※ハメTS杯参加作品です。
「オレ、修道院に入ろうと思うんだ」
僕の隣に座る彼女がそう呟いた。
ぽつり、と晴れた空から不意に降ってきた一滴の雨粒のような言葉だった。
あくまでそれは比喩表現だ。今日の天気はからりと晴れた綺麗なもので、まばらな雲が白い綿毛のように青空に浮かんでいる。
――良い葬儀日和だと、そう思ってしまうくらいには。
「……本当なのかい?」
「あぁ、本当だ。お前には前々から言っていただろう」
「知ってるよ。知ってるけどさ……」
冗談だろう、とも聞き返すようなことはしなかった。
彼女が言うように僕は彼女が将来的に修道院に入ろうと考えていることは聞かされていた。
でも改めてそのことを宣言されると何だか胸の内がざわついた。ひどく物寂しい。
今日のことが
「小父さんのことはどうするんだい?君の家のことも誰かが…えーと…相続しなきゃいけない」
「……そうだな。正直、親父には悪いと思ってる。家のことは誰か養子を迎えてくれるように言わないと」
「マルティナ……」
「ただ、今の親父を放ってはおけなさそうだしな。……家を出るにしても時期はちゃんと考えるよ」
すっと視線を遠くへ向ける。
僕らが座っている墓地の端のベンチから少し離れたところで男性が数人の人影に囲まれている。
輪の中心にいるのは少しくたびれた様子の1人の男性……彼女の父君であるレクシィ男爵だった。
彼女と同じ銀色の髪を生やした男性で、僕も小さいころからお世話になることが多かった。
その顔には柔和な微笑みを浮かべていることも多かったがしかし、今は見る影もなく泣き腫らした赤い目で項垂れている。
彼は葬儀を執り行った神父や、参列した村々の代表者、近隣の領主たちから個人的な慰めの言葉を受け取っていた。
その中には僕の父様の姿もある。
「――お袋は、昔から体が弱かったからな。近いうちにこうなることは、正直……覚悟していたよ」
隣に座る彼女、マルティナの視線を追うとそこには真新しい大理石の墓石がある。
その下に眠っているのはつい先日亡くなった彼女の母君だ。
彼女が言うように病弱だったために僕も面識は少なかったけれど、それでも息を引き取ったと聞いたときは胸に穴が開いてしまったような気持ちになってしまった。
彼女の家にお邪魔したときのことを覚えている。病気がちだ、という評判に疑問を覚えるくらい背筋がすっと通った綺麗な
「……マルティナ……」
僕は遠くを見つめているような彼女の横顔をそっと眺めた。
木々を揺らす穏やかな風の中にサラサラとした銀色の髪が揺れている。
同じ色のまつ毛に縁取られた瞳は、涼やかな空の青と穏やかな草の緑を混ぜ合わせたような心落ち着く色合いで、記憶の中にある小母さんと同じ色をしていた。
仄かに色付いた頬は可愛らしい丸みのある
そこに涙の痕は見えなかったが、悲しくないのか、などとは聞かなかった。
葬儀の前に顔を合わせた時に『もうお別れは昨晩済ませましたから』と話していた彼女の目元が、赤く腫れていたのを覚えていたからだ。
「親父もお袋のことが好きだったからな。お袋の体を気遣って二人目を産ませるようなことはしなかったし、妾を取るようなこともなかった。……親父の子供はオレしかいないわけだ」
「それでも、行くのかい?」
「……そうだな。この国だと長子相続が基本だからオレが男爵家を継ぐと言うよりは、オレが将来結婚する相手を婿養子にして継いでもらうという形になるから……」
「え、えぇと…?ちょうしそうぞ…?」
『長男が家を継ぐ、という意味です』
「ありがとう。……でもマルティナはそれをしたくないんだよね?」
「あぁ、そうだ。オレにはどうしても……男と結婚するっていうのは、無理だ」
瞼を伏せて彼女はそう締めくくった。
マルティナ・レクシィ。僕の二つ年下の幼馴染でレクシィ男爵の一人娘。
肩にかかるくらいの銀髪、喪服である黒いワンピース。
傍から見れば普通の10歳の少女にしか見えない彼女の秘密を知っているのは、実のところ僕しかいない。
曰く、彼女は前世では男性だったらしい。
それもここではない何処か別の世界の、ニホンという国で暮らしていたのだそうだ。
別の世界で死んで、新しい人間として生まれ変わるだなんてそんな話は聞いたことがない。
