『霊異伝』   作:月日星夜(木端妖精)

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第二十四話 見守る靈夢

 

「紅魔館へ行くわ」

 

 廊下を歩く霊夢の後ろを歩いていると、唐突にそう告げられた。珍しいな、外に出る事もそうだけど、紅魔館へ行くなんて。

 自分も付いていく、と短く返して、踵を返して寝室に向かう。角を曲がると、霊夢の気配が遠のいた事に焦燥感を覚えた。

 朝からずっとくっ付いてたから、ちょっと離れるとこれだ。難儀なものだよ、感情というのは。

 手の平に爪を突きたてながら、足早に寝室に向かい、そこから霊夢の上着やらなにやらをとってくる。

 玄関へ行けば、外へ出る準備をしている霊夢の姿があったので、その背中に上着をかぶせた。

 今日は、寒い。もう冬に入ってるし、最近はちらほら雪も降り始めてる。腋を出すのはいいが、それで風邪を引いたら魔理沙に笑われるぞ。

 ありがと、と短く礼を言う霊夢の左隣に座り込んで、靴を()く。と、赤い、子供っぽい靴にすっぽりと足を納めた霊夢が俺を見上げ、上着は? と疑問の声を上げた。

 

「気にしないで、霊夢。私は平気だから。ほら、それよりも……ちゃんとしなさい。風邪を引きますよ」

「……うん」

 

 俺がかぶせたままで上着を羽織っているだけなもんだから、それじゃ駄目だと注意して、ちゃんと着せてやると、霊夢は顔を落として、小さな声で呟いた。

 手を取って、袖から取り出した、毛糸で編んだ手袋をはめようとすると、それくらいできるわよ、と掻っ攫われてしまった。

 手持ち無沙汰になってしまったので、霊夢の背に手でも置こうかと思ったのだが、生憎(あいにく)と腕が無い。揺れる袖を見つめて、こればっかりは仕方ないな、と息を吐いた。

 霊夢が立ち上がり、玄関の戸を開くので、俺も立ち上がって、外へ出る霊夢を追った。

 うぐ。寒い。緩く吹く風さえ肌に染み込んで、あっという間に熱が奪い去られていく。強がらずに上着を羽織ってくれば良かったかな。……いやいや、それはない。

 寒くない? と霊夢に問うと、あなたの方が寒そうにしてるじゃない、と呆れて返されてしまった。むむむ、そんな寒そうにしているように見えるか。きりっと顔を引き締めておこう。

 

 さて、紅魔館へ行くには移動手段が必要だ。軽く手を上げ、指ぱっちんをする。いつもならこうすれば玄爺が来るのだが……来ないな。やっぱり拗ねてるのかな。

 二月程前……ちょうど、永夜異変が終わった頃か、神社に戻ると、甲羅から飛び降りた俺に、玄爺は寂しそうにこう告げた。

 

『私の役目は終わりましたな……』と。

 

 それきり、池の中から出てこなくなってしまった。どんなに呼びかけても、水面を突付いてみても。玄爺もそろそろ引退したかったのかな。

 どうしようかと考えていると、『力を貸そう』と、神綺の声が耳元で。大仰だなあ。しかし、助かった。素直に力を借りるとしよう。

 心の中で了承の意を返し……ついでに、定期的に力を貸そうとか言わなくていいよ、夜中とか目が覚めちゃうから、と伝えると、答える声はなく、ただ、背中に六枚の羽が広がった。

 邪気の染み込んだ硬質な羽には、血管のように赤い線が幾つも走っていて、時折鈍く光る。それが余計に禍々しさを引き立てていた。

 霊夢が俺の後ろに回って、羽を撫でた。邪気が祓われ、代わりに、白く清い光が全体を覆う。……見た目の禍々しさはそのままだけど。

 『ああっ、浄化しないで~……』なんて魔界神が弱音を吐くのを無視して、肩越しに、ありがとう、と礼を言うと、霊夢は少し嬉しそうに笑い、予備動作もなしに空へと舞い上がった。

 羽を広げ、後を追う。肌寒さに、自然と自分の体を抱きながら。

 

 

 紅魔館につくと、そこに門番の姿は無かった。羽を消して地面に降り立ち、重い鉄の門を押し開けて、館へと続く道を歩んでいく。

 道を(いろど)る一面紅一色の花壇。……いや、その中に一つだけ、紅でないものが混じっていた。白い花が円状に咲き、その中に、五芒星を描く白色の花たち。

 不思議な光景に目を奪われていると、その花壇の前で頭を抱えて座り込んでいる門番の姿を見つけた。

 どうかしたの、と声を掛けたかったけど、霊夢が気にせずに先へと進んでいってしまうので、それは叶わなかった。

 

