「それじゃ、ちょっと行ってきますね。お姉ちゃんのこと、よろしくお願いします」
遥ちゃんはそう言って、パタパタと駆けて離れていく。二つに結われた髪が揺れる。
昼下がりの公園。穏やかな日差しが降り注ぎ、なんだか眠りに誘われそうになる。遥ちゃんの姉、彼方さんはそんな陽気のせいか眠ってしまっていた。俺の膝の上で。
「すやぁ……むにゃむにゃ……」
繰り返される規則的な呼吸。彼方さんの表情は穏やか。どうやら夢見はよさそうだ。
昨日、いや今日、ベッドの上で彼方さんと話した通り、公園にピクニックに来ていた。彼方さんと遥ちゃん、それと俺の三人。公園を散策したり、レジャーシートを敷いて座ってお喋りしたり、お弁当を食べたり、穏やかな時間を過ごしていた。
彼方さんがウトウトし出したのはお弁当を食べて少し経った頃だった。そのまま、近くにあった俺の膝を枕代わりにして夢の世界へと行ってしまった。いつもと変わらない彼方さんを見て遥ちゃんも俺も少し笑ってしまったのは内緒だ。
しばらく二人で喋っていたが、その遥ちゃんまで行ってしまった。手持ち無沙汰だ。
……と思ったが、その心配はどうやら杞憂のようだ。
「ん…………んん」
瞼がゆっくりと開く。光に慣れるためか、数回瞬きした後、再び瞼が開く。トロンとしていてまだ少し眠そうな瞳。
「ふぁ~……おはよー……」
「おはよう」
ゆっくりな口調。彼方さんが目を覚ました。だけど身体は起こさない。彼方さんはそのまま横になった状態でいた。なんで。
「……あれ~? 遥ちゃんは?」
膝枕の状態で彼方さんは首だけを動かしてそのことに気がついたみたいだ。
「あー、えっと……」
言い淀む。どうやって言おうか。そのまま言うのは憚られる。
「遥ちゃんになにかあったの」
しかしそれがよくなかった。
真剣な表情。いつもの彼方さんとは異なる、早口。彼女の身体が強張ったのが視覚と膝からの触覚からわかった。
彼方さんは遥ちゃんになにか良からぬことが起きたのかもと思ってしまったみたいだ。
「違う違う。遥ちゃんは……ちょっとお花摘みに」
これ以上勘違いされる前に俺は正直に言う。ぼやかして言うのは許してほしい。女の子がトイレに行った、なんて俺が公共の場で言うのはデリカシーにかける行為だろう。というか恥ずかしい。だからこそ迷いが生まれてしまった。
「あー……そういうことか~……焦ったぁ」
彼方さんは一転、安堵した表情を見せた。
「ごめん。俺が変に言い淀んだせいで……」
「もー、ほんとだよ~」
ちょっと頬を膨らませた姿が可愛らしくて笑ってしまう。申し訳ないとは思っているが。
彼方さんは安心したのか、身体の力が抜ける。心地の良い重みが戻ってきた。
視線を感じて、下を向いて彼方さんを見る。目が合う。なにか発見したかのような表情。
「……じゃあしばらく二人っきりだ」
「うんまあ……だな」
彼方さんがぽつりと呟いた言葉が妙に響く。屋外だっていうのに。
一瞬、風が吹く。たいしたことない、弱い風だ。木々が揺れる、そんな音がした。やけにはっきりと聞こえた。
二人っきり。魅力的なワードだ。正直言うと意識せずにはいられなかった。
「ふぁ~あ……」
彼方さんはというと欠伸をして、また少し眠そうにしていた。遥ちゃんのことで安心したのだろう。にしても俺はこんなにも二人っきりということを意識しているというのに、彼方さんはそんなこと意識していなさそうだった。ちょっと悔しい。
「まだ眠いの?」
「うーん……ちょっとね~……」
「また寝るか?」
「それは止めとく~」
俺の想定外の回答が彼方さんから返ってきた。驚く。
「あなたと二人っきりだからね」
彼方さんはへにゃっとして微笑んだ。俺は開こうとした口をぱくぱくと動かすことしかできなかった。さぞ面食らった顔をしているだろう。
……意識、してないわけじゃないんだ。
「嬉しい?」
「嬉しいよ」
からかうような彼方さんの問いかけ。悪戯っ子のような楽しげな表情。
俺はすぐに白旗をあげた。意地を張りたくもなったが、わかりやすく表情に出ててしまうだろう。
「そっかぁ~……」
彼方さんは嬉しそうに微笑んだ。さっきよりも頬が緩んでいるのがはっきりとわかった。
