『霊異伝』   作:月日星夜(木端妖精)

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  最終話 大団円

 花びらが風に吹き上げられるみたいに、飛ぶ蝶が円状に広がって消えていく。

 青い波紋がぶつかってきても、私は動けなかった。

 必死だったのだ。

 春の暖かさや、森の中の穏やかな木漏れ日を感じさせるあの妖怪の笑顔に安堵してしまいそうな自分を押し止めるのに。

 それでも目を離せないのは、違う、あいつの一挙手一投足を見るためだ。最大の警戒をしなければならないから。それ以外には、ない。

 

「しつこーい」

 

 肩にかかる藍色の髪が揺れ動き、口が小さく開閉して、その声が耳に届いてようやく、なんと言ったのかを理解した。

 しつこい、と言った。まるで表情に合わない、嘲るような声音で。

 

「あなたったら、本当にしつこい。一体何度私の前に姿を現せば気が済むの?」

 

 笑みを浮かべたまま、疑問の声。

 それに答える事ができずに立ち尽くしていると、不意に視線が外された。動いた目の先を追って見れば、うずくまったままの八雲紫がいた。

 私に向けた表情を、そのままあの妖怪に向けている。

 

「よくやってくれたわね。そう褒めてあげようかしら。どちらにせよ、私はこうして甦れたのだから」

 

 復活したては、やっぱり気分が良いわ、と言って、妖怪……満夢(みちゆめ)は首の後ろに腕を通し、後ろ髪をばさりと持ち上げた。

 よくやったと言われ、八雲の顔が歪んだ気がするのに気を取られていると、「それで」、と声。

 私に向かった声でもないのに、びくりとして、それでもゆっくりと満夢に目をやった。

 

「あなたのやる事はわかりやすいのよ。そして、何をやっても無駄。たしかに意思を持った事は凄いと褒めてあげるわ」

 

 伸ばされた手が、八雲の頬を撫で、零れ落ちた涙を(すく)う。

 虚像であるあなたがそうしてこの世界を救おうとした事、その行動。非常に面白かった。

 ぱちんと満夢が指を鳴らすと、闇が溶けて消え、光が溢れ出した。不確かだった足元には石畳が、周りには境内の景色が。

 いつの間にか周囲が神社になっていた。

 

「それに敬意を表して、この世界はそっくりあなたにあげようかしら」

 

 その言葉に目を見開いた八雲が、勢いよく立ち上がった。

 先程までの泣き顔はどこへいったのか、子供のような笑顔で、「本当に!」と言う。

 感極まる様子の八雲に、満夢は一度頷いて、「でも」、と指を立てた。

 

「私の言う通りにしないなんて、それだけで大減点。やっぱりこの世界は壊すわ」

 

 八雲の表情が凍りついた。

 口を開閉させても、そこから声は出ず、私を見て、満夢を見て、しかし、何も言わない。

 一歩下がった満夢が、高く手を上げた。私と八雲が同時にそれを追うのがわかった。

 ぱちんと、指の鳴る音が響く。

 何が起こるのかは、大体予想がついた。

 空が割れ、地面が消えて、神社が崩れ落ちて。地鳴りがして、激しく地面が揺れているのに、揺れの感覚が伝わってこない気持ち悪さ。

 それが逆に、私の心を落ち着けた。慣れ親しんだ神社が崩れていくのはたしかに目を背けたくなるものだけど、大丈夫。これはきっと、幻術とか、そういうのの(たぐい)のはずだから。

 だって、あいつは幻想郷が欲しいと言っていた。なのに、それを壊してしまうはずがない。

 事実、風景が崩れ去った後に残ったのは、隙間の中の闇だった。

 

「わたしの……わたしの、らく、えん、が……」

「私は博麗霊夢を持って来いと言ったの。誰があの女を連れて来いと言ったのよ。おまけのおまけに、本物を。本物は巫女だけで十分よ」

 

 膝から崩れ落ちて、うずくまってすすり泣く八雲をしばらく見下ろしていた満夢が、とうとう私に顔を向け、口を開いた。

 話しかけて欲しくないのに。

 

「ふふ、あなたの考えてる事が手に取るようにわかるわ。その全てに答えてあげたいけれど、時間がもったいないからやめておきましょう」

 

 早く向こうに戻りたいし、と上を指差す満夢に、ただ、息を吐いて返す。言葉なんて出ない。喋りたくない。正直に言えば、逃げ出したかった。

 怖い。また死ぬのが怖い。いや、本当に怖いのは、あいつに負けるという事だ。そんなの、認めたくない。

 

「偽りの世界は偽りのまま。さて、この偽りの世界ももう終わる。そこのあなたは消えるまでにせいぜい嘆いておくことね。それで、そっちのお前は……」

 

