その日も今日みたいな雨の日だった。
朝から分厚い雲が空を覆いつくし、昼過ぎだというのに灰色の暗さがあたりに立ち込める。
しとしとと強くもない小粒の雨粒が少しずつ少しずつ流れていく。
切れ間のない雲は、地平線の向こう側までも負いつくしてしまい、その全てを覆い隠してしまったように思えた。
息の詰まるような、落ちてくるような雲の重さはため息を深くしていく。
長く降り続く雨は地面を濡らし、舗装されることもない道にぬかるみを作る、轍には水がたまり小さく空の灰色を映しとっている。
切り取るような、遠ざかるような雨の硬さはその声を消し去っていく。
雨の匂いがする。
雨粒が地面を打つ音が嫌に大きい
地面を叩き
葉を揺らし
水溜りを波打たせ
そして
この手のひらから流れ落ちていく。
雨粒よりもそれはずっと軽い。
この身にはそれはあまりにも軽すぎた。
この細腕には不釣り合いなはずのその重さは
それでも軽い
軽く振るう
軽く薙ぐ
軽く払う
軽く
刈る
雨粒よりも軽いそれは雨粒よりも柔らかく
この手に留まる事もなく地面へと流れ落ちていく
手をその色に染めることなく、何も残すことはなく消えていく。
流れ出したそれはあたりの水溜りへと流れ込んで、そして僅かにその色を赤に変える。
雨粒が全てを流し去るように
曇天が全てを押し潰すように
私の中へと刻みつけるように。
誰も答えることは無く
雨は熱狂を許すことは無く
雲は言葉を許すことは無く
雨は降り続ける。
その日、私は人を殺した。
目が覚める。
まだ眠っているような、然し意識がゆっくりと浮上してきたその感覚に身を委ねる。
どこか深いところからまるで引き上げられるように浮き上がらせられるように戻ってきた。
まだ体とはつながっていない。幾ばくもなくつながるだろう。眠りと覚醒のハザマのような僅かな隙間。浮上してきた意識がゆっくりと体になじみ始める。
夢の出来事を置いて、代わりに重い記憶を背負う。
音はなく、景色はなく、暗いその狭間。微睡のような夢現のようなその暗闇。
段々と暗闇が明るくなっていく。
それが覚醒の合図である事にきがつく。溶けるように、いいや形作られるように意識が覚醒し始めた。
その時、クレーンにでも引き上げられたように意識を釣り上げたのはいつものように怒鳴りこんできたどこかのクソガキの絶叫だった。
「「あさだぞ、ねぼすけ―」」
扉を大きく開いた音とともに聞こえたのは聞きなれた二つの声。そして予想通り聞こえるのは部屋へと走ってきつつある事を示す床のきしむ音。
しまった、と感じずにはいられないものの、生憎と低血圧のこの身ではその動作に間に合うことなく、床に敷いた茣蓙のような布団から半身で起き上がるような体勢に成ることしかできない。眠い目を擦り、ようやく見つけたその姿。それはまさにロケット戸でもいうように飛んできた二つの頭。いつものように少年少女たちの頭突きのようなモーニングコールは彼の顎に多大なる衝撃と朝の陽光を知らせに来たらしかった。
「勝手に入って来るなっていつも言ってるだろうが」
「ノックした」
「扉叩いた」
「おはよーって言った」
「そしてから入った」
テーブルの向いの椅子、目覚めの有閑を奪い去った二人の小さな下手人は差し出されたみかんの皮で遊びながらいつものように何が楽しいのか意味もなく飛び跳ねる。
「確かにドックしてからはいれとは言ったがな、それはあくまでノックして入っていいか聞けという意味であってだな、おい、聞いてんのか」
みかんを食べながら遊ぶ二人はどうやらみかんの皮の汁の有用性に気がついたらしい。皮をつまむように両手に携え臨戦態勢を取り始める。もちろん彼の説教など耳に入ってはいなかった。
「うぎゃーめがー」
四度目の攻防の末に少年のほうがその汁を目に食らったらしい。椅子の上に立ち、揉み合うように汁をかけあっていた二人、そして不意の痛みによろけてしまえば椅子と体のバランスが崩れるのは一瞬のことだった。
「ばかっ」
