メイデンボヤージュ 作:ネビュラプロ就職希望
僕はその足音に反応して、向き直る。そうして、僕の虹彩に足音の主を映した。
色素の薄い、金糸のような髪。これをお団子ヘアのような状態で結い上げられている。“ような”、などとひどく
特筆すべきは髪だけではない。
磁器と見紛う
硝子玉の如き
整った
柔らかさを感じさせる唇。
メイクや服装こそ今めかしい感じだけれど、それはあくまで本来の素材の良さを十二分に活かすための術に見える。
総じて、とても美人だというのが正直な印象だ。
しかし、よくよく見るとその頬は朱に染まり、熱い吐息を荒く吐いていた。
ここだけ切り取ると何だか色っぽい、艶っぽい表現ではあるけれど、どうも様子がおかしい。
「可愛いっ……!」
眼前の彼女は確かにそう言った。
その言の対象が何なのか、もとい誰なのか。
それを理解するのに数秒を要したことで。
反応が遅れた。失敗した。
取りも直さず遅きに失した。
彼女が、僕の元に猪突猛進としてくることに気付かなかったのだ。回避の手段が選択肢から消滅した今、僕にできはことは可能な限り足を踏ん張り、衝撃に備えることだ。
僕の思考は見事神経を介して身体に伝わり、僕をして彼女を受け止める肉の壁へと変化せしめた。
それからコンマ数秒後、予想通りの衝撃が訪れる。これには対応できた。しかし問題はその後だ。彼女はその両腕を僕の背中へと回し、その身体を寄せてきた。つまりは抱擁である。
どうやら肢体はほっそりと、それでいて女性らしい柔らかさを保っているようだ。
芳しい匂いがしては、僕の肺を満たす。僕は香水に関して明るくないのだけれど、どこか有名なブランドのものでも使っているのだろうか。
────って呑気に描写している場合ではない。
僕は今年16歳となる高校一年生だけれど、残念ながら、今日に至るまで異性と甘い関係を築いたことなど一度もない。女難という概念がこの世に存在することが信じられないけれど、もし存在するのであればとことん生き難くなってしまえ、と
だから、いきなり美人から熱い抱擁を受ければ、当然
いや、少し違う。驚いてこそいるけれど、
すると、彼女は口を開く。
「乙和〜。何それ? 普段と一風違って超可愛いんですけど。ギャップ萌えってやつですか。マジで可愛すぎてキレそう。いや、待って。逆に落ち着いてきた。あと一世紀こうしてたら完全に戻るからちょっと待って」
状況を整理してみよう。僕は今現在、乙和によって女装させられている。背丈こそ男女差はあれど、自分で見ても普段の乙和とそっくりだ。ならば、第三者からの遠目では見分けがつかなかったのも無理はないのかもしれない。いや、でもこんな突然に抱擁されるなど考えてもいなかったし。
そこに助け舟が訪れた。
「ハルちゃん、お待たせ───ってノア!?」
舟は舟でも沈没船だったけれど。
ノア。その名前には聞き覚えがある。というか聞いたばかりの名前だ。
今、僕を両腕の中に逼塞している彼女が、《Photon Maiden》の福島ノアさんということか。
福島さんはやってきた乙和を一瞥すと、ただでさえパッチリとした目を見開いた。そして乙和と僕を交互に見比べて、微かに声を漏らした。
「え? 乙和が……二人?」
「……どうも……」
いくら女装をしていようが、声までは変えられない。無事に変声期を終えた、Y染色体特有の低い声が辺りを反響する。
刹那、福島さんは耳の端まで林檎の如く真っ赤になった。
◯
「本当にごめんなさい」
「いえいえ、別に気にしてはいませんから」
それから福島さんは、幾度となく深々と頭を下げてきた。その行為には謝意以外は含まれていないのだろけれど、公衆の面前で何度も婦女子から謝られているというこの状況は、あまり居心地が良いものではない。