 紅魔館に進入してすぐに、咲夜はどこかしら、と霊夢が呟く。さあ、どこだろう。いきなり現れるイメージがあるんだけど、実際そうでもないし……レミリアのところかな。

 

「あなたたち、こんな所で何をしているの?」

 

 会話もなく暫く歩いていると、突然目の前に咲夜さんが現れた。……あ、やっぱり凄い唐突だ。

 魔理沙、来てない? と問う霊夢に、それならパチュリー様の所に、と咲夜さん。あれ? てっきり咲夜さんに用があるとばかり思ってたんだけど。

 首を傾げつつ、案内すると言って歩き出した咲夜さんについて行く。まあ、なんだっていいや。どうせ俺は霊夢に付いてるだけだし。

 図書館につけば、金の装飾を施された大きな扉を開けて俺たちを中に入れた咲夜さんが、後で紅茶をお持ちしますわ、と言って姿を消した。クッキーとか出るかな。わふわふ。

 背の高い本棚が並ぶ中を、確かな足取りで進む霊夢。何度か足を運んだ事があるのだろうか。それとも、ただの勘かな。でも、普段の霊夢って結構おっちょこちょいだから、道に迷ったりしないか心配だ。こんなに本棚が入り組んでると、俺だって迷ってしまいそうだし。

 霊夢の右隣に並んで、手を取る。あんまりほいほい進んでると、迷子になるぞ。

 子供じゃないんだから、と文句を言いながらも、霊夢は俺の手を振り払ったりはしなかった。

 ……十分子供だと思うんだけど。

 

 扉から真っ直ぐ進んで行くと(とは言っても、本棚が入り組んでいるせいで、真っ直ぐかどうかはわからないのだけれど)、壁にかかった巨大な柱時計の下に、俺たちを迎えるように机があった。机の上にうずたかく積まれた本の隙間から、紫少女が読書しているのが見える。

 そこまでくると、見られたくないのか、霊夢は手を離してパチュリーの元へと歩いて行った。……横にある白い丸テーブルに()いているのは、魔理沙じゃないのかな。俺の目がおかしいのか?

 魔理沙の元へ行くと、読んでいた本から顔を上げて、よう、と挨拶をしてきた。うむ、フレンドリーで大変よろしい。柔らかに揺れる金髪も、相変わらず弄りたくなるな。ちなみにトレードマークの黒帽子は、今は魔理沙の上から退かされて机の上に置いてある。

 こんにちは、と挨拶を返し、それから、何を読んでるの? と本を覗き込む。ああ、これ? と俺に見やすいように本を傾けてくれた魔理沙だけど、横文字がずらっと並んでいて理解不能だったので、面白いの? と聞いてみた。

 

「ああ、面白いぜ。まったく、ここには私の知らない事が多すぎる」

 

 愚痴を言うような声音で、しかし嬉しそうに魔理沙は言う。知識を得るのが楽しくて仕方ないといった様子だ。俺にはちょっと、その気持ちはわからないな。

 向かい側に我関せずとして本を読んでいるアリスに目を向ければ、今気付いたというように顔を上げて、「あら、こんにちは」と白々しく挨拶をした。さっきからちょいちょいとこちらを見てきてたのはわかってるんだけど。

 最近どう? と聞いてくるアリスに、ぼちぼち、と短く返し、机の上に置いてあったとんがり帽子を手に取る。布地の触り心地が良いもんで、つばやとんがりの先っちょなんかを弄って遊ぶ。

 魔理沙は特に気にした様子もなく、本を読む事に専念していた。

 かぶる? とアリスに問いかけると、ん? え? あ、え、遠慮しとくわ、と酷くどもりつつも、断られた。あー、そう。アリスはかぶってみたいとは思わないのかな。俺はかぶってみたい。

 というわけで、かぶっていいかと魔理沙に聞けば、上の空でこくりと了承。晴れて帽子は、俺の頭へと収まった。……ちょっときついけど。

 具合を直していると、魔理沙が俺に向けて指を振って、魔力を放った。ぽん、と帽子の大きさが変わるのに、ああ、魔法を使ったのか、と納得する。どういう原理なんだろ、これ。

