改札口を抜けて、駅を出る。人混みは次第に捌けていく。呼吸がし易くなる。なんとなくそんな気がする。
首元がうっとおしく思えて、きちりと締められていたネクタイを緩めた。楽になった。
空を見る。世界は既に深い青色に染まっていた。天井には片手で数えられるほどの小さな光りと白く輝くまん丸。
「おかえり~」
駅から少し離れたところで彼女は手を振っていた。疲れでたるんだ心の空気を一瞬で入れ替えた。
「なんでここにいるのさ、彼方さん」
履いたパンプスが地面に当たり、コツンと音がする。オレンジブラウンの長い髪を泳がせて近寄ってきた彼方さんにそんな問いかけを無遠慮にぶつける。駅に来るなんて、彼方さん言っていなかった。俺も彼女に連絡してなかったし。
想像通り、彼女は頬を膨らませた。風船みたいで可愛らしいと思った。こんなこと彼方さんに知られたら怒られるけど。
「むぅ~、せっかく迎えにきたのに」
腰に手を当て唇を尖らせ、拗ねる彼方さんに俺は安心して少し吹いてしまった。ようやく帰ってきたんだという実感が湧いた。ようやくといっても数時間ぶりなんだけど。
「悪かったよ」
「ほんとうにそう思ってる?」
「思ってる」
「嘘っぽい」
真剣に言ったつもりが彼方さんには真実だと受け取られなかった。彼方さんの瞳には疑いしか映っていなかった。うそ。
彼方さんが酷い。いやそもそも俺が悪いのか。
「ごめんなさい」
「……しょーがないから許したげる~」
ふっと膨らせた頬を萎ませて柔らかく微笑んだ。よく知る彼方さんの表情だ。
花柄のフレアスカートを靡かせながら彼方さんは俺の腕を取って、それから抱きついてきた。香水の匂いか、女性らしい香りが鼻腔をくすぐる。慣れてきたといえどもときめきを感じてしまう。
「帰ろっか」
「うん」
自宅がある方向へと足を進める。お空は真っ暗だというのに、その道は明るい。月の灯りのおかげではない。町の灯りや街灯の灯りといった、いわゆる人工光のおかげだ。
「疲れてる?」
歩き始めてすぐにそんなことを彼方さんは言い出した。疑りの瞳が俺を捉えていた。
正直、鋭いと思った。かと言って、馬鹿正直に言うのも憚られる。彼方さんに心配かけてしまう。
「……なんで、そう思ったの?」
少し話をずらして、問いかけに問いかけで返した。彼方さんは少し唸って口を開いた。
「ん~……なんとなく」
「なんとなくって」
「彼方ちゃん、あなたのことはよく見てるからねぇ。いつもと違うとすぐにわかるよ~」
単純にすごいな、叶わないなという感心と知られてしまったというばつの悪さでなんにも言えなくなる。入り混じった感情は行き場がどこにもなくて俺は困ってしまう。
「ふっふっふ……彼方ちゃんの目は誤魔化せないよ~」
子供みたいに無邪気に胸を張って彼方さんはドヤ顔した。その瞳の奥に真剣さが映っていた。
「まあ、彼方さんの言う通り。疲れてるよ」
「ちゃんと認めたねぇ。えらいえらい。おうち帰ったらよしよししてあげる~」
小さい子供をあやすような扱いだ。よしよしされるような年齢ではもうない。
「えー、嫌なの~?」
「…………」
実際のところ、嫌ではないんだけど。ただよしよしを素直に喜べはしない。つまらない見栄があるのだ。
「嫌?」
彼方さんは俺の心を読んでいるのか、ニヤニヤと笑いながらもう一度尋ねてきた。バレテーラ。
「彼方さんのよしよし大歓迎です」
バレてるんじゃもう仕方ない。男のプライドは投げ捨て、欲望に忠実になった。
「ふふふ~、いっぱい甘やかしてあげるね~」
満面の笑みが眩しい。ああ、ダメ人間になりそう。あんまり甘やかされすぎると全部放り投げて彼方さんのおヒモになりたくなるから困る。
「おうちまで我慢できるかな~?」
できない、と言ったら今よしよしされるのだろうか。彼方さんは外でよしよしすることが恥ずかしくないのか。
「彼方ちゃんは恥ずかしくないよ」
彼方さんはそう言い切った。すごい。俺にはやっぱり恥じらいがあるよ。
夜の町を歩く。設置されている街灯が彼方さんの横顔を照らす。彼女の耳に付けられたイヤリングが電灯の光を受けて紫色の輝きを放つ。