しかも謝罪の対象が女装した男だと分かったときには、愈々僕は二度とお天道様の下を歩くことは叶うまい。
「ノア! だからいつも落ち着きなって言ってるのに」
「うぅ……。今回ばかりは返す言葉もない」
そんな僕の思いを余所に、乙和は福島さんに追撃を加えていた。福島さんはしゅんと肩を窄める。しかしながら、彼女の方が乙和よりも割合身長が高い、というか福島さんはかなりスタイルが良い女性なので、実の姉には非常に申し訳ないけれど、背伸びしたがりな子供感がする。
とは言え、彼女が立つ瀬が無い思いでいるのは事実だろう。瀬を作るなどと天地創造的なことはできないけれど、助け舟を出すことがこの場で僕に与えられた役割のはずだ。
「本当に気にしていませんから。むしろ貴女の経歴に瑕疵が付かないか、僕はそっちを気になりますよ」
「いやいや、もう何とお詫びしたら……。ってあれ? 私まだ名乗っていないような」
「ああ。さっき、豈に図らんや、貴女のことを乙和から聞いたんですよ」
「そうだったんですか!? すごい偶然ですね」
福島さんは鷹揚に微笑むと、「それにしても」と更に続ける。
「貴男が乙和の弟の……」
「はい。名乗り遅れました。花巻
「どうもご丁寧に」
僕と福島さんとの間で繰り広げられる社交辞令。蚊帳の外に置かれていた乙和が、そこに容喙する。
「ちょっとハルちゃん! 何で私がノアにお世話されている前提なわけ?」
「だって、どう考えても福島さんの方がしっかりしていそうだし」
「むぅ。はっきり言って良いことと悪いことくらいあるんだよ!?」
いや、福島さんの方がしっかりしていることは認めるのか。僕が胸裡でツッコミを入れていると、乙和は続けて言った。
「でも、ノアの琴線に触れるなんて、やっぱり私の目に狂いはなかったわけだね」
「福島さんの琴線に触れると、何かあるのか?」
「ノアはね、可愛いもの絡みになるとああなるんだよ」
やれやれ、とわざとらしく肩を
ここで僕はようやく、乙和による福島ノアの紹介を思い出す。一言で言えば変人。さもありなん、というほかない。
可愛いものを愛でたいという気持ちは理解できよう。しかしながら、知人とはいえ(今回は知人じゃなかったけれど)、
外見が“清楚で知的なお嬢さん”という印象を見受けるだけにギャップが凄まじい。
「いやぁ。自信に繋がりますなぁ」腕を組み、頷きながら乙和。
「いや、実害が出た以上はもう女装はしないぞ」
「えーっ。折角第三者から見ても似合うって証明されたところなのに」
「だからこそだよ。一昔前のアニメなら、ここで『トホホ〜。もう女装はこりごりだよ〜』って画面が丸く、黒く閉じてオチがついていた頃だろうよ」
「うっわ、古っ。ジジ臭いのは趣味の読書だけにしときなよ」
「読書はジジ臭くねぇ!」
とんでもない偏見だ。全国の読書愛好家に謝れよ。
そう言いかけると、クスクスと笑い声が耳朶を打った。見ると、福島さんが
「あぁ。ごめんなさい。なんだか二人のやりとりが可笑しくて」
その言を受けて、僕と乙和は顔を見合わせる。
ノンバーバルコミュニケーション。
姉弟間の暗号。
一時休戦の協定が水面下で結ばれた瞬間である。
乙和は知己の前で、僕は初対面の人の前で、これ以上醜態を晒すわけにはいかない。
まあ、晒したからこそ
「それよりも、悠君は読書が趣味なんですか?」硝子玉の瞳を僕の方に向けて福島さん。
「まあ、一応。そんなに広く読んでいるわけじゃないんですけれど」
「へぇ。好きな作家さんは?」
「アイ先生です」
「え、本当に!? 私もアイ先生の作品大好きなの」
「じゃあ、福島さんもアイ先生の最新作のサイン本を求めてここに?」
「そう! アイ先生って滅多にサイン本なんて出さないから、居ても立ってもいられなくって」