聖典に書かれていることによると、いつの日にか神様が世界を天国と地獄に切り分けて、全ての人は生きている間にした良いことや悪いことに応じてどちらに生まれ変わるかを決められるのだそうだ。
でも彼女の話はそれとは全く別のことらしい。
マルティナは「輪廻転生とかはこっちじゃメジャーじゃないらしいな」なんて言っていたけれど、今はそういうものだと受け入れている。
僕がそのことを聞かされたのは確か6才か、7才かそれくらいの頃だったように思う。
年下の女の子とどう遊んであげたらいいのかわからなくて、僕が兄様達にしてもらったみたいに彼女をよく外遊びに連れて行っていた。
そのときにむしろ僕の方が彼女に色々な遊びを教えてもらう羽目になって、それで僕から『君はなんだか男の子みたいに遊ぶんだね』と聞いたのがきっかけだった。
『そうよ。私、昔は男の子だったの』と返された時の困惑は今でもよく覚えている。
生まれ変わりだとか、異世界の記憶だとか、普通の人なら頭のおかしい妄想じゃないのかなんて一蹴してしまうのかもしれないけれど当時の僕はほんの子供で疑うことを知らなかった。
それに真偽をどうこうというより、彼女が話してくれた前世の世界のお話に僕はすっかり夢中になってしまったのだった。
馬に引かれずに走る鉄の車、世界の端から端へと一瞬で飛んでいく手紙、山よりも高い石造りの塔が森のように並ぶ街並み、そして夜空の月に降り立った人たちと星の海を征く船……。
どんな御伽噺よりもわくわくして、それでいて具体的な体験まで交えて語られるお話が大好きで、僕は彼女に会うたびに前世の話をせがんだものだった。
「男と結婚するなんて考えられない、って昔からよく言っていたね」
「そりゃあ前世が男だったからな。女の子としての自分にももう馴染んでるけど、結婚して子供まで産めるかどうかと言われたら話は別さ」
「それで小父さんにお説教されてたね」
「うちの親父とそっちの父ちゃんはオレとお前をくっつけたがってたからな……」
「……うん、そうだね」
ちなみに今の僕とマルティナが話しているのは「日本語」という言葉で、これも彼女から教わった。
2人で内緒話をするときに便利だということで時々こうやって使っている。
僕ら以外にこの言葉を使う人は知らないので一概には比較できないのだけど、マルティナの喋る日本語はかなり男性的で……むしろ粗野な印象を受ける。
小さな顔と柔らかい頬、桃色の唇と横顔は女の子のそれなのに日本語で喋る時の表情は僕の叔父様やお爺様によく似ているからだ。
自分がそういう喋りをしている自覚はあるみたいで、僕には丁寧な言葉遣いを教えてくれているようだった。
イメージに合わないから、なんて言って。
「親父がオレの将来的な幸せのこととかを考えてくれているのはわかるんだけどさぁ……。正直なところこっちの価値観は中近世レベルだから貴族の家に生まれた女の幸福の形は良い家に嫁ぐなりして子供を産んで育てるっていうので固定されているんだよなぁ。自己決定権、男女平等、ウーマンリブ……といっても遠いお話だよな……」
「え、えーと?ごめん、ちょっとうまく聞こえなかった」
『……この世界、この時代での女性の幸福は良い殿方と結婚して良い子を産むというのが一般的です。お父様が私の幸せを考えて下さっているのは嬉しいのですが、そういう形の幸せしか考えてくださらないのは窮屈だな、とそうも思っています』
『うん、なるほど……わかった。ありがとう』
『どういたしまして』
こっちの言葉で喋る時のマルティナは反対に丁寧で穏やかな言葉遣いになる。
彼女の教育は基本的に小母さんがやっていたので、自然と淑女らしいものになっていったらしい。
心なしかそうやって喋っている時は表情までも柔らかいような気がする。
言語を幾つか使い分けていると考え方自体も言語ごとに使い分けているような気分になると、そう彼女は言っていた。
……それにしても幸福の形、というのは難しい話だった。
僕はヴォルモンド子爵家の三男として生まれた。
家督は兄様が継ぐとしても、家の名に恥じないように生きることをいつだって心掛けているし、子として親に従うのが当然だと思っている。
でも彼女はそういう家とか親よりも、なによりも自分自身で考えることや決めることをずっと大事にしているようだった。
家や親のことを大事にしていないわけではない。
ただ、それよりも優先度が高いものとして自分自身を置いているだけのこと。
