<<<八ヶ山市・伊城山<<<
八ヶ山市を囲む八つの山の一つ、東に聳える伊城山を見上げる。連なる山々は手抜きされたテクスチャのように黒一色で、その姿はまるで夜空から闇が零れ落ちたようだ。
間もなく麓に辿り着き、忙しなく視線を周囲に巡らせて人目を確認した後、木々の隙間を駆け抜ける。途中何度も転びそうになったが、浮き立つ心がそれを阻害する。運動のせいもあるだろう。けれど、体の芯で燃えるこの熱はきっと別のものだ。
...肺が痛い。けど漸く目的の場所に着いたっぽい。大樹の生い茂る森で唯一、空間が広がるその場所にリュックサックを下ろす。ジッパーを開き、両手一杯の符を空に放る。一瞬黄色い光を伴って地に落ちた符たちによって隠蔽と幻術が張り巡らされた小さな要塞が完成する。
瓶詰めのインクを土に垂らす。ゆっくりと形作られる血のように赤い幾何学模様の魔法陣を愉悦と共に眺めて、一満足してから、聖遺物となる布を捧げる。
こんな簡単な儀式でサーヴァントが呼べるとか聖杯様様だな。ま。万能の願望機ならそれくらいやってもらわねば困るけどさ。目の前に広がる巨大な円。魔法に域にすら到達するそれが、最悪依代すら無くても構わないという規格外さを改めて実感する。
聖杯が生み出す奇跡の魔術、英霊召喚。これから起こる事を脳裏に夢想すれば、無意識に頬が緩む。
「――――素に銀と鉄。礎に石と契約の大公」
最初に感じたのは、驚愕。次に全身を掻き乱す魔力の痛み。そしてそれら全て塗りつぶして尚有り余る興奮だ。
たった一節の詠唱で俺の中に滝のような
魔力改竄の礼装を外したことでその姿を取り戻していた真紅の痣が、あの日から俺を変えてくれたのだ。
ああ、あと少し。
「降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ。
ただ、満たされる刻を破却する」
都市部の喧騒から離れた山の中。大地に描かれた魔術用塗料が怪しく輝き、外界から隔離されたこの空間に俺の呼吸音と詠唱だけが響く。全身の魔力回路を駆け巡るマナによる鈍い焼けたような鈍痛も最早俺には気にならなかった。
赤の揺らめきが地と森を照らし、魔力の旋風が空を駆ける。
八ヶ山の霊脈から汲み上げられた莫大な魔力が血を生み、肉を産み、
「――――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ!」
慎重に、慎重に、焦るな。ここで失敗なんてしたら俺は終わりだ。そう思え。
詠唱が進むに連れ魔法陣はその輝きを増していく。朧気だったそれは既に眼が眩む程の眩耀と成る。
ふと、自分の手が震えていることに気づいた。問題無い!緊張を押し潰すように右手を握り締め、右手の令呪を前に突き出す。
雲隠れをやめた満月が照らす中、空気を肺いっぱいに吸い込んで俺は最後の詠唱を紡ぐ。まるで催眠術にでもかけられているように口が無意識に詠唱を詠むのを他人事のように思いながら、俺はもう抑えきれないほどに胸を弾ませる。
安倍晴明。一体どんな奴なのか。史実通りの飄々とした男か、一転実は凄い優しい青年かも。はたまた、もしかしたら美少女かもしれない。
「誓いを此処に。
我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」
もう詠唱が終わる。最高潮に達した赫光に視界が眩む。
「汝三大の言霊を纏う七天」
「抑止の輪より来たれ、天秤の」
まも
パリン、と硝子が砕ける音がする。
同時に視界が曲折して。
倒れ伏す体を土煙が覆う。
全身を横薙ぎに貫く衝撃と。
視界に満天の星空が広がる。
何が起こった?倒れた。結界は?え?詠唱言わねぇと。は?