 八雲を指差し、次に私を指差した満夢が、ん? と首を傾げた。しばらく目を左に右に動かしていたかと思うと、へぇ、と感心したかのような声を零す。

 

「案外自我なんてものは簡単に芽生えるのね。偽りが真実に取って代わるなんて、面白い。それ程あの子の思いが強かったって事ね」

 

 一呼吸の間をおいて、再び言葉が紡がれる。今度は、私に向かって。

 

「殺す前に教えてあげましょう。とは言っても、もう説明されたかしら? そうだったらごめんなさいね」

 

 あくまで暢気な声。それは、表情と変わらず、やはり安堵してしまいそうで、自分に肘を打ち込んだ。竦むな。怯えるな。じゃないと、逃げられない。

 

「この世界は私が作り出した夢の世界。偽りの楽園。住民たちも何もかも、私が作り出した者たち。私が復活するために、博麗の巫女だけは本物を引き込んでみたんだけど……そこのソレがあなたまで連れ込んじゃったみたいね」

 

 それに、予定がずれたせいで、本来作るはずのない場所まで作ってしまったし、勘付かれないかとひやひやしたわ。

 そこまで言って間をおいた満夢が小首を傾げ、言ってる意味わかる? と聞いてきた。

 私はそれに答えない。

 

「さて、人も妖怪も消えてしまうわけだけど、あなたはどうするの?」

 

 もちろん、戦うでしょう? とでもいいたげに笑った満夢に、しかし、何も言えない。

 それは、悔しい事だ。自分が弱いと認めている。だけど、しょうがないじゃない。敗れる事なんて目に見えているのだから。

 だからこそこいつは今、もう後戻りはできないぞと言ったのだ。私には、戦う事しか選択できないと。

 外に出たとしても、あの子と私以外は消えてしまう。……私は別に、それでいい。でも、あの子はそうじゃないだろう。

 冷たく見えても、あの子は暖かい面も持ち合わせている。良くも悪くも普通の子。

 ならばやはり、戦うしかないのだろう。あの子が悲しむ可能性が少しでもあるのなら、それを取り除くのが私の役目だ。それさえできないなんて言うつもりはない。

 右肩を後ろに、左肩を前に。腰を落として構えれば、「血は争えないわね、蛮族」、と、笑顔のまま。

 大きな力の前には戦術も戦法も意味がない。それは、身をもって知ってる。だったらどう戦えばいいか。そんなのは、決まっている。

 全部の力を出して、万が一を掴み取る。それしかない。

 

 足の裏に確かに感じる地面の硬さを破壊して飛び出す。この身に法則なんて関係ない。霊力を纏って、光のように突っ込む。

 満夢に迫った瞬間、自分の力が全て跳ね返ってきて、私は地面に転がっていた。

 頑丈さゆえに大した痛みは感じないが、心が折れそうになっているのを感じる。いや、こんな事を考えている時点で、もう折れているのかも。

 早いよ、ばか。もうちょっと頑張ってよ。せめて、あの子が幸せになるまで。

 そう、簡単に考えればいい。力の差は、ちょっとおいとこう。単純な話だ。倒せばいい。それで、本当に終わる。もう死ぬ必要も悩む必要もなくあの子とすごせるようになる。

 そのチャンスなんだって考えれば、ほら、頑張れるでしょう。

 手をついて上体を起こし、満夢を見る。立ち位置も表情も雰囲気も、何も変わってはいなかった。

 あいつが纏ってる力。人間の力、妖怪の力、神の力、魔法使いの力。その全てが混ざり合ったようなあの力が、防壁となって私の邪魔をする。

 あれを取り除く方法はない。突破するには、やっぱり方法はただひとつ。ぶつかる。それだけ。

 立ち上がり、ちらりと八雲を見る。あちらにも衝撃がいってると思ったけど、八雲も動いてはいなかった。

 満夢に顔を戻し、ふー、と息を吐く。余裕なんてないけど、余裕だ。だって、あいつがそうだから。

 私を敵とすら見ていないあいつが余裕なのだから、私も余裕だ。よそみする事もできる。だからどうってわけでもないんだけど。

 もう一度、息を吐く。大きく吸って、大きく吐いて。心を落ち着かせ、霊力を練って体に纏い、構え、次の準備をする。

 

