「伊黒さんの小食があまりに行き過ぎているんです」
甘露寺が胡蝶に相談を受けたのは、うだるような熱気が地面より立ち上るような夏の日のことだった。なんでも、現在蝶屋敷に滞在している伊黒小芭内の食事量が極端に少ないそうで、このままでは健康状態に異常が出かねないらしい。
それは、とっても、とっても大変なことだ、と甘露寺は思った。
「甘露寺さんからも言ってあげてくれませんか」
悩ましげに溜息を吐く胡蝶から頼まれるより早く、甘露寺は決意した。必ず彼の胃に食糧を入れてあげなくてはならない。伊黒はいつも甘露寺にたくさんの食事を与えてくれる。彼のそんな優しい心遣いに、甘露寺は幾度も救われてきたのだ。
今度は私が力になりたい。
そう思うのは彼女にとって自然なことであったし、胡蝶もそれを見越して甘露寺に話を持ち掛けたのだった。甘露寺が絡むと様子がおかしくなることで有名な伊黒のことだ、彼女からの言であれば、さしもの蛇柱も聞き入れるだろう。
まさかそんな経緯があったとは露ほども知らない伊黒は、自らの置かれている状況に、ただただ茫然とする他になかった。
甘露寺に食事に誘われたときは、正直とても嬉しかった。わんこそばを提供する店に連れていかれたときも、今日も甘露寺は愛らしいなと考えるだけの余裕があった。
椀を持たされたあたりで、これは何かおかしいぞ、と伊黒はようやく勘付いた。
「ここのお蕎麦ね、とっても美味しいって評判なの!」
うん。
蕎麦を啜る。伊黒は心の中で頷く。確かに、味は良い。香りもコシも丁度よく、汁の塩加減も絶妙だ。
「きっと伊黒さんも気に入ると思って」
うん。
蕎麦を啜る。朗らかに笑う甘露寺は大変かわいい。薔薇色の頬が上気して、若草色の瞳がきらきらと輝いて。伊黒を見つめている。
「これなら、いくらでも食べれちゃうでしょ?」
うん。うん、そうだな、甘露寺。
蕎麦を啜る。蕎麦を啜る。蕎麦を、啜った端から新たな蕎麦が出現する。なんたる早業、甘露寺のお代わり芸。なくならないのだ、蕎麦が。いつまでたっても。おわらない。
俺はもう十分だこれ以上は甘露寺が食べろ、と伊黒は言いたかったし実際に言いもしたのだけれど、今日の甘露寺は何やら決意に満ちていて、
「だめ! だめよ。今日は伊黒さんが食べなくちゃ!」
と言って聞かなかったものだから伊黒の胃はもはやはちきれんばかりに膨らんで、いまにも破裂しそうなほどだ。少なくとも伊黒の体感としてはそうであった。
十杯目の蕎麦を飲む。十一杯目の蕎麦を流し込む。十二杯目、十三、十四…………
「伊黒さん、すごいわ! こんなにたくさん食べれるなんて」
甘露寺が嬉しそうに笑っている。なんてかわいいんだろう、と伊黒は思う。ここは極楽浄土か。蕎麦地獄か。蕎麦が尽きぬ。食っても食っても蕎麦ばかり。朦朧とする意識の中、それでも伊黒は蕎麦を啜った。ああ、甘露寺、おまえが笑ってくれるのならば俺は。十杯でも二十杯でも、いくらでも、腹を蕎麦で満たすとも──……
その半刻後、伊黒は過食によって倒れ、うろたえる甘露寺は駆けつけた胡蝶よりこっぴどく雷を落とされた。