「ねぇねぇ。彼方ちゃん、ちょーっと気になったんだけど……」
彼方さんは突然そう切り出してきた。が、俺にはなにも心当たりがない。
「……? なにが?」
「彼方ちゃんが眠っている間、遥ちゃんと二人でなに話してたの~?」
純粋に気になったのか、そんなことを彼方さんは尋ねてくる。
やましいことはなにもない。少しだけ、彼方さんにそれを話すのは恥ずかしいが。
「むっ」
俺が話す前に彼方さんはなにか気付いたのかそんな声を上げた。その表情は不満を隠すことなく露わにしていた。口を尖らせて拗ねている。
「……もしかして、浮気~?」
冷たい口調。
膝で横になっている彼方さんは俺の太ももを抓る。微妙に痛い。
「違うから」
「じゃあ、なにを話してたの?」
気恥ずかしいが遥ちゃんと話していた内容を伝えようと口を開く。
「その……彼方さんのこと話してた」
「え、彼方ちゃんのこと?」
「うん。俺が知らない彼方さんのことを遥ちゃんに聞いてたんだ」
遥ちゃんだけが知ってる、彼方さん家での過ごした方や様子だったり、お姉さんとしての彼方さんのことだったりを彼女から聞いた。そして俺も恋人としての彼方さんについて遥ちゃんに話した。それを伝えると一転、頬に朱を宿らせた。
「おおぅ……それはちょっと恥ずかしいなぁ……」
彼方さんはその言葉通り恥ずかしそうに身を捩らせて悶えた。
「けど、そっか……よかったぁ~」
本当に安心したように彼方さんは小さく呟いた。わかってもらえてよかった、と俺も一安心していると彼方さんが口を開く。
「あなたは彼方ちゃんだけの恋人なんだからね。よそ見なんかしちゃダメだぞ~」
口調はいつも通りのんびりとしたものだったが、圧力をかけられているように感じた。しないよ、と当然否定した。
そんな俺の反応を見て、彼方さんはうんうんと数回頷いた。
「信じてるからねぇ」
彼方さんに釘を刺されてしまった。俺にその気はないというのに。ほんとのほんと。
「彼方ちゃん、遥ちゃんのことが世界で一番大好きだけど……」
彼方さんは俺の目を見て――俺の視線を捕らえて釘付けにして、続きの言葉を発した。
「恋人はあなただけだよ?」
……暑い。体温が急上昇したのを確かに感じる。汗が噴き出る。
彼方さんの瞳の中に照れくさそうにしている情けない男が映る。……俺だ。
「…………そっすか」
「ふっふっふっ、照れてる照れてる~」
照れるな、って言うほうが無理だろう。
「俺も……恋人は彼方さんだけですから。よそ見なんかしないから」
予想通り余計に体温が上がったが、それでも口にした。直球な言葉には意図がある。一つは浮気なんてしませんよアピール。もう一つは、
「…………おぉぅ」
――ちょっとした仕返しがしたかった。俺は彼方さんに照れさせられたのだからそのお返しだ。
彼方さんは思った通りの反応してくれた。膝上の彼女の顔は林檎のように赤くなる。
「いやぁ……彼方ちゃん、照れちゃうなぁ~……」
「嫌でした?」
「ううん。もっと言ってほしいぐらいかも」
俺の言葉を否定したどころか、彼方さんは追加を希望してきた。いやいやそれはこっちが照れる。悶絶もん。
「……言うほうも照れるので、偶にで」
「えぇー」
ぷくぅって、不満そうに頬を膨らませて、小さな子供みたいなことをしてくる。可愛らしい仕草。
「ダメなの~?」
「ダメとは言ってないですよ」
ダメとは言ってない。極々稀に、気が向いて言う気力が湧いてきたら、きっと言う。具体的に言うと数年に一回レベル。
俺が消極的なことは彼方さんにはお見通しなのだろう。彼方が口を開いた。
「もっと言ってくれたら……彼方ちゃん、すっごいことしてあげるんだけど~?」
「……ごくり」
思わず唾を飲み込んでしまった。無意識だった。『すっごいこと』に惹かれてしまった。彼方さんの言い方が妙に艶っぽかったせいだ。
彼方さんはその様子を見てにやりとした。……しまった。もう遅いが、そう思った。
「お? 興味津々?」
「そりゃ……」
「じゃあ~……もっと言ってくれる?」
畳み掛けるような彼方さんの再びのお願い。しかも『すっごいこと』というご褒美をつき。そんな魅力的な餌をぶら下げられる。
「…………はい。言います」
