エルダーテイル
それは世界最大級、そして最大規模二本だけで十万人以上、世界では二千万人のユーザーを抱える、そして20年もの歴史を誇るマッシブリー・マルチプレイヤー・オンラインゲーム。プレイヤーは一人の冒険者となり、中世ヨーロッパをベースとした世界、セルデシアと呼ばれる剣と魔法の世界を冒険するロールプレイングゲームだった。
だった、そう。ゲームだった。
液晶画面の前に広がる3Dの世界をコントローラーを使って駆け抜けていくゲームだった。どこにでもあるようなファンタジーのようなオンラインゲーム。そこに特別などなく、神などなく、ただの娯楽、多エンターテイメントとしての一つ一万円もあれば買えるゲーム。
しかし、その日。十二番目の拡張パック、ノウアスフィアの開墾が実装されたその日。プレイヤーたちが感じたのは画面の光でも、イヤホンから流れ込んでくるBGMでもコントローラーを手繰る感触でもない。
どこまでも高く青くそして遠く広がる空と、踏みしめる草と地面と靴のこすれる音、そして各々が手にしたその得物の感触。
後に大災害と呼ばれる事になったその日、エルダーテイルにログインしていた世界中で約数十万のプレイヤーがエルダーテイルによく似た世界へと閉じ込められてしまった。
音が聞こえる。
それは小さな森の音、木々の揺れる、枝を震わせ触れ合う音、沢の水が流れ落ちていく音、鳥が飛び立ち、蟲が転がり落ちる音。誰もいないはずの深い深い静寂を望むような森の倦怠。
しかし、唐突にその憂鬱は敗れ去る。
破るのは鉄の擦れるような、金属のぶつかるような、そして誰がの息遣いのような音。
地面を踏みしめ山の土をけり上げながら走り去っていくのは灰色鎧の人影。山の斜面を転がりながら、それでも器用に木々の間を駆け抜けていく。
鎧を纏いながら倒木も、小さながけ崩れも、沢も、まるで軽業師の様に駆けていくその姿は異様にも映る。時折手に持った大きな盾を構え、倒木を吹き飛ばすように突進し道を切り開いていく。しかし、繰り返すこと三度目、倒木をなぎ倒し進んだ先、底には地面はなく小さな崖が彼の足を取る。突進の勢いを止めきることはできず、そのまま自分の体を空中へと投げ出してしまう。高さは六メートルほどだろうかゆっくりと落ちながらもその衝撃は<冒険者>にとっては大したものではない。地面に触れ体を転がしてその反動を載せて立ち上がる。あたりは僅かに開けた小さな叢。時間にすれば一瞬、十秒もないような転落、しかし彼はその表情を歪ませると右手に持った剣と左手の大きな盾を構えながら、あたりの様子を伺う、雄大なる木々と無数の下草がはびこる森の暗闇を彼は睨みつけた。
「〈クロススラシュ〉っ」
叫ぶように聞こえるこえがあたりに響く。
深い森の静寂を割くようにその声は響き、そして積もる落ち葉たちが舞う小さな音が聞こえた。その音とともに何かが駆けだした。僅かに地面をける音が流れ込む。いくつかの音、間隔は短く、その数は多い、それはまるで走るように小さく鳴り、そしてその音の群れが刹那消える。落ち葉を僅かに巻き上げる、それが跳躍の音。狩りの音。得物へと気取られることなく襲い掛かる。つまり音を立てるのは獲物の喉元へとかみついた、そう確信した瞬間だけ。
無音の中僅かに響いたのはまるで鈴のような鉄を叩いたような小さな音色。それを知っていたように強く踏み込む土の踏みしめる音、答えるように鎧が鳴る。
そして流れるのは小さな風切り。
一つ。
そして返す。
二つ。
一つ呼吸を置くように重なるように二つ、どさりと小さく落ちる音が聞こえる。
僅かに水を含んだマネキンが倒れるような重さを持った何かが落ちて、倒れる音。
その音を聞くことなく、僅かに残された足音は森の中へと消え去っていく。
同胞を顧みることはなく、ただ狩りの失敗を認めるようにその身を森の中へと溶かしていく。
音が消え五分ほど経った頃、獲物だった男はゆっくりと手に持っていた剣をゆっくりと降ろした。
