夏の終わりはいつだって心を締め付けられる。妙な焦りがどうしたって身体を支配する。
遠くで鳴くセミの声を聞きながら思った。目的地までの歩く時間はどうでもいいことを考えるには最適だった。
夕方、まだ汗をかいてしまうくらいには暑い。それでもまだ数時間前よりかはマシだ。だくだくというよりかはじんわりと発汗しているのを感じてそう思う。これはこれで不快だ。
夏が終わりかけていた。もっと具体的にいうと8月が終わりかけていた。今日を含めてもうあと2日。学生生活における長期休暇が終わろうとしていた。長く続いていたお祭りみたいな時間がもうじき閉会してしまう。
一抹の淋しさを感じていた。それだけじゃない。心がざわついて落ち着かない。無視できない程ではないが。
溜息をつく。解決のする必要のない悩みだ、ほっておいてもいいことだと思った。
気持ちを少し、切り替えよう。センチメンタルな気分で彼女に会うわけにはいかない。ただでさえ1週間ぶりぐらいに会うのだから。こんな気持ちではいけない。
足を止めて、深呼吸。吸って吐いてを何度か繰り返す。鼻から息を吸った際に夏の匂いとどこからか夕飯の匂いが漂ってきて、肺を満たした。ちょっとほっとする。
さて、目の前にある扉と表札を見る。それは目的地に到着したことを知らせていた。設置されているドアホンを鳴らす。
はいはい~、という声が扉の向こう側から聞こえて、床を鳴らす足音が近づいてきた。鍵を開錠する音がして扉が開く。
「ふふふ~、いっらしゃ~い」
太陽みたいな眩しい笑顔が俺を迎えた。思わず、顔が緩んでしまう。相変わらず単純な人間だと自分でも思う。だがそんな自虐も吹き飛んでしまう笑顔だ。
久しぶりにあった彼女、彼方さんは以前会ったときと変わっていなかった。たった1週間ぶりなのだからそれはそうなんだけども。ただ安堵感を覚えたのは紛れもない事実だった。
「うぉっ」
そんな風に気を抜かしていたら、彼方さんが抱きついてきた。勢いよかったため、身体に衝撃がぶつかる。さほど痛くはないが、突然のことで変な声が出てしまう。驚いたせいか、情けない声だ。
「うへへ~、久しぶりだあ~」
彼方さんは自分の頭を俺の胸に擦り付けるように埋めてきた。その様はマーキングに似ている、と思ってしまった。
ふんわりと彼女の匂いが漂ってくる。料理をしていたのか、家庭的な食欲をそそる匂いだ。彼方さんらしくてどきどきするというよりかは安心した。
「ん~~、久しぶりだからこうして抱きついて栄養補給してるの」
「栄養補給?」
「そ~、あなたから出てくる新鮮な栄養が彼方ちゃんには必要だからねえ」
「なにそれ初耳」
そんな栄養あるなんて聞いたことないんだけど。
「彼方ちゃんの健康維持には必要不可欠なんだよ~」
「すごいな、俺からそんな栄養物質が出てるんだ……」
ある意味感心しながら、彼方さんのマーキングらしき行為を眺めていた。くすぐったいような、頭をぐりぐりされて痛いような。
「……最近は会えなくて、彼方ちゃんだめになっちゃいそうだったんだよ?」
顔を伏せながら彼方さんはぽつりと呟いた。細い声が夕暮れの部屋に溶けて消えた。
「仕方ないさ」
ここ一週間彼方さんはスクールアイドルの合宿に行っていた。当たり前のことだが、そんな集まりに俺が入り込むわけにはいかない。邪魔者になってしまう。邪魔者になるつもりは毛頭ない。
「だからね、今いーっぱい抱き着いちゃう」
いつの間にか、彼女の腕が背中に回されていた。その腕が力強く俺の胴体を締め付けてくる。
「彼方ちゃん、寂しかったんだ~」
「うん」
「あなたは寂しくなかった?」
「寂しかったよ」
彼方さんの問いかけに、素直な言葉がするりと詰まることなく出てきた。意地を張らない、飾りのない台詞だ。
「っ」
彼方さんの言葉にならない、息だけが漏れる。微かな音。そんな小さな音が響いたことになんとか気付けた。
彼方さんはどう思ったんだろう。素直に吐き出した言葉は時が経つにつれ、恥ずかしさを感じさせた。あまりにも素直に伝えすぎただろうか。彼女の後頭部からはわかるはずもない。
「ズルいなぁ」
また、本当に小さく、そんな声が聞こえた。もしかしたら聞き間違いかもしれない。
「たった1週間ぶりだけど、久しぶりに会えて嬉しい」
「たった、じゃないよ~」
彼方さんの言うことは正しい。気持ちは俺だって同じだ。
たったじゃなかった。この1週間は長かった。自分の脆さを見せ付けられた、そんな期間だった。
「…………」
「…………」