なにか、不味い事が起きている。全身の産毛が逆立ち、細胞が恐怖という警鐘を鳴らす。あれほど体中を燃え滾っていた熱は既に冷めきって、体は雪に塗れた枯れ木のように冷えている。
全身の筋肉を使って体を前に倒す。そして、息を飲んだ。
夜闇の中で唯一つ浮き彫りになる、白い髑髏を被った男がいた。胴は手抜きされたコートのような大きな真っ黒の襤褸で隠され、突き出た両の足は枯れ木のように細い。
くるり、とこちらを向いた禿頭に被られた骸骨が気味の悪い笑みを浮かべている。
木陰から飛び出した男は音も無く大地を蹴り、細長い木乃伊の手で触媒を掴もうとして、地中に仕込まれた符が炸裂する。魔法陣の上に橙黄色の花が幾つも開き、青い茨が枯れ木のような足に絡む。
その様子を俺は間の抜けた顔で見つめていた。
...我に返った時には全ての罠は破られていた。
男...いや、あれは。あれこそが『アサシン』のサーヴァントだ。
ああ、
既にアサシンは既に触媒を拾い上げている。交戦すべきだ。ここで奪われれば俺の命は無い。
ああそうだ。立ち上がれ、構えろ。戦え。俺には切り札がある。それを使えばサーヴァントでも致命傷は免れない。
懐に触媒を収めたアサシンは只静かにこちらに視線を向ける。両手は垂れ下がり、こちらを殺そうという意思は伺えない。月光に照らされたその肢体は見れば見る
ほど悪魔的で、
アサシンは俺が戦闘態勢に移っても動く様子を見せない。先程から立ち尽くすばかりで小揺るぎもせず、ただこちらを眺めている。俺を敵と認識していないのか、それとも俺を見逃すように言われているのか。疑問は尽きないが攻撃してこないなら好都合。そのままぶっ殺して
「ぁ」
一瞬。
風を切ってアサシンが飛んだ。糸の千切れた凧のように風に吹かれて、その姿は瞬く間に消える。
気がつけば辺りに降り注ぐ月光は止んでいた。木の葉が擦れる音を聞きながら、頭痛が混濁する意識を叩き起こす。縮まった肺が酸欠に喘ぎ、咳き込んでその場にへたり込む。
息が整うと段々と自身の現状に理解が及んでくる。
失態、悔恨、怒り、そして...それらが全て燃え尽きるまで、感情の薪を燃やし歯を食いしばって拳を地に叩きつける。何度も、何度も、右手に土が染み込むほど殴って捻って押し付ける。
「クソがぁ...俺を殺しに来んじゃねぇのかよ!ああ、たかが使い魔が!!」
とどめに舌打ちと共に背後の木を殴りつける。じわりと血が滲んだのを横目に、散らばった符の中からまだ無事な物を掻き集めてその場を離れる。ここにいても仕方が無いからだ。コートに符とインクを詰め込んで礼装一式を身に纏う。
根に足を引っ掛けて転んでも構わずに、逃げる様に、山を駆け下りる。とっとと帰って状況を立て直すしかないからだ。
「まだ終わってねぇ。まだ始まってもねぇんだ...」
白髏の暗殺者。その姿と、真名を頭に浮かべながら俺は笑い声を漏らす。
必ず、お前は俺が殺してやると心の奥に刻みつけながら。
拠点に辿り着いた時、時計は午前4時を回っており街は静まり返っていた。ペンキの塗装が剥がれかけた金属階段を上り、前時代的な古アパートの戸を開ける。壁によって幾分暖かい部屋に入った後。俺は疲れから直ぐに眠ってしまった。最近こんなのばっかだ...とぼやきながら。
<<<東雲荘・303号室<<<
耳元で絶叫されたような酷い頭痛によって微睡みの海から叩き出される。全身の筋肉痛と、冷えた指先が額を冷やす心地良さが次第に意識を確かにしていった。カーテンの隙間から入り込む朝日を浴び、体をささくれ立った畳に投げ出す。柔らかさの欠片も無い畳に体を預けながら、少しずつ未来に向けて思考を巡らせる。
