夢うつつ   作:pathfinder

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今回もよろしくお願いいたします。


ミルク

 

「すぅすぅすぅ」

 

遥ちゃんの寝息が静かな部屋に響く。彼女は彼方さんの膝を枕にして眠っていた。羨ましい。

そんな遥ちゃんに彼方さんは慈愛の眼差しを向けていた。優しい、穏やかな微笑みを浮かべて。まさにお姉ちゃんだと思った。

しかし、なんというか。

 

「珍しいよなあ」

 

と俺は思ってしまった。なんなら口から漏れ出てしまった。

 

「えー、なにが~」

 

彼方さんが俺のほうへと顔を向ける。その顔は不思議そうにしていて、俺の発言の意味がわかっていないようだった。

 

「いや、いつも逆じゃないと思って」

 

いつもなら彼方さんのほうが眠っているような印象がある。すやぁって、そんな寝息を上げて。

 

「そうかなぁ」

 

「そうだよ」

 

不服そうな彼方さんだが、俺はやっぱり逆のほうがしっくりくると思った。彼方さんには申し訳ないのだが、いっつも眠っているのは彼方さんのほうだと違和感を覚えてしまうのだ。

 

「ひどいなぁ。そんなこと言う子には……こうだ~」

 

その言葉と同時に彼方さんの手が俺の頬まで伸びる。そしてそのまま頬を抓って引っ張った。

 

「……ひたひ」

 

痛い。地味に痛い。そんなにダメージはないんだけど。頬を引っ張られているせいで変な発音になってしまった。

 

「彼方ちゃんにひどいことを言う悪い子にはお仕置きが必要だよねぇ」

 

ニヤリと唇を歪ませて、彼方さんは意地悪な笑みを浮かべていた。

 

「これはお仕置きではなくて暴力では……?」

 

「違いますー。暴力じゃないですー。れっきとしてお仕置きだよ。教育的指導だもーん」

 

彼方さん、それはマズい。アウトだ。

教育的指導という名の暴力行為(頬の引っ張り)は1分間ぐらい続いた。ほんと地味に痛い。

毎度のことだが、今日も俺は彼方さんの家にやってきていた。今日はお泊りだ。彼方さんに誘われて、遥ちゃんからも是非と言われ、今日もお泊りすることになった。

ちなみに二人のお母さんからは娘をよろしくお願いしますと言われた。特に深い意味はないはずだ。

近江家にいることもだいぶ慣れてきた。実家のような安心感はまだ抱けないけど。だから若干肩に力が入っているような気がしなくもない。

すぐに隣には彼方さん。その膝の上に遥ちゃん。俺と彼女の目の前には折り畳み式の小さなテーブル。そのテーブルの上には彼方さんが入れてくれたホットミルクのコップが3つ。彼方さんと俺、そして遥ちゃんの分。

遥ちゃんを起こさないように照明器具の光は弱くしていた。そのため部屋は薄暗い。メロウな雰囲気。

なんとなく、身体が水分を求めているような気がした。テーブルの上のコップを持ち、口元へと近づける。コップを傾けて液体が口へ、そして体内へと流れ込んでいく。

舌の焼けるような熱さはとっくに収まっていて、ちょうどいい温かさを保っていた。甘すぎないぐらいの程よい甘みとほっと安心する味わいが口の中に広がった。

 

「はぁ……」

 

思わず溜息が漏れた。特に意味はない。リラックスしているからなんだろうか。

 

「うふふ~」

 

そんな俺の姿を見ながらなぜかニコニコしている彼方さん。さすがにその笑い声のボリュームは控え目だった。

 

「……なんで嬉しそう?」

 

「えー、なんでだろうねぇ。特に理由はないんだけどね~、えへへ」

 

なんじゃそれ。

 

「しいていえば~……あなたの肩の力が最初の頃よりも抜けてるからかなぁ」

 

「自分じゃわからないけど」

 

「リラックスできてるよ~。まだちょーっと遠慮してるところもあるけど」

 

彼方さんから見てそう見えるのであればきっとそれは正しいのだろう。自分じゃやっぱりよくわからないが。

 

「遠慮せずにもっともーっとくつろいでも、いいんだよ~?」

 

「……まだ難しいよそれは」

 

「えー」

 

彼方さんは口を尖らせてブーイングをする。もちろん不満げな顔でだ。

だけど考えてみてほしい。遥ちゃんや親御さんが普段一緒に暮らしている家で気軽にくつろげるか? やっぱりどうしても気後れというか遠慮というか、そういうのをしてしまうのは当然のことだと俺は思うんだ。

 

「そういう彼方さんは俺の家でくつろげ……いやくつろいでたわ」

 

彼方さんはどうなんだよと問おうとしたが、思い返してみれば愚問だと気づいた。彼方さんが俺の家に来たときは割と普通にくつろいでいた。肩の力なんて入っていない、ふにゃふにゃ状態だった。自己解決。

 

「む~、失礼だ~」

 

「いやくつろいでたじゃん。歴然とした事実じゃないか」

 

「えぇ~、これでも彼方ちゃん心臓バクバクだったぞー」

 

「うっそだ」

 

まったくそんな風には見えなかった。心臓バクバクしている人間の態度とは思えないリラックスぶりだった。俺の目の錯覚か?

