私には理解できなかった。空ろな瞳を私に向ける両親が、なぜ頭しかないのか。その頭を持っているのが、なぜあの人なのか。
理解が追いつかなくて、理解したくなくて、でも、目は両親に釘付けだった。
『頭だけ残して食べるのは大変だったわ』
その人は、自慢をするように、笑顔でそう言った。
なんで?
あなたは、そんな事をするような妖怪じゃないはずなのに。
あんなに、仲良くしていたというのに……。
違う、何かの間違いだ。この人が、こんな、お父さんとお母さんを、食べてしまうような人じゃ……。
彼女本人が食べたと口にしたのに、それを受け入れられない。信じたくなかった。
優しい人だ。こんな事するはずない。きっとなにか、なにかがあって――――。
彼女の口がゆっくりと動く。発せられた声が耳から入ってきて、胸の奥にどろどろと落ちて溜まっていく。
父と母を侮辱する妖怪に、私の理性は壊れてしまった。
「っ…………」
びり、と手の平の皮を爪が破る痛みに、現実に引き戻された。
背に掻いた嫌な汗を気にせずに、開いた手の平に目をやれば、四つある爪
一つ息を吐いて、手に霊力を纏わせ、治療する。みるみる内に塞がっていく手から目を離して、部屋の入り口に目をやった。
もう夜も深い。今日は稗田の子の誕生を祝う宴会があったから、あの子もそろそろ疲れに負けてここにくるはずだ。我侭なんかは言わないけど、そういう欲には正直な子だから。
ふっと、笑みを漏らす。あの子の事を考えれば、胸に焼け付く憎悪の念も鳴りを潜める。それは、一時的なものでしかないけど、それでも。
しかし。
そんなあの子に、この腕の事を告げなければならないと思うと、胸が痛む。
勘の鋭いあの子の事だ、気付いていないはずはないのだろうけど、だからといってそれに甘え続けるわけにはいかない。
それに……それに、私は、敵を討つと決めたのだ。
一瞬、あの子の姿が脳裏によぎって、顔を落とした。
考えるな。……考えちゃ駄目。もし私がやられたら、あの子はどうなる、なんて。
わかってはいる。きっとだとか、もしかしたらなんて希望的観測はなく、必ず私は負ける。両親を殺されたあの日に、嫌というほど思い知らされた。その実力の差を。
強さには自信があった。かつて負けた事は無いし、両親にだって……こんな強い奴は、見たこと無いって。
なのに、負けた。ただの一度もこの拳を打ち込む事もできずに。
余裕綽々として、奴は私を見逃した。もっと強くなって挑んで来いと、まるで『また遊ぼう』と約束を取り付けるかのように、軽い調子で言って見せた。
私の自信なんて、それで砕けて散ってしまった。
たとえ圧倒的に力の差があっても、それでも、私はあいつに挑まなきゃいけない。この世界のために、里の人たちのために、なによりもあの子のために。
誰もが、あの妖怪を信じきっている。博麗の巫女を殺しただなんて、夢にも思っていない。妖怪たちだってそうなのだ、無理もない。
両親の死体を見せられなければ、私だってあいつに両親の居場所を聞きに行っていただろう。そうやって助けを求めたはずだ。
それ程までに奴は狡猾で、仮面をかぶるのが上手い。そして、それら以上に、性格が悪い。
今日の日に、奴はのうのうとこの神社にやってきた。里の人たちと共に、御阿礼の子の生誕を祝うために。
里と懇意にしているのだから、来る事は予想できていた。でもまさか、本当に来るとは思わなかった。
あの穏やかな顔が、憎くて憎くて堪らなかった。人間達の手前、飛び掛ることができないのが悔しかった。
別に、私はなんと思われようと構わない。里の人たちにとってあの妖怪は恩のある妖怪。その妖怪に襲い掛かる私が、どう思われようと。
でも、あの子に被害が行くのを理解できていたから、私は耐えられた。あいつが涼しい顔をして握手を求めてきた時は、流石に口の端が引き攣りそうにはなったが。
嫌な事を思い出したために気分が悪くなったので、気持ちを静めるために感覚の無い右腕を撫でる。
左腕にだけ暖かい感覚。動きはしなくとも、血は通っている。それを確認すると、何だか安心するのだ。そのために、これがすっかり癖になってしまった。
ふと、傾けた視界に自分の髪が見えた。長い、黒髪。
……そういえば、紫じゃなくて、黒かったんだっけ。