.........正直やばい。昨日は混乱してたから何とか帰って来れたけど、冷静な状態だったらメンタル死んでたかもしれない。令呪がある以上、魔法陣さえあるならサーヴァントは呼べる。俺には晴明の血が流れてるから、俺自身が触媒になって晴明を召喚できる可能性は十分にある。
だが...もし失敗すれば、誰が来るかは分からない。今分かっている敵はアサシンのみ、残るクラスは『セイバー』『ランサー』『アーチャー』『キャスター』『ライダー』と、論外クラスの『バーサーカー』。この状態でガチャるのは分が悪すぎる。
それに晴明の聖遺物を失くした事が本家の奴らに知られたら。
.........確実に、俺は死ぬ。
畳を転がって台所へ移動し、背骨を鳴らして体を起こす。冷蔵庫から出した水筒で乾いた喉を潤して台所で顔を洗う。冷たい水が夏の暑さを打ち消していく中、使われていない新品同然のシンクが俺の顔を鏡のように映す。
...酷い顔だった。偏差値的にも健康的にも。ずっと安眠出来なかったから細い目の下には隈が張り付いているし、顔も若干白い気がする。元々大したことのない、この世で一番身近なそれはまるで病人のようだった。
その時。
俺は昔のしょっぱい記憶を思い出した。
曇天の元、光を照り返す玉石と木々に彩られた鮮やかな枯山水。漆喰壁の白色が目が目に悪い。正方形に囲まれた庭に立つ人影が俺の前に立ち塞がる。誰もが見事な狩衣を纏い、その髪を結い上げられていた。そして、誰もが口を揃えてそう言うのだ。
『虎の威を借る狐風情がっ...いい気になるな!』
心臓を鋭利なナイフで滅多刺しにされたようだった。胸糞悪い感情が止めどなく溢れて疲労に喘ぐ魂が削られていく。どうしようもなくて朝食の菓子パンを乱暴に口に詰め込むも、その痛みは消えること無く胸の中心で暴れ続けている。
「...サーヴァントだ。サーヴァントさえ、手に入れば」
俺は変われる。俺の力を証明できる。俺は、前に進める。
煮えた熱湯のような心のまま、俺は新たなる召喚の儀へと思考を移していく。サーヴァントの召喚に必要なものは3つ。一つは聖杯から与えられる令呪。次に召喚のための魔法陣。そしてより強いサーヴァントを呼ぶための聖遺物。昨日の馬鹿で3つ目を失ったが、魔法陣用のインクは後数回分残っている。だから聖遺物さえあれば、俺は安倍晴明を呼べるのだ。
「問題は、というかそれしかねぇが...聖遺物かぁ」
平安の都で最高と謳われた我らがご先祖。殆どの聖遺物は本家の奴らに回収されているか博物館行きか国の重要文化財になっている。本家に戻るのは不味いし博物館の潜入と言っても今からじゃ間に合わねぇし。このまま家に居てもどうにもならねぇか...。
服を着替えると礼装を身につけ、散歩に出かけることにした。あのまま部屋に籠もっていても仕方がない。幸い今の俺はサーヴァントを身につけておらず、令呪も礼装によって隠されているため外見は只の高校生にしか見えないでしょ。さて、食べ歩き兼戦場の下見といきますか。
<<<八ヶ山市・八ヶ山駅前広場<<<
時刻は午後5時。太陽は傾き始め、対照的に街の活気は増していく。学校終わりの学生達が屯する駅前の広場の隅っこに置かれたベンチに腰を下ろした俺はコーラと共に一日の疲れを癒やしていた。
炭酸の抜けたコーラを飲み干し街を往く人々を眺める。都市部から離れた山の奥にあるこの街は俺の思った以上に栄えていた。中央部には高層ビルが軒を連ねており、駅では多くの会社員が電車から吐き出されているのを見た。街は清潔で整っており整備された道路や建物一つ一つが真新しい。
平和に富んだ街だと感じた。俺は、それを知った上でこの街で戦う。街は破壊され、民間に被害が及ぶ可能性もある。右腕の紙袋から取り出した醤油煎餅の包装を破って奥歯で噛み砕く。