その横顔を見て思う。綺麗だと。神秘的で神聖で、どこか手が届かないようにも思えた。こんなに近くにいてすぐに触れることができる距離なのにどこか遠くて、美術館で絵画を見ている気分になった。
「……んー? どうしたの~?」
見つめていたのに気づかれてしまった。彼方さんが不可思議そうにする。その瞳がクリスタルのように輝いた。
「なんでもない」
思ったより自然に口から飛び出した。半分本当のことだから。
「そっか、なんでもないか~」
彼方さんは少しだけ疑うようにこちらを見て、それから俺の言葉に納得してくれた。
それからなぜか彼方さんは腕を抱きしめる力を強くして、より身体を密着してきた。歩きづらくなる。
「彼方ちゃん、もっとあなたにくっつきたくなっちゃった~、えへへ」
俺が理由を尋ねる前に彼方さんはそう答えた。どこか嬉しそうに口を綻ばせていた。
そういえばさ、と俺は口を開く。彼方さんに聞きたかったことがあった。
「駅のところでどのくらい待ってたの」
ふと気になったんだ。俺は彼方さんに何時に帰るなんて伝えてない。まして駅に何時に到着するかなんてなおさら。だから結構前から待っていたんじゃないかと思った。それこそ1、2時間前から待っていてもおかしくなかった。
「うーん……30分ぐらい前かなぁ」
「そこそこ待ってるじゃんか。先に連絡してくれればどのくらいで到着するのか教えたのに」
ちょっと待つというレベルではないと俺は思う。電話とかで聞いてくれればよかった。そうすればこんなに待ちぼうけする必要はなかったんだ。例えば喫茶店みたいな明るくて温かい場所で待つこともできたはずだ。
「いいのいいの~。だって彼方ちゃんが待ちたかったんだもん」
嬉しいことだ。帰りを待ってくれる人がいるということは。胸が暖かくなる。
「まあ、無理はしないでね」
本当に。嬉しいから強くは言えないけども。
「あなたは心配性だな~」
「うっとおしい?」
「ううん。彼方ちゃん嬉しいぜ~」
彼方さんが嘘を言っていないことはこれまでの付き合いからわかった。うっとおしがられなくてよかった。
ところでだが。彼方さんはどうして駅まで迎えに来てくれたのか、その理由を彼女は言っていない。俺も聞いていない。聞いたら答えてくれるだろうか。まあ、迎えに来たかったからと言われるのかもしれないが。
「今日はなんで迎えに来たの?」
「それは当然、迎えに行きたくなったからだよ」
やっぱりというか、想像通りの答えが返ってきた。そっか、と俺は相槌を打つ。本当の理由があるのか、それとも彼方さんの言葉通りなのか、俺には判別がつかなかった。
「もっと言うと……早くあなたに会いたかったからかなぁ」
そう言って、彼方さんは身体をこちらに預けてきた。彼女は頭を俺の肩の辺りに倒す。一人の女性の重みを身体は感じていた。歩きづらさは幸せな証拠。重なり合って、電灯が作る影はほんの少し小さくなる。
香水の匂いが香る。夜の匂いと混じる。鼓動は確かに速まって、それでもまだ冷静でいられた。
「それで、早く家に帰って~、二人でご飯食べて~、一緒にお風呂入って~」
彼方さんは帰ってから二人ですることを指折り数え始めた。どれもいつも行っている、当たり前の生活行為。
「おんなじ布団に入って……今夜も一緒に寝ようね?」
閨へ誘う、耳元で囁かれる声はどうしたってくすぐったく感じてしまった。もう慣れているはずなのにな。
「ううん、朝までずっと一緒にいようね~?」
……明日の朝、ちゃんと起きれるだろうか。明日は休日ではなく普通の平日なんだが大丈夫だろうか。自分のことながら自信がない。
彼方さんは起こしてくれるだろうか。いや、一緒にずっと微睡むことになりそうだ。
そんな不安を抱えつつも、楽しみにして待ちきれない自分がいることもわかっていた。
「……明日は平日なんだけど」
「んふふ~、わかってるよ~」
弾んだ声はとてもわかっているようには思えなかった。まあ、明日のことは明日の自分に任せるよう。
ゆっくりと、それでも着実に家へと進んでいく。その道を電灯は明るく照らしていた。早く家につけばいいのに、と思いながら革靴で地面を踏みしめた。
お目汚し失礼いたしました。
ありがとうございました。
彼方ちゃん誕生日おめでとう!!!