 (いか)れ。

 怒りは力を強くする。それを使えばどうにかなるかもしれない。

 何度も何度も、飽きるほど殺された。もう負けるのはおしまいにしよう。弱気の虫なんて潰してしまおう。

 今までの自分を振り返り、不甲斐無さに怒り、未熟さに怒り、それを全部力に変えていく。

 できているかはわからないけど、それでも、これなら殺せそうだと、血の(のぼ)った頭で考えた。

 ああ、たしかに、勢いだけならこれで十分。でも、まだ力が足りない。力が欲しい。

 心の中の叫びに、『力を貸そう』と、返答がきた。この際、どれだけ小さな力でもいい。

 背に黒い羽を広げ、体の中に借り受けた力を巡らせる。

 今の私からすれば微々たるものだ。だけど、それが頼もしいと思えた。

 

「ああ、なるほど。殺しても死なないはずだわ。あなたの魂がこんなにたくさんあるなんて」

 

 思い切り振り上げた足を地面に叩きつけると、固形化した闇が砕け、ひびが広がり、満夢に向かって亀裂が伸びた。

 亀裂が左右に広がり、満夢の足元を崩しても、あいつは顔色一つ変えずにその場に浮いたまま。

 少しでも怯ませられればと思ってやった事だけど、無駄に力を使うだけに終わってしまった。

 いや、無駄なんて事は最初からわかってる。そもそも戦うこと自体無意味なのだ。いまさら目論見がはずれたところでどうってことはない。

 

 心臓の脈打つのに合わせて、全ての力を足に流し込んでいく。左腕一本じゃ大した威力にならないにしても、両足ならどうだ。

 ぎゅうぎゅう詰めに詰めて、溢れ出した色とりどりの力を足に纏わりつかせて回す。飛ぶだけの力さえ残さない程に力を注ぎ込む。

 満夢の笑みが僅かに消えるのを見逃さず、背の羽を広げ、風を裂いて飛び上がった。

 腕を広げ、腹まで膝を折りこんで力を溜め、腹の底から声を上げて急降下する。

 伸ばした両足を力の壁に叩き付けると、光の粉が炎のように噴出して広がり、私たちを包んだ。

 足の先から力を放出する。びきびきと骨が軋み、筋肉が強張るのがわかったが、構うものか。

 負けたくない。こいつにだけは負けたくない。絶対。絶対に。

 

「負け、たく、ないぃ!」

 

 噛み締めた歯の隙間から、搾り出すように叫ぶと、ガラス気質な音とともに防壁を砕いた両足が満夢の胸に突き立った。

 放出はやめない。自分でだって止められない。止めたら、終わりだから。

 羽を使って前に前にと進もうとすると、満夢が忌々しげに顔を歪めた。ダメージを与えている。その事実に、さらに力を込める。

 ひからびたって、生きてさえいればいい。ここでお前を倒す!

 

「だから、お前たちは嫌いよ」

 

 凄まじい衝撃が全身を叩き、次には、地面に叩き付けられていた。

 体中がばらばらになりそうな衝撃を受けたというのに、私は激しく咳き込みながらも、笑みを浮かべていた。

 だって、初めて攻撃が届いたんだもの。今まで、ただの一度も触れる事のできなかったあいつに、ダメージを与えられた。

 凄い。

 すごい、すごいと胸の中で叫ぶ。

 勝てない相手じゃない。いや、今回こそ、勝てる!

 息を荒げながらも、なんとか立ち上がると、胸を押さえた満夢と目が合った。

 もう怯えもしないし、弱気になんかならない。今ので倒せなかったのは痛かったけど、でも、次で倒すから。

 一瞬よろけて、あわてて出した足で体を支え、腰から上で息をする。

 胸の奥が痛い。足も痛い。そういえば羽もない。まあ、いい。戦えるなら、まだ大丈夫だ。

 心の中で、何人かの名前を呼んでみて、その全てから返事がない事に、もう力は借りられないと知る。

 それなら自分の力で戦うまでだ。

 

「ほんと、あなたたちは戦う事だけは上手いのね。蹴られたのなんて何年振りかしら……」

 

 あの子以来かしら、と手を下ろした満夢が、次には「まったく、いくら根絶やしにしてもわいてくるんだから、お前たち一族にはうんざりよ」と吐き捨てるように言った。

 そんな事、私の知った事じゃない。

 ぐっと腰を落として、随分少なくなった霊力を纏うと、満夢が腕を振り、ばさりと袖をはためかせた。

 

「いいわ、いいわ。ちゃんと戦ってあげましょう。慣らしの運動にはちょうど良さそうだし」

 

 とは言っても、と、私を指差す満夢。……彼女に作られたこの世界の住人が、よく指し示して物を言う理由がわかった気がする。

 

「普通に戦ったのでは、すぐに勝負がついて面白くない。その体じゃもう無理でしょう?」

 