時折、言葉が途切れ、沈黙が訪れる。彼方さんに触れている部分に意識が集まる。彼方さんの柔らかさと与えられる痛みをより実感して、彼女がここに存在するということを証明していた。
夢ではなく、現の彼女。幻ではなく、実在する彼方さん。
……俺は安心していた。
「ねぇ、夏が終わっちゃうねぇ」
唐突な話題だった。彼女はそんな言葉を投げてきた。
暦はもう9月。秋はそう遠くない。この暑さが涼しくなるのかどうかはまた別なんだろうけど。確かに彼方さんの言う通りだった。
「夏休みも終わっちゃうねぇ」
それは惜しむような声だった。哀愁を帯びていた。声だけでじわりと感情が伝わってきた。
もう学校が始まってしまう。明日からはまた日常。
……似たようなことを俺も考えていた。
「……なんだかんだ、あっという間だったな」
「あーあ、あなたと1日中一緒にいれなくなっちゃうなぁ」
「言うほど1日中一緒にいたっけ……」
彼方さんとはこの夏休み結構会っていたけど、1日中一緒にいたのはそんなにないと思う。まったくないわけではなかったが。
「……いたかったなぁ」
それを言われると俺も何も言えなくなる。1日中ずっと一緒にいられるなんて、そんな夢のような日々が次に訪れるのはいつだろうか。さっと思いつくのは冬休みだが、それもお互いになにか用事があるとそれも難しい。
夢のような時間はやがて終わりを迎える。この長期休暇も終わり、またいつもの学校生活が戻ってくる。それが嫌なわけじゃないが、どうしたって名残惜しさを感じてしまう。
「なるべく休みの日は会います……」
俺が確実に言えるのはそれぐらいで、具体的にいつなのかは約束できないでいた。
「……うむ」
その言葉に物足りなさそうに、それでも彼方さんは頷いてくれた。
「やくそく」
「ああ、約束だ」
「嘘ついたらどうする~?」
針千本飲む? なんて彼方さんは言うが、それに『はい』と答えるのは嘘でも怖い。彼方さんはそんなことさせないと思うけど。
「どうする~?」
彼方さんはなにかしらのお返事をお待ちのようだ。ねぇねぇねぇと催促してくる。やはり針千本飲むと答えたほうがいいんだろうか。
「嘘ついたら~……なんでも言うこと聞いてくれる?」
あれ。下手したら針千本のほうがマシな要求を彼方さんはかましてきた。
なんでもという言葉は恐ろしい。本当にどんな要求が飛んでくるかわからないから。……彼方さんだから、大丈夫だよね? 変な要求は来ないよね?
「ふふふ、変なことは言わないよ~?」
本当だろうか。信じていいよな。……信じたい。聞こえてくる彼女の笑い声が少しだけ怖い。
「ただ、ちょっと責任を取ってもらうだけ~」
「いや何の責任」
「彼方ちゃんを夢中にさせた責任」
その責任はどうやって取るんだろうか。取れるのだろうか。彼方さんはただただ笑うだけで、なんにも答えてくれなかった。
「ん~~……チャージかんりょ~」
満足したのか、その言葉に合わせて彼方さんは回して腕を解き胸から離れた。彼女の重みがすっと消えて寂しさを覚えてしまう。
「もういいのか」
自分でも驚くほどに声のテンションは低くなっていた。わかりやすすぎかよ。
「彼方ちゃんはね。でも……あなたはまだ満足できてないんだ~」
彼方さんは心の底から嬉しそうに顔を綻ばせていた。俺の気持ちなんて彼女には筒抜けだと嫌でも察した。
「一先ずはお預け。ここよりも彼方ちゃんの部屋のほうがもっとぎゅ~ってできるから」
そう言えばここは玄関だった。なんなら靴も脱いでない。
「ね?」
彼女は俺の手を包み込んで、早く上がろうと促してくる。誘われるまま、履いていた靴を脱いで彼女の家の奥へ進んでいく。彼方さんの部屋へと導かれていく。彼方さん以外の人の気配は感じられない。
彼方さんが部屋の扉を開ける。そういえば、と彼女は口を開いた。
「今うちの中にいるのはあなたと彼方ちゃんだけなんだよ~」
言葉が詰まった。家の中は妙に静かで、おそらくそうなんだろうとは薄々感づいていた。それでも二人っきりという事実は多少なりとも緊張させた。
あと1時間ぐらいで帰ってくるよ、なんて彼方さんは付け足してきた。つまりそれまでは二人っきりということだ。
「いーっぱいイチャイチャできるねぇ」
彼方さんは上目遣いで挑戦的に誘ってくる。零れた笑いも妙に艶やかで、引力のように引っ張られて流されそうになる。その水流に抵抗もせず、むしろ自ら進んで彼方さんへと近づいく。部屋の扉をぱたりと閉じた。
あと少しで夢のような時間は終わる。寂しさは抱えながら残りの時間を彼方さんと共に過ごす。夢の終わりを惜しみながら。
お目汚し失礼いたしました。
ありがとうございました。