 

「それにね……実は今も心臓バクバク」

 

「なんで」

 

「だってー……あなたが隣にいるから~」

 

「んぇっ」

 

予想外の言葉が彼方さんの口から飛び出してきて、図らずも変な声を上げてしまった。予想外すぎた。だってそんなこと、彼方さんからはまったくもって感じないから。

 

「あー、信じていないな~。本当のことだぞー」

 

「いやさぁ」

 

彼方さんは不満そうにしているが、そんな風には全然見えない。本当に心臓バクバクのド緊張状態なんだろうか。

 

「じゃあじゃあ~……触って確かめてみる?」

 

「!?!?」

 

思考が凍る。筋肉が硬直する。彼女が発した言葉を処理することができない。

何秒か経ってから、その言葉をようやく飲み込むことができる。身体が動かせるようになる。唾を飲み込んだ。

恥じらいを含んだ声だった。いつもとは少し、声音が違うような気がした。

薄暗い部屋の中、上気した彼女の頬が妙に目立つ。片手を胸に当ててきゅっと握り締めている。

彼方さんがどこのことを言っているのか、わかった気がした。……ちょっとだけ、わかりたくなかった。

 

「いやいやいや」

 

なにを言ってるんだというニュアンスを込めたせいか、思わず声のボリュームが大きくなってしまった。

 

「しー、静かに。遥ちゃん眠っているから、ね」

 

「あ、ああ」

 

人差し指を唇に当てて彼方さんは俺を嗜める。言われた通り、小さめの声でそれに返した。

なんだか納得がいかない。誰のせいで声をあげてしまったのか。彼方さんのせいじゃないか。

俺の顔が露骨だったのか、彼女はごめんごめんと謝って、

 

「さっきのは冗談だよ。ひょっとして、本気にしちゃった~?」

 

なんて口にした。

ひどい。男の心を弄んでる。まるで小悪魔のようだ。俺のドキドキを返せ。

だけどほっとしたのも事実だった。

その束の間、彼方さんの言葉は続く。でもね、と。

 

「あなたなら触ってもいいよ~、なんて」

 

……再びフリーズ状態になったのは言うまでもないことだ。小悪魔だ。小悪魔彼方さんだ。

そんなに俺の心を弄ぶのは楽しいか。少しやさぐれながらそんな言葉をぶつけてやった。

 

「んふふ~」

 

彼方さんは言葉には答えずただ意味ありげに微笑んだ。楽しそうでなによりだ。

ああ、今喉が渇いているのは絶対に彼方さんのせいだ。もう一杯、テーブルのコップに口をつける。生温い液体が喉を潤した。

 

「ね、美味しい~?」

 

そのままのニコニコ顔でそんなことを尋ねてくる。

 

「美味しいよ」

 

俺はなんとも素っ気ない返答をしてしまう。俺にはグルメリポーターみたいな、気の利いたことは言えない。美味しかったのは事実で、そのままの言葉を伝えるだけになった。

言葉を伝えた途端に彼方さんはあからさまにニヤニヤし出した。思っていた通りの表情で少しホッとする。

彼方さんが『ね、美味しい~?』と俺に尋ねるのはこれが今日初めてではなかった。今日だけでもう六回目だ。その度に俺の返しは毎回似たようなもので、それに対する彼方さんの表情も同じだった。

毎回聞かれるがうっとおしさは感じなかった。それはこの薄暗い灯りが醸し出す雰囲気のせいか、彼方さんが毎度見せる堪えきれずニヤついたその笑みのせいか。とにかく、くどくなかったんだ。

 

「あのね」

 

俺がコップを再びテーブルに置いたのを見て、彼方さんは口を開いた。

 

「彼方ちゃん、欲張りだからね~」

 

そんな前置きをしてくる。

 

「知ってるよ」

 

「うん。だからねぇ、もっとあなたに美味しいって言ってほしいなぁって」

 

彼方さんはむず痒そうに頬を掻く。

可愛らしい欲張りだ。いや彼方さんの欲張りはいつだって可愛い。俺はそう思っている。

 

「言うよ」

 

だから当然俺の答えはこうなる。上手いこと言えないけど、それでよければ。その言葉を付け足して。

彼方さんはきょとんとして、すぐに意地悪そうな表情を浮かべた。

 

「え~、どうしよっかなぁ。彼方ちゃん欲張りだからな~」

 

唇をにんまりと歪ませて、またも小悪魔フェイスになった。

あまりにも困った顔をしていたのか、彼方さんはまたすぐにころりと表情を変える。今度はいつもの優しくて穏やかな、それでいて眠そうな顔。

 

「いいよ~」

 

彼方さんの言葉は続く。

 

「だから言うの忘れないでねぇ。約束~」

 

当たり前だと。俺がそう返すと、彼方さんはへにゃりと笑みを浮かべた。

 




お目汚し失礼いたしました。
ありがとうございました。

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