 つい、と私の体に指先を移すので、自分の体を見下ろした。

 たしかに袴が血に濡れて大変なことになってるけど、もう足の痛みも感じなくなってるし、折れてる感じはするけど動けるみたいだし、大丈夫。体も凄く軽い。

 首の後ろに腕を通して、ばさりと髪を持ち上げる。汗が滲んで火照った体には、流れる空気が触れるだけでも気持ち良かった。

 

「スペルカードルールでやりましょうか。持ってるでしょう、カード」

 

 腰を落として構え、ぐっと握りこんだ拳を前に出す。耳を貸す必要はない。どちらにせよ倒さなければならないのだから。

 私が何も言わない事に満夢は溜め息をついて、次には、目の前に来ていた。

 慌てて飛び退こうとして、腕を捕まれて阻害される。

 引いても押してもびくともしない事に焦りを覚え、右手がない事に危機感を覚えた。右腕さえあれば、反撃の方法はいくらでもあるのに。

 苦し紛れに右足で蹴り上げようとすると、それさえも掴まれて動けなくなってしまった。

 ぐんと腕を引かれ、背中から地面に叩き付けられる。

 肺の中の空気が全部出ていってしまうんじゃないかと錯覚する程に咳き込んでいると、腹に足を乗せられて、思わず足首を掴んでいた。

 これもまた、どかそうとしても動きやしない。

 

「あんまり調子に乗らない事ね」

 

 降ってきた声に睨み返し、足がどかされた瞬間に素早く転がって距離をとる。

 忌々しく思いながらも立ち上がりつつ満夢を見上げると、ぼやけた先に笑みを浮かべた顔があった。

 そっと頬に手を添えられて、指先で目元を撫でられる。湿っぽい感触がした。

 

「なに、泣いてるの? あなた」

 

 はっとして飛び退り、目元を拭う。袖についた水跡は、違う、涙なんかじゃない。

 だめだ、考えちゃいけない。本当に勝てるのか、なんて。勝つと信じないで勝てるわけがないのに。

 弱気にならないんじゃなかったのか。そんなんで、あの子とすごそうなんて考えてるのか。

 自分を叱咤し、気を持ち直そうとしたが、無理だった。

 やっぱり、勝てない。

 一度そう思ってしまえば、後は恐怖に塗り潰されるだけ。だめだと思っても、足が震えるのを止められなかった。

 喉の奥に嗚咽を止めて静かに涙を流す私を、満夢はただ黙って見ていた。つまらなそうな、だけど、何かに憧れているみたいで……どうしてそう感じるのかわからなくて、へたり込みそうになった足を突っ張って立ち続けた。

 

「……もういいわ。ここいらで終わりにしましょう」

 

 しばらくして、満夢がそう言った。

 さっさと幻想郷を手に入れにいきたいし、と。

 私には、それに「なぜ」と問う事しかできなかった。

 なぜ、そんなにも幻想郷を求めるのか。

 

「ほら、支配って」

 

 にっこりと笑った満夢の言葉に、目元を拭ってから、考える。支配って……なに。

 

「言葉の響きが良いじゃない。だから、あの楽園を私の物にするの」

 

 ……いまさら、衝撃を受けたりなんかはしない。ああ、やっぱりそうか、というぐらいの感想しか抱かなかった。

 こいつなら、そんな理由で幻想郷を、巫女の力を求めるだろうと思った。

 でも。

 

「……そんな理由で、あの子を殺したの?」

 

 んー? と満夢が首を傾げる。

 あの子だけじゃない。両親も、それに、私自身も。それだけの理由で殺されたのか。

 ただ、響きが良いというわけのわからない理由で。

 いまさら衝撃なんか受けないと言った。だけど、それとこれとは違う。そんな理由で殺されるのには怒りを覚える。

 そうだ、私が最初にこいつに敗れた時、どうして私がこいつに向かったのか。

 騙されたからか、両親を殺されたからか、その両方か。いずれにせよ、怒りに突き動かされていたはずだ。

 ……何で私は泣いてるの。

 親の敵が、あの子の敵が目の前にいるのに、戦わずして勝てないと決め付けて。

 勝てなかったのは、昔の私なのに。

 今の私が負けるかどうかなんて、やってみなくちゃわからないのに。

 不甲斐無い。

 だったら、今すぐそれを治す。

 

「殺したらどうなるのかって気になっただけよ。……ああ、やる気?」

 

 そんな理由で……。

 腰を落として構え、それから、八雲を窺った。

 数分で消えると言われていたのに、未だに闇の中にうずくまっている八雲。あいつも、裏切られたんだ。八雲紫は、ずっと昔に言っていた。満夢は古い友人なのだと。

 その友人を、くだらない理由で裏切ったのだ。

 

「いまさら戦う気? 泣き虫ちゃん」

 