変な思考をしながら、左手で髪を梳く。母から貰ったものだ、手入れは欠かしていない。綺麗だと言えるだろう。
なんとなく、また右腕に手をやる。
ある、な。腕が、ある。それがどうしてか、変な事に思えた。
そもそも私は腕を失ったんじゃなかったか、いや、そんなはずはない。
奇妙な感覚に眉を顰めていると、とんとんと床を打つ音と、衣擦れの音。あの子が来たらしい。
姿勢を正し、この寝室の唯一の出入り口に顔を向ける。襖の前で気配が止まり、それから、そっと戸が開いた。
◆
「お前ってさ、ほんと霊夢が好きだよな」
メロンソーダの海に浮かぶバニラアイスの島に、長いスプーンを差し込んでいると、向かい側に座った友人がそんな事を言った。
別に、と短く返すと、いやいや、好き過ぎるだろ、とテーブルの上に置いてあった俺の携帯を指差した。
霊夢のストラップだとか、キーホルダーがこれでもかというほどくっ付いているが、ファンならこれぐらいは普通だと思う。
ウェイトレスがやってきて、友人の前に熱々のハンバーグを置いていった。ナイフとフォークを手にして嬉しそうに切りかかる友人を眺めつつ、アイスを口に運ぶ。うーむ、うまい。
「しかしねえ、異常だと思うよ」
暫くの間かちゃかちゃと金属音を鳴らすだけだった友人は、唐突にそんな事を言った。何が、と見返すと、その愛情、と指摘される。
あんまりにも執着してるからさ、いつか犯罪を犯すんじゃないかと冷や冷やしてるよ。
彼は、そんな風に茶化して言っていたが、それを聞いた俺はと言うと、確かに、霊夢のためなら犯罪ぐらいは、なんて思っていた。
だって、霊夢のためだし、なあ。
◆
浮遊感に身を包まれ、次には、地に足をつけていた。
しゃがんだ体勢から立ち上がり、辺りを見回す。ここは……博麗神社の境内だ。石畳を軽く蹴って感覚を確かめつつ、空を見上げる。
黒い絵の具で塗り潰されたような夜空には、満天の星と
ふと気配を感じて振り返れば、後ろには博麗神社。縁側の前を、小さな影が横切っていったかと思えば、闇に溶けて消えた。
今のは、霊夢? なんだか随分小さかったけれど……。
奇妙な事に、その姿に妙に懐かしさと申し訳なさを感じて、胸に手を置いた。と、そこで気がつく。右腕が無い。
……それも、そうか。八意永琳の手によって、右腕は切り飛ばされてしまった。一拍置いたせいか、怒りなんて欠片もわいてこない。痛みも無いし、血も、完全に止まっているようだ。
庇うように断面に手の平をかぶせておき、それから、どうして神社にいるのかを考える。
俺は、確か、光弾にやられて……ない?
その直前に意識を手放したと思う。思うけど、でもやっぱり死んだとも思った。
あのまま光弾に当たったのなら、跡形も無く消し飛んだのだろうし、だとすればここは……なんだろう。
「こっちこっち」
懐かしい声に、顔を上げた。
少し離れた、森の木の上辺り。箒に腰掛けた魔理沙が、そこにいた。
風が吹いてもいないのに、夜に映える金髪を揺らして、はあい、と俺に向かって手を振るのは、紛れも無く、記憶の
なぜここに、と問おうとして、魔理沙が「ついて来て」といって、向こうの方へと飛んでいってしまったのを、慌てて追いかけた。
体が、重い。いや、ふわふわしているというか……とにかく、動きづらい。
片方しかない腕を振って、長く遠く、地平線まで続いている石畳の上を走っていく。
俺と同じ速さで彼女は飛び、俺を
ぐにゃりと景色が歪んで、風景が変わる。人里だ。大きな通りだというのに、誰もいない。先程まで夜だったのに、ここは昼も同然に光で満ちていた。
だというのに人っ子一人いない。しかし、俺はどうしてかそれが気にならなかった。
たまに振り返って、俺がついてきている事を魔理沙は確かめているようだ。時に目の前まで降りてきて、はやくはやく、と急かす。どこへ連れて行く気なのだろうか。
人里の中で山道に入り、真っ直ぐ走っていけば道路に出て、走っていけば、かつて住んでいた実家へと続く道に出る。
記憶の中の様々な道を走っているのだと気付くのに、そんなに時間はかからなかった。
「……あー、あー。なるほど」
靈夢になる前の記憶を巡らせていると、そんな声が降ってくる。魔理沙を見上げれば、彼女は俺に顔を向けて、続けた。
「あなた、まだ本当の自分を思い出せてはいないのね」
本当の自分?