響くのは衝突音、まるで猪が壁にでもぶつかったような、小さなその小屋が揺れるような衝突音だった。壁に掛けられたいくつかのアイテムがガラガラと音を立て、立てかけておいた得物がバタンと倒れる。部屋の中ほこりが舞、同時に僅かな赤い光が彼を包む。
「どうしましたっ」
その声は外からやってきた。
小屋の大騒ぎを聞きつけたように、少し遅れて急いで扉を開ける。年若い少女の声だ。急いだのか少しだけ息が上がっている。部屋のほこりに彼女は小さくせき込みほこりを手で振るう。音の発生源は簡単に見つかった。
底には地面に頭をぶつける前に抱え込まれた少年の姿と代わりに勢いあまって自らの巨体を小屋にぶつけひっくり返った男の姿がそこにはあった。
「ラキ、リマ。いつも椅子の上に足っちゃいけないって言ってるでしょっ」
「「ごめんなさい」」
小さな双子は年かさの姉に怒られて小さくしょげている。傍から見れば少女が子供たちを叱っている姿は何ともほほえましくあるものの子供たちにとっては何ともこの世の絶望の様に震えあがっている。
その様に小さく笑いそうになり、然しそれを子供たちに気取られる前に噛み殺す。
「それで、レイさんに言うことがあるでしょ」
一通りの説教が終わったのか小さな双子と少女かこちらを向く。
「「ありがとうございました」」
「もうすんなよ」
「「うんっ」」
その一言で全てが終わったと言うように二人の表情は先ほどまでのような黄色に代わり、そのまま小屋を抜け出し遊びに行ってしまう。
「すいません、レイさん、毎回毎回」
不覚頭をさげる少女に対して彼は狼狽えながら少年たち蛾出ていった歩扉のほうへと目を反らした。
「俺はいい、でも結局痛い思いをするのはあの子たちだ」
窓の外からは何か見つけたのか二人で野原へと駆け出していく二つの影があちらこちらに出ては消える。子供特有の無尽蔵の元気に姿はほほえましくもあぶなさに僅かな不安感を覚える。
「多少痛い思いをしなければあの子たちも学びません。それに毎度毎度レイさんが代わりになってたらレイさんが傷だらけになってしまいますよ。レイさんは聊か過保護です」
「まぁ、な」
彼はそういいながら倒れた家具たちを元に戻すと経ちっぱなしの彼女へと椅子を進めた。
「すまないが、お茶は切らしていてな、確かどっかにコーヒーならあったとは思うんだが」
「コーヒーもありませんよ、前もそう言ってからどうせ買いに行っていないんでしょう」
そういって彼女は持ってきたバスケットの中からティーポットとカップたちを並べていく。
「別に私たちを持てなせ、とは言いませんがせめてティーカップなり湯飲みなりをいくつか準備してはどうですか、流石に湯飲み一つ、どんぶり一つでは食器棚も何のためにあるのか分かりません」
確かに備え付けられていた食器棚に食器はなく、うっすらと積もったほこりで白くなっている。そして唯一の食器たちであるどんぶりと湯飲みも昨晩から洗い桶に突っ込んだままの状態で不服気に沈んでいる。
「善処する」
「そういうのはしない人の返答です。私も毎度毎度ティーポットもティーカップも持ってくるのは重いんですよ」
彼女の言葉に彼はなんとも言い返すことはできず苦く笑う。その彼の表情に彼女は小さくため息をつくと手早く炉へと日を入れるとその中へとティーポットを突っ込んだ。ちろちろと火がポットをあぶる間にも彼女はバスケットから何やら瓶詰やら皿やらを取り出していく。
「家で食べてきたんじゃないのか」
「あの子たちがこっちで食べたいって行くから詰めてきたんです」
「そういう時はチャンと叱らないといけないんじゃないか、わがままを言っちゃいけませんって」
「どうせ、どこかのわがままで無精な人のところへ行かなきゃいけないんですからそのくらいはなんでもありません」
憎らし気なその言葉に立つ瀬などなく、彼はしゅんしゅんと沸き立つティーポットの湯気を眺めた。
「あの子たち呼んで来てください、どうせそこらへんでまだ遊んでるでしょうから」
その言葉に小屋の外へ出ると、すでに日は登っていた。春を迎えたこの時、時間にすれば朝の七時過ぎだろうか。すでにあたりの人々は働き始めている事だろう。それまで寝ていたという事実に少しだけ居心地の悪さを感じながら近くの石積みの上で跳ね回る子供たちを見つけた。