 おちょくるような声を無視して、怒りを燃え上がらせる。それが私の限界を壊してくれるはずだと信じて。

 負けたくないって思った。今度こそ、負けるもんかって。

 そう思ったのなら、めそめそ泣いてる場合じゃない。それに、そんな姿、死んでもあの子には見せられない。

 体の中心部から引き出した霊力を勢い良く噴出させて身に纏うと、「ああ、もううんざり」と満夢が言った。

 

「そんなに死にたいなら、今度は私がこの手で殺してあげるわよ」

 

 ぴくりと、眉根が動く。

 殺すという単語に反応したわけじゃない。今満夢が口にした言葉に、酷い違和感を覚えた。

 

「……今度は?」

 

 私の問いかけに、再び首を傾げる満夢。その口が半月を描いて、開かれた。

 

「まさか、忘れてるだなんて言わないでしょうね? 私があなたを殺した事なんて、ただの一度も無いと言う事を」

 

 ……何を言っているんだろう、こいつは。

 じゃあ、なぜ私は死んだ。なぜあの子は死んだ。

 嘘をつくな。お前が殺さなければ、誰が私たちを殺したというんだ!

 怒りに任せて怒鳴り散らすと、今度は声に出して満夢は笑った。

 

「おかしな奴ね。これだからあなたは好きよ。……でも、忘れてるなんててんで駄目ね」

 

 まあ、あなたにとって、それ程嫌な死に方だったという事なんでしょう、と言う満夢を睨み付ける。お前に好きだなんて言われたくない。

 吹き上がる憤怒の情が渦を巻いて身に纏わりつき、しかし次には霧散していた。

 

「毎回毎回、あなたに止めを刺しているのは、あなたのだーいすきな娘よ?」

 

 ……それ、は。

 どういう事だと口にしようとして、しかし、声が出なかった。

 忘れていたい事を、思い出してしまったから。

 ……そうだ、こいつはそういう奴だった。

 他人の一番嫌がる事を進んでやるような、そんな妖怪。

 だから……私が死ぬ時はいつも、あの子を操って……?

 じんじんと腹が痛むのを手で押さえ、唇を噛み締める。

 だから、なんだ。

 あの子に殺されたからって、なんだ。この妖怪に殺されるよりはよっぽどいいじゃないか。

 ……だから。

 

「だから、救えなかった事に怒ってるんでしょうが!!」

 

 踏み抜いた地面が隆起して、粉々に砕けて闇の中に溶けていく。

 そうだ、全部自分の事なんかじゃない。というか、私の事なんてどうでもいい。

 私が死んだからあの子を守るものがなくなった。だからあの子が死んだ。それが私には許せない。

 砕いたそばから再生していく地面をもう一度踏み砕き、散った闇を霊力で捕まえて吸収する。

 

「諦めの悪い。さっさと死んでしまえば楽だというのに」

 

 つまらなそうに言う満夢に気合砲を飛ばす。

 ばたばたと着物の揺れる音に、手の平に爪を食い込ませた。

 勝てないのも、許せない。負けるのが許せない。私がこいつを殺さなければ、それがあの子の不幸に繋がるから。

 

「まあ、殺す事に変わりはないのだけれど」

 

 音もなく、満夢が目の前に立っていた。

 私にさえ知覚できない速さで動くのなら、回り込めばいいというのに、わざわざ目の前に出るのは余裕の表れなのだろう。

 事実、私は反応できなかったし、たとえ反応できたとして、攻撃を合わせられるか、効果的なダメージを負わせる事ができるのか。

 無駄な事を考えている間にも腕を振るい、渾身の力を込めて腹に拳を叩き込む。

 びしりと、嫌な音がした。

 腕の骨に亀裂でも走ったのか、熱を持ち始めた腕を引き、一歩下がって、今度は体重を乗せて殴りかかる。

 自分の腕が伸びていく中で、すれ違うように満夢の手が伸びていくのが、ゆっくりと見えた。

 

 ごつんと、不動の壁を殴りつけたかのような音が響く。

 私の拳が満夢の体を叩いた音。その一つだけが、耳に届いた。

 では、満夢の手はどうなったのか。

 それは目と鼻の先に開いた亀裂の両端にリボンが結ばれているのを見て、ようやく理解できた。

 飛び退ると、横に八雲紫が歩み寄ってくる。

 その表情は、情けない泣き顔でも、無機質なものでもなく、れっきとした()()()の表情だった。

 

「何をしているかと思えば、あなた……」

 

 彼女が手に持った扇子を振るうと、半透明の壁が三方向から満夢に迫り、消えた。

 何をしたのか聞こうとして、頬に汗を流す彼女を見て、やめる。

 

「……骨が折れました」

 

