「……ん」
薄暗い灯りが意識が覚醒したばかりのぼんやりとした視界に入る。眠りから目覚めた。
頭を動かさず、辺りを見回す。頭上には茶色が見えた。天井じゃない。おそらく木の板だろう。……すぐに近くにあった梯子の存在に気付き、これが二段ベッドだとわかる。見慣れない景色が広がっている。
段々と思考がクリアになり、ここが自分の家ではないと気づく。じゃあ、ここはどこだ。
仄かな灯りの近くに誰かがいる。椅子に腰をかけて机に向かっている。このベッドからは背中しか見えない。顔は見えなくてもその誰かが誰なのか、すぐわかった。
彼女も俺が目覚めたことに気付いて身体を捻って顔をこちらに向ける。オレンジブラウンの髪が揺れる。
「あ、目が覚めたんだ~?」
聞き慣れたゆっくりとした、眠たげな声。近江彼方さんが微笑んで俺に囁きかけてきた。
「……ああ、おはよ」
「おはよ~……まだ朝じゃないけどね」
意外な光景だ。どちらかといえば普段は俺が彼女を起こす方だ。立場が逆転している。
部屋にかけられた時計をちらりと見る。彼女の言う通り、朝じゃない。それどころかまだまだ夜だ。時刻は日付変わって一時間近く経っていた。彼女は今日も遅くまで勉強していたのだろう。
「ぐっすりだったねぇ」
「……俺寝ちゃったのか?」
「そうだよ~」
段々と俺は寝てしまう前のことを思い出す。今日も両親がいなくて夕飯が弁当なんです、というのを彼方さんに話したら近江家の夕飯にご招待されたんだ。彼方さんと遥ちゃんと三人で食事をして、その後、近江家でゆっくりして……ああ、多分その後寝ちゃったんだ。意識があやふやになっていたのをなんとなく覚えている。
俺が最後に時計を見たときの時刻が八時頃だったから、五時間近く寝てたことになる。俺は彼方さんの言う通り、ぐっすり寝ていたのである。
「あれ? 俺なんでベッドで寝てるんだ……?」
俺はゆっくりと上半身を起こしながら彼方さんに尋ねた。
俺にベッドに潜った記憶はない。なんなら俺がベッドを借りた覚えもない。なんで俺はベッドに? というか今俺が寝ているベッドは誰のだ? なんかいい匂いするし。
「それはだね……遥ちゃんと一緒にベッドまで運んだからだよ」
「……それは……すみませんでした」
「女の子二人で運ぶのはほんと大変だったよ~。ちょっと引きずっちゃったけどね」
彼方さんは申し訳なさそうにする。いや本当に男を女の子二人で運ぶのは大変だろう。引きずっちゃうわ。ちょっとじゃなくてがっつり引きずっちゃうわ。すぐ想像できる。むしろ俺の方が申し訳なさでいっぱいになった。
「ほんとはね、彼方ちゃん一人で運ぼうと思ったんだけど……」
うんそれは流石に無理だろう。遥ちゃんにも悪いことをさせてしまった。今は寝ているだろうし、朝になったらお礼と謝罪しよう。
「……ちなみにこのベッドは誰の?」
「彼方ちゃんのだよ~」
「!?」
このベッド、彼方さんのなのか。思わず驚いてしまう。確かにいい匂いがした。ずっと嗅いでいたいと思ってしまうぐらいの。
「ごめんっ、すぐ起きるっ」
俺はずっとこのままベッドにいたいという誘惑を断ち切り、すぐに起きてベッドから退こうとした。本音ではこのままいたいがこのままいれば変な気持ちになりそうだった。具体的には下心的な。上には遥ちゃんがいるだろうし、それは不味い。いや遥ちゃんがいなくてもそれは駄目なんだけど。
「ダメだよ~。君はそのままベッドにいてね」
「……え?」
続けて彼方さんは口を開く。俺の考える時間はなかった。
「彼方ちゃんも一緒に寝るから~」
「…………はい?」
なんだろう、彼方さんの言っていることが信じられない。一緒に寝る。その意味を咀嚼する。俺と、彼方さんが、一緒のベッドで、眠る。
「!? ちょ、ちょっと待ってくれっ!」
彼方さんの発言をなんとか理解した俺は取り乱してしまう。
「待たないぞー。あと遥ちゃん上で寝てるから静かにね」
「あ、はい、すみません……って」
彼方さんは俺にお構いなしにテキパキと机の上を片付け、卓上のライトスタンドの灯りを消す。その動作はあっと言う間で、俺が気を取られている間に、彼方さんは今にもベッドに侵入してきそうだった。
「ほらほら、彼方ちゃんのスペースを空けて」
そう言いつつ、ベッドに手をかける彼方さん。侵入してくる。彼女の身体に触れないように反対側に身体を動かしてなんとか彼女が入るスペースを作る。
「それじゃあ、失礼しまーす」
その空間に彼方さんが入ってくる。シャンプーの匂いだろうか。至近距離の彼女からふんわりと甘い香りが漂う。今だけ鼻呼吸を止めたくなった。
「わー、顔近いね~」
俺のすぐ近くに彼方さんがいる。鼻と鼻がぶつかりそうな距離。息遣いがよく聞こえる。二人だと流石に身じろぎができない。
「……やっぱり狭いんで出ます。だから」