 似合ってるわよ? とアリスが言うので、気を良くしてくるくる回ったりなんかして。

 それから、パチュリーと何やら話し込んでいる霊夢の元へ行くと、「ちょっとあっち行ってて」と冷たくあしらわれてしまった。

 うむむ、霊夢がそう言うのなら仕方が無い。俺は適当に歩き回ってる事にしよう。

 

 帽子のつばを押し上げたりつまんで格好つけたりしてみながら、本棚の間を歩く。

 ……そうだ、せっかく図書館に来たんだし、調べものでもしてみようか。たとえば……あー……ああ、転生についてとか。

 本棚に歩み寄り、ざっと背表紙を眺め回す。うーん、日本語の表記が少なすぎる。わかんないや。

 腰の後ろで手を組んで(いや、組む手は無いんだけど)、軽く本棚を流し見ながら歩いていると、せっせと本を片付ける少女を見つけた。頭に羽が生えてる。……悪魔的なあれか。ここにいるって事は、司書さんだったり? まあいいや、本を探してもらおう。

 声を掛けると、怪訝な顔をしつつもこちらに飛んできて、話を聞いてくれた。こんな本を探してるんだけど、と言えば、それなら、と探してきてくれる。や、悪いね。

 本を抱えて本棚の向こうに消えていく司書さんを見送った後に、本棚に背を預けて、本を開く。片手でも、抱えるようにしてやれば上手くいくもんだ。お、よし、要望通り日本語の本だ。……でもなんでこれ、表紙は英語なんだろ。

 

 知りたい情報が得られるかな、と、難解な記述と睨めっこする事二時間近く。駄目だこりゃ。さっぱりわからん。というか、宗教の話なんてどうでもいいよ。

 持って来てもらっておいて悪いけど、こんな本を読むくらいなら、稗田の子に話を聞いた方が有意義そうだ。

 大きく息を吐いて本を閉じ、肩の凝りを(ほぐ)すために振り回す。本の重さに引っ張られて、良い感じに肩が解されていく。

 そんな事をやってると、不意に、ひょいと帽子が飛び上がった。なんだなんだと見上げれば、上の方に箒に乗った魔理沙がいて、浮かび上がった帽子をキャッチして頭に乗せた。

 下降してきた魔理沙が、みんな待ってるぜ、と言う。みんなが? なんで?

 箒の後ろに乗せて貰いながら聞き返せば、みんな揃わないと、お茶会は始まらないだろ? と笑う。へえ、わざわざ待ってくれるんだ。

 

 すいすいと本棚の迷路を抜けていくと、パチュリーのいる場所に戻った。降ろしてもらうと同時、その本、いるか? と聞かれて、いらないと首を振れば、じゃあ戻しとく、と言うので、渡しておいた。

 なんだろう、やけに楽しそうにしてるけど……魔理沙だけでなく、テーブルに着いているアリスや、パチュリーまで。霊夢だけは、こちらに背を向けて座っているので表情は分からなかった。

 よたよたと歩いて霊夢の元まで行けば、こんにちは、とパチュリーに挨拶をされた。そう言えば言葉を交わしてなかったな。軽く頭を下げて、すぐに霊夢の顔を見る。ぷいと逸らされた。……あれ?

 霊夢? と声を掛けると、むすっとした顔で俺を見て、すぐにまた逸らされる。な、なんで?

 なんか悪い事したかな? と考えていると、本を片付けた魔理沙が戻ってきて椅子に座り、ほら、席に着きなよ、と急かしてきた。

 霊夢の右隣に腰を下ろし、顔色を窺いながら、どうして怒っているのかを考える。俺、何もしてないと思うんだけど。

 ……もしかして、俺に引っ付いていられるのが嫌とか? そうだと、悲しいな。……せっかく離れないと誓ったのに、やはり独りよがりがすぎたか。

 落ち込んでいると、さあ、飲みましょう? とパチュリーが言うので、とりあえずティーカップを手に取る。湯気と共に(のぼ)る落ち着いた香りに、気を取り直して一口飲む。む、良い甘さ。さすが咲夜さん、俺の好みを分かってるな。紅茶にはミルクより、お砂糖をどばどばだよ。

 テーブルの中央に置かれたお皿には、クッキーが山と盛られている。焼き色と匂いが、なんとも空腹を誘う。どれ、早速一枚。

 ちょいとつまんで口に運び、舌に乗せると同時に咀嚼して……びきりと、固まった。不思議そうにみんなが見てくるが、そんな事を気にしている場合じゃない。舌に広がる刺激……これは、塩だ!