ノルン嬢によってもたらされた害獣駆除のクエストへと出発した彼の姿は彼の小屋とそして村からも離れた深い山の中にあった。出発したのは朝の八時頃、既に時刻は午後五時を過ぎたところ九時間ほどの道のりを彼は踏破していた。村の管理する雑木林よりもさらに奥、村人ですら立ち入らないようなその道ならぬ道を彼は朝からあるき続けていた。プロでもなければ、いいや山を生業としている者であっても、四十キロを超えるようなフルプレートメイルを着たままの行軍など不可能に違いない。しかし、彼は〈冒険者〉だった。元はプレイヤーだった〈冒険者〉はそのプレイやキャラクターの姿で<冒険者>となった。それは同時にそのキャラクターのステータスを受け継いだ強靭な肉体となって彼らの体に現れていた。息を切らさず千里を走ることも、その身で山を持ち上げることも、そして自らの実を肥えるような怪物たちを打ち倒すような剛力をも持った存在、それが<冒険者>だった。
彼は手にしていた剣をしまい込み、地面へと落ちてきた魔狂狼ダイアウルフの死体を持ち上げていた。斬った首からは未だに僅かに血が流れ出しており、既にHPも無くなり死亡のステータスへと変じていた。
「ここまでか」
見上げる空には火が大きく傾いていた。時計を確認すれば既に17字半を過ぎ。あと一時間もすれば完全に火が落ちるだろう。まだ十七時半、現実世界ではようやく仕事から帰り始める程度の時間。しかし現実世界ほど文明化していないこのセルデシアでは日が落ちれば一日は終わる。満ちに街灯はなく、二十四時間営業のコンビニも、残業をする街灯も、蛾のたかる自動販売機も存在すしない。ただあるのは大きな月と無数の星明り。
彼は手にした二つの死骸を引きずるとそのまま山の合間、谷川の流れる小川まで引きずっていく。彼は小川の近くまで行くと手早く石を積み上げていく。近くの山間から持ってきた枯れ枝を不器用に折り入れるとバックから取り出した新聞の一部へとマッチで火をつけ火種としてそのちいさな焚火へと投げ込む。
ゆっくりと燃え移るその様を横目に彼は手を振るとたちまち彼の姿は大鎧からピンク色のフリルついたエプロン姿へと変じていく。<新妻のエプロン>と呼ばれるそのアイテムを装備すると彼は引きずってきていた園狼たちへと小さなナイフを入れて解体していく。百七十を超える大柄な男が新婚のような女物のフリルのついたエプロンを身に纏い、仕留めた狼を解体していく。異様にも見える自分のさまを想起でもしたのか彼は苦く笑う。結果として二匹のうちの一匹は粒子の様に砕けで散り、一匹から不器用ながらも僅かに取れた肉が焚火に煽られることとなった。
簡単な天幕を近くに張った彼は立ち登る煙を眺めていた。
いつの間にか日は落ち切り、あたりは暗く、僅かな月明かりがこぼれてくる。暗黒、そんな表現が一番似合ってしまうような遠火すらない暗闇。空気がきれいなのか現代よりもずっと星と月の見えるその空を見つめる。立ち上っていく煙は白く、いいや僅かな焚火の代々に照らされて色づく。
ゆっくりと煙がいつしか肉の焼ける馥郁たる香りへと変じていく。
赤みの狼肉はいつしかこんがりと舌焼き色が付き、串に刺したブロックたちは透明な油を滴らせていた。日に落ちた油が音を立てて黒く燃え上がり代わりにあたりへと濃厚な肉の香りを拡散させる。
一つ手に取ってみれが日の当たり方によっては少しだけ黒く焦げた串肉が焼きあがっている。かぶりつき噛みちぎるように口の中へと頬張れば噛んだ瞬間に肉の間から燃えるような油がしみだしてくる。その厚さに驚きながら咀嚼すれば感じるのは猪のような獣臭さと筋肉質な狼らしい筋張った赤み肉。<冒険者>としての顎の耐久が泣けれアバ噛み切れていないのではないかというほどの様言えば噛み応え。硬く、臭い。近くの焼肉屋に行けば数段おいしいものがもっと手軽に食べられるようなその程度の味。然し、確かに肉の味が鼻筋を抜けていく。
少し前までだったら考えられず、最も前であれば当たり前だったその味。
エルダーテイルにおいて食料というのはアイテムだった。
いくつかの特殊バフと僅かなHP回復を行うようなそんなアイテム、それ以上の利用法などなくそれ以下でもない。あってもなくても変わらないようなアイテム、実際のゲームに味など必要なく、あったところで感じることはできない。まるでそのシステムを体現したとでもいうようにこの世界の料理に味は存在しなかった。果物や魚といった素材アイテムには味や風味がある。にもかかわらず調理という工程を踏むことで全ては水で濡らした味のないせんべい、そう呼ばれるような無味無臭の料理へと変ずる。それがこの世界の常識と思われていた。
