メイデンボヤージュ 作:ネビュラプロ就職希望
かくてクレープ屋さんの前に戻ってきた。
芳しい匂いが鼻腔を刺激する。
生地が焼ける匂い。
クリームの甘い匂い。
フルーツの瑞々しい匂い。
僕は、乙和みたいに熱狂的にクレープが好きというわけではないのだけれど、こうして良い匂いに包まれると、久々に食べてみるのも悪くないという気分になる。
「ねぇハルちゃん! 何食べる? 何食べる?」
ショーケースの中の食品サンプルに密着するように近づき、双眸を輝かせなている乙和である。
「落ち着けよ、乙和」フォトンのファンが見てたら幻滅されるかもしれないぞ、と彼女を宥めて、僕もサンプルを見遣る。
「そうだな。僕はこの苺が入ってるやつかな?」
とても安直な回答である。
「おお! お目が高い。苺のクレープはシンプルだけれどその分お店の個性が出る。安直に見えて相手の出方を窺えるし、そのまま流れも持っていける珠玉の一手だね」
よく理解できなかったけれど、クレープに一家言ある乙和からすれば、この選択は悪手ではなかったようだ。
「じゃあ、私はこっちのバナナアンドチョコレートソースを頼もうかな?」
「ああ。二人でシェアするんだっけ?」
それも忘れかけていた。
そうだ。忘れかけていたと言えば、福島さんは何を食べるのだろう。
僕は後方の福島さんに視線を向けて、
「福島さんは、何か食べないんですか?」
と問うた。
「いえ、お恥ずかしいながら、今月は可愛いものを買いすぎた所為で、糊口を凌がなくてはならないので……」
「ああ……」
無情なり。手元不如意の悲しさは僕も十分理解できる。というより僕も、ともすれば調子に乗って気に入ったものを衝動買いしがちだ。
しかし、今日会ったばかりの人とはいえ、一人だけ蚊帳の外に置いて食べるのはなんだか忍びない。
「もし宜しければ、奢りましょうか?」
「おっ。ハルちゃん太っ腹〜。じゃあ私の分も……」
「乙和は普段僕が買ってきたものを勝手に食べてるじゃんか」
「むぅ。いけず」ハリセンボンよろしく膨れる乙和。
それを余所目に福島さんは胸の前で手を振りながら言った。
「本当に大丈夫だから。悪いわよ」
「いえいえ。本の代金を折半したんで、余裕がありますから」
「じゃあ、せめて悠君が最初に読んで」
「分かりました。それで手を打ちましょう」
僕は莞爾と笑って言うと、福島さんは「ありがとう」と鷹揚に言って、ショーケースを覗きこむ。
唇の隙間から小さく、じゃあと繋げる。
「このキャラメルソースを」
店員さんに注文すると、三者の頼んだ品物はすぐに手渡された。
「やったぁ。クレープだぁ」
断食を終えて久方振りに固形物を食べる修行僧の如く、目を爛々と輝かせて一口目をかぶりつく乙和。
「んん〜。ほひひ〜」
最早“おいしい”の一文字も発することが叶っていないけれど、本当に幸せそうに頬張るなぁ、というのが素直な感想だ。
ふと見ると、クレープ屋の店員さんの目元で光の粒が煌めいた。まあ、ここまで喜んでくれたなら、クレープ屋冥利に尽きるのだろう。
僕も一口。
しっとりとした生地と、滑らかなクリームの食感が見事に同居している。
もう一口。
このクレープの白眉である苺がお出ましだ。するとどうだろう。苺が持つ爽やかな甘さだけが味蕾に作用するのである。断じてクリームの味が消えたわけではない。むしろ、クリームは苺を引き出すために隠然としているのだ。そうしてフレッシュに包まれた口腔は、また滑らかなクリームを求めるのである。
甘い。味覚的な表現はたったその二文字だろう。しかしながら、クリームと苺、まったく別の甘さを持つ二つが、交互に主張を繰り返す。姿形は違えど、素晴らしい隣人愛で支え合っている。
総じて、久々に食べるとおいしい、といった具合である。
「ねぇねぇ、ハルちゃん。そろそろ交換しようよ」
「それはいいけれど、乙和。口の端にクリームが付いているぞ」
本当にファンに幻滅されても知らないぞ、と僕はハンカチを取り出しそれを拭う。
「えへへ。さんくす」
そう無邪気な笑みで返す乙和。