 喉の奥まで押し寄せる塩辛さに吐きそうになるのをぐっと堪え、平静を装って紅茶を喉へ流し込む。熱さなんて、この舌の痺れにくらべればどうってことな……喉熱っ!?

 カップを置き、一息つく。まさか、咲夜さんのクッキーでこんな目に遭うとは。期待の度合いが高い分、失敗に直面した時の絶望感が半端無い。あ、いや、絶望というか、そんな事より舌がやばい。

 霊夢の手前、情けない顔をするわけにもいかないので必死に堪えてはいるが、できるなら今すぐ吐き出したかった。怪訝な顔をしてクッキーに手を伸ばす霊夢の腕を掴んで止める。何、と目を向けてくるのに、なんと答えれば良いか一瞬迷って……これ、全部食べてもいい? と聞いていた。

 なんだ、そんなに美味いのか、と魔理沙が手を伸ばすので、今度はそっちを止める。一枚くらい良いじゃないか、だって? だめだめ、これは俺のなの。

 

「なに、食いしん坊ね」

「クッキーが好物なの?」

 

 カップを傾けてアリスが笑い、同じようにして、パチュリーが聞いてくる。うん、好き好き。特に、塩を練りこんだクッキーとかね。で、食べて良いの?

 三度程しつこく聞けば、別に良いけど、とパチュリー。魔理沙は不満そうにして、霊夢は不思議そうにしていた。これを霊夢に食べさせるくらいだったら……俺が食べるしかないでしょ。

 皿を引き寄せ、クッキーを見つめる事五分。本を読み始めていたアリスに「食べないの?」と聞かれて、意を決して一枚掴み、震える手で口に入れた。途端に、塩が猛威を振るう。塩クッキーやばい。名前に塩が入っている塩キャラメルだってこんなしょっぱくないのに。

 無心になってもぐもぐやってると、魔理沙の後ろにぱっと咲夜さんが現れた。紅茶のお代わりをお持ちいたしました、だって。そいつを寄越せ、俺は神になるんだ。

 一番にお代わりを注いでもらい、一気に(あお)る。行儀が悪いわよ、と霊夢に叱られてしまったが、こればっかりは許して欲しい。ふひー、と熱っぽい息を吐き出して、人心地つく。うー、生きた心地がしなかった。こりゃ、夕飯は味のしないものになりそうだ。

 全員に紅茶のお代わりを注いだ咲夜さんが、それではとか言って頭を下げるのを制して、お皿を持ち上げて突き出した。一枚食べない?

 

「遠慮しておくわ。仕事中だから」

 

 あ? お前の都合は聞いてないよ。いいから食え。

 あくまで笑顔を忘れずにお皿を突き出すと、眉を寄せて、じゃあ、一枚だけ、と咲夜さんが折れた。クッキーを手に取り、一口()む。

 咲夜さんの時間が止まった。

 

 「どうしたの?」とパチュリーが問うと、ようやく放心状態から戻って、あ、や、取り替えてきます! と言って、皿を持って消えてしまった。

 なに? どういう事? と聞いてくるアリスに、髪の毛でも入ってたんじゃないの、と返して、ちらりと霊夢を見た。

 カバーの掛かった小さな本を興味無さげに読んでいるだけで、咲夜さんの挙動なんて気にしていないみたいだ。対照的に、魔理沙は本を読むのを中断して、咲夜さんの挙動の理由を考えているようだった。

 

 舌の痺れを取るためにぼーっとしていると、あっという間に時間は過ぎて、お暇する事になった。

 小さな本を両手で持って眺めている霊夢に、気に入ったの? と問うと、肯定を返された。どういうお話なのかを聞いたり、どう感じたかを聞いたりしていると、後ろでごにょごにょやっていた三人がこちらへきて、さ、帰ろうか、と言った。

 図書館の外まで見送るわ、とパチュリーが言う。体弱いんじゃなかったっけ。大丈夫なのかな。……なんか楽しそうにしてるし、大丈夫なんだろう。

 でも念のため、大丈夫かと聞いて見たら、にんまりと笑って「ええ、大丈夫よ」と腕を上げて見せた。それならいいんだけど。

 前へ出るパチュリーの背を目で追うと、霊夢が怪訝な顔をしているのに気が付いた。その顔で、俺を挟むようにして立つ魔理沙とアリスの顔を見ている。

 どうしたのかと思って見てみれば、二人とも、なんだか楽しそうな顔をしている。何だというんだ。

 仲間はずれかな、なんて考えながら、霊夢の手を取ってパチュリーの後を追う。恥ずかしそうにしている霊夢が可愛い。

 

「それにしても」

 

 顔を落として歩く霊夢の歩調に合わせていれば、前を行くパチュリーが声を発した。それが自分に向けられたものだと感じて次の言葉を待っていれば、貴女って、お母さんみたいね、とよくわからない言葉。

 お母さんみたい? ……パチュリーの?

