いつになったら気付くのだろうか、その苛立ちは、自分自身へのものだという事に。
境内に降り立ち、片手に箒を持って縁側へと歩む。僅かに開いた障子戸の間から、霊夢の歌声が聞こえてきた。料理をしている時によく口ずさむ曲。
靴を脱ぎながら縁側に乗り、障子に手を伸ばして開ける。半ばにあった雨戸もいっしょに押し込んで、ずりずりと居間に侵入した。
霊夢の奴、大分調子が戻ったみたいだな。
聞こえてくる声の調子は、まだ無理にそうしているようにも聞こえるが、もう大丈夫だろう。
……靈夢が神社を出て行ってから、随分と時間が経った。穏やかな春を越え、暑い夏を越え。冬が来てようやく、霊夢も落ち着いてきたみたいだ。まだ顔も見てないから、そう断定はできないが。
まあ、鼻歌を歌えるくらいにはなってるんだ、大丈夫だろう。
大丈夫、大丈夫と何度か胸の中で繰り返しつつ、立ち上がって台所へと向かう。
靈夢がここを出て行くと言った時、霊夢の奴は、なぜかショックを受けていたようだった。そりゃ、ずっと神社に住んでいたから、今更出て行くのはなんでなんだろうとは思ったが、前に、「あんまり迷惑を掛けてられないから、その内出て行くかも」と言っていたので、そこまで不思議には思わなかった。
……まあ、それ以上に気になる事があったし。
葬式でもするみたいな顔して、出て行くと言う靈夢。それを受けて、酷く動揺していた霊夢。
何がそこまで霊夢の心を動かすのか、何があって靈夢があんな表情をするに至ったか、そして、二人の間にあるものを理解できなくて、ずっともやもやしていたけど、最近になってその正体がわかった。
ぎしりと音を立てて台所に踏み込むと、歌が止まった。火にかけた鍋を長い箸でかき回していた霊夢が、ゆっくりと振り返る。
よう、と声を掛けると、ぷいと顔を逸らして、久しぶりね、と素っ気無い声。僅かに見える頬が、朱に染まっていた。
ははあ、恥ずかしがってるな、歌を聞かれた事を。
それをだしに、めいっぱいからかってやりたい衝動に襲われながらもなんとか堪え、何作ってるんだ? と問いかける。
数秒間の沈黙の中に、かちゃかちゃと箸を動かす音だけが響く。その後に、お味噌汁よ、見ればわかるでしょ、と、霊夢。
「大根がもりだくさん?」
小首を傾げて問えば、うん、と小さく答えられる。そーかそーか。あいつ、好きだったもんなあ、大根のお味噌汁。
火を消した霊夢が、箸をお玉と取り替えて、横に置いてあったおわんを取ってそれにお味噌汁を注ぎながら、食べてくでしょ、と呟いた。
うん、食べてく。そのつもりで来たんだ。
「持ってくから、あっちで待ってて」
こくりと頷いて返し、居間に戻る。卓袱台の上には茶碗やらが伏せてあった。……二人分。
私が来るとわかっていたはずもないから、これはきっと、あいつの分なんだろう。フランはとっくの昔に紅魔館に戻ってるし。……それともあいつ、今日来るのか?
まあ、いいか。来ても来なくても。
座布団の上に座り、横に箒を置いて、ついでに帽子も置く。魔法でちょちょいと手を洗浄すれば、食事への準備は万端だ。
程なくして、お盆におわんを二つ乗っけた霊夢が戻ってきた。
二人で食事をする中で、それとなく、霊夢の今の心境を聞いてみた。出てったあいつの事をどう思ってるのか、一人で寂しくないか。
霊夢は寂しそうに笑って、一人でいるのは、昔に戻っただけよと言った。あいつの事には触れなかった。
でも、わかる。長い付き合いだ、こいつの心境なんて、自分の事のように……とまでは、まあ、いかないが。大体はわかる。
「迷ってるんだろ?」
霊夢が、箸を止めた。
顔に書いてある。『私、靈夢に会いたいです』ってな。
そう言ってやると、そりゃ、そう、だけど、とえらく歯切れが悪い。滲み出る気持ち。揺れる瞳に浮かぶ、気持ち。やっとわかった。それは、家族に対する気持ちだ。
久しく忘れていたもの。最近ずっと感じていなかったもの。だから、私にはわからなかった。そして今もわからない事がある。
だから聞く。ストレートに。きっと今の霊夢なら、答えてくれるだろう。
「こないだ、閻魔様が来てたよな。で、お前……何を聞いた?」
顔を落として、別に、という霊夢。拒絶の言葉じゃない。次に言う言葉を捜している様子だ。
右に左に目を揺らして、それから、ほんとに、なにも、と小さい声で言う。
「ただ、私のお母さんが、生き返ったよって」
珍しく弱々しい。消え入るような言葉の尾にかぶせて、あいつの事か? と聞く。そうとは言ってなかった、と霊夢は首を振った。
だけど、そうだと思う、と。
「去年の秋ごろくらいから……急に態度が変わって、おかしく思ってた。でも、凄く懐かしかったの」
ぽつりぽつりと、霊夢が語る。その時の気持ち、今の気持ち。
「すぐに気付いたわ。『やっぱり、お母さんと同じだ』って」
それまでは、違うところとか結構あって、別の人間だと思えてたけど、その時になって、もう完全にそうだとしか思えなくなった。
