ずっと夢を見ていたい、と。彼女のようなことを俺も思ってしまう。
だけど現実は。決まった時間にたたき起こされる。ベッドから飛び起きて、鳴り響くスマホを黙らせて、せわしない朝が始まる。
制服に着替えて、食パン1枚を食べ、支度を済ませて、玄関から飛び出した。見上げると、雲一つない青空が視界いっぱいに広がっていた。ぼんやりと眺めて、それから学校へと足を進める。
まだ少し肌寒いが、それでも1週間ぐらい前と比べると暖かくなってきた。冬が終わりを迎えて、春が近づいていた。というか、もう春だ。
「……ふぁあ~」
学校への道の途中、大きな欠伸が漏れ出てしまう。まだまだ眠かった。
「大きな欠伸だねえ」
近くから声が耳に届く。よく知った、いつもののんびりした声。
いつの間にか隣には彼方さんがいた。虹ヶ咲学園の制服を着ている。俺と同じで学校に向かう途中だろう。
「……いつの間に」
「気づかなかった~?」
「全然」
「えへへ、くノ一彼方ちゃんの忍術すごいでしょ~」
俺が気づかなかったのは彼方さんの忍術のせいなのか。それともただ単に寝惚けていて気付かなかっただけか。なんとなく後者だと思うが言うまい。くノ一いいよね。
「それにしても大きかったねぇ~、欠伸」
「彼方さんみたいに?」
普段の彼方さんはこんな感じで、よく大きな欠伸を漏らしていた。可愛いと思うけど。
「それ、女の子に対してあるまじき言動だぞー」
「ごめん」
謝りつつも。内心、事実じゃんとか思ってました。もちろん言わない。すいません。
「「ふぁあ~」」
今度は綺麗なハモり。二人して大きく口を開けてマヌケ顔。
「マヌケな顔してる」
俺はふっ、と思わず笑いを零してしまう。
「あなただって」
彼方さんもニヤリ、顔を綻ばせた。
「もう春だし、仕方ないよねえ」
「暖かいし、仕方ないよなぁ」
彼方さんも俺も、お互いに言い訳をし合って自分を正当化した。二人とも笑ってしまう寸前だったのは仕方ないことだ。
もう春なんだ。彼方さんとの会話で、彩られる街の光景で、改めて実感する。仄かに春の匂いがした。
「こんなに気持ちいい天気だとすやぴしたいねぇ」
まだまだ起床してそんなに経っていないはずなのに。もう寝ることを考えている彼方さん。
「確かに。こんなに暖かいと眠るのも気持ちよさそうだ」
とはいえ俺も彼方さんの意見には大賛成で、できるものなら眠りの世界に戻りたかった。
「ふふふ~、でしょでしょ。一緒に学校サボっちゃう~?」
「いやそれ駄目だから……」
それが魅力的なものであることはわかりきっていることだけど。
「むむむ……気持ちよさそうなのになあ」
気持ちはわかる。
「わかるなら一緒にすやぴしようよ~。朝からお昼寝タイムにしようよ~。ねぇねぇ」
ああああ、やめてくれ。その誘惑は甘美すぎるんだ。理性が決壊してしまうのを堪えるので精一杯。
「ねぇねぇねぇ、彼方ちゃんと一緒におサボり、しよ~?」
「……しません」
俺が後ろ髪ひかれつつきっぱりと断ると彼方さんはぶーぶーとブーイングしてきた。ヒドいやと思いつつ、かわいいからつい許してしまう。
そんな会話を交わしつつ、俺たちはお互いの学校を目指していた。ニジガクとうちの学校は途中まで同じ道だ。
だから一緒に入れる時間には限りがある。この朝の時間も長くないのだ。時間は有限で、噛み締めるように歩く。
空を飛ぶ鳥たちが見える。空の青さに魅せられたのか、彼らはどこまでも翔けていく。その姿が羨ましかった。
「……やっぱり今日はサボろうかな」
鳥の往く先を目で追っているとそんな言葉が不意に口を突いた。
「こぉら~」
俺が零した言葉に気の抜けたお叱りが飛んできた。まあ迫力はない。
「理不尽だ」
そしてなぜに俺は怒られてるのか。最初にサボろうと言い出したのは彼方さんじゃないか。そこは彼方さんも乗ってきてくれるところじゃないの。
「あなたが不良みたいなこと言い出したからだぞー」
「おっと、どの口が言うんだよ」
彼方さん、鏡見て言って?