「朝飯だってよ、お前たち」
「「はーい」」
コロコロと地面を転がる二人の背中に突いた草や泥を払ってやる。と今度は戻り始める彼の体をよじ登ろうとくっついてきた。
「俺は木じゃねぇっての」
振り払う彼のその抵抗を遊びだと思ったのか、二人はくっついては捕まり、くっついては捕まりを繰り返す。彼はうっとおしくなったのか両手に捕まった二人をそのまま振り回しながら小屋へと戻る。
何が楽しいのか笑う二人をそのままに戸を開けると、テーブルの上にはサンドイッチとサラダを中心とした四人分の朝食が並べられていた。
「朝飯は食べない主義なのだが」
「もう用意してしまいましたもの」
「君たちの分だけでも」
「せっかく作ってしまったのに」
よよよ、とすすり泣きの仕草をするもののその目に涙一粒も浮かんではないかなかった。
「たべないのー」
「のこすのー」
「すききらいはだめだっていってた」
「もったいないおばけがでるんだって」
子供たちのその言葉に逃げ場はない。
「朝食代は別料金となります」
「知ってるよ、詐欺じゃないのこれ」
すでに食べ始めた子供たちを眺めながら彼女へと金かを手渡した。
「それで、ノルン嬢が来るまでの用事てのはなにかあるのかね」
テーブルの上にはすでに空になった皿が残っている。子供たちはまたしても遊びに外へと飛び出していき、残った二人は食後の紅茶を啜る。
「村長であるお父様から仰せつかった連絡役である私がこうして顔をみせにくるのはさして変ではないのでは」
「その連絡役が顔を出すのは連絡することがあるからではないのかい」
「レイさん、風情がないと女の子に嫌われてしまいますよ」
その言葉に彼は大いに眉を顰めながら紅茶をぐびりと飲み込む。
「それでまたぞろ出たんだろう、どこだ」
ノルンは大きくため息をつくとテーブルの上へ開いた皿の代わりに周辺の地図を広げた。
「マスラ爺の瓜畑のほうで禿巾鳥ホーデットバルチャーが出たそうです。小さい個体だったみたいでマスラ爺も怪我は軽い身のですんだんですけど他にもあのあたりで畑が荒らされてるみたいで」
「となると西山の方か」
その声に彼女は深く頷いた。彼は地図に手をあてる手のひら四つ分の距離、村から少し離れた園場所を確認していく。
「ってことはいって、大体四日か」
彼はそういうとの反りと椅子から立ち上がり、部屋の隅に置かれていた大きな箱から何やら手をまさぐり取り出していく。
「ホーデットバルチャー、ホーデットバルチャー、鶏肉鶏肉」
呟きながら取り出したのは無数の瓶や小さな巻紙、果ては小さな猿の人形まで。それを押し込むように彼は小さなカバンへと押し込む。明らかにそのバックよりも大きな山はするすると園物品たちを飲み込んでいく。綺麗に全てを飲み込んだ鞄は小さく。小さな書類鞄ほどだった。
「それでお代は」
彼女の言葉に一瞬彼は眉を顰めた。深い皺だった。
「つけといて」
「それをいうのはこちらなのですが」
その返答を彼は聞こえていないように無視する。彼女は眉を潜ませ、然しそれ以上何かをいうことはなくため息をついた。
「かったるいねぇ」
彼は魔法使いの様に指を振るう。
それまでのTシャツとすぇっとのようなズボンと入れ替わるように彼のみを包むのは灰色のフルプレートメイル。彼の体躯をすっぽりと覆うように現れたそれは、重く、厚い。同様に取り出した大きなタワーシールドをその背中に背負い、鞄を腰に巻き付けると一つ息を吐いて扉へと向かう。
「ああ、お待ちくださいな」
彼女はバスケットの中から火打石を取り出すと彼へと向き直り切火を打つ。小さな火花が彼へと降りかかり、そして消える。
「どうかお気をつけて」
彼は笑った。すでに見えない鎧の奥で。
「何に」
「なににでしょう」
彼は小さく、白けたように小さく苦笑を鳴らすとそのまま道を歩いて行った。
「行ってらっしゃい、《冒険者》レイさん」
良く晴れた春の朝のことであった。
続くかな?