それは、なんだ。かつて男だった自分の事か。それなら、結構覚えてるんだけど。
疑問に考えを移していれば、また、魔理沙の声。
「それなら、思い出しなさい。ゆっくりでいいから、ね」
ぱちんと、指を弾く音。と同時に周囲の風景がぶれ、足元が崩れて消えた。
当然のように投げ出され、暗闇の中に自由落下する羽目になる。だけどさして驚くわけでもなく、バランスを取って深く深く落ちていった。
十数秒もしない内に、重々しく着地する。床に叩き付けた左腕が痛い。というか、凄い音だ。……ダイエットしようかな。
場違いな事を考えつつ、周囲を見回す。黄金色の光を放つ、円盤状の足場は、飴細工のように薄く、透き通っていて綺麗だ。俺は、その端っこに立っている。向こうの方の端には、縁に沿って奇怪なオブジェクトが並んでいた。右端から、鎖に繋がれた巨大なぶんどう。ぐねぐねと折れ曲がった石のような、床と同じ素材でできているっぽい物。中心には、八雲紫を模した黄金色に光る石造だ。胸から上だけの彼女は、儚げな顔をして俯いている。左側は、右側と同様に、ぐねぐねと曲がった棒状の物とか、ぶんどうとか。
そういえば、周りは……周りは、闇だ。夜の闇よりも暗く、触れれば飲み込まれてしまいそうな黒色が、この空間を満たしている。
「なぜ、非力でありながらその拳で戦う?」
周囲に気を取られていれば、目の前に霧が集まってきて、中空に横になった小鬼が現われた。最初に会った時と同じ体勢だ。
そんなの、迷っている内に人が死ぬからでしょ。それに、体動かさないと太っちゃうもん。……あれ、前にもおんなじ様な事言わなかったっけ。
ずどんと、明らかにおかしい音を立てて、小鬼が床へと足をつけた。腰に付けた瓢箪を口に運んで呷り、ぐびりと喉を鳴らし、口を拭って、赤らんだ、しかし怒りに満ちた顔で俺を睨み付けた。
「いくよ、博麗の巫女!!」
……ああ、戦闘か。いいよ別に。
◆
吸血鬼の馬鹿力を逆に利用して、その小柄な体を床へと叩き付けると、枯れ枝にも似た羽から垂れる色取り取りの宝石が、がしゃんと音を立てて幾つか砕けた。
呻いた後に、霧になって消えていくフランを見送り、投げの体勢から、脱力した体勢に戻る。
うーむ、片腕でも意外となんとかなったな。
ぐにゃぐにゃと空間が歪み、再びの場所移動。萃香に幽々子にフランと来て、今度は何だろうと身構えていれば、そこは、四方八方が真っ暗闇な空間。
慌てて下に向けて光線を放とうとして、別段落ちたりはしない事に気付き、ゆっくりと腕を下ろした。
驚いて暴れる心臓に、胸を押さえて、落ち着かせる。一つ息をついて、それから、眼前に視線をやった。なんというか、こういうものって、必ず前から何者かが現われるものだと思うし。
案の定、闇の中からゆっくりと歩んでくるものがあった。赤色の着物の裾と、白い靴下に、
長い振袖。胸元まできて、そこに垂れる藍色のリボン。腰まで届く長い髪に、腰に巻かれた大きな布。
顔が見えた。
……霊夢? あーいや、違う。あんな大人びた顔じゃない。あれは、どちらかというと……そう、鏡で見る俺の顔のような……?