だから、どう接すればいいのかわからなくなった、と。
なるほどねえ、そりゃ、昔に死んだ親が違う形で現れれば、動揺もするな。最初はそうだと思っていなかったんだから、なおさらの事。
しっかし、そうか……本当に、霊夢の母親だったのか。そりゃ、かなりそっくりだったし、似てる所は数えられないくらいあったけど……それだから、霊夢は沈んでたのか。
箸の先で米粒をすくって口に運び、飲み下してから、で? と聞くと、霊夢はゆっくりと顔を上げて私を見た。
「会いたいんだろ? というか、戻ってきて欲しいんだろ? なら連れ戻せばいいじゃないか」
いつもみたいに、強引に。やりたいようにやるのがお前だろ。
「でも、……でも、あの人の気持ちも、考えてあげたくて」
あーあ、重症だ。流石に事が事だけに、かなり弱気になってるなあ。しょうがない、背を押してやろう。思いっきりな。
「あいつがここを出て行くって言った時、思い悩んでる顔してたろ。……してただろ? ……してたよ。
あいつも悩んでたってわけだ。出て行きたくなかったかもしれないんだ」
でも事情があって出て行った。
しかーし、それはお前には関係のない事だ、たぶん。ああいや、もちろん関係ない事だと思うぜ。いや、関係あっても、ないの。
「だって、お前はあいつの娘って事になるだろ。だったらわがままくらい言っていいじゃないか。甘えにいってやれよ」
案外すんなり戻ってくるかもしれないぜ、と箸の先をふりふりしながら言えば、もう、会いに行ったと、霊夢が言った。
……え、もう行ってたのか。
「拒絶されたわ。『帰れ』って」
霊夢が語るには、あいつがいるはずの山へ行くと、その地に踏み込む前に声が聞こえた、と。えらく怒っていたらしい。
それで、すごすご引き下がってきたわけか。だめだこりゃあ。
すっかり気落ちした様子の霊夢に見送られて、神社を出た。まったく、あいつがいつまでもあんな調子じゃ、私も調子が出やしない。
しかし、何考えてるんだろうなあ、靈夢の奴。……今は、霊夢の親だってわかったから、なんだろう、お袋さんとでも呼べばいいのかな。……いや、いいか、むず痒い。
あいつは、妖怪と戦って、封印して、死んだ。ずっと昔に人里で聞いた話だ、これは間違ってないだろう。で、甦った。……娘を残して死んだんだ、生き返ったのなら、さぞや霊夢を可愛がるだろうに。なんで神社を出てくんだ? わけわからん。
……わからない事は、直接聞けばいいか。さて、と……あいつはどこにいるのかなっと。
◆
結論から言えば、あいつのいるだろう山はすぐに見つかった。だって、結界が張ってあって滅茶苦茶わかりやすいんだぜ、誰でもあそこに何かいるって思うだろ。
一応近くまで行ったが、そうとう強力なものが張られていて、私では破る事はできなさそうだった。
しばらく上空から様子を窺っていると、山に立つ木々の中から妖精が出てきて、結界を擦り抜けていった。ははあ、自然のものは通すのか。じゃあ魔法は……通らない、と。そりゃそうか。そもそも通してどうするって話だな。
手が無くなった。なんであいつ、こもってるんだ。仙人にでもなるつもりか。
あー寒い寒いと手を擦り合わせて、それから、百八十度方向転換して飛び出した。入れないなら、いつまでここにいてもしょうがない。
……アリスの所にでも行くかな。あそこだったら、暖もあるだろうし、話も聞けそうだし。宴会の時とか、よく一緒にいるのを見たしな。
というわけで、魔法の森に下りて、アリス邸の前。えいやこらさと敷地に入り、魔力で施錠されている扉を力強く叩いた。
きっかり五秒ほどして、扉が開く。暗闇の中に数体の人形が浮かんでいた。そいつらは、客が私だとわかると、入れとでも言うようにぴょこぴょこと手を動かして、奥へと消えていった。
いつものように遠慮なく上がらせてもらうことにする。勝手知ったる何とやら、人形の案内なんて無くとも、目をつぶりながらでも居間へ辿り付ける。
先導する人形が木製の扉を開けると、その先が居間だ。ソファにガラステーブルに花瓶に飾られた花。洋風ってのは、これだな。うちとは違う。しかし、壁にやたらめったらかけまくるのはどうかと思うんだが。
部屋の奥、暖炉の中で燃える火の赤に照らされて、アリスは揺れ椅子に座っていた。私を案内した人形たちが、横を擦り抜けて部屋の外へと出て行く。扉が閉まると、「何の用?」とアリスが問いかけてきた。
顔の横に浮かぶ二体の人形を眺めながら、暖を取りに来たと簡潔に述べると、そう、そこに座って、と近くにあった椅子を指差す。
腰を下ろしつつ、靈夢がどこにいるか知ってるか、と単刀直入に聞く。
「いきなりね。靈夢に会いたいの? 多分会ってくれないと思うけど」
うん、聞きたいのは、それだ。
なんであいつは引きこもってるんだ。それが知りたい。
「お前の口調からするに、お前はあいつに会ってるわけだ」
「ええ。つい先程も会って来たところ」
ん? と首を傾げる。つい先程も?