 なぜかずっこけそうになっていた霊夢を支えてやりながら、疑問を口にせずパチュリーの背を見ていると、そうそう、急に大人しくなっちゃって、とアリス。

 大人しいのは元々だけど……ああいや、何が言いたいんだ?

 半眼になった霊夢と一緒にアリスの顔を見ると、そんな靈夢とどう付き合えばいいかわからないんだってな、と魔理沙。

 魔理沙にぽんと肩を叩かれて、恨みがましそうにする霊夢に目を向けると、ぷい、と逸らされた。

 そう思ってたんだ、霊夢。

 ……まあ、自分でも急に態度を変えすぎてるかな、と思ってたし、霊夢が困惑するのも当たり前か。

 

「……私に付いていられるのは、嫌?」

 

 だったら、素直な気持ちを聞かせて貰おうと、そう聞いてみた。

 霊夢は首を振り、そういうわけじゃないんだけど、と小さく呟いて、それから、嫌じゃ、ないけど、と、握る手に力を込めてきた。

 わからないのよ、と、弱々しい声。

 何がわからないのかも、わからないというような声。

 ……実を言うと、俺もちょっとわからない。この子は……俺の本当の子じゃない。ああいや、元からそうなんだけど、そうじゃなくて。俺の子は、この子じゃない。本当の娘は、遠く、記憶の向こうにある楽園にいる。だから、いや、だからこそ、か。

 ――この子に、こんな情を向けていいのか。

 置いてきてしまった子たち。育つ先を見て上げられなかった子たち。その子たちの代わりにしていいのか。

 

 ぐるぐると回る記憶。動かない片腕を寂しそうに持ち上げる娘の姿。一緒に戦うと、修行に飛び込んできた娘の、幼い闘志。死に目に出会ってしまった時の、あの子の表情。

 幾度拾い幾度育て、幾度見放してきたか。それらの自分に、その記憶が無かったとしても。そもそも、あいつさえ、あいつさえいなければ、私が子を見放す必要など無かったというのに。

 暗がりにちろちろと揺れる蝋燭の火のように、黒い影が揺れる。ああ、わからない。憎い(かたき)の姿が、思い出せない!

 『思い出してしまったのね』、と、魔理沙の声が憎しみで満たされた胸の中に響いた。そんなの、とっくの昔からだ。自分がどういう存在なのかを知ったのは、八意永琳との戦いの中。お前たちと出会ったその時だ。

 何もかもがごちゃまぜになった記憶。巫女として生きたたくさんの中に、現代で生きた一つだけの記憶。

 整理できない。わからない。その点で言えば、確かに俺は本当の自分を思い出せてはいないのだろう。だけどもう、そんな事はどうでもいい。

 いつの時代も見ることのできなかった、この子が成長していく姿がここにある。それさえ守れれば……今までの子たちの分まで守れれば、それでいい。

 

 下を向いて歩いている内に、図書館の出口まで来ていた。俺を見上げる霊夢に微笑んでみせて、それから、パチュリーが開けてくれた扉の外へと歩いていく。

 と、目の前に咲夜さんが現れた。このままじゃ帰らせられないから、夕食に招待する、と言う。どうしようかと霊夢に聞こうとして、「あら、いいじゃない」とパチュリー。魔理沙もアリスも賛成して、それなら、受けておくかと頷いた。

 

 きっと、上等なワインがでるだろう。酔いの中なら、俺も口が回るはずだ。重要なのは、解すこと。この子との関係を自然なものにする事。

 母だなんて思うのは、俺だけでいい。ただ、昔のように笑い合えるようになれば、それだけでいい。

 

 

 目を逸らす。

 自分が何故ここにいるのか、どうして共に歩んでいられるのか。

 全てから目を逸らし、そして、見たいものだけを見る。

 それが良い事なのか悪い事なのかは、今はまだわからない。

 でも、なんだっていい。先の事は、わからなくていい。

 

 幼い月に、グラスを掲げる。きっと、知っているだろう、お前なら。

 運命なんて簡単に変えられるという事を。

 

 ぱちんと、扇子を閉じる音が、どこかでした。

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