既視感に小首を傾げていれば、彼女は薄緑色の瞳をまっすぐ俺に向けるだけでなく、その両腕もゆっくりと持ち上げて、『ちょうだい』をするかのように、俺に向けた。
「――――見せて」
儚い声。どこかで聞いた覚えのある声。幽霊のように、ふらふらとした足取りで彼女は歩み寄ってくる。一歩、また一歩と距離を詰めてきて、指先が、目と鼻の先までに迫っていた。
「もっと近くで――――あなたを」
ぶつんと、声が途切れた。それと同時に、彼女の姿も消えてしまった。最初から存在していなかったかのように、後には闇が残るばかりである。
……なんだったんだろう、今のは。
もやもやする胸に再び手を当てて、息を吐く。ちょっと、苦しい。気分が悪い。
息苦しさに俯いていると、しゃらん、と、錫杖を鳴らしたような音が聞こえてきた。顔を上げれば、暗闇の向こうから淡い光を纏った少女……が、現われた。
「……魅魔」
太陽の絵柄のある青い三角帽子に、ダークグリーンのロングヘアー。帽子と同じ色の服の、長いスカートには、いくつかの三日月が踊っていた。
悪人面の中で鈍く光る緑色の瞳が俺を射抜いている。何を言うでもなく、歩みを止めた彼女は、先端に三日月の付いた、自身の身長よりも長い杖で地面を突いた。
しゃらん、と不思議な音色が空間を駆ける。ありえるはずの無い音が出るのは、彼女が魔法使いだからだろうか、それとも悪霊であるからだろうか。
「いかにも」
私は魅魔だ、と、彼女は言った。無駄に重々しく、無駄に尊大に。
凛として立つ彼女を胡散臭い思いで眺めていると、上空から魔理沙がやってきた。すいー、と魅魔の横まで来ると箒から飛び降り、彼女の名を呼びかけながらその隣に立つ。それから、二人揃って見つめてきた。
……なんだろう。なんか、大事な用があって呼ばれているような感じなんだけど、今すぐすっぽかして逃げ出したくなった。
ふと、魅魔が一瞬、右に左に目を馳せた。そうすると、左右からも少女がやってくる。
左から来るのは、水色の長い髪と、六枚の羽を持った少女。あれは、覚えがある。天使だったかなにかだ。青い水晶のはまった長い杖を手にして、両方の目をつぶっている。
右から来るのは、遠い記憶の中の、そのまた一枚隔てた向こう側で見た少女だ。床、があるかどうかは知らないが、そこから少し浮き上がって移動してきたのは、魔界の神である神綺。僅かに揺れ動く銀髪のサイドテールが、幼い容姿とあいまって、この空間でコミカルさを演出していた。神々しい、いや、まさしく神の力と雰囲気を纏う彼女には、そんな自覚はないのだろうけど。
赤い肩掛け、
三方向に大物が揃ったようだが、さて、何が始まるのだろう。腕を組もうとして、片方が無い事を思い出し、宙を彷徨わせた後にゆっくりと下ろす。
「あはは、靈夢。かたっぽ無くしちゃったんだ?」
その仕草を見て、魔理沙が反応したようだ。悪気の欠片も無い笑顔を浮かべて、そんな事を言う。彼女にとって、俺の腕が肩ごと無くなっているのは、大して気にする事でもないらしい。
左側だけで肩を竦めて見せると、痛ましいですね、と透き通った声。天使様の声らしい。喋れたんだ、あんた。
「ずっと見てたよ、あんたのこと」
唐突なカミングアウトに、一瞬硬直する。魅魔、今、なんて?
見てた? ずっと?
……ストーカー?
「頑張ってきたみたいじゃあないか」
ぽふんと、魅魔が魔理沙の頭に手を置くと、顔の半ばまで帽子が埋まって、魔理沙はそれを慌てて押し上げた。
長い間戦ってきたんだ、感動したよ、と魅魔。それは、どういう意味か。……感動させるような事をしたつもりは、ないんだけど。
「ち……力を貸そう。魂の代価は……既に頂いた」
台詞の最初でぴくっと眉を動かして、明らかに今考えて喋っているような様子の魔界神様。魂の代価。なんだか凄そうなものだけど、そんなもの払った記憶なんてない。というか、なんで力を貸そうとしてくれるのか、その経緯がわからないんだけど。
カードを掲げなさい。と、天使が言うのに、首をかしげる。どのカードの事?