 八雲があいつに向かってそう言うのに、慌てて八雲の体を上から下まで見る。どこの骨が折れてる? 妖怪とはいえ、あいつを前にして負傷は不味いのではないか。

 と、そこまでして、そのままの意味ではない事に気付く。

 

「私はもはや、偽りの夢ではない。オリジナルの協力を得、私こそが個として存在する八雲紫となりました」

「だから、なに? 生みの親の私にお礼でもしようって?」

 

 八雲がもう一度腕を振るうと、先程と同様に透明な壁が満夢に押し寄せて消えた。

 結界術か何かだと判断する。

 

「お遊びが過ぎる。私の楽園を、壊させやしない」

「こんなもので私を閉じ込められると?」

 

 屹然とした表情で言い放つ八雲に、満夢は両腕を軽く上げて答えた。

 もうここから逃げ出すこともできないでしょう? と八雲が言うと、私が逃げる必要がないじゃない、と満夢。

 

「それに、こんな物はいつでも……」

 

 そこまで言って満夢は口を閉じ、横を見た。

 つられてそちらに顔を向けると、黄色の極光が闇の彼方から伸びてきて満夢を飲み込み、闇を散らしていった。

 光の伸びてきた先に、あの子と、もう一人……霧雨魔理沙の気配を感じて、一歩後ずさる。

 光が消え、一層暗い闇の中に、着物にさえ傷のついていない満夢が見えた時、向こうの空からやってきたあの子と魔理沙が、私たちの前に降り立った。

 

「嘘だろおい、そんなのありか!」

「騒がないで。…………紫、あいつは何?」

 

 八卦炉と箒を握り締めて驚愕に声を荒げる魔理沙をたしなめて、一瞬私に顔を向けた霊夢が、すぐに八雲に顔を向けて口を開いた。

 また一歩、後ずさる。

 

「……博麗靈夢」

 

 なに、と眉を顰める霊夢から目を外し、私に向けた八雲が、こんな事を言える義理じゃないけど、と前置きした。

 

「お願い。楽園を……あなたを引き込んだ私が言える事でないのはわかっているわ。それでも、あなたしか頼れないの」

 

 あなたと、この子しか。

 小さく口を動かして、か細い声で八雲が言った。

 わかってる。あなたたちの力では絶対にあいつに敵わない事は。

 だけど……この子にも頼るとは、どういう意味か。

 一瞬考えて、すぐに結論が出た。

 驚く程早く、これだと思える答え。

 

「……来たのね、霧雨魔理沙」

「え、私!?」

 

 満夢に名指しで呼ばれた魔理沙が慌てて自分を指差し、すぐに八卦炉を構えた。対する満夢は、どこか懐かしそうに……優しげな顔をしていた。

 

「私と魔理沙があいつの相手をするわ。その隙に、あなたは……」

 

 この子と、と背を押されて前に出てきた霊夢に顔を見上げられて、すぐにそらされる。それが悲しくて、また一歩下がった。

 

「えーい、こうなりゃヤケだ! ぜんっりょくでいくぞ!」

「頼んだわ……! さあ、夢から醒めるのはあなたの方よ、満夢!」

「いいわ、来なさい。お遊びに付き合ってあげましょう」

 

 二人が突っ込んで行くのを尻目に、霊夢の手を取ってその場から離れようと駆け出す。

 途中から飛行して、戦闘の音が聞こえない場所までくれば地面に降り、すぐに手を離した。背を向けて数歩、俯いて立つ。

 やらなければならない事はわかってる。でも、どうしてもこの子の顔を見れない。

 霊夢が戸惑うのを後ろに感じても、私は動けなかった。

 散々あれこれ考えてきた。でもまだ、心の準備ができてない。だから……。

 

「……お母さん」

 

 びくんと、肩が跳ねた。

 ……今、なんて?

 耳を疑っていると、袖を引かれて、振り向く。困ったような表情の霊夢が私を見上げて、もう一度同じ事を言った。

 

「……なんで」

 

 どうして、あなたがそう呼んでくれるの?