「この口~」
口を窄めて、自分の口をアピールしてくる彼方さん。可愛い、可愛いけど。なんとなく、キス顔に見えてどきりとした。
「この口?」
俺は誤魔化すように彼方さんの頬を両手で挟んだ。沈むような肌触りは中毒性を帯びていた。その毒に俺は侵されてしまう。
「あはは、ちょっとぶちゃいく」
更なる誤魔化しのために俺は笑った。
「彼方ちゃんは可愛いもん」
むぅと唸ってむくれた顔を彼方さんは見せた。そんなこととっくに知ってるよ。
両手をぱっと放すと恨めしげな視線が飛んできて
「彼方ちゃんは可愛いもん」
繰り返された。よほどぶちゃいく発言が癇に障ったのか。
彼方さんの瞳が細まった気がした。
「彼方ちゃんは可愛いもん」
「ごめん」
三度目の同じ言葉。俺は堪らず謝罪した。
「……なら~、言うことがあるよねぇ」
「彼方さんはぶちゃいくじゃないです」
「う~ん……」
彼方さんの反応はそうじゃないと物語っていた。あれ、じゃあ……
「彼方さんは可愛い!」
朝っぱらからなにを言ってるのか。自分でも馬鹿なのかと思うが。きっと多分、そういうことだろうと思って口にする。
「そう! 大正解~」
華やかな笑顔が咲いた。よかった。俺は安堵した。
でも一つ言いたいのはぶちゃいく発言は決して貶める意図はないってことだ。なんだか言い訳みたいだけど本当のことだ。
「ふっふっふ~、じゃあ学校行こっか~」
元気いっぱいに身体を上下に弾ませて、彼方さんは俺を誘う。いつもののんびり彼方さんとの差が激しい。ジェットコースターみたい。
冷たい風が吹く。熱に浮かされた身体が冷えて現実を直視させた。時間は有限で、分かれ道はそう遠くない。
あーあ……同じ学校だったらな。ありもしない、だけどありきたりな夢を想った。
「今あなたがなにを考えてるか、彼方ちゃんが当ててあげようか~?」
隣の彼方さんが俺の顔をまじまじ見てそんなことを言い始めた。それからすぐ、俺の返答を待たずに彼女は口を開く。
「彼方ちゃんと同じ学校だったらー……って考えてるでしょ~?」
「……正解。なんでわかったんだ」
「単純だよ。だって、彼方ちゃんだっておんなじこと考えてたから~」
ふっと彼女は笑った。ありきたりだよねえ、とぼやいて。まったく同じ考えだったから釣られるように俺も笑った。
「きっと楽しいだろなあ」
「絶対楽しいよ~」
絶対と断言をしてくる。
「だってあなたがいるから~。楽しいに決まってるよねぇ」
彼方さんの当たり前のような口調に嬉しくなる。彼方さんの言うことは本当にその通りだと思った。
ああ、本当に、本当におんなじ学校だったらいいのにな。
「ねえ、手、握ってもいい~?」
彼方さんが突然そんなこと言い出した。
「いいけど」
なんで。と言う言葉が口を突きそうになった。いや当然の疑問だろ?
「ふふふ~、握りたくなっちゃった~。ダメ~?」
「……駄目じゃないです」
なんというか、彼方さんに甘えられると唯々諾々で頷いてる気がしなくもない。いいんだけどね。俺も握りたいから。
彼方さんの手の暖かさは降り注ぐ日差しに似ている。まだ少し肌寒い空気に冷えた身体を内と外から温めてくれる。
手を繋いでいると気持ちまでも伝わってくるという。なんとなくではあるが、彼方さんが手を握りたいと言い出した理由がわかった気がする。
「暖かくてホッとするね~」
「まあ確かに。だけど放すときが大変だ」
だってこんなに暖かいんだから。簡単には放すことなんてできない。この気持ちよさにずっと浸りたくなる。まるで微睡みのよう。
やっぱり学校サボるか。いやサボらないけど。
「放さなければいいと思いまーす」
「そういうわけにはいかんでしょ……」
「だよねぇ」
顔を見合わせる。彼方さんも俺も面倒な感情を抱えているのがわかった。手を繋いだまま一緒にいたいって感情のことだ。
この感情の解消方法なんてない。どうにかして自分を誤魔化すしかない。
「…………」
風が吹いた。俺たちの身体を通り抜けていく。
仄かに。また、淡い春の匂いが香る。冷たい風が運んできてくれた。肩の力が抜けた。
「春だねぇ」
彼女の呟きが聞こえた。
彼方さんはなにを思って春を感じたのだろう? もしかしたら俺と同じかもしれないし、全然違うかもしれない。わからない。
だけど今、彼女と俺は確かに同じことを想っている。それは歓びだ。そう思う。
「今度のお休み、公園で一緒にすやぴしよ~?」
いつものように。彼方さんらしいお誘い。
「いいね」
公園でお昼寝は無用心な気もする。だけど迷いなくその誘いに乗った。断るなんて選択肢は頭の中にはない。
理由なんて単純明快で言葉する必要なんてまったくないが。あえて言葉にするのならきっと『春だから』だ。
楽しみがまた一つ、増える。きっとその時は今日よりも春らしくなっているだろう。そんなことを想像するのが楽しくて、今度の休みが待ち遠しい。
いつの間にかやるせない感情がどこかへ吹き飛んでいく。楽しみが心の中を塗りつぶして占領した。自分でも子供じみていると思う。
また、風が吹いた。
「「くしゅん」」
彼方さんも俺も、揃ってくしゃみをした。それから互いの顔を見合って、二人して笑った。
お目汚し失礼いたしました。
ありがとうございました。
いよいよ虹ヶ咲2期が始まりますね。めちゃ楽しみ。