僕の憂いも気に留めず、彼女は交換したクレープに舌鼓を打つ。
僕は呆れた表情を作りこそすれど、それ以上口出しすることはしない。甘いものを食べて、上機嫌になっていたのだろう。
すると、横からクスクスと笑い声が聞こえた。
いつか聞いたような、というか数時間前にも聞いた笑い声。
福島さんのものである。
彼女も、甘いものを食べたことで気分が上向きになったのだろうか。
「ああ。ごめんなさい。本当に仲の良い姉弟に見えたものだから」
ふむ。改めて確認すると、僕は眼前にいる無類のクレープ好きによって女装させられた状態である。だから、傍から見れば姉弟ではなく姉妹に見えるだろう。挙措や身長的には僕が姉役で。
しかし、福島さんが言いたいのはそうではないのだろう。休日に一緒に出掛け、面倒そうな顔を作りながらも互いの用事に付き合う。その状況に牧歌的な姉弟仲を感じ取ったのだろう。それが至極平和に思えて、彼女の頬を緩めたのだろう。
もし、そうなのだとしたら。
もし、僕たちが仲の良い姉弟に見えるのだとしたら。
もし、お姉ちゃんと弟という構図に、視覚的ではないとはいえ見えるのだとしたら。
────僕は、とても複雑な思いである。
手元のクレープを一口食べる。
間接キス。
そんな甘い言葉が浮かぶ行為ではあるけれど、僕の口内は、脳髄は、胸裡は。
チョコレートの中に潜む、仄かな苦さに占められていた。
◯
「遅れてすいません」
ウェイターさんに案内された僕は、目的の人物を発見するやいなや口を開いた。
「いいえ。私も今来たところだから気にしないで」
サイドに残した髪の房を左右に揺らして答える女性。福島ノアさんである。
僕から呼び出しておいて、待ち合わせに遅れるなんてとんだ失態だ。
席に着く前にウェイターさんに、「ホットコーヒーで」と注文するあたり、余裕の無さが窺える。
「お先でした、ってこういう時に言うんですかね?」
言いながら、僕は鞄から本を取り出し、福島さんにさしだす。タイトルには『見えない糸』とある。
「直接じゃなくても、乙和に渡してくれれば良かったのに」受け取りながら福島さん。
「いえいえ、先に読ませて貰ったんですから、直接お渡しするのが礼儀だと思いまして」
「律儀なのね」
僅かに目尻を下げた福島さんは、揶揄うような調子で続けた。
「そういえば、今日は女装はしていないの?」
「あの時は乙和に無理矢理着させられていただけですから」
「え〜。折角可愛いかったのに」
福島さんは、頬杖をつきながら、露骨に残念そうな声を出す。面と向かって可愛いだなんて言われたこともあってか、不思議と全身の血潮に熱を帯びる。
「いやあ。何だか暑いですね」
話題を切り替えようという意図もあって、上着を脱ぎながらそう切り出す。
「そうかしら」
小首を傾げる福島さんに、「ええ。ちょっと暖房が効きすぎですね」と返す。話題の切り替えには成功だ。
一安心と、テーブルのお冷を手に取り、喉を潤す。
刹那、福島さんは「あっ」と呟いて、
「それ、私が口をつけたお冷なんだけれど」
そうだ。よく考えてみれば、僕は先程来店したばかりなのだからお冷も用意されていないはずだ。
「え、えーっと。すいません」
動揺する僕を見て、彼女は鷹揚に手で口元を隠しながら言った。
「うふふ。女装していなくても可愛いのね? 悠君」
細い指を口元から退けると、そこには妖艶な笑み。
「冗談はよして下さい」
堪らず僕はそっぽを向いた。
「あら? 照れてるの? やっぱり可愛い」
どうやら彼女も楽しくなってきたようで、僕の顔を覗き込みながら言ってきた。
目のやり場を無くした僕は、テーブルに視線を落とす。
そこには、瞬きを許さぬ作家。
百目鬼仁美ことアイ先生の最新作。
『見えない糸』。
感想を言えば、所謂恋愛小説であった。但し、心情描写が生々しすぎるのか、恋愛経験のない僕には、理解の及ばないところがあった。
福島さんは、この作品に共感するのだろうか。
そんなことを思いながら、コーヒーを待つ。
書き溜めが尽きました。姫神P助けて……