 あなたの母親は私じゃないはずなのに。どうして、私を……。

 映姫から聞いたの、と霊夢は言った。

 甦ったと聞いた母親の事、それが何かは言わなかったけど、どう考えてもあなたとしか思えなかった。そう、霊夢が言う。

 違うと、首を振った。

 

「……私は、あなたの母親じゃない」

 

 何を言ってるのかと、自分で思った。

 せっかくこの子がそう呼んでくれたというのに、自分から否定するのなんて。

 ……でも、私にその資格があるのかとも思ってしまった。

 なんども見殺しにしてきた。怒鳴りつけてしまった。そんな私が、いまさらどんな顔して母親として出て行けばいいのだろう。

 

「でも、お母さん……」

「違う」

 

 ぶんぶんと首を振ると、やけに重く感じる髪が左右に揺れた。

 ぐい、と袖を引かれても背を向けて、母と呼ばれても違うと否定して。

 ……なんで、私はこんなに頑固なんだろう。

 

「いい加減にしてよ!」

 

 ぐんと袖を引かれて、つんのめったように後ろに下がってしまった。

 怒り顔の霊夢に胸倉を掴まれて引っ張られる。この子にこんなに力があったっけ。

 

「『どっち』も同じでしょ!? 『どっち』も、私のお母さんでしょ!? それなら母親らしく堂々としなさいよ!」

 

 きーんと、耳の奥に響く怒鳴り声。

 顔を真っ赤にして肩を怒らせる霊夢に、知らず「どうして」と問いかけていた。

 どうして、知ってるの?

 

「……聞いたって言ったでしょ。私だって馬鹿じゃないわ。それぐらいわかる」

 

 はー、と息を吐いた霊夢が、まだ怒っている顔で、で? と聞いてきた。

 

「それでもまだ、お母さんじゃないって言い張るの? 張り倒されないとわからない?」

 

 ぶんぶんと首を振ると、なら、いいわ、と霊夢は言った。

 

「それで、こんな所まで来て、何をすればいいの? あいつを倒さないと、幻想郷が危ないんでしょう?」

 

 佇まいを直し、服のよれを正してから、ぐっと顔を引き締める。

 お母さんだって認められて、嬉しい。だから、ぐっと気を引き締めて、今まで格好悪い姿を見せた分、きっちりとした姿で取り返さないと。

 小さく(せき)をして喉の調子を整え、それから、霊夢に向き直って、口を開く。

 

「殺して」

 

 は? と霊夢が間抜け面になった。

 それを笑うでもなく、殺してと口にした事で、娘に手を掛けさせる覚悟ができた。

 でも、それでも選ぶのはこの子だ。道など一つしかないとしても。

 

「私を、殺して」

 

 腕を広げると、なんでよ! と霊夢。

 説明している時間なんてない。今こうしている間にも、八雲たちがあいつに殺されてしまっているのかもしれないのだ。

 そうすれば、次は私たちだ。

 手負いの私では手も足も出ない。この子では、何もできない。だから、早く私を殺して。

 嫌だと私の目をまっすぐに見る霊夢の腕を取る。足を払ってぐんとひっぱって地面に叩きつけると、うぐ、と声があがった。

 

「けほっ、なに、を……」

「やる気になったでしょう。さあ、私を殺して」

 

 引っ張り上げて立たせると、咳き込んだ霊夢が、それでも「できない」と言った。

 涙の滲むその顔を拭いてあげて抱きしめたくなっても、その気持ちを捨てる。

 

「……私は、お前を育てた」

 

 ぽつりと、呟く。

 お前を育てたのは、こんな事をさせるためじゃない。それでも今、やらなければならない。

 

「さあ霊夢、やりなさい」

 

 掴んだ腕を強く握り、もう一度引っ張ろうとすると、足を払われてぐんと腕を引っ張られた。

 背に衝撃が来て息が詰まり、だけど、声はあげない。

 ひねり上げられた腕からぴしぴしと骨の欠けるような音を聞きながら、にっこりと微笑む。やればできる子だ。

 

 だけど、まだ踏ん切りがついてないみたいだ。

 うじうじしてた私を一喝してくれた霊夢が、今度はうじうじしている。次は私が正す番。

 腕が言うことを聞かなくて、四苦八苦しながらも立ち上がる。霊夢は俯いて、迷っているようだった。

 時間がないとはいえ、理由もわからず人を殺せはしない、か。

 

「……私を殺せば、私の力が全てあなたの物になる」

 

 だから、殺してとお願いする。

 八雲も、満夢も言っていた。私にはいくつも魂があると。私も霊夢も本物だと。そして、私と霊夢は、同じ存在だと。

 私なら、人に力を渡す事ができる。それが霊夢なら、私を保つ力の全てを渡せる。後は、霊夢。あなたの力であいつを倒すの。

 

「……力なんていらない。今度だって、どうにかなるわ。……私、お母さんのこと、殺したくない」

 

 首を振る。堂々と、母親らしく。

 

「殺されるのではない。生きるのだ。お前と一緒に。幻想郷のためなんかじゃない。ましてや自分のためでもない。あなたのためだけに、私の全部を託す。……幻想郷を救って。あの妖怪を倒して」

 

 霊夢は、私の顔を見上げて、唇を噛んだ。

 お母さんからのお願いよ、と微笑みかけると、ぐっと目をつぶって、次には、衝撃。

 霊力も何も纏っていない生身の腕が、私のお腹を貫いていた。

 そう、それでいい。それで、お前は生き残れる。

 