迷っていれば、分身のためのカードだよ、と魔理沙が教えてくれた。なるほど! と頭のリボンに手をやってごそごそやっていると、まだ、思い出せてはいないのですね、と天使様。うーん、なんか天からの声って感じだ。……何を思い出すって?
博麗幻影のスペルカードを取り出すと、俺が掲げる前に勝手に宙へ浮かび上がり、眩い光を放った。咄嗟に腕で目を庇うと、手の中にカードが飛び込んでくる。
ちかちかする目で絵柄を見れば、俺を中心にして、周りに何人もの少女の姿が描かれていた。魔理沙に魅魔に、神綺にサリエル様。仰々しいマントを羽織った赤髪の女性だとか、緑の髪をしたもんぺの妖怪とか、他にも色々?
デザインが大きく変わってしまった事に気を落として、だけどすぐに、凛々しく描かれた自分の姿に満足して頷く。きりっとした顔付きが、凄く良い。
さっと、天使様が杖を振った。右肩の辺りに光が集まり、みるみるうちに長袖が作り出されていく。……袖だけ、なのね。
厚みも無い、揺れるだけの袖を微妙な気持ちで眺めていると、そのままでは、見栄えが悪いからねぇ、と魅魔。なんだ、俺は商品か何かか。
「さあ、受け取りなさい。そして、進みなさい。役割のためでなく、あなたのために。あなただけのために」
天使様が、相変わらず両目をつぶったままで、微笑んでそう言ったかと思えば、次にはそのままの姿勢で俺に突っ込んできた。
ぎょっとして飛び退こうとすれば、力の奔流に飲み込まれ、それが鬱陶しいくらいに体に絡み付いてきた。激しい風が吹き荒れて、ばたばたと袖がはためく。流れる髪を押さえて目を細めていると、それじゃあ私も、と、魅魔まで突っ込んできた。やだ、気色悪いな、もう。
ちょいと顔を背けて、身を貫く力そのものを耐え凌ぐ。何だかよく分からないけど、体の中心が熱くなっている。これが、力を貸すという事……なのかな。その理由も、それがそうなのかも分からないまま、火照る体を少しでも冷ますために、足を開いて体重を移動させる。
袴の裾が揺れ動いた時に、僅かに入り込んできた風がじっとりとした足を撫で上げ、変な声が出そうになるくらい気持ちが良かった。
すー、と空中を移動してきて目の前まで神綺がやってきたので、顔を上げて、顔を合わせてやる。俺とお前は、面識があったかなかったか。
あまり気負いすぎるな。あなたが思う程、それは罪ではないし、苦しんでもいない。
一層神々しさを増させて、神綺が言う。記憶の中の彼女は、もうちょっと子供っぽかったような気がするが、流石は『かみ』か。威厳がある。……じんわりと闇を照らす、霊力や妖力よりも余程濃密度なその神力は、だけれど。あんたは、別。ご大層な口調で話したくせに、にへ、と困ったように笑って、アリスちゃんと仲良くしてあげてね? なんて言うのは、全部台無しだ。
……仲良くは、するよ。仲が悪いわけじゃないから。
こくりと頷くと、彼女は僅かに首を傾けてサイドテールをぴょこんと揺らし、良かった。あなたも頑張って! と声援を送ってきて、ゆっくりと俺に重なってきた。途端に荒れ狂う力。
さて、残るのは魔理沙だけになったわけだ。風に細めた目で彼女を見やれば、紫色の、ふとすれば闇に溶けてしまいそうな服のスカートをぱたぱたと手で揺らして、一人遊びをしていた。俺が見ている事に気が付くと、ああ、魔理沙の番? と問いかけてくる。俺に聞かれてもねえ。
彼女が手に持っていた箒をさっと空中に投げると、空間に溶け込んで、無くなってしまった。彼女が気にせずこちらに歩いてくるのを見れば、魔法か何かで仕舞ったのだと理解できた。
「久しぶりね、靈夢」
小首を傾げて、それを返事にする。今更のような気もするが、そもそもなんであんたらがここにいるんだ?