ちらりと暖炉に目をやる。くべられた薪は半ばまで燃えていて、つい今しがたくべたと言われても信じられないものだった。
怪しく思いつつも、嘘をつく理由が見つからないのでその辺を聞いてみると、なんでも不思議な術で呼び出されるらしい。
「七日に一度、丁度このくらいの時間に。……とても苛ついているようだから、ハーブティとクッキーを差し入れに」
苛ついてる、か。それがなんでかわかるか?
「さあ。話こそすれ、それは彼女の気を紛らわせるためのものだから、どうして苛ついているのかは。……そういえば、前に比べて随分口が回るようになってたわね。昔に戻ったみたい」
「……昔って?」
昔は、昔よ。そう言ってアリスは椅子を揺らした。私の周りを飛び回る人形が、時々髪を引っ張ってくるのを鬱陶しく思っていると、「だけど、昔とは違って、とても厳しい口調」と、アリス。
どんな感じなんだと聞けば、やおら立ち上がったアリスが私に背を向けて、顔だけで振り返ってみせた。キッと鋭い目付きをして、眉根を寄せて、いかにも怒っていますといった表情。
「帰れ! お前には会いたくない!」
あまりの気迫に息を呑むと、ふっと柔らかい表情に戻ったアリスが椅子に深く腰掛けて、この間、山に誰か入って来ようとした時の靈夢の真似、と言って笑った。
驚かせるなよ……聞いちゃいけない事でも聞いちゃったのかと思ったじゃないか。
「その後は、怒ってるというよりも凄く落ち込んでたんだけど……ふふ、でも、『帰れ』って言った時の靈夢、すっごい怖い顔をしてたわ」
こーんなに目付きをするどくして、と指で眉を押すアリスに、はあ、そうか、と返す。……霊夢、会いたくないって言われたのか。そりゃ、沈むよな……。
でもなんで『会いたくない』んだ? 考えれば考えるほどわからない。喧嘩したってわけでもなさそうだし、うーむ。
「霊夢」
ぽつりと、アリスがここにいない名前を呼んだ。靈夢と同じ名前だけど、イントネーションが違う。
「きっと、あの人が追い返したのは、霊夢ね。それから、大切に思ってるのも、霊夢。……わかりやすいわ、話題に出すたびにいちいち反応するんだもの」
柔らかく笑うアリスに、じゃあなんで、あいつは霊夢に会いたがらないんだ、と聞く。……いや、聞くというよりは、呟くのに近いものになってしまった。
さあねえ、とあっけらかんとして言うアリスに、下げかけていた顔を上げた。
「でも、会いたくて会いたくて仕方ないってのはわかるわ。だけど、わざとそれを嘘にして、虚勢を張ってる……ように、私には感じられた」
だって、とアリスは付け加える。
いきなりあんなに厳しい口調や態度をとり出すんだもの。その癖、私と話す時はいつもと一緒。
おかしくてたまらないわ、と目元を指で擦るアリスに、それって変じゃないか? と疑問を投げかける。
「お前と話してる時は厳しい口調じゃないって、じゃあいつならそうなんだ? 誰と話す時なら」
「妖精たち」
肩に乗った人形の額を指で小突きながら、アリス。
「私がいない時の気の紛らわせ方みたい。わらわらと集まってくる妖精たちを統率して、指揮して、何かを教え込んで……何かしらね、あの格闘術」
でも、おかしいのは妖精たちよ、彼女じゃなくて。
前のめりになったアリスが、ぴっと指を立てた。
「勝手気ままな妖精たちは、彼女の言う事だけはなぜか良く聞くの。興味深いわ……ある程度は」
ひたすらに興味深いと頷くアリスに、他に聞く事はないので、出る事にした。
アリスは特に気にした様子もなく、ただ、時間が解決するわ、とだけ言った。
外に出ると、やはりというか、冬の寒さが身に染み込んだ。
かじかむ手に息を吐きかけながら、神社に戻るかを考える。……戻って、霊夢に何を言うか。言って、どうするか。
迷ったのは、十秒もない間。
言うにしても言わないにしても、神社には行くか。お茶が出るだろうしリラックスすれば話す内容も自然と決まるはずだ。
箒に乗って、黄昏の空に飛び上がった。
時間が解決する、か。……そうだろうな。……いや、そうだといいなあ。
心の中で呟く言葉とは裏腹に、私には、何か予感めいたものがあった。
もうすぐで終わる。……何かが、終わる。
それが何かは……考えない方が楽しく過ごせそうだ。