 腕が引き抜かれると、溢れる血液と一緒に霊力が奔流となって霊夢へと流れていった。そこに乗って、私に力を貸してくれていた者たちも流れていき、私を保つための魂さえも、生命の維持ができなくなったために流れ出ていく。

 それは、死と同義。だというのに、全ての力をなくしても私が生きているのは、私がタフだからなんだろうか。

 

「……ずるい」

 

 白色の光に包まれた霊夢が、そう言った。

 そんな風に言われたら、私、やるしかないじゃない、と。

 ふっと微笑んで頭を撫で、そのまま抱こうとして、自分の体が崩れていくのに気がついた。

 抱く事もできないなんて、こんな事ならさっさと謝っておけば良かった、なんて。

 きらきらと光って指先から崩れ、宙に浮き、白い光の中に溶けていくのを見届けながら、霊夢に言う。

 頑張って、と。それが、精一杯の応援だから。

 

 力強く頷いた霊夢は、私が完全に消えるまで、涙一つ流さなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うーん、今日で私も巫女さん引退かー」

 

 穏やかな昼下がり。

 様々な人妖が集まった賑やかな境内に出ると、後ろについてきていた彼女がそう言った。

 ぐーっと伸びをして紫の髪を揺らすのを見ていると、ふとぱっちりとした目と目が合って、ん? と小首を傾げられた。

 なんでもないわと腕を振って、持っていたおぼんを運んでいく。

 様々な奴らに声を掛けられちょっかいを掛けられながらも拝殿前の階段まで辿りつくと、待っていた魔理沙がようと腕を上げた。

 そこに三人で腰を下ろし、杯に酒を注ぎ、揃って(あお)る。

 一番に飲みきったのは、魔理沙だった。

 ぷはー、と息を吐いて、それから、次に飲み終えた私を見て、最後に未だ飲み終わらない彼女を見た。

 私も一緒になって彼女を見る。

 ぐいぐいと杯を呷っている顔に、紫の髪が肩にかかって流れるのに、青い蝶が胸元に止まり、羽をはためかせているのを見たり。

 ぷはっ! と杯から口を離した彼女が、これちっともお酒減らないんですけど! と文句を言った。

 見てみれば、あんなにぐびぐび飲んでいたのに、杯にはなみなみと酒が満ちている。

 なんの悪戯かとあたりを探ってみれば、探すまでもなくそこに小鬼が浮いていて、けらけらと笑っていた。

 しっしと手を振ると、霧散して消える。まったく、何がしたいんだか。

 他の妖怪に呼ばれて魔理沙が飛び出していくのを見送ってから、杯に目を落として足をぱたつかせている彼女を見る。

 そこに、面影はない。ちっともない。これっぽっちも……ああ、ちょっとはある。

 酷く遠く感じる記憶に思いを馳せて、それから。

 

「えー、私まだそんな年じゃないよ?」

 

 ふいに口から零れた言葉に反応した彼女が、やーねえと手をひらひらさせ、それから、ふと真面目な顔になった。

 

「大丈夫。たとえ実家に帰ってもさ、時々はここに来るから。来れるだけ、れいむに会いに来るからさ。だから……」

 

 そんな寂しそうな顔しないでよ。

 そう言って私の額を突っついて笑った彼女は、胸元の蝶がひらひらと飛んでいくのにあっと声を上げて、慌てて立ち上がり、追いかけて行こうとして、その途中で振り返った。

 

「んー、約束!」

 

 駆け戻ってきて、び! と小指を突き付けてくるのに、戸惑いながらも小指を絡める。

 

「ゆーびきり、げんまん、うーそつーいたらクリームソーダ一週間禁止!」

 

 ひー、死んじゃう! と、自分で言って自分で頬を押さえる彼女に苦笑いを零すと、ん、笑ったね、良きことだ、と彼女も笑った。

 

「まってまって、私のちょうちょー!」

 

 青い蝶を追って小さくなっていく背中に、杯を傾けながら、約束、と呟いた。

 

「私は巫女であり続けるから」

 

 口の中だけで、お母さん、と呟く。

 杯に口をつけると、口の中に鉄の味が広がった。

 最後に嗅いだ匂いがそうだったからなのだろうか。注ぎ足した酒をびちび飲んでいると、向こうの方から声がかかる。

 たくさんの妖精たちに引っ張られながら、彼女が私に手を振っていた。

 

 杯を置いて、立ち上がる。

 それから私は、彼女の元へと歩いて行った。

 これからも歩いていくんだろうな、なんて、考えながら。


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