それをいけないことじゃないのかと思うと同時に、強いなぁと思う自分もいる。
「最近は修道院に入ることについても親父からは文句を言われなくなった。諦めたとかじゃなくて花嫁修行になるんなら許すとか、そんな感じみたいだけどな」
「あぁ、修道女になるとマナーとか家事とか、そういうのが身につくんだっけ?」
「本当は、そういうところじゃないんだけどな」
マルティナはそう言って苦笑した。
修道院は自給自足の生活をするので家事能力が身につき、規則正しい生活をするので自然と淑やかさと礼儀が身につく。
そして何より男子禁制の修道院であれば悪い虫がつかない……というわけで貴族の子女などが預けられていざ結婚するというときになると俗世に戻される、ということも多いのだとか。
「勿論マルティナは……その、ずっと修道女として暮らすつもり、なんだよね」
「元からそういうつもりだよ。……どうした、寂しくなったか?」
「えっ、あっ、いやっ!ち、違うよ、そういうわけじゃなくて……」
僕はとっさに彼女の言葉を否定した。
否定したけれど……実際のところどうなんだろう。
ついさっきまで僕は彼女が行ってしまうことに確かに物寂しいと思っていた筈だったのに、なんで今そうじゃないと言ってしまったのだろう。
胸の内に感じているざわざわとした、或いはちくちくとした気分はなんなのだろう?
ただ確かなのは彼女にそういう風に指摘されたのが、なんだかとても気恥ずかしいということだった。
「大丈夫だよ。目当ての修道院はお前ん家の領地の中にあるし、男子禁制って言ってもお客さんとしてならいつでも来てくれていいんだしさ」
「僕は寂しいなんて……」
「子供は大体そう言うもんさ」
「……もう子供じゃないよ。今年で12だ」
「オレは前世と合わせたら40だ。お前くらいの息子がいてもおかしくないよ。子供みたいなものさ」
そう言ってマルティナは僕の頭を撫でる。
昔から彼女は自然とそういう風に僕を撫でるのが常だった。
そういうときの表情はなんだか小父さんに似ていて、彼女からすれば僕のことは本当に子供のように見えているんだろうな、なんて思えて――なぜか胸の奥がしくしくと痛んだ。
なぜだろうか、昔はくすぐったくて心地よかったのに。
「なんだか、マルティナは時々おじさんどころか、おじいさんのようなことを言うね」
「そうか?」
「そうだよ。修道院に入るのだって、なんだか……えーと、リタイアするみたいだ」
「隠居、かな?」
「そう、それだよ」
「――確かにお前の言う通りかもしれないな」
胸が疼くように痛むのに合わせて、僕は少し乱暴な口調でそんなことを言ってしまった。
本当はそんな困らせるようなことを言いたいわけじゃないのに、口と喉が勝手に動いたみたいだった。
こう言うのを皮肉だとか、当て擦りだなんて言うのだろうか。
自分がそんなことを言ってしまっていたたまれない気分になっている横で――彼女は
むしろ納得がいったと言うような神妙な表情を浮かべるのだった。
「オレだって、本当は人生を終わらせたはずの人間だからな」
「あ……そ、そんなつもりじゃなくて……」
僕は慌てて首を振った。
彼女は前世で一度亡くなっている。
そのことを揶揄したりするような気持ちはなかったが――それでもそのことを念頭に置くとしっくり来てしまうのも確かなのだ。
彼女から時折、歳を取った老人のような雰囲気を感じることに。
まるで現役を引退して、今は庭で安楽椅子に座っていることの多い僕のお爺様のように。
「――オレはな、首の骨が折れて死んだんだ」
「え……?」
彼女がそう呟いたのに、僕は思わず困惑してしまった。
マルティナは自分が亡くなった時のことなんて一度も教えてはくれなかった。
小さい頃に怖いもの見たさ(正確には聞きたさ、か)で話をせがんでみたことがあったけれど、それでも本当に怖がらせたくはないからと何も言わなかった。
そう言った彼女が突然その話を始めたことに驚きを隠せない。
僕の視界に映る彼女の横顔はどこか遠いところを見つめていた。
見えない筈の風の流れを目で捉えようとするかのように、虚空を眺めている。
青空と若草の色をした瞳の上に陰が落ちている。
「確か自動車事故だった。跳ね飛ばされた直後に頭が地面に変なぶつかり方をして、首の骨が折れる嫌な音が聞こえた。知ってるか?脊椎が折れると神経が繋がらなくなって、折れたところから下の体の機能が全部停止するんだ。