しかし、それは大災害から数週間したころ発見された。
ゲーム時代<冒険者>は戦闘などで用いるメイン職業のほか、サブ職業と呼ばれる副職業を持つことができた。それはメイン職業の補助につながる者から<鍛冶師>や<彫金師>といった生産系と呼ばれる者、ロールプレイのためのフレーバーのための物など多岐にわたる。
その中でメジャーな者の一つに<料理人>が存在する。素材アイテムから様々な料理アイテムを作ることができるサブ職業。
答え合わせをすれば単純なことだった。適正なレベルを持った<料理人>のサブ職業を持つ者が素材を実際の調理をすることで味のある料理を作ることができる。それがこの世界のルールなのか、ゲームの仕様なのか、大災害によるものなのかそれとも思いつかないようなもっと複雑怪奇な原因なのか分からない。しかし、少なくともその発見によってセルデシアと呼ばれるこの世界に料理というものが生れた。
新たなる素材に息まく料理人や郷里の味を再現しようとする冒険者、そして新たなる商売と娯楽を感じ取った大地人、それぞれがそれぞれに料理という分化を広めていく。
それに付随するように多くのサブ職業やゲームでの仕様であったものがまるで世界に適合するように変革しているらしい。ゲーム時代よりも自由に、大胆にそして無限に振る舞うことができる。大きなプレイヤータウンではプレイヤーたちによる研究や実験そして技術革新が目覚ましい、そう風の噂で聞いた。そして彼はちらりと自分が身に纏うピンクのフリル付きエプロンを見下ろす。
彼のサブ職業は料理人ではない、しかし彼が今装備している<新妻のエプロン>は装備者に<料理人>のサブ職業を追加付与できる装備。依ってこの世界で味がある食べ物を作りたければサブ職業を料理人にするか彼の様にフリルのついたエプロンを木ながら調理するかの二択になる。幾分前にクエストの報酬として押し付けられたこのエプロン、ゲーム時代と変わらない最初期のデザインではあるもののそれはプレイヤーたちの手による量産品、そのひとつがノルンたちの住む辺境にすら伝わってきたことに資本主義の末端を垣間見たように彼は笑う。
そして彼は苦笑しながらもようやく焼けた最後の櫛を手に取った。
「まずい」
焚火の明かりが地図を揺らす。
彼は食べを割った串をそのまま焚火にくべると鞄から大きな紙を取り出した。大きく広げられたそれはどうやらこのあたりの地形を記したものらしい。質がいいとは言えないその地図は草の色素が混じっているように茶色に染まり黒いインクは夜の闇に溶けてしまったように見つけづらい。冒険者の強靭な視力によって読み取ればどうやら現在位置はどうやら目的地まで後山二つほどの位置らしかった。ちらちらと揺れる焚火に揺れながら地形を頭に入れる。冒険者の足を考えれば目的地へは明日の昼前には到着するだろう。傍らに置いたマジックバッグの中を確認すれば出発よりも幾分減っている。これまでの道程で消費したポーションやアイテムたち、予想よりも消費は少なく済んでいた。全体的な野生のモンスターたちのレベルも高くはない。
発見されたというホーデットバルチャーのレベルは高く見積もっても四十前後、無力な大地人の老人を殺すこともできなかったことから強さは推察できる。村への襲撃の偵察か、はぐれ個体か、どちらにせよ目的地へと到達すればその答えは出る。それ以前に受けたクエストはあくまでも村への襲撃してくるホーデットバルチャーの駆除、それ以上を考えることを止めるように地図を閉じる。マジックバッグの中へと放り込むと代わりにオレンジ色の毛布を取り出すと鎧のままその毛布を体にかぶせるようにして木にも垂れ込むように座り込む。あれだけ燃え盛っていた焚火もいつの間にか園火柱を弱め、黒く燃え残った薪の間からチロチロと顔をのぞかせる。跡幾ばくもなく燃え尽きる。赤色を瞼に写しながらゆっくりと彼の意識は夢の中へと沈んでいった。