メイデンボヤージュ 作:ネビュラプロ就職希望
現状、アイ先生のサイン本を買い求めようとしているのは、僕と福島さん。しかしながら、ワゴンの中にあるのは残り一冊。
飽和という概念を知らない小学生や幼児に問うてみても、一人余るという回答が返ってくることは請け合いだ。
「どうぞ、福島さん」僕は本に掌を向けながら言った。
「いえ、そんな! 悠くんこそどうぞ。もとはと言えば、私が変なことに巻き込んだんですから」福島さんも、掌を本に向けて返した。
「いえいえ、そんなことを言いだせば、僕の方こそ紛らわしい格好をしていたことに原因があるんですから」
「いえいえ。でも後輩に気を使わせるなんて何だか悪いですし」
以下、同様のやり取りが数十回にわたって行われた。
もしも、遠慮のラリーを競う世界大会があるのであれば、トップに食い込むほどの記録が予想される。そんな大会は絶対にないだろうけれど。
日本人特有の譲り合いの精神。
本来ならば美しい共同体意識なんだろうけれど、この場においては不毛な結果しかもたらさない。
そんな堂々巡りの戯劇を見かねたのか、乙和はすっとワゴンの中の本に手を伸ばし、
「二人とも、早く取らないとこれも売れちゃうよ」と言った。でも困ったね、と口元に指を当てた乙和は更に続ける。
矢継ぎ早に僕は切り出す。
「この際、僕は読むことができればそれでいいですから。ここで買わなくても、今のご時世電子書籍もありますし」
「でも、ハルちゃんって電子書籍否定派じゃなかったっけ?」
「紙の方には電子にはない味があるってだけで否定してるわけじゃないぞ」
「でも、やっぱり悪いですよ」
福島さんも一歩も退かない。いや、退いているんだけれど。
互いに遠慮しあって、談論風発して一向に結論が出ない。すると乙和が口を開く。
「じゃあさ。どっちが読み終えたら、もう一方に貸せばいいじゃん」
そう至言めいて。
「これならノアもハルちゃんもアイ先生とやらのサインを生で拝めるし、最高の解決策じゃない?」
胸を張り、薄く笑う乙和。典型的な、漫画に描かれたようなドヤ顔である。
「でも、それじゃあ結局どちらかが永久的に持っていくことになるだろう。解決案ってより弥縫策じゃないのか?」
「そこは……何からの微調整を加えてもらえれば」
先程までのドヤ顔は何処へやら。痛いところを突かれた乙和は遠い目をする。相も変わらず忙しい表情筋である。
「微調整ね……」福島さんはそう絞り出すように呟いた後、
「じゃあ。こうしましょう。この本は二人でお金を出し合って買いましょう。私は少し貸してもらえばそれでいいから、その後は悠君が貰っちゃって……」
「いやいや。ですから、それじゃあ申し訳ないんですって」
「話は最後まで聞かなきゃダメよ、悠君。そこでね。その代わりと言っちゃ何だけれど、貴男には、私の買い物に付き合って貰えない? それでおあいこでしょう」
僕は、福島さんのその提案を
今回の僕と福島さんの不毛な譲り合いの戦いは、お互いがお互いに「自分だけが貰ってばかりでは申し訳ない」という気持ちが惹起させているものだ。
乙和によって持ち出された解決策も、その「申し訳なさ」を抜本的には取り除けない。
しかしながら、僕はサイン本の半永久的な所有権を貰うことで、福島さんの買い物に付き合うことで、取りも直さず、福島さんのささやかな要求を聞き入れることで、その「申し訳なさ」を中和しようということか。
「えーっと。福島さんは良いんですか? こんな男、もとい女装男に買い物を同席させて」隔意を無くすべく僕は質問する。
「良いの。良いの。年下の男子と買い物なんて、滅多にないから」
どうやら、福島さんには“女装した友人の弟と買い物をする”というには抵抗はないようである。まあ、そんな奇天烈な状況こそ滅多にないだろうけれど。
言葉の揚げ足取りのようだけれど、年下の男子と買い物なんて滅多にない、ということは同年齢やそれ年上の男とは頻繁に連れ歩いているのだろうか。
福島さんはとても見目麗しい外見をしているから、恋人の一人や二人は居そうだと勝手に勘繰ってしまう。
