ふと嗅覚が独特なな匂いを捉えた。これは雨の日の匂いだ。
雨が降っている。大雨というほどではないが、傘がないと困るぐらいの量の雨だ。
コンビニの出入り口付近の軒下から俺は灰色の空を睨んでいた。人が睨む理由なんて限られている。……恨めしいからだ。
そんなことしようが天候は変わってはくれない。空の色はそのままだ。むしろ……。
「はぁ……」
一向に良くなる気配のない天気を見て、一つ溜息をついた。
空がこんな風になったのは俺がコンビニに立ち寄って物色している間のことだった。店内に入る前は少し曇っているだけだった。それが数十分でこれだ。
なんで恨めしいのか。それは俺が傘を持ってきていないからだ。
このままだと俺は、雨が止むまで待つ、ずぶ濡れで帰る、コンビニで傘を買う、のどれかを選択しなければならない。それぞれに、どれぐらい待つかわからない、風邪を引くかもしれない、無駄な出費、という地味に嫌なデメリットが待ち受けている。
憂鬱になる。薄暗い空と雨音と匂いが余計にそう感じさせた。
とはいえそろそろ覚悟を決めなければ、と思った時だった。
「あれ~、もしかして……」
よく知った声。その音を辿る。そこには俺の想像した通りの少女がいた。菫色の傘を差していた。
「彼方さん」
「やっぱり。こんなところで会えるなんて偶然だねぇ」
制服姿の彼方さんはしみじみとした口調でそう言った。本当にそうだ。同好会もあるし、会う約束なんてしてなかったから今日こんな遭遇をするとは思わなかった。
「彼方さんは学校の帰りですか?」
「そ~。あなたは?」
「コンビニに買い物に来たんですけど、傘を持ってくるのを忘れて」
「突然振り出したもんね~」
「おかげで家に帰れない」
彼方さんも俺も空を見上げた。その空を見て、また溜息をつきたくなった。
「雨、止みそうにないね~」
「……ですね」
止む気配どころか、空は暗く濁った灰色に染まっていっていた。これから日は沈んでいくが、この空の色はそんな理由ではなさそうだった。この天気はさらに悪くなりそうだ。
本当にどうしたものか。
「あ、そうだ~」
嬉しそうに彼方さんが声を上げる。
「よかったら、あなたも彼方ちゃんの傘に入っちゃおうよ~」
名案でしょう、とでも言いたげなドヤ顔を彼方さんは見せる。確かにナイスアイディアだ。
「そうしたらあなたも家に帰れるよ~」
「それだと彼方さんが遠回りになっちゃうでしょ」
「それは……そうだけどー」
彼方さんは少し考え込んで、すぐまたなにか閃いたかのような表情になる。
「じゃあじゃあ~、彼方ちゃんのうちで雨宿りしちゃう?」
彼方さんが言い出したのは魅力的な提案。思わず頷きたくなるが理性がそれを留めた。
「……いきなり行くと迷惑にならない?」
「そんなことないよ。むしろ大歓迎~」
満面の笑みでウェルカムオーラを出す彼方さん。
「ほれほれ、彼方ちゃんと相合傘しようよ~」
傘の持っていない手で招き猫みたいに手招いて俺を誘う。
断る理由はない。なにより俺が彼方さんの誘うに乗りたいと思っている。
「じゃあ、お願いします」
「どうぞ~、おいでおいで」
彼方さんは傘を少し上に持ち上げて、俺が入るスペースを作ってくれた。失礼しますと言って、その中に入る。
身長差のせいだろう。彼方さんは腕を伸ばして傘を差している。持ちにくそうだった。
「傘、俺が持つよ」
「ありがと~」
傘を受け取る。彼方さんが濡れないように気持ち彼女よりに傘を持つ。
「じゃあ~、出発しんこー」
こんな天気だというの、楽しそうに歩き始めた。俺も遅れないように、彼方さんが濡れてしまわないように着いていく。目的地は彼方さんの家。
道のでこぼこにできた水溜りを足を踏みいれるたび、水滴が軽やかに跳ねて飛び散る。キラキラと光る。
「そういえば、コンビニでなに買ったの~?」
「これ」
俺はズボンのポケットに仕舞い込んでいたものを取り出して、彼方さんに見せた。ただのシャープペンの芯だ。見せてまた仕舞った。
「宿題やってるときに芯のストックがなくなりそうなのに気付いてさ」
なんなら最後の芯を使ってしまっていた。宿題自体はすでに終わったから急いでほしかったわけじゃないが、予備がないのは心許なかった。
「おー、ちゃんと宿題しててえらいねぇ。よしよししてあげよう~」
小さい子相手にやるように彼方さんは頭を撫でてきた。恥ずかしい。彼方さんと俺との身長差が余計にそう感じさせる。が振り払うわけにいかないし、そもそも振り払えない。
時間にして数秒。悶えてしまう時間が終わってしまった。彼方さんが手を俺の頭から離した。
「彼方さんは同好会?」
恥ずかしさを誤魔化すように、俺は彼方さんに尋ねる。
「そうだよ~。今日も練習大変だったぜぇ……楽しいんだけどね~」
