お嬢様、あなたは今どこにいるのでしょうか。
ある日突然、何も言わずに居なくなって。
お父様と不仲であったというのは聞いています。でもきっと、きっとお父様も許してくれているはずです。
どうか、帰ってきてください。
僕を置いていくなんて、酷すぎます。
帰ってきたら、僕のことをぎゅっと抱きしめてくれるまで許しませんからね。
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僕のご主人、ユズリハ・アルファード様。
元気で、優しくて、美人さんで、何も抜け目がないひと。その性格は良くも悪くも貴族離れしていました。
僕の名前は、リヒテンタール・シュペー。
奴隷として売られて、数字で呼ばれていた僕を買ってくれたのはこのアルファード家でした。僕にシュペーという名前をくれたのも、字も読めない僕に字を教えてくれたのも紛れもなく、主たるユズリハ様でした。
春の日。
いつものように、ご主人様の部屋の戸をコンコンとノックする。中からは眠そうな声がしました。
「はぁーい…」
「ご主人サマ…。」
僕はそっと、戸を開ける。枕を抱きしめ、ベッドの上でだらしなく目を擦るユズリハ様。
「おはようございます。朝8時、ですのでお声がけさせていただきましたっ。…」
ユズリハ様にそう告げると、背伸びをしてカーテンをそっと開けた。今日は生憎の雨。
「……雨、ですね。」
「……雨はつまらないよね。…だって、外に出れないし…それに心まで暗くなっちゃう気がして。…」
心なしか、今日のユズリハ様は元気がありません。
そういえば昨日の夜、ユズリハ様とお姉様が喧嘩しているのを聞いてしまいました。
お姉様…長女のシェリル様は次女であるユズリハ様に、貴族とはなんたるかというのを説いていました。
名家であるアルファード家。……良くも悪くも、ユズリハ様は貴族離れしています。貴族のお嬢様だというのに、舞踏会にはほとんど参加しません。
シェリル様がユズリハ様にいつも言います。
奴隷なんかと仲良くするべきではない、奴隷は使い倒すために雇っていると。
…悲しいけど、それが普通です。
それでもユズリハ様は、僕をまるで弟のように扱ってくれます。だから僕は、少し気が重いような気もします。
僕は怖くて、逃げてしまいました。
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お昼、僕はいつものように長床を拭いていました。
冬の水が冷たい日でも、夏の蒸し暑い日でも、毎日僕は床を拭くことは欠かしません。
……ふと、バケツに足を引っ掛けてしまう。倒れたバケツから溢れた水。床は鏡のように水を張っていました。
「あ、あわわっ!ふふふふ拭かなきゃっ…!」
僕は急いで水を拭き取ります。
ふと、廊下に足音が響きました。
まるで王が歩くよう、ただものではない気迫。
………お父様…カグラ様。
「_____おかえりなさいカグラ様ッ」
僕は水を張った床に手をつき、頭を下げる。…お父様は僕の目の前…拭いた床を通ると、一瞥して溜息をついたのち去ってしまった。
…溜息の理由は、この惨状だろう。…拭かなかったら、カグラ様の足は濡れてしまっていた。
シェリル様と同じく、カグラ様はしっかりと区別される方だ。
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夜ごはんの時間。
いつも、僕とお母様…クラリス様で準備をします。
クラリス様は優しいです。…身寄りのない僕を買ってくれて以降、奴隷として扱われていた僕を人として扱ってくれた、数少ない人。
「ふふふ…シュペー、砂糖を取ってもらえるかしら?」
「砂糖は確か…えっと……これ…ですか?」
徐に、クラリス様は白い粉の入った瓶に指を入れ、ぺろっと舐めました。
「………ふふふ、これは塩ね…♪」
「あぅっ、申し訳ございませんっ。…」
「…さらさらしているのはお塩。…少し玉っぽくなってるのがお砂糖、ね♪」
………そんなこんなで料理ができた。今日のお料理はシチューだ。
「お夕飯にしましょう…♪」
そういうと、各々の部屋から出てきました。
「今日はシチューかしら…?…」
1人目、シェリル様。今日もお仕事に勤しまれていました。
「わぁっ…シチューだぁっ!」
2人目、……イブキ様。3番目にして長男の男の子。11歳で普段は学院に通われている。
「…シチュー………。」
3人目、ユズリハ様。…今日はずっと元気が無い。…足取りも重く見えてしまいます。
「……あれ?お父さんは?」
「…今日もお仕事なの。さ、ご飯にしましょう。」
「そっか。……」
大黒柱であるお父様の欠けた食卓。…でも、クラリス様が場を取り持った。
「お母さまっ,今日学校のテストで100点取りましたぁっ!」
イブキ様が嬉しそうに話す。…彼の通うクラスは学院の中でも優秀らしい。
「ふふっ、さすがイブキね…勉強頑張ってたもの…♪」
「…お母様、今週末の舞踏会に向けて新しいシューズが買いたいのです。どれが似合うか一緒に考えていただけないですか…?」
シェリル様は月に一度、いろんな国の偉い人がくる舞踏会に参加しています。
「いいわよ…一緒に選びましょう…♪」
「………ユズリハ、どうかしたの?やけに静かじゃない。……何か悩み事…?」
「………別に。」
今日のユズリハ様はやはり何かおかしい。…いつもの元気はどこえやら、クラリス様にもそっけない。
「貴女も舞踏会ぐらい来たらどうなの?」
ツンとした口調で、シェリル様が言いました。
「……私は舞踏会は嫌いなの。」
「…まったく、貴族でありながら庶民の生活を好むというのであれば…地位も全て棄ててそこの台所の奴隷とよろしくやってれば…!?」
食卓から外れ、台所で洗い物をしている僕に火の粉がふりかかりました。
「……………うるさい。…」
心なしか、ユズリハ様の声は震えていました。
「も、もうっ、シェリル…ユズリハはああいうの苦手なだけなの。言わないであげなさい。…」
「お母様。…ふんっ。私の足だけは引っ張らないで頂戴。」
……僕の手も、肩も震えていました。まるで怒られた子供のように。…
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夜、僕はユズリハ様の部屋の戸をノックしました。
「……シュペーです。…お話があって…きました。…」
「…シュペーくん?いいよ、おいで…♪」
僕は朝と同じように、ドアをそっと開けてユズリハ様の部屋に入りました。
「………あ、あの、…」
「心配しないで。いつもあんな感じじゃない…♪」
「…それでも、僕は……ユズリハ様が傷つく姿を見たくありません。……僕は…僕は奴隷です。紛れもない事実です。」
………ユズリハ様はそっと僕に微笑みました。
「…奴隷である以前に,貴女は人間よ?」
「う、……たしかに…そうですが……それでも、………たびたび夢に思うことがあります。……もしも僕が貴族階級の子供だったら、って。…きっとこうして…苦しむことも…悲しむことも…。」
ユズリハ様はそっと僕の頭を撫でます。…どこか優しさがありました。
「ふふっ、…全て、この世界が悪いの。…人を資本の差で分けるなど…たかが知れてるわ。…」
「せかい…?……」
「シュペーくん、あなたはお母さんとイブキに付き従いなさい。…そうしている間は、あなたは人として扱われるの。……」
「…僕の,僕の主君はユズリハ様だけですっ!…」
僕は少し声をあげてしまいました。…その後に少し申し訳なくなってしまう。
「…ふふっ。そうね…意地悪してごめんなさい。…は、夜も遅いから寝よっか…♪」
「あ、…はい……ではユズリハ様、……良い夢を。…」
僕はそう告げて、部屋を後にした。……
ユズリハ様とは、これが最後の会話となりました。