もう散策も済んだ。そろそろ家に帰ろうと立ち上がった時、見覚えのあるグラサンを見つけた。通りの薬局から堂々と現れた不審者は両腕にエコバックを下げて呑気に歩いている。
面倒な奴を見つけてしまった。とっとと帰りたいが、今の俺には聖遺物を見つけるという目的がある。それに上手くいけば敵の情報を漏らしてくれるかもしれない。そう考えて嫌々ながらも俺は話しかける事に決めた。
「おい、サガラ」
「ん?」
雑踏の中で振り向いたグラサンは周囲の不審者を見る目をまるで知らぬというかの様に呑気に、或いは堂々と修道服を着て歩いていた。振り返った視線が俺を捉えると、丁度良いとばかりにいつもの胡散臭い笑みを浮かべる。近づいた俺に向かって、やぁと声を掛けたサガラが言う。
「久しぶり、でもないか。愁利君。早速だが私の買い物を手伝ってくれないかい」
「人に会ってまず物を持たせるのが『
「これはこれは。残念だよ、手伝ってくれるならー相手の情報を少しは教えてあげても良かったのだがー。あーあ勿体ない」
「.........ちっ。わーったよ持ちゃいいんだろ。って両方かよ!?」
似非神父が。態々目の前で飛び跳ねるグラサンに静かな怒りを燃やしながらその後ろを追う。昨日の筋肉痛と数十分も格闘し続けて辿り着いたのは、街の外れにある寂れかけた教会だった。
鉄門を開けた先には厳かな雰囲気を放つ大きな教会が居を構え、その周りには小さな森が広がりまだ日も暮れていないというのにおどろおどろしい。
既にサガラは門扉の前に立っている。深緑色の金属でできた聖堂教会のプレートが掲げられた横を通り、俺はその領地へ踏み入った。
森の中のこの教会は外れとはいえ、都心部においてかなりの面積を誇っている。教会の玄関を開けたサガラに付いていくと広間に出た。直ぐ前方に礼拝堂へと続くのだろう重厚な扉があり、サガラの入った右側の扉に入ると入る前に見えた左翼の建物に入る。廊下を渡って最も奥の部屋に入ると、そこは神父の私室のようだった。
革で出来たソファに作業机。壁の前にはテレビが設置され反対側の壁に嵌め込まれた宗教画に天使たちが笑っていた。中々高級そうな部屋貰ってんじゃねぇか。
「お疲れ様だね。ぶぶ漬けでもどうかな?」
「お前俺が京都県民だって知ってて言ってる?」
どストレートに帰れ。とかいい度胸じゃねぇか。
目の前で肩をすくめる神父はエコバックを受け取ってそれを執務机に置くとソファに座るよう言った。
サガラの言う通り腰を預けると漸く肩から力が抜ける。バキバキと肩を鳴らして半ば飛び込む形でソファに座り込んだ。
「まぁさっきの事は冗談だとしても疲れているのは本当の様だ。...マッサージでもやってあげようか?」
「要らねーよ。オトコに揉まれて何が嬉しいんだよ」
「あっそうかい?本気にしたなら悪かったよ。君は全く同性でも意識しちゃう程ケダモノだったよねぇ」
こっ、こいつ...。
「まぁ冗談はさておき。珈琲でも淹れてくる。座って待ち給え」
お前本当覚えておけよ?部屋を出て行く背中を見送りながら、もう一度体をソファに沈める。
どうせあの腹黒神父は俺の事を利用したのだろう。後は適当にコーヒーでも飲ませて帰らせようとでも考えているのだろうから、何とか交渉しねぇと。ネゴシエーションだ。でも疲れた...久しぶりの柔らかい感触に体を伸ばしながら、一時の休息を味わった。
==Tips==
聖堂教会
・本作でも聖杯戦争の監督役を務める。しかし聖杯戦争の監督役と云う職は性格の悪さが選抜理由に入るのだろうか、とボブは訝しんだ。
(麻婆とその娘を眺めながら)