彼方さんは疲れを滲ませながらも充実感に満ちた表情をしていた。疲れは心配だが、その満足げな表情に俺はほっとする。
「……彼方ちゃん頑張ったからご褒美が欲しいなぁ」
唐突にそんなことを言い出し始めた。ご褒美とはなんぞや、と思っていると彼方さんが再び口を開く。
「撫で撫でプリーズ」
顎を引いて頭を下げて、彼方さんは差し出すように頭を俺のほうに向けた。俺に撫でられるのを待っている。まだやるとも言っていないのに。やるけど。俺も彼方さんも足を止めた。
傘を差していないほうの手で彼方さんの髪に触れる。そして労わるように優しく手を動かして彼女の頭を撫でる。
「おぉ……いい……気持ちいいー……」
ふにゃりと顔が蕩ける。彼方さんは猫みたいに目を細めて、言葉通り気持ち良さそうにしている。
彼方さんのふんわりとした髪は触り心地がよくて、ずっと触っていたくなる。手が引き寄せられ吸い付いて離れがたい。
撫で続けているとだんだんと彼方さんの頭がこくりこくりと動く。瞼も閉じていく。まずいと思った。
彼方さんの身体が委ねるように寄りかかってきた。
「……すやぁ」
気持ち良さそうな彼方さんの吐息が聞こえた。よくない。今寝られたら俺は雨の中傘を差しながら彼方さんを引っ張って運ぶ羽目になる。なかなかきつい。
「起きて。彼方さん、起きてください。おーきーてー」
撫でるのを止めて、彼方さんの身体を強めに揺さぶる。
「…………はっ」
その声と共に彼方さんは瞳を大きく開けた。幸いなことにすぐに目覚めてくれた。
バツの悪そうな表情。自分が寝てしまったことに気付いているようだった。
「ごめんねぇ。寝ちゃった~」
彼方さんはふにゃりと微笑んだ。まだ夢うつつな瞳。
「あなたの撫で撫でが気持ちよすぎたから~」
そんな責任転嫁をされましても。
「せめて家に着くまでは耐えて」
「頑張ってみる~……」
力のない、間延びした声。はたして家まで耐えられるか。少し不安になった。
再び歩き出す。傘からはみ出して濡れないように歩こうとするとどうしてもゆっくりになってしまうが。
雨は次第に強くなっていっているような気がする。聞こえてくる音は激しい。傘に落ちた雨粒も大きくなっているように感じられた。
「雨、すごいねぇ」
彼方さんも俺と同じように思っていたのか、空を見上げて言った。
「大丈夫~? 濡れてない?」
「濡れてないよ。彼方さんのほうこそ」
「彼方ちゃんは全然濡れてませーん」
ふっとなにかに気付いたのか、彼方さんはじっと俺のほうを見つめてくる。いや見つめているのは一点だ。どこを見てるんだ?
「あなたのおかげかなぁ」
柔らかな笑みを浮かべて彼方さんはそう言った。
「そんなことないと思うけど」
「……肩、濡れてるぞ~?」
彼方さんは俺の肩を見ていた。バレてた。
「彼方ちゃんにはお見通しだぜ」
くすくすと笑う彼方さんにバツの悪さを感じてしまう。こういうのはバレてしまうのダサいと俺は思ってしまうのだ。
「濡れないように、もっとそっちに寄るね~」
彼方さんはすすっと身体を寄せ、彼女と俺にあった間を詰める。彼方さんの制服が俺の服に触れた。
彼方さんの髪が揺れて、ふわりと匂いが香る。ずっと嗅いでいたような、ほっとする匂いだ。
「ほら、これならあなたも彼方ちゃんも濡れないよ?」
そうだけど、これは近い。服越しに彼方さんの柔肌を触っているような、なんとももどかしい感触が身体を支配した。
「……歩きにくくない?」
「えー、そんなことないよ~」
即座に否定された。彼方さんの表情からはそんなこと露とも思っていないことが読み取れた。
彼方さんは俺の瞳を覗き込んでくる。
「それとも彼方ちゃんが近いのは嫌?」
「そんなことはない」
同じように即座に否定する。近くのは嫌じゃない。いてほしいと思う。
どうやら俺の答えはお気に召したらしい。彼方さんは顔をニヤつかせた。
「彼方ちゃんはもっと近づきたいって思ってるよ~」
「もっとって」
どれぐらいの距離なんだって、そう続けようとしていた。
「このぐら~い」
傘を持った腕を包み込むように抱きしめられた。
さっきとは違う。服に触れているレベルじゃない。はっきりと彼方さんの身体を腕に感じる。柔らかさと温かさと両方とも。あとなにがとは言わないが当たってる。
明らかに歩きにくい。どう考えてもそれは確かなことだ。それは彼方さんだってわかっているだろう。
「だって、ここは彼方ちゃんの特等席だもーん」
彼方さんのその言葉に胸が締め付けられる。内側から熱が湧き出てきてどうしようもなく熱くなる。
身体が軽くなる。水滴が飛び散るのも気にならない。この感情を彼女も抱いているといいと思った。
強まる雨の中、俺たちはスキップするかのような足取りで歩いた。
お目汚し失礼致しました。
ありがとうございました。