本当に戯言だ。
「分かりました。それで手を打ちましょう。でも、やっぱりサイン本を貰っちゃっうわけですから、僕が多めにお金を出しますね」
「いや。我儘を聞いて貰うんだから、むしろ私の方が」
「いやいや」
「いやいやいや」
「もう! また始まった!!」乙和の怒号が店内を貫き、書店員さん及び他のお客さんからの冷ややかな目線に、追い出されるされるように店を後にした僕らなのだった。
◯
結局、代金はきっちり折半という形で落ち着いた。僕は福島さんに向き直って問う。
「で、お買い物って何に付き合えばいいんですか?」
「ああ。特に欲しいものがあるわけじゃないんだけれど。強いて言うなら“可愛いもの探し”かな?」
細くてしなやかな指を弄びながら福島さん。
「ほら。可愛いものって見るだけで見てるだけで癒やされる気がしません?」
問われて僕は思い出す。
福島さんとの邂逅を、あのファーストインパクトを。ここで言うインパクトとは、心理的な意味にも物理的な意味にも掛かっているところがミソだ。
乙和からの解説もあったとおり、彼女は可愛いものに対して並々ならぬ拘りがあるようだ。しかしながら、姉のいる身から言わせてもらうと、女の子というのは得てして可愛いものが好きだろう。
乙和は、推しのアイドルの話を僕に熱く語ってくるときがあるのだけれど、僕はそれを話半分に、というか九割方聞き流している。しかし、乙和はそれを特に気にする様子はない。要は、特に共感を得られずとも、自分の好きなものについて語れる。その行為自体に意味があるのではないだろうか。
乙和と福島さんを同列に扱ってよいかは多少の疑問を残すとして、可愛いものについて他人に話したいという欲求は、根本的には同じなのではないだろうか。
僕と乙和を見間違えたり、自分の好きなものの話になると熱が入りやすくなるなど、所謂天然な気があるけれど、福島さんは、基本知性的で鷹揚な女性だ。
特に変なことが起こることはないだろう。
「分かりました。そんなことでいいなら、この不肖花巻悠、お供しましょう」
僕は努めて颯爽とした笑顔で返す。
そんな僕の言を受けて、
「そっか。それじゃあ二人とも、楽しんで来てね」そう早口に乙和。
見れば、何故か顔面蒼白である。
僕は、そんな乙和を肩に手を置いて引き止め、耳打ちするような小声で切り出す。
「おいおい。弟と知人だけを置いてけぼりにするなんて嘘だろ。気まずいなんて域じゃねぇぞ」
「いや……その……さっきも珍事がありましたとおりノアは……」
と、乙和が言い淀んでいるうちに、福島さんが口を開く。
「本当!? 嬉しい。最近、なぜだが私の周りの人は買い物に付き合ってくれないのよ」
福島さんの形の良い眉が倒豎していく。それに釣られるように、僕は小首を傾げる。
福島さんの買い物に付き合いたがらない?
「まあ。ハルちゃんだけ犠牲にするわけにはいかないから、一応私も行くよ。一度見れば分かると思うし」
今度は犠牲ときた。不思議は深まるばかりである。
◯
「ああ! 可愛い!
「可愛いがすぎるんですけれど。
「待って。待って。いや、やっぱ止まらないで。ドン・ストップ・可愛い!
「こっちのブラウスもフレアスカートも超可愛い! 可愛いに可愛いを掛け合わせたら、その積は超絶可愛いと判明してしまった。今この瞬間、福島ノアの名は21世紀のピタゴラスとして数学の教科書に掲載され、後世に相伝えられてゆくことが確定してしまった。
「くぅ。自分が末恐ろしい。
「いや、何より恐ろしいのは、こんな可愛いデザインを考えついてしまう発明者がこの世に存在すること。
「まさしく、可愛いの母と言うほかない。
「おお。慈悲深き母なる女神よ。どうか迷える子羊を導き給え。可愛いを恵み給え。
「おっと。私としたことが、取り乱してしまった。それで? 可愛いの前では全てが無力だという話からだったっけ?
「それ、誰が着るのかって? もう。冗談はよしてよ悠君。貴男に決まっているじゃない?
「え? 聞いていないって?