彼女は答えず(声に出して聞いたわけじゃないから、当たり前なのだけど)、あの頃とは、随分変わったわね、と、そう言った。
あの頃って……あの頃?
遠くて近い記憶を思い出し、その中に彼女の姿を見つけて、それを、目の前の彼女に重ねる。
あなたは、全然変わってないのね。自然と、そう口にしていた。
「そりゃあ、まあ」
彼女は肩をすくめて笑い、それから、今のあなたは、とても楽しそうだ、と言った。今も昔も変わらず、楽しんでるつもりなんだけどね。
そんな感じの事を言ってみれば、ちがうちがう、と手を振る。
「……思い出さない方が、幸せそうね」
彼女は、寂しそうにそう言って、でも、もう賽は投げられたと、手を挙げた。ぱちん、と指を弾く音。ああ、また別の場所に行くんだな、と直感した。
◆
世界に色が戻り、音が戻り、光が戻る。思わぬ五感の回復に驚く間もなく、目前にゆっくりと迫る光弾を見た。どうしようかと立ち上がると、目の前を何かが過ぎり、と同時に轟音。爆風に煽られて、踏ん張る事もできずに吹き飛ばされそうになると、誰かに背中を支えられた。
見れば、魔理沙が背を押してくれている。前に顔を戻せば、どうやら光弾を弾いてくれたらしい天使様が、俺の方を向いて微笑んでいた。手を貸してもらって体勢を整え、魔理沙に礼を言い、それから、隣に突っ立ってるだけの魅魔を見やった。ちらりとこちらを見てきて、すぐに前を向く。なんか言え。
煙が晴れれば、驚愕の声が聞こえてきた。見上げれば、八意永琳がそこにいる。目を見開いて、いかにも驚いていますといった風な表情だ。さしもの月の頭脳にも、予測できなかった事態が起こっているからだろう。俺にも予測できない事態でもあるんだけども。
だが、そこは流石と言うべきか、あっというまに冷静さを取り戻したようで、分析でもしようというのか、せわしなく目を動かして俺たちを見回していた。
実体、と呟くのが聞こえると同時、天使様が動いて、俺の背後についた。魔理沙が隣に立ち、魅魔は、しゃん! と杖を打ち付けて、姿を消した。……なぜ消えた。
……まあ、いいか。そういや、神綺もいないし、別にそんな力を貸して欲しいとも思ってないし。
背後霊のようになった天使様が、「あなたの右腕になりましょう」と、ふわふわ響く声で囁いてきた。あ、それは頼もしい。ぜひ転んだ時とかに助け起こして欲しいね。片腕だとバランス取り辛そうだから。
援護するよ、と魔理沙。それもまた、頼もしい。と、そこでまた、天使様が囁いてきた。神綺からの贈り物です、だとかなんとか。
聞き返す前に、背に生えた、いや、生えるようにしてそこに出現した六枚の黒い羽を見て、それから、なんとなく飛べるようになった事がわかったので、口を開くのはやめた。……ちょっと、この羽邪気が強すぎるんだけど。浄化しちゃだめかな。……だめか。
「でたらめね、本当に」
永琳の声に、彼女を見上げる。何を、知った口を。俺にだって何が起きてんのかよくわからないのに。
何をどうやってそうなったのか、床にめり込んだ黒棒を見つけて、しゃがみこんで取り出す。あっちい。爆発の真下にでもあったのか。
さて、厄介なバリアーはまだ健在のようだが、どうやら空を飛べるようになったし、あの四つの基点を叩けば、たぶんだけどバリアは消えるだろう。そしたら、殴る。……平手にしとこうかな。
そうこうやってる内に、あちらさんの考え事は終わったようだ。ばっと両腕を広げて、バリアーに霊力を流し込み始める。
「どうにも、力が混ざりすぎている。本当にあなたなの?」
意味の分からない問いかけには答えず、腰を落とし、左腕を前にして構える。魔理沙が箒を手にして、一歩前へ出た。一瞬目配せをされたけど、意図は理解できなかった。
霊力を爆発させて、身に纏う。心地良い感覚が体中に溢れ、漏れ出た霊気がふわりと髪を持ち上げる。
「どちらにせよ……ここで、終わりよ!」
彼女の声を合図に、俺は飛び出した。
……約束なんかした覚え、ないんだけどなあ。