――何も感じない。何も感じないんだ。本能のレベルで致命的なことが起こったってわかるのに、それでも何も感じないんだ。手も足も動かないし、そこに何があるのか触れてもわからない。肺の呼吸も、心臓の鼓動も、わからない。
ただただ……何もかもが無くなっていく。自分の命が、自分の中にあった温かいものが冷えて、冷めて、止まっていくのを……何もできないまま見送っていくことしかできない。そしてそのまま、やがて自分の目の前も真っ暗になって――そのまま底の無い真っ暗な穴に向かって落ちていく。
これが、死ぬっていうことなんだ」
僕はその独白を黙って聞いていた。
桜色の唇から矢継ぎ早に放たれた言葉は堰を切ったかのよう。
早口のせいで聞き取れないところもあったけれど、それでも僕は恐ろしいと思ってしまった。
語られた『死』の情景を頭の中で思い浮かべて、反芻する。
首から下の全ての感覚が消え失せている。どの指も一本たりとも動かせない。
自分の命が消え失せていくのをただ何もできずに、無力感の中で見ていることしかできない。
それは――それはなんて、なんて恐ろしいことなのだろう。死ぬということはなんて恐ろしいのだろう。
彼女が味わっただろうその恐怖を想像して、僕は陽だまりの中で身震いした。
「そして死ぬとな……それがずっと続くんだ」
「……っ」
「真っ暗い闇の中をずっと、ずっと、ずぅっと、際限なく落ちていくんだ。木の上に登ってて、枝から落っこちちまう時のあの金玉が縮み上がるような浮遊感がずっと続く……。
しかも相変わらず首から下の感覚はない。ただ指一本動かせず、息の一つもできないままに意識だけが……無限に深い真っ暗闇の中を落ちていく……。
それがオレの知っている『死』だ。人間は死ぬと、そうなるんだ。みんな、きっと」
父や母も祖父も祖母も、どんな教師や神父、偉大な哲学者や神学者も、『死』の向こう側を知っている人はいない。
だって人は死んだら生き返れないのだから、誰しも死んだ後のことは想像するしかできないのだ――マルティナ・レクシィというたった1人の例外を除いては。
彼女のそれは耳を塞ぎたくなるような話だった。
人間はいつかみんな死ぬのだ。死にたくないと思ってもいつか死ぬ。死んでしまう。
でもその先にあるのが彼女の語るような、底なしの闇と恐怖だというのなら、いったい僕らはどうすればいいのだろう?
死の先にあるのは一片の救いもない絶望だとしたらどうすればいいのだろう?
やめてくれ、と叫べたらどれだけ楽だったろうか。
こんな話はやめてくれ、という言葉が喉から出掛かって――僕はそれを強い意志で呑み込んだ。
だって、彼女が震えていたから。
マルティナは膝の上で両手を握りしめていた。
白い指がぎゅうっと手のひらに食い込むほど握りしめられてワンピースのスカートに皺を作っている。
その手が見間違えようのないほどに震えていた。
さっき僕の頭を優しく撫でてくれた、紛れもない彼女の手だった。
『だから……お母様に産んでもらえて、本当によかった。私はあの日、文字通りの意味で
「マルティナ……」
『お母様は……辛い思いをなさっていないかしら……。あの寒くて、暗いところで、寂しい思いをしていないかしら……』
震えている彼女の手の甲に、ぽたぽたと透明な雫が落ちる。
それは彼女の頬を伝って落ちてきた涙だった。
はらはらと花が散るように、彼女は涙を流しているのだ。
……マルティナが泣くところを僕は一度も見たことがなかった。
彼女はいつも僕にとって兄のように先に立って歩いてくれて、父のように見守ってくれて、祖父のように色々なことを教えてくれる、そんな子だった。
だから僕が彼女の前で泣くことはあっても、その逆なんて一度だって無かったのだ。
今日、この日までは。
『そんなことない。きっとそんなことないよ、マルティナ』
僕は隣に座る彼女の体をそっと抱き寄せた。
震える手の上に自分の手を添える。サラサラとした銀色の髪を優しく撫でる。
人の慰め方なんて、ましてやマルティナの慰め方なんて知らないけれど僕の体は勝手にそう動いていた。
腕の中に抱いた彼女の体は小さく柔らかかった。
――10歳の、小さな女の子の体だった。
『昨日の晩、小母さんに最期まで付き添ったんだろう?君がずっと一緒にいたんだから大丈夫だよ』
