セミダブルの魔力は恐ろしいもので。このまま柔らかい海の底でずっと微睡んでいたくなる。意識はぼんやりとしていて、とてもじゃないけど起きる気力は湧かない。曖昧な意識のままでまたもう一度夢の世界へと連れて行ってほしい。
「…………ふふふ~」
布が擦れる音。軋む音。そして、穏やかな笑い声。
なにやら頭が変だ。違和感があって、妙に気になった。痛みはないから放っておいてもきっと問題ない。
この変な感じに誘われるがままに現へと行くのか。それとも夢の中へと沈んでいくのか。決断を迫られているが、選択には意識があやふやすぎた。光に群がる虫のように、そのまま誘われるほうへと、意識は浮上していく。
「……あ」
目を開けると彼方さんと目がばっちりと合った。起きたことに驚いたのか、ぽかんと軽く口を開かせた。
彼方さんの手を俺の頭のほうへと伸びていた。どうやら髪の毛を触っていたようだ。人差し指と親指で髪の毛を掴んでいる。違和感はこれだったのか。起きてまず思ったことがそれだった。
「……おはよ~」
「おはよう……で一体なにしてるの」
「あなたが寝坊助さんだったから遊んでた~」
少しだけバツが悪そうにしながらそれでも正々堂々と答えた彼方さん。彼女との距離はかなり近い。鼻先がくっつきそうなぐらいの距離。アメジストの瞳に吸い込まれそうになる。
「玩具じゃないから……」
「なかなか起きなかったあなたが悪いだぞ~」
彼方さんにそれを言われるのか。普段なかなか起きないのは彼方さんのほうなのに。
「ふふふ、今日は彼方ちゃんのほうが早起きだったぜぇ」
どこか自慢げな彼方さんに苦笑い。こんな台詞、次はいつ聞けるか。聞けない可能性もある。
そして未だに髪の毛弄りは止めていない。不快感はない。もどかしいというか、くすぐったい。
「いつまで弄り続けるんだ……?」
「……彼方ちゃんの気の済むまで?」
それは果たして終わりが訪れるのだろうか。甚だ不安だ。疑問形なのが特に。悪戯っぽく微笑む彼方さんにそんなことを思った。
彼方さんの瞳から視線を外す。首筋を辿り、胸元へと至る。白いシャツを胸が押し上げていて、ボリューミーな膨らみが飛び込んできた。なんとも目に毒な光景だ。
「も~……どこ見てるの~」
どこを見ているのか、気付いているのだろう。恥じらいながらのジト目が突き刺さる。なんとなく嬉しそうなのはなんでだろうね。
「……彼方さん見てる」
嘘は言っていない。彼方さんの身体(の一部)を見ているのだから。しょうがない人だね、と彼方さんは呆れ気味。
というか。彼方さんが今着ているシャツだが、彼女の身体のサイズに合っていないような気がする。いや明らかにブカブカだ。髪の毛を弄る手がシャツの袖口で隠れていてて、萌え袖になっていた。
いや、そもそも昨日泊まるときに彼方さんは着替えなんて持ってきていたか。昨日うちに訪れたときは今回は泊まらないからと言って、いわゆるお泊りセットみたいなものは持ってきていなかったはずだ。
つまり、それらから導き出されるのは。
「彼方さんが今着てるのって――」
気になって、彼方さんに問いかける。決して己の不埒な行いを誤魔化そうとしているわけではない。
「あなたのワイシャツだよ~。借りちゃってまーす」
当然のように事後承諾だった。裸で横にいるよりかはいいが。もし裸の彼方さんがいたら心臓が止まるわ。
そもそも昨日の服着ればいいのでは、とちょっと思った。それが顔に出ていたのだろう。彼方さんは頬を膨らませて、眉を吊り上げさせていた。
「彼方ちゃんの服を汚したのはどこのどいつだ~?」
「…………」
「も~……すっかり忘れてるなぁ」
…………あ。
「……思い出した?」
「出しました……」
「彼方ちゃんがあなたの服を借りるのは当然だよねぇ?」
「はい……その通りです……」
詳細は省くが、俺の自業自得だった。折角おしゃれしてきたのになぁ、とぽつりと呟く彼方さんに俺は申し訳なくなった。本当にごめんなさい……。
いたたまれない気持ちでいると彼方さんはくすっと笑った。俺を責めるような、怒った表情なんてすでにしていなかった。
「彼方ちゃんも幸せだったから……許してあげる」
「……ありがとうございます」
「なんで敬語?」
申し訳なさが思わずそうさせたんだよ。
「……洗濯、しないとだねぇ」
「あー……」
汚れた服を洗濯しないと彼方さんは俺のワイシャツをずっと着たままになる。帰ることもできないし、出かけることもできない。なんなら家の中をワイシャツで過ごすことになる。それもいいなとちょっとだけ思ってしまった。