「あのね。悠君。真剣に聞いてほしい。
「遍くこの世の至るところに可愛いは存在する。でもね、そんな可愛いは氷山の一角に過ぎないの。咲くことも叶わず、見られることもなく埋もれてしまう可愛いが、この世にはたくさんあるの。
「そんな惨憺たる現状を打破するのは、韜晦してしまった可愛いを舞台の上に引き上げることができるのは、───
「他でもない。可愛いなのよ。
「可愛いが、他の可愛いを引き出すの。稀に、可愛いは絶対的だなんて論文や報告が挙がるけれど、私はそうは思わない。
「可愛いは相対的なの。
「さあ! 悠君! この可愛い服を着て、可愛くなっちゃいなさい! 貴男の中に眠れる可愛いを覚醒させなさい!
「ほら、乙和からもお墨付きが出たわ。もう逃げ場はないわよ。試着しちゃいなさい。
「……。
「こちら、現場の福島です。現在関東エリアに接近している可愛い13号ですが、最高瞬間風速を更新し続け、非常に強い勢力を保っている状態です。外出は極力控え、頑丈な建物の中で可愛いを摂取するようにしてください。
「ああっと。ここでたった今入ってきたニュースです。政府は先程の会議の結果、全世帯に対して原稿用紙1枚分の可愛いを給付する意向を決定したとのことです。
「それでは、只今より公共の電波を通して、可愛いをご提供致します。
「可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い」
◯
「ふぅ。満足した」
そりゃ満足でしょうよ。僕は胸裡でそうツッコミをいれた。
福島ノアさん。
可愛いものに目がない。
しかしながら、周囲から刺さりまくる好奇の目は、それこそ目を覆いたくなるようなものであった。
乙和をはじめ、福島さんの周囲の人が彼女の買い物に付き合うことを避けていた理由は分かった。しかし、
「ハルちゃん災難だったね〜」
明らかにそれを知っていたのに、教えてくれなかった人が横から言ってきた。至極牧歌的な声色で。
「いや、乙和も途中から悪ノリしてたじゃねぇか!」
「私も、最初はやっぱり恥ずかしいって思ってたけれど、ハルちゃんのお洋服選びをするなら、協力しようかなと」
呉越同舟って奴? と乙和は戯けて言う。
「なんか誤算があったとは言え、目的はもう済んだな」
僕は嘆息して言葉を紡ぐ。刹那、僕の袖がぐいっと引っ張られた。
引かれた方を見遣ると、乙和は何故かとびっきりの笑顔を作り言った。
「ちょっと、ハルちゃん! クレープの件、忘れてないよね?」
忘れていたか、忘れてなかったかと言えば、はっきり言えば前者である。僕の海馬は、現状福島さんのインパクトにのみ占拠されている。クレープが挟まる余地など無い。
「クレープ?」と僕が答える前に福島さん。
「乙和、この間クレープ食べすぎたのが衣舞紀にバレて大目玉食らってなかったっけ?」
「うぐっ。もうっ。ノア〜」図星を突かれて一瞬仰け反る乙和。
「あ〜あ。バレても私は知りませんよ〜」
「うぅ。ノアの意地悪っ!」
なけなしの語彙で応射した後、乙和は僕の方に向き直り、
「ねぇ、ハルちゃんからも何か言ってよ! 『お姉ちゃんがクレープを好きなんじゃなくて、クレープがお姉ちゃんを好きなんです』とか、『うちのお姉ちゃんはクレープを定期的に摂取しないと死んじゃう病気なんです』とか」
何故にそんなバレバレな嘘を吐かねばならんのだ。仮に言ったとして、僕に泥棒癖ができたらどうしてくれるのだ。
なんて言ったら暫くは愚図られるだろう。そうでなくとも、姉に対しては最終的に追従してしまう僕である。
「まあ、福島さん。僕からも折り入って頼みます。今回だけは、目を瞑ってもらえないでしょうか?」
「なんか、二人して来られると居心地が悪いわね」
福島さんは少し口元を引つらせて、
「乙和にも買い物に付き合わせちゃったし、好きにしたらいいんじゃない?」
「ほんと!? やったぁ!!」
まるで重力を無視するかのような跳躍をしながら喜ぶ乙和。実に単純である。クレープくらい無手勝流に食べればよいのにと思うけれど、素直に周囲に許可を求めてくるあたり、それが乙和の性分なのかもしれない。
思ったけれど、可愛いものを相手にしていないときの福島さん、つまりは平時の福島さんは、乙和は軽くあしらっている。別に身内的に嫌というわけではないし、むしろ乙和の扱い方をよく心得ている感じだ。傍から見ていると、姉妹のようにも見える。
「時に福島さん」僕は耳打ちするように尋ねる。
「喜んでいる乙和は、可愛くはないんですか?」
「
成程。さもありなん。