一度彼方さんに起きてほしい、とお願いするつもりだった。しかしそれは彼方さんに遮られてしまう。
「も~、ダメだぞー。今日は彼方ちゃんと一緒に寝るのだ~」
むしろ彼方さんは俺の動きを封じるかのようにぎゅぅ、と抱きついてくる。彼女の温もりが安心とドキドキの二つの正反対の感情をもたらす。
「……わ、わかった。わかったんで少し離れて……」
それがせめてもの抵抗だった。このままだと寝る寝ないとかの前に心臓が持ちそうになかった。
「えー……彼方ちゃん、この体勢結構気に入ったんだけどな~」
「男の身体なんてごつごつしてて逆に寝にくくないか?」
「そんなことないよー。これはこれで、この硬いのが良い感じだよ~」
彼方さんは俺の身体を離す素振りはなく、むしろさらに身体を押し付けるように抱きついてくる。
「これだと俺が寝れないんです……」
「むむむ……彼方ちゃんはよく眠れそうなのに~……」
彼方さんは名残惜しそうにしながらようやく身体を引いてくれた。といってもほんの少しだ。密着はしていないが広げたら腕の中には入りそうな距離だ。つまりはあまり変わっていなかった。
「彼方さん、さっきとあんまり変わってないです」
「えー……ちゃんと離れたよ~。それに、これ以上離れられないよ? ベッド狭いから~」
彼方さんはそれ以上は離れようとはしてくれなかった。果たして再び眠れるだろうか。そう思いつつ、嬉しそうにしている彼女にそれ以上離れろなんて言えなかった。
「ふぁ~……」
彼方さんが欠伸を零す。よく眠れそうと言ったのは本当だったみたいだ。いや、よく考えたら彼女はどこでも眠れるか。
「今日はありがとう。夕飯、俺の分まで用意してもらって」
彼女が眠ってしまう前に伝えたかったことを伝える。もう今日じゃなくて昨日のことだけど。
「いいよいいよ~。君と一緒にお夕飯食べる機会なんて滅多にないし」
「あと美味しかった」
「また食べたい~?」
「もちろん」
彼方さんはにへらと顔を綻ばせる。薄暗い部屋の中、その表情が眩しく見えた。
「じゃあ~……明日。遥ちゃんと彼方ちゃん、そしてあなた。三人でお出かけしよう~。お弁当作って公園でピクニックしよう~」
明日は休日。俺も予定はないので大歓迎なのだが。
「……俺も一緒でいいのか?」
遥ちゃんと二人っきりで過ごしたいのではないか、と思ってしまってそんなことを言ってしまう。
彼方さんの遥ちゃんへの溺愛っぷりを見ると二人だけで過ごしたいと思っていても不思議じゃない。そこにお邪魔してもいいのかと思ってしまう。
「とーぜんだよ~。むしろ君がいないと」
彼方さんのその言葉にほっと安心。俺はお邪魔虫ではないらしい。
「だって、君は彼方ちゃんの恋人だよ?」
改めて彼方さんの口からそう言われるとこそばゆい気持ちになる。体温が上がった気がした。もう当たり前のことなのに。
「楽しみだな~。大好きな二人とお出かけするの」
「ああ、楽しみだ」
布団の柔らかさと彼女の匂いと身体に残った疲れが眠気を誘う。瞼が閉じて再び開く。その夢うつつの一瞬、楽しそうな光景を見た。
「……本当に楽しみだ」
もう一度繰り返しその言葉を口にした。自分でも思いがけない行動だった。三人で出かける明日がその光景のようになって欲しかったからかもしれない。
もう一度、瞼が落ちる。すぐに開くがなんとなく瞼が重い。
「君も眠そうだね~……ふぁ~……彼方ちゃんも……」
彼方さんも同じように瞼を重そうにしながら欠伸をしていた。彼方さんも俺もそう遠くないうちに眠りに落ちるだろう。
「こうして一緒なら良い夢見れそうだよ~……」
心地良さそうに彼方さんは呟きつつ、俺との距離を詰める。抵抗しようかとも思ったが眠気の方が強くてこのままでいいやと思ってしまった。さては彼方さん、これが狙いだったのか。
引っ付いてきた彼方さんの身体の柔らかな感触が心地よい。眠気が強いせいかさっきと比べてドキドキ感がない。安心感と幸福感が心を満たしていた。
「……やっぱり、この硬さ……安心するなぁ……」
「それは、よかった……」
彼方さんはうつらうつら船を漕ぐ。もう半分夢の世界へと旅立っている。
俺だって似たようなもの。もう瞼が開かない。開く気力がない。意識だけはまだなんとか残ってる。もうただ残ってるだけだ。
「……明日……楽しみだねぇ……」
彼方さんのその言葉は段々と消えていくように小さくなっていった。言い終えた彼女はきっともう夢の中。
「すやぁ……すぅ……すぅ……」
彼方さんが眠る。規則正しい呼吸の音が聞こえる。それが子守唄代わりになって俺の意識も段々と朦朧となる。世界が輪郭を失っていく。
そう言えばおやすみと言うのを忘れていた。もう億劫だから心の中で。日付が変わってるから今日だけど。
おやすみなさい。また明日。
お目汚し失礼いたしました