ご褒美と俺の羞恥心。天秤にかけて、選んだのはご褒美のほう。俺は彼方さんが喜ぶような直球な言葉を言うことになった。
「じゃあ、ほら、さっそく」
待ち遠しいのか、今か今かと彼方さんが急かしてくる。ちょっと待ってほしい。
「…………俺の恋人は彼方さんだけだから」
なんとか考え抜いて思いついた言葉。これで彼方さんも満足してくれるだろうと思った。だが。
「もう一声!」
「え」
――どうやら、まだ満足してもらえないみたいだ。彼方さんは嬉しそうにはにかんでいるのに。どうしろと。これで十分じゃないの。
「もう一声ほしいなぁ。彼方ちゃんがもっと嬉しくなっちゃうようなやつ」
彼方さんのお望みは無茶ぶりに思えた。ニコニコしながら俺の言葉を待っている彼女を見ているとそれに応えたいと思ってしまう。
これ以上を望んでいる彼方さんが嬉しくなっちゃうような言葉。もっと過激な言葉を言えばいいんだろうか。考え込んでしまう。
「…………彼方さんは俺の嫁!」
思いついたのはなんとも恥ずかしい言葉だった。言ってから後悔する。独占欲発揮しすぎだろうか。引かれないか、不安だ。
彼方さんは言葉の意味を認識できないみたいで一瞬きょとんとした。いや俺の言葉があまりにも非常識すぎて理解できなかったのだろう。数秒して、言葉の意味を理解して、顔を紅潮させた。これでよかった、っぽい。
「嬉しいけど~……それってプロポーズ?」
彼方さんが困惑しているのも無理はない。そうとも取れる言葉だと俺も思う。
「あ、え、と」
言葉に迷う。そういうわけではない、と否定することもできる。だけどその気がないわけじゃない。むしろ望み通りだ。いやだけど今すぐどうこうという意味で言ったんじゃない。現実的に不可能だし。……なんて思考が巡り巡っていた。
「大丈夫。わかってるよ~」
彼方さんは目を細めて、俺を見ていた。ふにゃりと頬を緩ませて。
その言葉で俺は落ち着く。
「いつか、ね」
「いつか……」
彼女の言葉を繰り返す。音にすると、つい想像してしまう。いつかの未来のこと。一瞬だけ、ぼんやりとした景色。すぐに消えてしまった。そうなればいいと思った。
彼方さんと目が合って、視線が交わって、きっと同じことを考えてるんだと思えた。その証拠に彼女も俺もはにかんでいる。
なんだか照れくさくなって、話を変えようとして、ちょうどいい話題があったことを思い出した。
「それでご褒美とは……」
そう、彼方さんが俺を釣るために用意した『ご褒美』とやらのことだ。
「それはね~……」
もったいつけるように間を作る。焦らされる。それだけの『ご褒美』なのだろうか。期待が高まる。
「彼方ちゃんの膝枕~」
……ちょっとだけ力が抜けた。がっかりはしてない。期待しすぎた感はあるけど。いや、そもそも。
「……今俺が彼方さんを膝枕してるんですが?」
「そうだよ~、今度は彼方ちゃんがあなたに膝枕してあげる」
交代して、膝枕してくれるということみたいだ。
寝転んでいる彼方さんの太ももに思わず目が向かってしまう。スカートの裾から透明感のある柔らかそうな肌が覗く。魅力的なご褒美だと、考え直した。
「えっちな目してる~」
ニヤニヤしてる彼方さん。でもね仕方ないと思うだよ。彼方さんの太もも、寝心地も触り心地もよさそうなんだから。
「彼方さんが膝枕してくれるのは今から?」
誤魔化すように彼方さんにそう尋ねた。彼方さんは俺の膝枕を堪能して、膝から起き上がる気配はまったくない。本当に膝枕してくれるのだろうか。
「うーんと……まだもうちょっとこのままがいいから、……遥ちゃんが帰ってきたらしてあげるね?」
彼方さんの言葉で遥ちゃんが戻ってくるのが待ち遠しくなる。いやでも、帰ってきたら二人っきりじゃなくなるな、それはちょっと残念だな、なんて思う自分もいた。なんというジレンマ。
彼方さんは幸せそうに、また瞼をウトウトさせていた。また眠ってしまいそう。また手持ち無沙汰になってしまうな、と思った。いや、彼方さんの寝顔をずっと見ていればいいか。
暖かな、ちょっと暑いぐらいの昼下がり。時間がゆっくり過ぎていくような穏やかな休日のことだった。
お目汚し失礼致しました。
ありがとうございました。