「もしかして……迷ってる~?」
ぎくりとそんな音が聞こえた気がした。
彼方さんは疑いの目を向けてきて、俺は彼女の目を見ていられなくなった。さりげなく視線を外す。
「図星かぁ?」
「……迷ってないよ」
「図星だねぇ」
迷ってないって否定したじゃないか。なんでわかったんだ。
「そりゃあ、バレバレだよ~。だって目が泳いでるし、顔がちょっとこわばってるし」
「……わかりやすいな、俺」
「うふふ~、わかりやすくて可愛かったぜ~」
嬉しくない。嬉しくないんだよ。彼方さんに俺の中のやましい感情が丸わかりなのは複雑な気分だ。
「でも~……彼方ちゃんも気持ちわかるよ。うん、もっとゴロゴロしていたいよねぇ」
ベッドにカラダを預けて力を抜いてリラックスしている彼方さん。口をへにゃへにゃとさせて、瞳をとろんとさせて、このままだと夢の中へと逆戻りしそうだった。
俺も彼方さんのこと言えない。ベッドの引力に吸い込まれて、抜け出す気が段々と減っていく。
……洗濯しなくてもいいかなぁ。そんな選択肢で頭の中の天秤が傾いていく。一日中自堕落に過ごす日もあってもいいんじゃないか。
「どうしよっか?」
「どうしようなー……」
「ねー、どうしようねぇ」
「んー……」
お互いに見つめ合って、解に至ることのない会話を繰り返す。中身がなさすぎる。それでもそこに彼方さんがいるという、その証である息遣いが聞きたくて会話を続けてしまう。
このまま起きずにゴロゴロと、微睡んで過ごせばいいか。そう思い始めて――
「――――くしゅんっ」
彼方さんのくしゃみが響いた。いきなりの衝撃に目が覚める。彼方さんも俺と同じように目をぱちくりと大きく開いた。
視線がぶつかる。彼方さんの驚いて気の抜けた顔。おそらく俺も似たような顔をしている。
「…………はは」
「…………ふふふ」
お互いに笑い出した。いやだってこのままウトウトして眠りそうな感じだったじゃないか。唐突なくしゃみがそれをひっくり返したというか、ぶち壊したというか、もう眠気なんて吹き飛んでいった。
「ワイシャツだけだとそりゃ寒いよな……」
彼方さんの恰好はワイシャツ一枚だけで、それ以外の衣類を着ているようには見えない。寒くて当然な恰好だ。くしゃみが出てきても仕方がないと思った。
「くっついているからあったかいと思ったんだけどねぇ……」
「人肌にも限界はあったってことか」
「だねぇ。でも気持ちよかったよ~? えっちな意味じゃなくてね」
「それはそう」
確かに。いやらしいさとはまったく別の、胸の奥が温かくなるような気持ちよさが身体を溶かしてくれた。意識まで溶けて気持ちよく入眠できた。
「……目覚めちゃったし起きよっか~」
俺は今からもう一度眠れそうもないからいいんだけど。まさか彼方さんのほうから提案されるとは……。意外だ。もう一度寝るのかと思った。
「んふふ~……洗濯して、それから二人でお出かけしよ?」
その微笑みの威力は凄まじいもので、セミダブルの魔力を弱めて、微睡みから抜け出す選択を俺に選ばせた。
「――決まりだねぇ」
「俺まだなにも言ってないんだが」
「顔見ればわかるよ? 貴方がなにを考えてるか、なんて」
したり顔の彼方さんが先に身体を起こした。彼女の髪が鼻をくすぐった。寝起きの整ってないその様を目で追って、それから美しいと思った。
手を差し出してきて、早く起きてと誘ってくる。早く遊ぼう、と俺を引っ張って連れて行こうとしていた。
その力の流れに従って、ベッドから抜け出す。フローリングの冷たさが足の裏を突き刺した。怯むことなく、一歩一歩進む。床を叩く音が二人分。
「さあ、お洗濯頑張ろ~!」
「おー……」
やる気がないわけじゃない。ワイシャツの裾がゆらゆらと揺れるのが気になってチラチラと視線が向かってしまい、どうにも気抜けた返事になってしまった。よくない。目に毒だ。早く洗濯しないと。昨日みたいに獣にならないうちに。
「貴方はほんっとにえっちだねえ」
……はい。その通りです。
なにも言い返せないまま、脱衣所に辿り着く。さて洗濯に取り掛かろう――とその前に、気になることがあったので、彼方さんにぶつけてみる。
「なんで俺の顔見ただけで考えてることわかったの」
彼方さんは自信満々な顔を向けてきた。
「――だって、大好きだから」
今日はいい洗濯日和になりそうだな――とどうでもいいことをふと考えた。そうでもしないと、こういう関係になってからしばらく経つのにも関わらず顔が林檎になりそうだった。
お目汚し失礼致しました。
ありがとうございました。