヶ山市
・本州中央付近に存在する地方都市。名の通り8つの山々に囲まれた盆地に存在するこの町では昔から妖怪や神様などの噂が絶えず、心霊スポットとして多くの客が訪れる⇒収益が大幅アップ⇒店側も妖怪にちなんだ商品を売る⇒更に収益アップ。これには市長もにっこり。