下校する生徒たちが談笑しながら脇を通り過ぎていく。伊黒はスマートフォンを眺めながら、校門で彼女を待つ。すこし遅くなっちゃうかも、と綴られたメッセージを見つめる。待ち合わせの時間から十五分が過ぎているが、空白の時間すら伊黒にとって、ちっとも苦ではなかった。
「伊黒さーん!」
愛らしい声に、はっ、と顔を上げた。片手を大きく挙げて、もう片方の腕に学校指定の鞄を提げて、可憐な姿が走ってくる。伊黒は喜色を抑えて目を細めた。
「甘露寺。お疲れ」
「伊黒さんっ! 遅くなっちゃってごめんなさい!」
「いいや。気にしなくていい」
着いて早々頭を下げる甘露寺に、伊黒はそっと首を振って、顔を上げるように促した。甘露寺は心底申し訳なさそうな表情で伊黒を見つめている。
「本当にごめんなさい。私の方から誘ったのに」
「いいんだ。そんなに待ったわけでもない」
そもそも甘露寺がいま忙しいことは、伊黒も承知していることだった。もうすぐ文化祭だ。甘露寺はクラスの出し物の他に、部活でも企画の手伝いをしなければならない立場だと聞いている。忙しさの合間の息抜きに、他ならぬ自分を誘ってくれたという事実が、伊黒は嬉しかった。
「それより急ごう。並ぶんだろう?」
「あ、うん!」
甘露寺の顔がぱあっと晴れる。伊黒はマスクの下でそっと微笑んだ。
恋に理由はなく、愛に理屈はない。一目見た瞬間から、伊黒の心は甘露寺に奪われていた。彼女の姿が目に焼き付いて離れなかったし、自由に駆けまわる彼女のことを目で追わずにはいられなかった。どこか無防備な彼女を、まもってやりたいと思った。
運命という言葉を伊黒は信じていないけれども、もしも前世があったとして、そのときの伊黒が、甘露寺と出会っていたならば。きっと同じ気持ちになっていたのではなかろうか。と、愚にもつかない世迷言をぼんやりと考える程度には、伊黒は甘露寺のことを愛していた。
両手にクレープを持って、甘露寺はご満悦だ。苺クリームとチョコバナナ、生クリームの増量された円錐型の筒はもったりとした小さな山のようだ。それを、鼻の頭にクリームをつけた甘露寺の、小さな唇が切り崩していく。
タピオカミルクティを持ちながら、伊黒はその姿を見つめていた。
たくさん食べる甘露寺が好きだった。甘味に舌鼓を打って、頬を緩める様が愛らしい。薔薇色の頬は鮮やかで、伊黒にとっての幸福の色彩、そのものであるように思う。
ずっと、そんな風に笑っていてほしい。
そのためならなんだってしてやりたいと、伊黒は心から思っている。
「伊黒さん?」
「ん、ああ」
ぱち、と。甘露寺と視線が交わって、伊黒は咄嗟に目を逸らした。甘露寺が困ったように首を傾げている。露骨に見つめ過ぎただろうか。不躾な眼差しで彼女を困らせるつもりはなかったのだ。伊黒が謝罪を口にするより先に、甘露寺が言った。
「伊黒さん、お口を開けて」
「は?」
何を言われたか一瞬わからず、伊黒は戸惑った。甘露寺は何やら名案を閃いたと言わんばかりの顔をしていたが、硬直した伊黒を見て、ほんのすこしだけ狼狽えた。
「あ、えっと、そうよね、まずはマスクを取らないと」
「か……甘露寺?」
「伊黒さん、取ってもいい?」
汚れてしまうから。片手にクレープをまとめて持った甘露寺が、空いた手を伊黒に伸ばしてくる。待ってくれ。伊黒は焦った。ずっと隠してきたのに。他ならぬ彼女に、素顔を見られるのは。けれども甘露寺はまったく無邪気に、伊黒のマスクに白魚の指をひっかけて、それを取り去ってしまった。
露になった伊黒の顔について、甘露寺は何も言わなかった。何も気にしていないようだった。戸惑う伊黒の前で、甘露寺は頬を染めながらクレープを差し出している。
「ごめんね、私ってば、お腹がすいちゃって……がっついてしまって、恥ずかしいわ。えっと、だから、伊黒さんも。ひとくち、どうぞ……?」
──呆気にとられた。
なにをどう勘違いしたのだろう。時々甘露寺は、このような、不思議な思考の飛び方をするときがある。彼女の中では一本に繋がっているだろう理屈は、伊黒にすら推察できない理論によって組み立てられており、それはまったく予測ができず、伊黒に驚きをもたらすのだ。
恥じらいながら伊黒を窺ういじらしい顔。不安げに揺れる瞳に、伊黒のコンプレックスは映っていない。見えていない、わけではないのだろうが、それは恐らく彼女にとって、自分が伊黒に対して粗相を働いてしまったという事実より、ずっとずっと、どうでもいいことなのだろう。
それがあまりにあたたかくて、陽だまりのようで、伊黒はこっそりと、静かに笑った。
そっと口を開く。チョコレートのたっぷりとかかったクリームを食む。舌先に触れる高カロリーな甘さは、けれども思いがけず美味かった。
彼女が目の前にいるせいかもしれなかった。