「その気持ち分かります。『眠気眼』の頃に回帰しているって御本人も言っていましたから、相当熱の入った作品なんだって期待が高まりますよね」
「そうそう。アイ先生は刊行する度に文章が洗練されていくって感じだったけれど、決して『眠気眼』が拙かったってわけじゃないわよね。むしろ少しぎちこなさげな文章が、主人公の複雑な心情を描いていたって評価されてたんだし。っていうか福島さんもってことは、悠君もサイン本目当てに来たの?」
「そうなんですよ。まあ、そうでなくてもアイ先生の最新刊は書籍で買う予定だったんですけれど。やっぱり電子書籍には出せない、紙の重みっていうんですかね」
「分かってるじゃない。手に取ってみたときの本の実際の重みや厚さ。ページをめくるときの感覚。あれは電子書籍じゃ出せないわ」
頚椎がおかしくなるのではないかと思うくらいに首を縦に振りながら、福島さんは言った。見れば、双眸は爛々と輝き、白肌の頬には朱が滲んでいる。何故そんなはっきりと分かるかと言えば、僕と福島さんは会話の途中でジリジリと距離を詰めていたからであった。
いやはや。我ながらついつい饒舌になってしまった。僕の周りには、残念ながらアイ先生について語り尽くせる仲間がいない。年々減少傾向が嘆かれる読者人口。その中で人口に
福島さんと僕によるアイ先生談義に強制的に幕を下ろしたのは、乙和の「ちょっと、お二人さん!」という声だった。
「何だよ。虫の居所が悪そうな顔して」
「本の虫同士共鳴しあうのは分かるけれど、いいの?」
いいの? と至極ざっくりとした言だ。言葉足らずも甚だしい。しかしながら、僕はその意味を、行間を一瞬で理解する。
「そうか! こうしてる場合じゃない。早く本屋さんに行かなきゃ」
「あら、いけない。私ったら、また会話に熱が入りすぎて……」
僕と福島さんは顔を見合わせ、誤魔化すように照れ笑いをした。
◯
かくて本屋さんを訪れた僕、もとい僕ら。思わぬところでシンパを見つけた僕は、マリンブルーの気分は何処へやらと言わんばかりに軽やかな足取りであった。
僕は読書をすることは勿論好きだけれど、本屋さんにて種々の本が陳列された姿を見ることも好きだ。特に目当ての本でなかったとしても、ついつい手に取ってみたくなってしまう。
ふと目に入ったときのフィーリング。
タイトルや表紙のイラストから連想されるストーリー。
何故だが、本屋さんに這入るだけでその本が持つ魅力が十二分に発揮されて、僕の購買意欲を刺激して止まないのだ。僕はディスプレイの理論とやらには全く明るくないのだけれど、書店員さんたちが長年収集したデータ、もしくは勘によるディスプレイの研究の成果が、そうさせているだと密かに推測している。
僕は、とある伝手を駆使してアルバイトをしているので、同世代の子たちに比べれば割合金銭的な余裕はある方だけれど、本屋さんを訪れる度にこんな調子なので財布の中身は常時心許ない。
おっと、いけない。いきなり本屋さん、並びに書店員さんたちの巧妙なる罠にかかり、話の本筋から逸れてしまうところであった。
先程乙和に咎められたばかりであるというのに。これでは人のことを言えなくなってしまう。というよりもイジりづらくなってしまう。
繰り返すようだが、アイ先生は刊行が発表される度にファンを欣喜雀躍させる人気作家である。それもあってか、大型ショッピングモールのテナントとして入っている本屋だからそれなりの規模の店舗ではあったのだけれど、今回僕と福島さんが求める『見えない糸』は、特に探すのには苦労しなかった。
堂々とワゴンが設置されており、そこには、『瞬きを許さぬ作家、アイ先生のサイン本はこちら』と手作りのポップが立てられていた。
しかしながら、僕は再びマリンブルーの気分になった。なぜなら、そのワゴンには件の本が一冊しか置かれていなかったからである。