『私……手を握っていたの。お母様が冷たくなるまで、ずっと手を握っていたの。あんな怖いところにお母様が行ってしまうと思うと、私、怖くて、怖くて怖くて怖くて悲しくて!でも手を握ってあげることしかできなくて……!』
『――うん、だからきっと大丈夫だよ。きっと小母さんの手にはずっとマルティナの手の温もりが残ってるよ。僕はそう思う、そう信じる。……そう、祈るよ』
生きている僕らは死んだ人には無力だ。
手を伸ばしても、声をかけても、『死』という真っ暗で深いその断絶の向こうにはきっと何一つとして届かない。
……だから祈る。届かないと知っていても、届けたいと思わずにはいられない思いがあるから。
だから僕も彼女と一緒に祈るのだ。小母さんの魂に、『死』の向こうにほんの一欠片でも救いがあることを。
『ラウル……』
僕の名前を呟いてから、彼女は泣いた。
胸に顔を埋めた彼女が震えながら嗚咽を漏らすのを僕は黙って抱き止めていた。
手を添えた彼女の両手は白く、少し冷たかった。
そこに僕の温度が少しでも伝わればと思わずにはいられなかった。
「……悪いラウル。服汚した……」
「それくらい、いいよ。父様だって許してくれるよ」
しばらくして泣き止んだ彼女はバツが悪そうな顔で肩を縮こませていた。
彼女の言う通り僕のシャツは涙で滲んだ跡ができていたが、このくらいはへっちゃらだ。
「……ありがとさん。お前も良い男になったなぁ」
「そ、そうだよ。もう子供じゃないって言ったろう」
「はははっ、確かにそれはそうだな。……大きくなったもんだ」
そう言いながらマルティナはまた僕の頭を撫でる。
今度はわしわしと、頭を掻き回すように。
さっき撫でられた時のような胸がしくしくするような感じはなかった。
代わりに僕の胸はなんだか温かかった。彼女に認められる自分になれたことが少しだけ誇らしいと、そう感じられた。
「お前の言うように、さ」
「うん」
「オレも祈ってみるよ、お袋のこと。あの世でも寂しくないように……いつかどこかで生まれ変われるように」
――オレがこの世界に生まれて救われたように、と彼女はそう言って笑った。
その祈りが届くはずがなくとも叶って欲しいと僕は思った。
そう思わずにはいられない、優しくて見惚れてしまうような微笑みだった。
『さて……そろそろ行きましょうか、ラウル。お父様達のお話もそろそろ終わりそうだし…ね』
マルティナがベンチから立ち上がりこちらを振り返る。
涙を払うような乾いた優しい風が吹き抜けて、彼女の銀色の髪と黒いワンピースが靡く。
白い雲と青い空を背景にしたその
『……うん、行こうか』
彼女に促されて僕も立ち上がる。
その後ろに付くのではなくわざと少し大股で駆け寄って、その隣に並んでみる。
こうして並ぶとやっぱり僕の方が背が大きくなったんだと思う。
そのことを寂しく思う気持ちもあるけれど、それ以上に胸の奥が熱かった。
「どうかしたか?じっとこっち見て」
「ねぇ、マルティナ。僕たち友達だよね?君が修道院に行っても」
「当たり前だろ。何言ってんだ?」
「うん。それなら良いんだ」
僕はその言葉をぐっと噛み締めた。
彼女は修道女になる。ずっと以前から言っていたように。
そしてきっと小母さんの冥福と――この世界に生まれてきたことの感謝を祈り続けるのだろう。
一度見た『死』の向こう側に届くようにと。
「――僕は、ずっと君の味方だよ」
それなら僕はその祈りを守ろうと思う。
彼女の祈りはきっとそれだけの価値がある、尊くて、美しいものだと思うから。
それが僕の願いだ。それがきっと一人前の男として、僕がやらなくてはいけないことだと信じる。
僕はそう、信じる。
「有難いねぇ、こんなおじさんに」
『でも女の子でもあるだろう?』
『確かに今はそうですけれど』
そうやって言い合いながら、笑い合いながら僕らは青空の下を歩き出した。
それはいつか来る別れ道の前のこと。大人になる僕らはいつか別々の道を選んでいくのだろう。
それでも僕は今日この日のことを決して忘れない。
マルティナ・レクシィ。
この兄のようで、父のようで、叔父のようで、祖父のようで――妹のような、1人の女の子を守ることを誓った日のことを。
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